2007年04月03日

謎の新人王特例規定:蔭山和夫(南)

ちょっと調べ物をしていて気付いたことがあったのです。
1950年代の南海の「100万ドルの内野陣」の一角を占めた
蔭山和夫さんの成績を調べていて、「新人王(1951)」となっていたので、
「お、これは資料が間違えているのでは?」と思ったのです。

というのも、そう書かれたすぐ下の行に1950年の蔭山さんの成績が載っていて、
この成績がすごいのです。全120試合に出場してリーグ最多の三塁打15を含む
124安打で9本塁打、66打点、打率.287でベストテンの13位。
これはきっと「新人王(1950)」とすべきところを間違って「新人王(1951)」と記載して
しまったのだろうと思って、新人王の一覧表を見たら、50年のパの新人王は
この年、優勝した毎日(現ロッテ)の荒巻淳投手でした。

そう、「和製火の玉投手」の異名を取った伝説の豪腕投手です。
1年目の成績は26勝8敗で防御率2.06。ルーキーながら最多勝利と防御率1位。
これでは、上記の蔭山さんの好成績もかすんでしまいます。
この成績なら、蔭山を押さえて、荒巻が新人王に選ばれたのも順当なところでしょう。

ところが蔭山さんは2年目も全104試合(この年は試合数がなぜか少なかった)に
出場して2年連続でリーグ最多の三塁打13を含む129安打、6本塁打、28打点、
ベストテンの2位となる打率.315という好成績を収め、
めでたく入団2年目で新人王に輝いたのでした。

現在では、「入団5年以内で、前年までの出場が投手は30イニング以内、
野手は60打席以内の選手」という新人王資格が浸透しているので、
1年目にこれだけバリバリ働いた蔭山さんの2年目の新人王には違和感があります。

そして、ウィキペディアの記述でこんな一項があるのを見つけて驚きました。
「1950年~1965年:プロ入り初年度の日本人選手
(ただし1951年に限り、1950年に入団した選手にも資格を与えた)」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E5%84%AA%E7%A7%80%E6%96%B0%E4%BA%BA_%28%E9%87%8E%E7%90%83%29

「1951年に限り」って…。いったいどんな事情があったのでしょうか?

思うに、1950年という年はセ・パ両リーグが分立した年で、
新たに入団する選手がすごく多かったのです。
それも、それまでプロ入りをためらっていた人たちまでもが
プロの門戸が広がったことによって、大挙入団したので、
高齢のルーキーも多かったのです。

例えば、同年のセの新人王、大島信雄投手は
(松竹。20勝3敗、防御率2.03で最高勝率、防御率1位の2冠)
この年、29歳(50年時点での満年齢。以下同)。

パで打撃ベストテンで11位の宮崎要(西鉄。打率.294)は34歳のルーキーで、しかも監督兼任(!)。
本塁打21本の樋笠一夫(広島。巨人時代の「代打サヨナラ満塁ホームランで有名)は31歳、
同じく21本の戸倉勝城(毎日)は36歳、
同22本の深見安博(西鉄。のちに大下弘とのトレードで東急に移籍)は31歳と
三十路超えのルーキーがゴロゴロいたのです。

これでは早大を出てすぐにプロ入りした蔭山や、
20歳ながら広島で孤軍奮闘した長谷川良平
(56試合に登板して15勝27敗=リーグ最多敗戦)
らが、かわいそうということになったのでしょうか?

しかし、蔭山は1927年1月16日の生まれで
一方の荒巻は1926年11月26日の生まれなので、現在で言えば同学年なんですよ。
荒巻は大分経専(現在の大分大学経済学部の前身)を経て、
別府星野組で都市対抗の優勝投手にもなった有名な「ノンプロ」だったので
蔭山と同列に扱えないと、運動した一派があったのでしょうか?

この新人王の特例規定がどうしてできたのか?
現段階では掴みきれていないのですが、
新たな事実が分かったらまたお伝えしたいと思います。

ちなみに、この年の新人には、「悲運の闘将」西本幸雄(毎日。30歳。別府星野組で監督兼選手)、
後年、池田高の監督として名を馳せた蔦文也(東急。27歳)、
上尾高・浦和学院の名監督、野本喜一郎(西日本。28歳。この年、11勝19敗)
らも、この年の入団でした。

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posted by しゅりんぷ池田 |16:49 | 野球 | トラックバック(0)
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