2009年04月16日
大洋・横浜球団背番号物語(その1)背番号「1」
現在、横浜ベイスターズの2009年版のカードを制作しているところなのですが その中の企画カードとして「背番号物語」というカードを作っています。 カード表面に新旧の選手で同じ背番号の選手を組み合わせ 裏面にその背番号を背負った歴代選手の一覧と解説原稿を入れるというものです。 過去にも何度か他チームで同趣向のカードを作っているのですが、 大洋・横浜球団の背番号変遷というのは、また他球団とは異なる伝統があり、 調べていてなかなか面白かったのですよ。解説原稿もわたし自ら書いたのですが 分量が少なく、その面白さが伝えきれていない嫌いがあるので、 このブログで補足させていただこうと思った次第です。 全部で6回の連載のつもりですが、 その1回目は背番号「1」の歴代選手を紹介したいと思います。 ■大洋・横浜球団歴代背番号「1」■ 1950 岩本信一 1951 有馬義一 1952 小西得郎 1953 森 雅功 1954 水谷則一 1955 楠 拡応 1956~58 藤井 勇 1960~74 近藤昭仁 1975~88 山下大輔 1989~92 谷繁元信 1993~2000 進藤達哉 2001 波留敏夫 2002~ 金城龍彦 大洋・横浜球団の背番号を調べていて最初に驚くのは、大洋初期の混乱ぶりです。 初期の大洋はおそろしく選手の出入りが激しく (53年には松竹ロビンスと合併して一時は「大洋松竹ロビンス」を名乗ります) この背番号「1」などは50年から56年まで、毎年つける人が異なっていたのです。 初代の岩本信一投手はこの年、南海から移籍して7勝を挙げますが、 翌年、実兄・岩本義行のいる松竹に移籍。 2代目の有馬義一は大洋の第2代監督、3代目の小西得郎は同3代監督 と監督が続き(3年目まで監督も毎年変わっています) 4代目の森雅功はノンプロの大洋漁業からの転進組で この年、背番号「1」に変更も同年限りで引退。 続く第5代・水谷則一は二軍監督。 第6代・楠拡応は旧名の「楠安夫」と書けば分かる方には、分かるかも? 草創期の巨人で投手/捕手として活躍された方で、この年1年のみ在籍して引退。 第7代の藤井勇に至って、ようやく「毎年違う人が背負う」という状況はストップします。 同選手は日本で最初にホームランを放った選手(36年春=阪神在籍時)として知られ 球団創設の50年から大洋入りして主軸を担い、その年34本塁打するなど活躍しますが 当初の背番号は「3」、55年に監督兼任となって「30」(当時の監督の定番番号)、 ところが監督は1年限りで(またか!)、現役1本に戻って空き番号の1番を背負います。 その藤井が42歳となる58年限りで引退して1年開いて運命の1960(昭和35)年を迎えます。 この年は大洋が知将・三原脩監督を迎え、待望の初優勝を達成する年ですが、 同年、早稲田から入団したのが近藤昭仁で、背番号「1」を継承します。 三原監督と同じ香川の出身、早大の後輩ということで、 同監督の秘蔵っ子として重用され、1年目から二塁の定位置を獲得、 同年の日本シリーズではMVPも受賞し、10年余りレギュラーを務めて73年限りで引退。 (近藤昭の後のセカンドが“ライオン丸”シピンでした) 球団創設10年にして、ようやく然るべき選手の手に渡った背番号「1」でしたが これを継いだのが人気者の“大ちゃん”山下大輔。 山下大輔=背番号「1」というイメージがあまり強く、 入団時から1番を背負っていたかのように思っていましたが、 同選手の1年目の背番号は「20」だったんですね。 近藤昭仁の引退にともない75年から背番号「1」を背負います。 同番号を近藤昭仁が15年、山下大輔が14年つけ、ともに大きな期待を背負って 監督に就任します(近藤は「横浜ベイスターズ」となってから最初の監督)が、 残念ながら成果は上がらずわずかな年数で退任となってしまいました。 続いて背番号「1」をつけたのが、これまた期待のルーキー、谷繁元信でした。 しかし、谷繁は捕手のため、プロテクターのストラップが背番号「1」を まるまる隠してしまうこともあり、球団が横浜ベイスターズと改称した 93年から背番号「8」に変更します。結果的に谷繁は背番号を変更した 同年からレギュラーに定着したので、これはこれで良かったのかもしれません。 そして、その1番の後任となったのが進藤達哉。 従前の背番号は「36」でしたが、高卒5年目の92年に108試合に出場して 頭角を現し、93年から背番号「1」に昇格。その後、98年の優勝時の 正三塁手として活躍、現在は横浜球団のスカウトを務めています。 その進藤が00年限りでオリックスに去り、01年は波留敏夫が背番号「1」を背負います。 波留といえば背番号「2」の印象が強いと思うのですが、 この年1年だけ「1」だったんですね。前年00年はわずか60試合の出場に留まり 01年からは森祇晶氏が監督に就任したこともあって 気分転換を図ったものと思われるのですが、しかし、波留は同年途中に中日に トレードされ、チームを離れることに(交換でやってきたのが種田仁と山田博士でした)。 背番号「1」と「2」というと随分テイストが違う感じがするのですが、 次代の金城龍彦もまた、背番号「2」から「1」への変更となりました。 金城はご存知の通り、00年に彗星のごとく登場し、首位打者と新人王をダブル受賞。 01年には背番号が「37」から「2」に昇格します。 しかし「2」はこの年のみで翌年から「1」に再度変更されます。 金城の通算安打数は08年終了時点で1233で通算1183安打の近藤昭仁を上回り歴代12位と、 既に球団史に残る名選手としての実績を残していると思うのですが、 今季はスーパールーキー・松本啓次朗の出現で 開幕スタメンの座を奪われることになりました。 その松本の調子が上がらず、金城が先発する機会も多くなっていますが、 このところ成績を落としている金城にとっては正念場でしょうね。 というのが大洋・横浜球団の歴代背番号「1」の選手の変遷でしたが、 次回は背番号「2」のそれについて紹介したいと思います。
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posted by shrimp |15:16 |
野球 |
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