2009年07月28日
前回引いた牛木さんによれば、66W杯の本命はブラジル。対抗はイングランドでした。
…これがにわかには信じがたいんですよ。いや連覇中のブラジル本命は当然なんですけど。
なんせそれまでのイングランドは、ことW杯に関しちゃスッテンテンでしたから。
うーん、なんだろ? 当時の日本ではよほどイギリスからの情報が強かったとか…。
「ウェンブリーでやるんだから油断できぬ!」と思われていたと。そうしておきますか。
さて概観はそれでいいとして…。
この年のサッカーマガジン七月号に、グループリーグの展望を含んだ記事がありました。
筆者はクリストファー・マクドナルド氏。こんな人なんだそうです。
マック氏略歴
クリストファー・マクドナルド。ロンドン出身。一九五〇年(昭和二十五年)四月二十五日来日。現在、日本ナショナル金銭登録機KK副監理長。
…一九五八年のアジア大会にサッカー役員として活躍。また東京五輪でも外国連絡員を委嘱された。現FIFA会長スタンレー・ラウス卿と親しい。
以上はサッカーマガジンから引用しました。うーん、やはり英国人か…。
まあその点はいくらか気になりますが、まずは素直に読んでみることにしましょう。
さてさてわれらがマック先生。グループAとBについてはサクサク進めます。
「第1グループはイギリスをトップに二番手はフランスであろう。」
「第2グループは、…結局ここは、アルゼンチンと西ドイツが準々決勝に出るであろう。」
どうも“堅いグループ”と目されていたようですね。実際はちと違ったんだけど。
このAとBに関しては、サッカーマガジンが7、8月号に続けて掲載した各国の戦力分析。
それを見てもほぼ同様ですね。ま、アルゼンチンをしりぞけるムキもあったようですが。
(なおこの戦力分析は鈴木武士さんの手によるものです。当時は共同通信の記者。)
いずれにせよ波乱なきつまんないグループだと。そう見られていたようです。
つづいてグループDの予想にいきましょう。マック先生のお眼鏡やいかに?
第4グループは、ある意味で最も興味がある。理由はヨーロッパではあまり知られていない北朝鮮がいるからだ。これはミステリー的な興味さえ抱かせる。ここには北朝鮮の他に、ソ連、イタリー、チリがいる。この三チームの中ではイタリーの力が劣るようだ。ソ連とチリはいい試合をするだろう。
これは意外でした。ずいぶんとイタリアの評価が低いですよね?
実際イタリアは北朝鮮に葬られるワケですが、よもや戦前から予想されていようとは!
…ところがですね。コレはそのまま受けとることができんのです。
というのもマック先生。あとで決勝戦を「イギリス対イタリー」と予想しておりまして。
なんなんですかマック先生? これはミステリー的な興味さえいだかせますが…。
さてグループCですが…ここはいちばん注目されるグループだったようです。
連続して優勝を握っているブラジルのいる第3グループが最も激戦を展開しそうである。大方の下馬評も大体そこに一致している。…たぶんブラジルは準々決戦に進出するだろうか、ハンガリーとポルトガルには手を焼くにちがいない。おもしろい試合が見られるだろう。悪いけれどブルガリアは問題になるまい。(原文ママ)
今ならさしずめ“死のグループ”とでもいうトコロでしょうか?
当時ブラジルの中心選手はいうまでもなくペレ。25歳にして世界最高選手との評でした。
対するハンガリーのエースはベネ。この人は64年の東京五輪でも活躍したそうです。
そしてポルトガルはもちろんエウゼビオ。彼について鈴木さんはこう書きます。
ポルトガルのNO.1はオイセビオ。〝黒ひょう〝のあだなを持つ、アフリカ出身の選手で、ねこのように身軽な動きと強いシュートをかけることで知られている。…ペレに次ぐ世界第二のフォワードといわれている。
時代ちがえば表現もまた変わる。わたしはこういう発見がなにより大好物でして。
それはともかく、ブラジルは結局このグループリーグで敗退します。
戦前の懸念どおりハンガリーと、世界第二のフォワードとに打ち破られました。
ペレの負傷はあったものの、やはり王者の早すぎる敗退に人は容赦しません。
九月号のレビューで牛木記者は辛辣にもこう書きます。
八年にわたったブラジルの王座は崩れ、ペレは「世界最高のサッカー選手」という称号を失なうときがきたようだ。ペレに代ってポルトガルのオイセビオが、世界の最優秀選手ということになるだろう。
なるほど、ペレはエライ男ですね。彼はこの時点で評判を地に落としたワケですから。
それをはねのけ70W杯で華麗に優勝。自身は世界最高なる称号を取り戻したと!
これは凡百にできる仕事じゃありません。ロナウジーニョくん聞いとるかね?
ヒーローには無味乾燥きわまる美辞麗句の羅列より、屈辱の物語をわたしはもとめます。
そのほうが生身の人間としていきいきしますから。神様にでもしたいのならともかくも。
おっと、また脇道にそれてしまった。66年にもどらないと。
この年の決勝カードはご存じイングランド対西ドイツ。決勝点は例のハーストです。
サッカーファンならだれでも知ってる話ですね。こんな番組もあったようだし。
まあこの議論に参加する気はありません。興味は当の本人、選手たちにありますから。
以前にも紹介した『ブンデスリーガ』の著者リヒテンベルガーはこう書きます。
あまり知られていないことかもしれないが、ドイツはこの結果や、特に疑惑の三点目のゴールに対してわだかまりはもっていない。…決勝に進出したこと自体を誇りに思い、イングランド相手に互角の戦いができたことを喜び、トロフィは強いチームの手に渡ったと認めている。
まだまだ類例はありますが省きましょう。あとは『ブンデスリーガ』をご覧あれ。
三点目に関しては決勝を見た竹腰重丸日本蹴球協会理事長も
「英国の第三得点は…微妙なものだったが、近くにいたドイツ選手の二、三が得点でないというゼスチュアを示しただけで、平穏に済んだのは、非常に幸いなことであった。」
と、サッカーマガジン九月号で証言しています。
そして決勝に進出したこと自体誇りというのも、いくらか納得できる傍証がありまして。
それが先に引いた牛木さんの記事の末にある、優勝国のオッズなんです。
おそろしく人気ないでしょ、西ドイツ。イングランドやイタリアは雲の上ですね。
ポルトガルやハンガリーに比しても低評価。てんで中堅国のあつかいです。
その後いくらか西ドイツ株は上がりますが、それでもせいぜい10倍から15倍。
なるほどこれなら決勝進出で満足したでしょう。なんだ…。
1968年の6月、西ドイツは親善試合でイングランドを下しました。
この件について『ブンデスリーガ』は、ベッケンバウアーのつぎの言葉をひきます。
「イングランドを破ったのは史上初めてだった。…われわれにもイングランドを倒すことができるのだと気づき、それまで抱いていた敬意を少し失った瞬間だった。われわれはそこからスタートしたのだ。」
<おまけ>
気がついたら七月も末。学生さんは夏休みですね。
ではではすてきな夏をすごせるよう、この曲をおくります。
posted by 由比彰紀 |15:47 |
何番? |
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2009年07月14日
日本サッカーメディア研究史。
そんなものがもし存在するとすれば、1966年はかならず記録される年です。
というのもこの年はサッカー雑誌の老舗。サッカーマガジンが創刊されているんですね。
このバックナンバーがそろってると聞き、出不精は一路千駄ヶ谷へと向かったワケです。
創刊号は六月号で、これは事前にわかってました。実際の発売は当然もっと早いでしょう。
そしてこの年イングランドでW杯が開かれるのは、7月11日から30日のあいだ。
…してみると、W杯にあわせて新雑誌を創刊したのかな?
そんな想像をめぐらせながら歩いていました。ほほお、これが国立競技場ですか。
しかし実際手にとってみると、予想がずいぶんハズれていたことに気がつきます。
百ページ弱の冊子のトップをかざるのは「日本リーグ全選手写真名鑑」。
その後も「日本リーグ八チームの横顔」や監督座談会など、日本リーグの記事が主ですね。
あるいは大学サッカー部めぐり(ちなみに早稲田と関学)、高校のそれ(習志野と明星)、早慶サッカー・ナイターとつづき、86pでようやく「ワールド・カップ予想」がきます。
この傾向に変化が見られるのは、私見では69年ごろからでしょうか?
グラートバッハ来日特集を組むあたりから、徐々に海外記事が割合を増す印象ですね。
これがダイヤモンドサッカー効果かしら? サッカーを愛するみなさん、ごきげん…。
で、かんじんの「ワールド・カップ予想」なのですが。
この記事を書いたのは牛木素吉郎さんです。氏は当時読売運動部の記者ですね。
ま、長年の愛読者にとってはいわずもがなでしょう。わたしはよく知りませんが。
…と、ここまで書いて気がつきました。
牛木さんが執筆したサッカーマガジンの記事は、ネットに公開されてるじゃないですか!
あらあ…こ、これでは紹介する意味がない。ココを読めばじゅうぶんだわ。
ま、でもそのほうが話ははやいかな。それではコチラをざっとご覧ください。
一読してあきらかだと思いますが、おそろしく基本的な説明ですよね。
なんせ「サッカーの世界選手権大会は、「ワールド・カップ」と呼んだほうが通りがいい。」
一事が万事とはいいませんが、牛木さんほぼこの調子で書いてますから。
なるほど世間の空気がこうだとすれば、W杯に向けての出版などできますまい。
そしてこれも無理解な社会への反発か、五輪への対抗心がありありと見てとれます。
前半なんかほぼ「オリンピックよりすごい!」ということだけに筆を費やしてますから。
どうも牛木さんこの件はよほど不快らしく、74年にはずいぶん乱暴なことも書いてます。
いずれ紹介することもあるでしょう。あれはいくらなんでもムチャだけど…。
ところで1966年当時。W杯は世間にどう報じられていたのでしょう?
牛木さんに敬意を表し今回は読売新聞から拝借します。昭和41年7月13日朝刊。
ワールド・カップひらく イングランドは引き分ける
【ロンドン十一日発=AP】
〝地上最大のスポーツ・ショー〝といわれるサッカーの世界選手権、第八回ワールド・カップの開会式は、十一日午後五時半(日本時間十二日午前二時半)からロンドンのウェンブレー競技場に十万の観衆を集めて行なわれ、エリザベス女王が開会を宣言した。大会は参加十六チームが、まず四組にわかれてイングランド内の八会場でリーグ戦を行ない、各組上位二チームずつが準々決勝に進出する仕組みで、決勝は三十日になる…。
このあと開幕戦の結果を報じてますが、しっかりした説明です。コレも牛木さんかな?
とはいえせいぜい三段記事。位置も中段の目立たぬところにおかれてますね。
ちなみにこの記事の上では、アメリカ主催スポーツ大会への不参加国が報じられてます。
ソ連、ポーランド、チェコなどなど。なるほどベトナム戦争への反発ですか。
まだデタント前だなぁ。さきの開幕記事も北朝鮮の国旗掲揚問題を取りあげてるし…。
そうそう、このW杯は北朝鮮が出てたんだ。それも大活躍したんですよね。
イタリア戦、そしてポルトガル戦…。彼らは人々の記憶にのこったチームです。
とくにポルトガル戦は3点先制し、そんでもって5点ブチこまれましたから。ほいコチラ。
このときの活躍は当地でも衝撃だったようで、牛木さんは九月号にこう書いています。
われわれ後世の者はどうとらえるべきでしょうか? 今となってはわびしい記録ですが…。
地元リバプールの四万二千以上の観衆は、熱狂して遠来のチームを声援し、地上最大の番狂わせがここに起こるかと思われた。
…北朝鮮は、これで姿を消すことになったが、北朝鮮の活躍が世界のサッカー地図を塗り変えたことは確かである。
批評家の中には「四年後のワールド・カップでは、アジアがヨーロッパや南米と対抗する勢力になるだろう」と、先走った予想をする者さえいる。
ちと長くなりました。この大会の参加国をのせて、一度切ります。
このW杯は戦前どう予想されていたのか。
そして北朝鮮については触れましたが、結果はいかに受けとめられたのか。
わが関心はそこにあります。伝説や物語はその後生まれるのでしょうから。
A.イングランド フランス ウルグアイ メキシコ
B.アルゼンチン スペイン 西ドイツ スイス
C.ブラジル ポルトガル ハンガリー ブルガリア
D.チリ イタリア ソ連 北朝鮮
<おまけ>
60年代イギリス。当然リバプールの彼らがうかびますが…。
やめた。コッチでいこう。
posted by 由比彰紀 |15:45 |
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2009年07月07日
マルディーニが7番をつけたのは、それは彼が若造だったからである。
…ある意味これは正解なんです。ま、コレだけじゃ説明不足なんですけど。
われながらワケがわかりませんね。それじゃとっとと前回のつづきに参りますか。
7番マルディーニが登場したのは1990年のイタリアW杯です。
彼は全戦フル出場! うわ、ホント若いころからキャリア積んでるなぁ。
結局イタリアはこの大会三位に終わり…って、そんなハナシじゃありませんでしたね。
どうもむかしから寄り道グセがなおりません。まだしばらくは背番号、と。
それでイタリアの背番号ですが、これは実際見てもらったほうがのみこみがいい。
というワケでコチラをどうぞ。90年イタリアの面々です。
まず三人のGK。1番、12番、そして22番をとりのぞいてください。
気づかれました? DF、MF、FWとキレイに分化されてるでしょう。
そして三つの各グループは、それぞれアルファベット順に配列されてるワケです。
つまりマルディーニが7を手にしたのは、たんなる偶然なんですね。
イタリアはこの方式を78から98まで、じつに六大会にわたって採用しておりまして。
ロッシ、スキラッチ、ビエリ…。イタリアFWの背番号が大きかったのはこのためです。
とはいうものの、理屈じゃわりきれぬのが世間のならい。例外ってのはあるんだなぁ。
選手がエラくなりゃ背中に貫禄がでてくる。スターに妙なナンバーは渡せねェ。
てなわけで(?)、98年のイタリア代表はご覧のようになりましたとさ。
ハイ、マルディーニは3番におりますな。例のABCルールを完全に無視しとります。
冒頭の弁はそーゆーことでして。とどのつまりエラくなればいいんですね。
いかん、前置きが長くなった。本来の目的は54年スイスの背番号だっけ。
そんじゃサクサク参りましょう。基本的にはさきに見たイタリアとおんなじですから。
54年スイス代表のメンバーはこのようになっています。
まあ目をひくのがGKの1、2、3! ちなみに2番のパルリエが正GK。
もうおわかりでしょう。つまりイタリアの法則にGKもあてはめればいいワケです。
三人のGKはもののみごとにABC順でならんでいますよね?
おなじように4番から7番、8から13、14から22と各々グループになっているんです。
なに、ポジションが一致してない? うーん…おおむね守から攻に移行してるでしょ?
そしてこのルールをややユルくすると、前回いった西ドイツの謎が解けてきます。
西ドイツのグループは前線、後方の二種類。そして例のABCは採用しません。
ですから攻撃担当の選手はのきなみ二桁ナンバーになるんです。
コチラにフォーメーションがありました。右ならえのハンガリーとは著しい対称ですね。
ストッパーのリープリッヒなんて10番ですよ! …やっぱりこういうのは苦手だなぁ。
ところで…このリープリッヒという選手。
彼には名ストッパーという評がある一方、後世すくなからぬ批判も受けておりまして。
というのも彼リープリッヒは、あのプスカシュをケガさせた男だからなんです。
人によっては「故意にケズった」とすらいわれる、悪評サクサクの選手なんですね。
このときのハンガリーの敗北は、当時の空気において信じがたい結果だったようでして。
それゆえか西ドイツの悪運・ハンガリーの不運を論じたものが山積しています。
千田善『ワールドカップの世界史』にその一部がありました。抜粋してみましょう。
1.一次リーグ西ドイツ戦。DFリープリッヒはプスカシュの左足を意図的に痛めつけた。以降プスカシュは欠場を余儀なくされ、決勝も万全ではのぞめなかった。
2.一次リーグの変則ルールが西ドイツに幸運だった。この大会は同勝点の場合プレーオフで順位を決めたため、現行の得失点差ルールなら敗退していた西ドイツが生き残ることになった。
3.決勝トーナメントが一位通過どうしの対戦だったため、ハンガリーは強豪ブラジル・ウルグアイとの対戦となり消耗した。対して西ドイツはユーゴとオーストリア相手にゆうゆうと勝利した。オーストリアには八百長疑惑すらかけられた。
4.終了間際のプスカシュによる同点ゴールが、オフサイド判定により取り消された。
5.西ドイツにはドーピング疑惑があった。イタリア人ジャーナリストF・ロッシは大会後、西ドイツ選手全員が肝炎で入院したと報告している。
…これぐらいにしておきますか。全部あげていったらキリがない。
他にもありますが気になるかたは調べてください。ネット上にもあるんじゃないかな?
なおこの件に関するドイツ人側の主張は、ウルリッヒ・ヘッセ・リヒテンベルガー著 秋吉香代子訳『ブンデスリーガ』をご覧ください。
第8章「気は確かかと言ってくれ」がまるまる54年。ベルンの奇跡をあつかっています。
いずれにせよこの一件の結論はでないでしょう。たとえばリープリッヒによるタックル。
これをとらえた映像や写真は、リヒテンベルガーによれば存在しないそうですから。
しかもこのテの議論は事実の追求より、えてして信念に基づくものになりやすい。
ハンガリーはすばらしかった! いやいや西ドイツは正当に勝利した!
この両者のさきにあるのは水かけ論です。禅問答だか神学論争だか知りませんが。
まあ酒のサカナにしておくぐらいが、穏当なところなのやもしれません。
(2.だけは論外です。あれは過去に対する現代の傲慢ですから。)
サッカーには定型化したコトバがあります。語り継がれる伝説があります。
その真偽を確かめるなんて大それた気はさらさらありません。そんな能力はありません。
ただ、ある物語が語られる背景。それを遠まきにのぞくことはできないかな?
ボンヤリとそんなことを考えていました。総武線はいつもよりすいている…。
<おまけ>
やはり難しいですね。むかしのコトというのは。
わたしはむろん落第ですが、緻密な人がやってもいずれ限界があります。
結局コレに頼るしかないのかしら?
posted by 由比彰紀 |15:49 |
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