2007年09月04日
同一学年から最もプロ野球選手を輩出した学校は?
阪神の桜井広大選手が大活躍中ですね。 早くから若き長距離砲として期待されていたものの、林威助、喜田剛(現広島)と 似たタイプの野手が多く、どうかな? と思っていたのですが、 高卒6年目にして、ついに頭角を現してきました。 同選手はPL学園の出身ですが、同期にはロッテの今江敏晃内野手、 楽天の朝井秀樹投手、ソフトバンクの小斉祐輔外野手がいたのですね。 いち早く活躍を始め、ロッテの若き主砲となっている今江選手に、 今季ようやくローテーション投手となった朝井投手、 育成選手から這い上がってきた小斉選手と多士済々ですが、 同級生4人がプロ入りしているなんて、すごいですね。 リアル『ドカベン』みたいで、ワクワクしますが、 こういう同一学年から複数名のプロ入りというのは意外によくあるケースです。 みなさんも、すぐ思い浮かぶのは、KK世代のPL学園でしょう。 桑田真澄(前パイレーツ)、清原和博(オリックス)に松山秀明(元オリックス)、 内匠政博(元近鉄)、今久留主成幸(元西武他)の5人が入団。 その2期下でも立浪和義(中日)、片岡篤史(元阪神他)、野村弘樹(元横浜)、橋本清 (元巨人他)の4人がプロ入りし、総合力ではKK世代に劣らない活躍を見せました。 最近でも松坂世代の横浜高から松坂大輔(レッドソックス)、後藤武敏(西武)、 小山良男(中日)、小池正晃(横浜)の4名がプロ入り。 その後も01年夏の甲子園を制した日大三高からは、近藤一樹(オリックス)、 千葉英貴(元横浜)、都築克幸(元中日)、内田和也(西武)と一気に4名が ドラフト指名を受け、話題を呼びましたが、既に千葉と都築は退団しています。 また、大学では91年秋のドラフトで東北福祉大から 斎藤隆(ドジャース)、作山和英(元ダイエー)、浜名千広(元ダイエー他)、 伊藤博康(元巨人)、金本知憲(阪神)の5名が一挙に入団。 もっと古い例では1956年に明治大から大洋に秋山登、土井淳、岩岡保宏、 沖山光利、黒木弘重の5名が一気に入団し、「明大五人衆」と呼ばれましたが、 この学年では他にも松岡一郎という選手が中退して松竹入りしているそうです。 それでは、同一学年から最もプロ野球選手を輩出した学校はどこになるのでしょうか? プロ野球草創期には、チームの陣容が整わず、特定の大学からこぞって選手が プロ入りしたりもしているのですが、戦前は学制が現在のものとは異なり、 大学に入学する年齢がまちまちだったので、誰と誰が同期だったのか判然としません。 個人的に、ドラフト制施行以降で、この年代が最多では? と思っているのが 谷沢&荒川世代の早大の7人です。 谷沢健一(中日1位) 2062安打273本塁打 荒川 堯(大洋1位-ヤクルト) 195安打34本塁打 小田義人(大昭和製紙-ヤクルト2位-他) 610安打67本塁打 千藤三樹男(北海道拓殖銀行-東映7位) 617安打42本塁打 阿野鉱二(巨人2位) 33安打5本塁打 安田 猛(大昭和製紙-ヤクルト6位) 93勝80敗17S 小坂敏彦(巨人1位-日拓・日本ハム) 9勝8敗2S この中で特に有名なのは首位打者2度の谷沢健一さんと 後年、『がんばれ!!タブチくん!!』にも登場する人気者となった、 ペンギン投法の安田猛さんのご両名でしょうが、他のメンバーもなかなかのもの。 現在はヤクルトのスカウト部長を務めている小田義人さんは、日本ハムに移籍した 75年に太平洋の白仁天と首位打者を争い、ベストテン2位の打率.319。 その後も南海、近鉄と移籍を繰り返し、落ち着かなかったこともあって 通算成績は残せませんでしたが、メガネをかけた一塁手として印象に残っています。 日本ハムで代打や外野の控えとして渋い活躍を見せた千藤三樹男さん。 後楽園球場時代に同選手を取り囲む少年ファンたちを並ばせ全員に サインを書いてくれた(100余名ほどもいたのだとか)ということで、 そのうちの1人だった、のちのタレント、伊集院光さんが 日本ハムファンになったというエピソードの持ち主です。 小坂敏彦さんは渡辺秀武さんの回でも取り上げましたが http://www.plus-blog.sportsnavi.com/shrimp/article/98 早大時代は、のちの新人王、安田さんを差し置いて通算22勝を挙げた大エース。 安田さんのプロでの実績からすれば、小坂さんももっと活躍しておかしくなかったと 思うのですが、必ずしもそうならないのが、野球の面白いところ。 大学時代はエース格の投手がほとんど投げていて、 控え投手は登板機会がなかったのに社会人を経由する等してプロ入りし、 その控え投手が大成するなんてこともままあります。 亜細亜大時代は小池秀郎(元近鉄他)がエースで、控えが高津臣吾(ヤクルト)、 そのまた控えが川尻哲郎(元阪神他)だったという例もありました。 捕手の阿野鉱二さんは、V9時代の森昌彦、吉田孝司らとの競争に敗れ ついにレギュラーポジションは獲れませんでしたが、 背番号「10」の控え捕手として、ご記憶の方も多いと思います。 そして、最後に紹介するのが、荒川堯さん。 荒川さんの養父は王貞治に一本足打法を伝授した伝説の打撃コーチ、 荒川博氏で、69年秋のドラフトでは巨人かヤクルト入りを熱望し、 大洋が1位指名したものの、これを拒否。 翌70年暮れにヤクルトへの移籍を前提に大洋に入団することになったのですが、 当然、大揉め(以降、このような三角トレードは禁止に)となります。 明けて71年正月には大洋ファンと思われる暴漢に襲われて頭部を負傷。結局、 この後遺症で視力が減退し、実働わずか5年で引退に追い込まれてしまったのです。 プロ入り2年目の72年には83試合の出場ながら18本塁打、打率.282の 好成績を収め、ハンサムなルックスも相まって期待されていたのですが、 結局、大成することなく球界を去ったのはかえすがえすも残念です。 早大在学中には荒川さんが19本塁打、谷沢さんが18本塁打していたのですから、 荒川さんがキャリアをまっとうしていれば、 谷沢さんに勝るとも劣らない活躍をしていたと思うのですよ。 今後も、同じ学校から、複数のプロ入り選手が出ることはあると思うのですが、 7名もの大量入団となるとなかなか難しそうですね。 冒頭で取り上げた、今江・朝井・桜井・小斉の4選手はまだ20代半ばの若さですが、 将来的にはどうのようなキャリア曲線を描いて行くのでしょうか? 楽しみですね。
BBMヒストリックコレクション2007 【ドラフト物語】より http://www.sportsclick.jp/sportscard/card/2007_historic/index.html マンガ『侍ジャイアンツ』では若松・眉月・荒川の神宮三羽烏と謳われておりました
posted by しゅりんぷ池田 |11:15 |
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