2008年10月31日
サネッティ、マスチェラーノ、ロマニョーリ…。
アルゼンチン人の名前には、イタリア語を思わせるものがあります。
サネッティは同姓のイタリア人がいるし、マスチェラーノやロマニョーリもイタリア語風。
あるいはエインセなんてのはドイツ語っぽいですかね?
彼らが直接ヨーロッパの血をひいているのか。さあそれは当方知りません。
第四章のタイトルは「アルゼンチンのイタリア移民」。移民にまつわるおはなしです。
「十九世紀はヨーロッパ移民の時代であった。」北村さんはそう語り始めます。
ナポレオン戦争以後の百年間、米大陸やオセアニアへの移民総数はざっと五千万人。
そのなかにあって、イタリア移民が目立つようになるのは統一以後なのだとか。
してみると19世紀後半から20世紀初頭にかけて。
どうもイタリア人はヨーロッパ移民史の後期に多く活動したみたいですね。
移民が増えた要因は、人口増加と農業不況にあったようです。つまりは一時的な出かせぎ。
もちろん結果的に居つくことになった人も多かったでしょうけど。
というわけでイタリア人のだれもがみんな、遠い米大陸へ行ったのでもないようで。
彼らが向かった先は、多い順にアメリカ、フランス、アルゼンチン。
おもしろいことにアメリカへは南出身者、フランスへは北のそれときれいにわかれるそうです。
ところがアルゼンチンの場合、南北それぞれの出身者がバランスよくいるのだとか。
コレ、けっこう重要なので頭の片隅においといてください。
1876年からの五十年間、イタリアからアルゼンチンへわたった移民の総数は二百万強。
さしたる数字ではありませんかね? まあ20世紀は人口が爆発しましたから。
20世紀初頭の中国(といえば、まだ清朝)の人口は、四億人とよくいわれます。
移民の受け入れ先アルゼンチンは、1869年の時点で百七十万人。
これが1914年には八百万人弱に。…まあ外国人比率が30%というのも納得できます。
ところでアルゼンチンはなにゆえ、かように大量の移民を欲したのでしょうか?
経済が好況だったからなのはまちがいない。19世紀の牧畜業は安定していたもようです。
加えてこの時期のアルゼンチンは開墾事業に積極的でした。
まあ労働力はいくらあってもたりない時代だったのでしょう。
そしてもうひとつは、前回イヤというほどでてきたアレです。北村さんヨロシク。
「アルベルディがアルゼンチンにヨーロッパからの移民を積極的に誘致するべきであると考えたのは、スペイン植民地体制化ではびこった(と彼がみなした)怠惰、奢侈の風習を、禁欲と勤勉を旨とする人々の入植によって克服しようとしたからであった。その発想の根底には、ヨーロッパこそが文明であり、先住民など「非ヨーロッパ的」なものは野蛮であるという、おなじみの人種観が存在した。」
アルベルディとはファン・バウティスタ・アルベルディのこと。
アルゼンチン憲法の事実上の起草者で、モットーは「統治とは植民なり」なんだそうな。
(『世界各国史26ラテンアメリカ史Ⅱ』より。このテの本は辞書としてつかいましょう。)
まあ前回さんざんでてきたおなじみのリクツ…ではあるのですが。
アルゼンチンがもとめた人種。これがすこしわたしには意外だったんですね。
「イギリス人、ドイツ人、スイス人、北アメリカ人」が望まれたというのはわかる。
落ち目の元宗主国スペインが歓迎されなかったのもまたわかる。
イタリアは…期待されてなかったんですね。
いやわたしだってイタリアがラテンであることは理解してますよ?
それにしても北イタリア人は「われわれはヨーロッパだ!」って言ってたんですけどねえ。
アルゼンチンの望みとはうらはらにやってきたのはイタリア人。ついでスペイン人でした。
まあ第一希望ではないにせよ、労働力を必要としていたことにかわりないですからね。
彼らは初期には農場に、その後は都市の商工業にとしだいに道を広げていったようです。
「都市部に流入したイタリア移民たちは、出身地を同じくする者同士でコミュニティを形成していった。首都ブエノスアイレスの場合、最も早い時期にイタリア移民のコミュニティが成立したのは、ラプラタ川とその支流リアチュエロ川の交差する港町ボカである。」
サッカーファンには説明不要なおなじみの名が出てきました。
ところでぞくぞくとやってくるイタリア人を、現地の人々はどう見ていたのでしょうか?
どうもあまり歓迎はしてなかったようですね。
豊かなアルゼンチンにやってきた流れもの。
成功した場合は、血も涙もない金の亡者。…まあだいたいこんな評価だったようで。
もっともこれは無理からぬ面もあります。異物に対する不信感はどこにでもありますから。
とりわけアルゼンチンの場合がきびしいというわけでもないでしょう。
問題があるのはむしろコチラ。
「とりわけブエノスアイレスでは、都市犯罪の増加と移民の流入とのかかわりに注目する論調が台頭した。こうした議論に大きな影響を与えたのが、ロンブローゾらイタリアの犯罪人類学者たちであった。」
やれやれ、またか…。まあそういうムキもあるでしょうが聞いてください。
彼らの論に触発されたアルゼンチンの研究者たちは、つぎつぎと犯罪者の分析を行います。
まず移民をアングロサクソン系、ラテン系、ユダヤ系などに分類。
そのうえでラテン系、ユダヤ系に犯罪者が多いと“科学的に”証明。
だから移民はアングロサクソン系にしときましょう、というベタな結論に達し…
あれ? アングロサクソンにラテン? 前回はこんな分類ありませんでしたよね。
たしかわざわざなじみのうすい、アーリアだのセムだのをつかってたような…。
イタリア人はどうして、こんなめんどくさい単語をならべたのでしょうね?
冗談はやめておきましょう。イタリア人がラテンなんてつかえるハズがない。
そんなことしたらイタリアは峻別されるがわにまわってしまいますからね。
もっと露骨な反応を、北村さんは紹介しています。
「われわれは知的にはフランスに多くを負っている。…ドイツ人は科学によって、イギリス人はわれわれの鉄道や港を建設し、…彼らの資本を提供するといったことによって、われわれの文明の繁栄をもたらしてくれた。
これに対して、イタリア人はただパンを稼ぐためだけにやってきた。」
この意見が正しいとはいいません。おそらくいいがかりに近いでしょう。
アルゼンチンで起業して、大成功をおさめたイタリア人もまたいたワケですから。
ただしイタリア人がこの時代、すくなからず軽蔑視されていたこと。
それは(かりに偏見だとしても)認めねばなりますまい。
こうなるとトコロがアルゼンチンだけに、イタリア人にとってはやっかいだったでしょう。
アルゼンチンに移民したイタリア人は、北も南もなかったハズですから。
こうしてみると前回の分類は、北イタリア人の涙ぐましい知恵の結晶だったことがわかります。
「オレたちは文明だ、ヨーロッパなんだ。野蛮なのは南のアイツらだけなんだ!」
コレをあわれとみるか、さもしいとみるかは人それぞれでしょうけど。
20世紀にはいるとアルゼンチンの経済は衰退し続けます。いまやみる影もありません。
これに対しイタリアは戦後、経済復興に成功します。むろん南北に程度差はありますが。
時代は流れにながれ、アルゼンチンからイタリアに移民が向かう時代に。
今度はアルゼンチン人が、イタリアから冷ややかな目で見られる番です。
それが1980年代後半以降。
そのときマラドーナはナポリにいたのでした。
posted by shousetsu |16:28 |
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2008年10月29日
イタリア南部は北中部にくらべ、経済的・文化的に後進状態にある。
そしてそのことは、イタリアの発展にとって障害であるとするスタンス。
以上が「南部問題」なるコトバがもつ意味でした。
現行のカルチョ界に、こんな認識の人がどれだけいるのかは知りませんよ?
たしかサッカーの世界では人種差別に反対していたハズですからね。
人種差別? 地域格差じゃないの? そう思われたアナタ。
それでは『ナポリのマラドーナ』第二章を読んでいきましょう。
ちなみに当方西洋史はさっぱり、イタリア史にいたってはまっくらなのでそのへん了解を。
「「南部問題」と「人種差別」を結びつける議論は、二十世紀末に…創出されたものでは決してなかった。むしろ、彼らの議論は、過去に現れた南イタリアをめぐるさまざまな言説を、自らに都合のいいように取捨選択しながらつくられているというべきものである。
それでは、そうした言説が生み出されたのはいつ頃のことかと問うならば、じつはそれほど古くに遡ることはできないのだ。」
第二章「言説としての南イタリア」の冒頭、北村さんの言です。
それでは異質なものに対する蔑視はいつごろ固定化したのでしょうか?
19世紀前半にもいくらか散見されますが、増えてくるのはイタリア統一のころのようです。
教科書には1861年と覚えさせられた、あの前後からですね。
旧ナポリ王国領に派遣された行政官の手紙を、北村さんは紹介しています。
「…何という野蛮か! これがイタリアであろうはずがない! これはアフリカだ。この粗野な人々と比べれば、ベドウィンでさえ文明の鑑というものだ。」
まあずいぶんとやりやすい記録を後世にのこしてくれたものです。
われわれはヨーロッパであり、文明である。
対してアフリカは野蛮である。…じつにシンプルな対称ですこと。
ベドウィンということばがあるように、この「アフリカ」は北アフリカをさすのでしょう。
ブラックアフリカはヨーロッパの対象外。彼らの視野にも入ってなかったでしょうから。
そんでもって南イタリアは…「野蛮」にくくられていますね。
地中海をはさんで北にはヨーロッパ(文明)が、南にはアフリカ(野蛮)がある。
そして地中海につきだしたイタリアには、南北の境界線がある。
どこに? それはもちろん、イタリアの北と南のあいだに。
当時の北イタリア知識人の認識を、北村さんは上のように説明します。
このほかにも似たような手紙を例としてあげていますね。
なかでも象徴的なのが、亡命ナポリ人が糾弾した祖国の人々についての表現。
「思い込みや迷信に深くとらわれ堕落した人々、邪視や憑依、魔術や魔術師、魔女やその呪い、…その他のありとあらゆる狂ったばかばかしい事どもを信じ込む人々」なんだそうで。
…以前カンナバーロがあえて不吉なナンバーをつけていると書いたことがあります。
あのときよぎったのがこの記述なんですよね。
「ナポリ人は迷信なんかにとらわれない!」
なあんて気概なのかな? ナポリっ子カンナバーロならではの。
これはわたしの妄言ですよ。どうぞ無視してください。
百年以上も前の侮蔑感情が今ものこってるなんて、そんなことあるワケないでしょう?
さてそんなに「野蛮」ならば、いっそ南に手出しなどしなければいいと思いません?
ところがそうは問屋がおろさないのです(すくなくとも北イタリアの知識人にとっては)。
なぜなら19世紀は国民国家の時代。
彼らはいそいで強力な統一国家をつくらねばならなかったのですから。
…まあめんどうくさい用語はわたしもニガテ。かんたんにいきましょう。
ナポレオン戦争以降、「国民」なるものが急速に意識されるようになったとよくいわれます。
生まれた町や村だけではなく、国に帰属意識をもつということですね。
王家などではなく彼ら「国民」を代表する政府がリードする国。それが国民国家。
その最も成功した例が、王国ですがイギリスなのでしょう。
イタリアはこのレースに出遅れました。
ですから南のことをボロクソいいながらも、南を統治に組みこむことは自明だったのです。
これが時代の空気なんですかね。人は時代からのがれられぬいきものですから。
余談ですがこの空気にもっとも敏感に反応し、猪突猛進したのがわが日本です。
文明開化とか、近代化とかいわれるアレですね。
われらが先祖は「野蛮」から「文明」に、それはそれはまっすぐに登ろうとしたワケです。
現行日本サッカー界は、はてどのへんにいるのでしょうね?
さてそんなわけで、北は南イタリアと真正面から向き合うことになりました。
ここにいたって登場するのが犯罪人類学なのです。
「犯罪人類学とは、チェーザレ・ロンブローゾによって創始されてイタリアを中心に学派を形成し、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて欧米で隆盛を極めた学問分野である。生まれながらにして犯罪を引き起こしやすい肉体的・精神的な特質をもった人間というものが存在し…実証的に検証することができるというのが彼らの基本的な考え方であった。」
北村さんの説明をまるまるお借りいたしました。
彼らによれば犯罪者とは、文明化された時代に野蛮人の種の特質を保存してるんだそうで。
なんかさっきも似たようなことを聞いた気がしますが…。
ロンブローゾは南イタリアにおける、金髪の分布と犯罪件数の相関性を提唱しました。
想像できると思いますが金髪の多い地域は犯罪率が低く、すくない地域は…と。
これを後の研究者が、南北人種優劣論へとシフトさせていくのです。
アーリア人種は文明であり北、セム人種(もしくは地中海人種)は野蛮で南。
あるいは発展段階論をおりまぜて、近代的に対して封建的とするものもありますね。
まあこんなぐあいに、北と南とはそもそも人種が異なるのだと論じられたワケです。
なお上に出した用語はどれも出所があります。厳密にかさなるものではないでしょう。
ですが受けとり手が同じものととらえればそれはいっしょ。
コトバというのは理解をたすけるのと同時に、ものごとを単純化する要素もありますから。
今もそこいらに転がってますよね?
「カテナチオ」とか「ゲルマン魂」とか、「絶対に負けられない戦い」とか…。
かように好き放題ボロクソにいわれてきた南イタリア。
ホントにそんな世界だったの? 第三章「イタリアの北と南」はその検証です。
ここは研究者北村さんのキモでしょう。ぜひ『ナポリのマラドーナ』をお読みください。
わたしのよけいなバイアスなどいれぬ本文を。
かんたんな感想をいえば、「近代史研究の方向性はこうなのだなぁ」てとこかな?
「マフィアは近代化とともに発生した現象であった」これにはあっけにとられましたね。
科学に裏打ちされた人種差別、いかがでしたか?
あれがその後ヨーロッパでどんな発展をとげたのか。それはいうだけヤボでしょう。
科学はわれわれに客観的なデータをあたえてくれるかもしれない。
だけどそれをあつかうのは、いつだってわれわれ人間なのです。
さて偉大なる科学はヨーロッパのみにとどまらず、南米にも上陸しました。
それはいかにして? そしてなにをもたらした?
第四章はそのことに関するおはなしなのです。
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2008年10月28日
とあるかたのおかげで、たのしい本に出会うことができました。
著者は北村暁夫さん、タイトルは『ナポリのマラドーナ』。
2005年11月に税別1300円で、山川出版社より発行された本です。
山川出版社? とピンときたかた、学生時代に授業をちゃんと聞いてたクチですね。
この出版社は歴史の教科書や参考書でおなじみの会社。ヤな思い出もありますかな?
とはいえ、当座の疑問はそんなトコロにはないでしょう。
なんでその山川がマラドーナの本なんかだすの? ハイ、ご説明いたします。
じつはマラドーナを題にかかげているこの本、彼を主軸に展開するものではありません。
この本は全五章から構成されますが、マラドーナが出てくるのは一章と五章のみ。
しかもこのふたつはそれぞれ序章・終章とでも称すべき部分。
つまりマラドーナをきっかけにしてはいますが、本書の問題意識はべつにあるワケです。
(おっと、お客さん! まだ帰るにはちと早いよ。)
しからばそれはなにか。それは題にもあるナポリ、そして“イタリアにおける「南」とは何か”という副題に集約されているのです。
イタリアに「南部問題」なるものが存在すること、サッカーファンはご存じでしょう。
(このコトバはあからさまな立場を鮮明にするもの。オススメはしません。)
この国には南北のあいだでいちじるしい経済格差があるのです。
もっとも、サッカー界では南にくくられることもあるローマですが、本書が南部とするのはナポリ以南。およびシチリア、サルジニアの島嶼部ですね。
今季のセリエAでいえばナポリ、レッチェ、レッジーナ。それにパレルモ、カターニャ、カリアリの6クラブが南イタリアにあたることになります。
最近は南も健闘してますが、02-03のように南はひとつだけなんてシーズンもありました。
北には伝統ある古豪がひしめいているのに、南はかすかにナポリがあるだけ。
まあこの一事だけとってみてもイタリアの南北にちがいがあること、あきらかでしょう。
イタリアに横たわる「南部問題」の根はいずこに?
そしてそれはどのように現代に噴出したのか?
そのときイタリアにおいてアルゼンチンが演じた役回りとは?
これらすべてが、あるときのマラドーナの身に集約されたと北村さんはいうんですね。
「ホンマかいな」と思われたアナタ。わたしといっしょにのぞいてみませんか?
舞台は1990年7月3日のナポリ。カンのいいかたはおわかりでしょう。
この日は90イタリアW杯準決勝、イタリア対アルゼンチン戦がおこなわれた日なのです。
しかも開催地はナポリ。あまりにもできた話じゃありませんか。
直前の89-90シーズン。マラドーナはナポリをひきいてスクデットを獲ったのですから。
ナポリの街から絶大な支持を得るマラドーナが、敵としてナポリにやってくる。
そりゃあメディアだってあおりますよね。ところが北村さん、こういうんです。
「だが、それにしても、準決勝の対戦カードが決まって以来の新聞各紙の報道は異様であった。…この準決勝に限っては、新聞紙上を賑わせるのは試合内容への期待や結果予想ではなく、試合の外部に展開する政治的・社会的言説ばかりであった。そこでは、ピッチ上の世界(ミクロコスモス)はイタリアの政治や社会という世界(マクロコスモス)を映す鏡と化していた。」(注 カッコ内はふりがな)
あらあらキナくさくなってきましたよ。ずいぶんとヤなこというじゃないか。
たかだかサッカーの試合が政治・社会の縮図になるとな?
まあサッカーにかぎらずスポーツが、ときに政治に影響されるのは周知の事実ですけどね。
このあたりのイタリアのこと、北村さんの解説をわたしが抜粋してみましょう。
北村さんによれば、このころのイタリアの空気は以下のとおりです。
1.財政苦境により、いわゆる「南部問題」がより深刻に意識されていた
2.外国人労働者の急増にともない、人種差別があらわになっていた
3.共産圏の崩壊と国家の分裂が、なまなましく危機として感じられていた
「南部問題」なるコトバ、北村さんは「南イタリアが北部や中部に比べて経済的・社会的に後進的な状態にあり、それがイタリア全体の発展にとって妨げとなっているという認識のあり方を指す」と説明しています。
ね、使いづらいでしょ? 第三者のわたしは北村さんにならい、かぎかっこに入れておきます。
まあそれはともかく…。
当時のイタリアではやや過激な政治勢力が急に力をつけたそうなんですね。
「南にムダなカネ使うのはたくさんだ! 連邦制にして、オレらはオレらでやろうや!」
いやホントはもっとていねいな言葉づかいだったのでしょうけど。
むろんこれは過激な人の過激な意見です。多くのイタリア人はんなこと願っちゃいません。
だけど無視もできなかったのです。その理由が空気3。
ベルリンの壁がくずれ、チェコスロバキアの分離検討が報じられ、ユーゴでは…。
これが対岸の火事ではないというのは少々オドロキです。イタリアは共産圏でもないのに。
まあダテに陸続きではないなと。日本での感覚とはずいぶんちがいますから。
空気2についてはフランスなどでよく報じられます。
98W杯優勝時よくいわれてましたよね? 「フランスはひとつになった!」なんて。
あれなんかはこういう事情の裏返しのようなものです。むろんスゴイことですけど。
アルジェリア移民二世や黒人選手が、国家の英雄としてたたえられたんですから。
イタリアにおいても同様の事情があったようです。
ただしイタリアが特殊なのは、排斥の対象に南からやってきた労働者も含まれていたこと。
もうこうなると北にとって南イタリアは完全に“よそもの”ですね。
国家解体の危機がせまっている。現にそれを主張する政治勢力が力をつけている。
われわれのイタリアはどうなる? 南の連中はどう思っているんだ!
この疑問に対するこたえとして、イタリア対アルゼンチンが設定されたというんですね。
端的にいえば、ナポリ市民はイタリアとアルゼンチンのどちらを応援するのか?
そしてここにマラドーナが象徴としてえがかれたワケです。
さきほどいった外国人労働者、移民にはアルゼンチンからのものも含まれていました。
第三世界、世界的な“南”の代表が敵としてイタリアの前に立ちはだかる。
しかもその敵をひきいるのは“ナポリのマラドーナ”なのだ。
さあナポリよ、イタリアとアルゼンチンのどちらを選ぶのだ!
…ダテや酔狂でいってるんではありませんよ?
北村さんは当時のイタリアの新聞を引いていますが、その調子ときたらもう…。
まあこのあたりは『ナポリのマラドーナ』を買って読んでみてください。
名著を世におくった北村さんに、印税が入らないといけませんから。
北にいじめられていた南は、にもかかわらずイタリアへの忠誠をもとめられる。
まあなかなかにムチャなはなしですよね。
ここで北村さんは「南部問題」なるものの起源、およびその展開へと目を向けます。
ですがそれは第二章のおはなし。さてさてサッカーのエントリーにできるかな?
あ、いい忘れてました。
この第一章のタイトルは「イタリア対アルゼンチン」です。
どういう意味にとるかは読者しだいでしょうねえ。
posted by shousetsu |17:00 |
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2008年10月25日
この29、すきな数字なんです。とくに理由があるわけではないのですが。
肉屋の特売をたのしみにしてるわけでなし。
すきな女の子の誕生日だったというわけでもなし。
どういうわけかむかしから、この中途半端な素数がお気にいりだったんですよ。
せっかくのすきな数字、今までエントリーせず大事にとっておいたワケなのです。
…すみません、ウソをもうしました。正直に本当のことを話します。
いないんですよ選手が! お気にいりの29番に。
非プロ契約選手のナンバーになるスペインはもちろん、そのほかのリーグにもなかなかコレといった選手が見あたらないのです。
むろんまったくの絶無というわけではないのですが、どうもインパクトが弱いんですよね。
マンチェスター・Uの控えGKクシュチャク。
今季はトリノにやってきた風来坊ビアンキ。
あるいはCLにも出場しているボルドーのモロッコ人シャマフ。
いずれもいい選手ではあるのですが、見出しをかざるにはもうちょっとバケてほしい…。
せっかくすきなナンバーなのにこれではと、二の足をふんでいたワケなのであります。
そんな29番に今回はいよいよ挑戦! …だれかかわりにやってくれないかなぁ。
ブレーメンのCBメルテザッカーは29番を好みます。
ドイツ代表でもレギュラーをはってますから、みなさんおなじみの選手でしょう。
現在24歳の彼がキャリアをスタートさせたのはハノーファーにおいてでした。
03-04デビュー当時の背番号29を、移籍したブレーメンでも背負っているんですね。
まあ彼が29を好む理由は、わたしとちがいハッキリしているようです。
メルテザッカーの生年月日は1984年9月29日。誕生日がそのまま背番号のようで。
まあ彼クラスの選手が29番をつけてくれているのはありがたい…のですが。
ただ彼はなんというか、「おっきいってことは便利だね」とでも評したい選手でして。
むろんスポーツ選手にとって体格は重要です。それは否定できるワケがない。
事実彼の高さは自陣・敵陣どちらのゴール前でも、ひじょうに有用なのですから。
要するに好みの問題です。あるいはちんちくりん日本人のひがみかもしれない。
わたしは横のゆさぶりに強い、そして少々ズルくてにらみのきくCBがすきなのです。
…あるいは四、五年後のメルテザッカーはそんな選手になってるのかな?
考えてみれば彼はまだ24歳ですからね。まだまだのびしろはあるでしょう。
いずれは彼もシブくたのもしいDFに…なってるのかなぁ?
にらみがきいてたのかはともかくも、乱暴者として鳴らしていたのがボウヤーです。
いまやすっかりニューカッスルのバートンにとってかわられてしまいましたが、かつてはプレミアのチンピラといえばまず彼の名前がでてきました。
リーズで、そしてニューカッスルで。よくもまあこう悪さばかりしたものです。
彼の事件リストなんかつくってたらキリがありません。やめときましょう。
過去にスネもつ選手もいろいろいますからね。
さてそんなボウヤー、ここ数年はウエストハムに所属しています。当然ながら背番号は29。
彼はリーズでもニューカッスルでも11でとおした選手なんですよね。
ところがウエストハムの11にはエザリントンなる男が。彼は左ききの古株です。
その結果つけたのが29となると…ボウヤーは2+9=11を選択したのでしょう、きっと。
29番が11のかわりだとすると、なんとも皮肉なのがフィオレンティーナの場合。
このクラブには長年29番を背負っている、稀有なキャラクターが存在するのです。
彼の名前はジャンパオロ・パッツィーニ。これまた84年生まれのFWでして。
この事情を理解するには、パッツィーニとフィオの過去をふりかえる必要があるでしょう。
フィオレンティーナが安定した成績を残しはじめたのが05-06シーズンのこと。
新監督プランデッリとエースFWトニの加入がおもな要因でした。
この間くさることなくベンチをあたため続けたのが、われらのパッツィーニでして。
そんな彼に転機がおとずれたのは昨季、07-08のことでした。
大エーストニがバイエルンへと栄転することになったのです。
トニの代役として、パッツィーニにはおおきな期待がかけられました。
結果はリーグ戦31試合出場で9得点。クラブを満足させることはできず…。
今季フィオはあらたなFWを獲得しました。それが11番を背負ったジラルディーノ。
彼はミランでのうっぷんを晴らすかのように爆発しています。
いっぽうパッツィーニはふたたびベンチへ。出番をうかがう毎日に逆戻りです。
それでも先週のレッジーナ戦では先発機会をもらい、PKながらゴールも決めました!
…まあ途中から交代で出てきたジラルディーノは2得点でしたけど。
世のなかキビしいですねえ。パッツィーニもそろそろ身のふりかたを考えないと。
うーん、メルテザッカーにボウヤーにパッツィーニかぁ…。
まいりましたね。やはり看板にはちとヨワイ。
29番は当所同様、かげにかくれた存在なのやもしれませんねえ。
<おまけ>
あれ? 本日は土曜日ですか、めずらしい。
ならばこんなのはいかがでしょう?
日曜に更新するときはなににしますかねえ。
posted by shousetsu |17:25 |
ナンバー |
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2008年10月21日
そんな時代もあったねと。32番にはこんなコトバをかけたくなります。
このナンバー、かつてのイタリアではなかなかの人気者でした。
ブームを巻き起こしたきっかけはやはりビエリでしょうね。
リーガ得点王の実績をひっさげて、ビエリがセリエに凱旋したのが98-99のこと。
このとき移籍したラツィオで、とりあえずつけたドンジリ番号が32だったのです。
その後ビエリ唯一の長期滞在となったインテルにて、32番は彼の代名詞となりました。
ビエリにならったワケでもないのでしょうが、このころは個性的な32番がいましたね。
ローマで左サイドを担当していたフランス人、バンサン・カンデラ。
ビエリの友人で同じく32番とともにさすらう男、クリスティアン・ブロッキ。
あるいはドイツはブレーメンの点取り屋、アイウトンも印象的でしょうか。
彼もまたビエリ同様、ブレーメン以降はおちつきなくさすらうことになります。
06冬にはハンブルクにやってきました。ただしここでの背番号は24。
ハンブルクには32番がいましたからね。そう、われらが日本の高原選手なのであります。
彼ももはや32は背負っていません。磐田でもハンブルクでも32番でとおしたというのに。
ビエリは32番にがんばっていますが、どうやら32は斜陽のときをむかえているようです。
とはいえ、現在はたらき盛りの32番がいないかというとさにあらず。
マンチェスター・Uのカルロス・テベス。彼はヨーロッパでは32番をつけます。
ウエストハムでもユナイテッドでも32番をつけて奮闘していますね。
小柄ながらあたりまけしない体躯。チームのために走るすがた。そして愛嬌のある性格。
アルゼンチンでもブラジルでも、イングランドでも彼はファンから愛されてきました。
イングランドでは32でおなじみになった彼ですが、南米ではどうだったのでしょう?
ボカにいたころは9番をつけて得点をかさね、コリンチャンスではほぼ10番。
ブラジルは固定背番号制ではありませんが、まあほとんど10をつけていたようです。
それではアルゼンチン代表では?
テベスもまたマラドーナの後継者といわれたひとりでした。ならば背番号はひとつ。
実際アテネオリンピックでは、10番を背負って金メダルを獲りました。
もっとも最近のテベスは11をつけています。10は彼の兄貴分リケルメのものですから。
チリに敗れ、監督が辞任に追いこまれたアルゼンチン。今後はどうなるのでしょうか。
背番号だけをみていても、チーム内のヒエラルキーがわかるやもしれませんよ?
ローマの正GKドニも32番をつけた選手です。
守護神が背負うには大きい番号ですね。まあ彼も気をつかっているのやもしれません。
というのは、ローマには子飼いのGKがふたりもいたのですから。
育成の名門というだけあって、ローマにはユース出身の選手がゴロゴロしてます。
トッティやデロッシはいうにおよばず。オカカなんておちゃめなFWもいますよね。
ところがこのクラブ出身のGKがなかなか…陽の目をあびません。
ふたりの名はゾッティにクルチ。
ゾッティのほうは下部リーグに転出しました。クルチも今季はシエナへ。
クルチのパスはまだローマが半分もっていますが、はたして彼は帰ってこられますかね?
そのおかげでローマのGKはエライことになりました。
なんと四人のうち第三GKまでがみんなブラジル人! …いやすごい時代がきたものです。
さて32番というと、わたしには忘れられない選手がひとりいます。
彼の名前はロラン・ロベール。強烈な左足を搭載したフランス人でした。
彼を一躍有名にしたのはニューカッスル時代でしょう。01-02から四年間在籍しました。
当時のボスはボビー・ロブソン。これがハチャメチャなフットボールをやってたんですね。
前線にはシアラー大先生がデンとおすわりになり、荒らくれベラミーと2トップを組む。
中盤ではダイアーやジーナスがあばれまわり、右からソラーノがクロスをあげる。
彼らの後ろにひかえるは、泣けてくるほどゆさぶりに弱いCBブランブル。
名手ギブンの奮闘むなしくゴールは割られ続けたのでありました。
まあやられたぶんは倍にしてブン殴ってやろうぜ! そんなフットボールでしたね。
このチームにおいて左サイドを任されていたのが、われらのロベールだったワケです。
彼もまた他の面々にひけをとらぬ個性の持主でした。
ボールをもったら左足がドカーン! シュートなのかクロスなのかわかったもんじゃない。
ロベールにはクロスの精度などという概念がこれっぱかしもなかった気がします。
だれかに当って入ればそれでいい、そのまま入ればもっといい。まあそんな感じでしたね。
ロベールはその能力とは裏腹にフランス代表とは疎遠でした。無理もありません。
彼を自由にしては戦術になりませんから。むしろ使いこなしたロブソンがすごいのです。
ロブソン監督解任後、案の定ロベールのキャリアは暗転します。
新監督スーネスとケンカ別れしたあとは、ポーツマス・ベンフィカ・レバンテを点々と。
ケガをしたこともありいずこでも、実力を発揮したとはいいがたかったですね。
今季はギリシャのAELなるクラブに籍をおいたようです。
ここにかつてのチームメイト、ソラーノがいたのもなにかの縁でしょうか?
背番号はやっぱり32番。よろこびとかなしみをくりかえした32なのです。
<おまけ>
今回は歌じゃありません。ロベールにささげます。
おまけのおまけもどうぞ!
posted by shousetsu |16:43 |
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2008年10月14日
本日は因縁の14番です。いやわたしにとって、なんですけどね。
当方ここ半年ほど背番号について書いているのですが、なんせそこは元来のソコツ者。
あちこちでちょろちょろとポカをおかしてきたのであります。
なかでもとりわけ致命的なミスだったのが前回の14番。
背番号について書いているのに、選手のナンバーをまちがえるという大失態!
…いや最低でしたね。指摘されたときは顔から火がでそうでした。
そんな14番に今回は再挑戦。いやがうえにも気合が入るのであります。
前回もいいましたがこの14番、イタリアではタルデッリの印象が強いようです。
優勝した82W杯の主力でしたからね。14番もおぼえがめでたいというワケで。
(86W杯のタルデッリは15番で出番なし。15ってどうしてこうなんでしょう…。)
その影響からか、セリエには14をつけた優秀な中盤の選手がいましたね。
ディビアッジョやシメオネが背負う14番はお覚えのかたも多いでしょう。
イタリア伝統の14番ハーフ。今季背負うのはインテルのパトリック・ビエラです。
もっとも、ここ数シーズンずっと14番なんですけどね。
年齢をかさね故障も多くなった彼ですが、新体制でも信頼されスタメンをはっています。
…なんとなくわかりますね。モウリーニョとビエラ、ともにケンカ腰の人たちですから。
まあ彼の背番号については、みなさんだいたいわかるんじゃないかと思います。
アーセナルとユベントスではお気にいりの4。インテルではサネッティがいるから14。
いやあこりゃかんたんだ、ミスのしようがない。代表でも常に4番だし…
おっと、これはフランス代表にしてはちょっとめずらしいですね。
何度かいいましたが、フランス代表の選手はクラブとちがう番号をつける傾向があります。
アンリ12 テュラム15 サニョル19 トレゼゲ20…ほかにも例はあるでしょう。
もちろんビエラのような選手もまたいるのですが、めだつのは断然コチラですね。
へんないいかたですが、ビエラもこれでようやくフランス代表らしくなったのかな?
ブレーメンのアーロン・ハントもたのしい14番です。
左ききで、ドリブルがすきで、パスセンスもあって、そして守備が乱暴!
いやあ、当方こういう若者ゾクゾクします。負けん気の強そうな顔もいいなぁ。
ただこのコはケガが多いんですよね。それも選手生命をおびやかすようななケガが。
神さまってのはつれないひとです。前途洋々の若者に長いリハビリを強いるのですから。
彼が休んでるあいだにブレーメンではエジルという選手が花ひらきました。
いや彼は彼でヒジョーに魅力的な若者なんですけどね。だけどハントも見たい…。
今季からの14番といえばなんといってもウォルコットでしょうが、彼にはケガと無縁にすごしてもらいたいですねえ。あのドリブルはずっと見ていたいのです。
そしてケガがちな選手といえばこのセルビア人FWもそう。
今季はパリSGでプレーするマテヤ・ケズマン。背番号14です。
オランダPSV時代は無敵だった彼も、その後は故障もあって不遇の時代に。
チェルシーとアトレティコで一年ずつ、ここ二年はフェネルバフチェに在籍しました。
その間の背番号は順に9・10・9。入団時の期待の高さがうかがえます。
もっとも昨季はリーグで11ゴールをあげていたようです。チームもCLを席巻しました。
ただリーグ戦出場22試合というのがねえ。やはり故障がちだったのかと思わせます。
CL躍進のイメージも、ブラジル勢の影になっていた感のあるケズマン。
今季はPKとはいえすでに1ゴール。出場機会も徐々に増えています。
どうかムリをせず狡猾にゴールをねらってほしい。もう若くない彼へのねがいです。
さて若きさすらいのストライカーをもうひとり。
今季アトレティコに加入したシナマ・ポンゴユ。レクレアティーボ時代同様14番です。
彼はもともとリバプールで知られた選手でした。同胞の彼をウリエ監督が呼んだのです。
当時のリバプールには彼のいとこルタレクを含め、フランス人が多かったですね。
このときの背番号は24番。今も14ですし、4がすきなのやもしれません。
まあそれはともかく…。
リバプールでの二年半。そして半年間のブラックバーン。
総じて三年のプレミア生活で、彼はさしたる活躍を見せられませんでした。
ところが06-07、南スペインはウエルバのレクレアティーボにやってくると大活躍!
弱小レクレにいながら、二年間で21ゴールをたたきだしたのです。
…彼はフランスの海外県、マダガスカル島沖のレユニオン島出身の選手なんですね。
「やはりあたたかい土地のほうが合うのかな?」当時はそう思ったものです。
ですから今季のアトレティコ移籍は…。マドリードは内陸で寒いといいますから。
そんなおせっかいな心配をしていたのですが、なんのなんの。今季は絶好調です。
リーガ5試合で4ゴール! リーガだけならアグエロよりも決めています。
いやいやおみそれいたしました。フランス代表にもついに召集されたようで。
いいかげんなことはいえませんねえ。背番号も含め、さらに勉強せねばなりません。
…そ、そういやだいじょうぶか? またとんでもないミスしてないだろうな?
<おまけ>
自戒の意味もこめましてコレで。
最近ひさびさに「おべんきょしなさい」としかられましてね。反省。
posted by shousetsu |16:20 |
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2008年10月10日
旅は世につれ、世は旅につれ。旅人の背中には枯れたおもむきがあります。
フットボーラーにおいてもそれは然り。
幸運にめぐまれた場合、彼らは十数年の現役生活を旅にさすらいます。
居場所をみつける者、家を追いだされる者、カネを求めてさまようたびがらす…。
彼らの旅程は千差万別。おなじ道をあゆむ者はひとりとしていません。
本日のナンバーは19ですが、はてどんな旅もようをえがいていることやら。
セビージャの19番はウルグアイ人FW、エルネスト・チェバントンです。
ここ数年はやや影がうすいですかね? まだ28歳ですから老けこむには早いのですが…。
彼が名を売ったのは南イタリアのクラブ、レッチェにおいてでした。
このころからすでに背番号19はお気にいりだったようです。
セリエA・Bを通じてコンスタントに結果をのこした彼は、04-05にモナコへと移籍。
このモナコには19にスキラッチがいたため、ここでの二年間彼は19番をつけていません。
その影響ですかね。正直モナコ時代はさしたるインパクトを残せず。
最低限の仕事だけをして、06-07現所属のセビージャへとやってきたのでした。
移籍当初は7番でしたが、翌季から執着する19をもらい今にいたるのであります。
どうも彼はモナコ以降、ケガが多くなった印象があるんですよね。
彼にとって19番はお守りなのかな? 代表でも19をつけたがりますし。
ちなみにモナコ時代の背番号は一年目が10番で、二年目が9。
なんとか19を維持しようとはしていたみたいです。な、涙ぐましい…。
まあ今季はすくない出場時間ながらすでに2得点。頼もしいところをみせてくれています。
順調に旅をつづけるためにも、ここは正念場を乗りきってもらいたいですね。
いっぽうすでに安住の地を見つけた感があるのが、インテルの19番カンビアッソでしょう。
もはや完全なる中盤の大黒柱。監督がかわっても地位はまったくゆらぎませんでした。
キャプテンマークをサネッティから受けつぐのも時間の問題でしょうねえ。
ま、サッカー選手の未来なんてだれにもわからぬものではあるのですが…。
彼がインテルに加入した当初、わたしは完全なる控え要員だと思っていました。
というのもそのころは、R・マドリーで不遇をかこっていた若者にすぎなかったのですから。
カンビアッソは早くから、R・マドリーに才能を買われた選手でした。
16歳のときにスペインへわたり、マドリーのBチームへ。
ここで二年間をすごしたあと、今度は母国アルゼンチンへ武者修行に出されます。
四年後にようやくマドリーに帰ってきたときには、彼の頭はすっかり上がってしまって…。
わたしなんぞ当時「苦労のさせすぎであんなことに…」などと悪口をいったものです。
しかも結局マドリーに居場所はなく、契約満了とともにチームを退団。
そんな彼がダービッツやベロンとの争いに勝つとは、正直思いもよりませんでした。
若き日の旅路で得たものを、彼はムダにしなかったのでしょう。
前回の33と本日の19。これは02-03にバティストゥータがつけた背番号です。
フィオレンティーナの絶対的9番だった彼は、スクデットのためローマにやってきました。
そんな客分のヨワミからか、バティはローマ在籍二年半に毎度背番号をかえたのです。
移籍当初は18番。当時は9番にモンテッラがいましたからね。
その翌季は20番。新加入のカッサーノは18がだいすきでしたからね。
そしてそのつぎは33。…徐々にヒエラルキーが下がっている感があります。
実際出番は確実にすくなくなっていました。彼はその冬、インテル移籍を決断します。
そのインテルで背負ったのが19。ちなみに9番は終生代表でのライバルだったクレスポでした。
この年を最後に彼はイタリアを去ります。
バティにとって19番はかりそめの宿。そこに去来するのは…本人にしかわかりません。
これに対し、19番と連れそって旅しているのがドワイト・ヨークです。
アンディ・コールとの“ホットセット”は02-03、ブラックバーンにおいて再結成。
04-05にはバーミンガムへ。…ここでの背番号33はバティの悲哀とかさなります。
その後彼はシドニーへ行きます。日本にもやってきましたね。ちゃんと19をつけてました。
06-07からはかつてのチームメイト、ロイ・キーンひきいるサンダーランドへ。
ポジションは中盤にかわりましたが、彼のナンバーは当然のごとく19番です。
これはトリニダード・トバゴ代表においてもかわりませんでしたね。
06W杯。生涯のご褒美のようなこの大会で、彼はセンターで19番を背負ったのですから。
…神様はギグスにではなくヨークにご褒美をあげたんだなぁ。
ポジションは徐々に似てきたんですけどね。04ユーロを失ったのは痛恨でした…。
おっと、ついつい感慨にふけってしまいました。ヨークに話をもどします。
ギグスの場合もそうですが、ヨークのキャリアももう終盤。引退の日は遠くないでしょう。
彼はサッカー界にのこるのでしょうか? だとすればそれは故郷で? イングランドで?
…そうだよなぁ。たびがらすの習性はそうかんたんには消えないですよねえ。
現役後も彼らの旅は続いていくのでしょう。たとえどんな道を歩もうとも。
<おまけ>
本日はこの曲です。
…ひどい男ですねえ。女の敵ですよ。
だけどこんなサッカー選手、世界のどこかにいそうじゃありません?
posted by shousetsu |16:29 |
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2008年10月07日
30番台は背番号界の新興勢力です。
そもそもこのあたりのナンバーはユース上がりや第3GKの定位置でしたよね。
ところがここ数年、個性的な選手たちがぞくぞくと進出してまいりまして。
その結果各クラブのレギュラークラスに、30番台が頻出するようになったのです。
四、五年前の選手一覧と比べれば、ちがいはおのずからあきらかでしょう。
30番台なんかチラホラ程度。セリエじゃ77のほうがよほど幅をきかせてました。
(例外は32番ですかね? まあこのナンバーについてはまたいずれ。)
そんななかから今回は、質・量ともに充実した33を選んでみました。
…だけど、この背番号だとリーガはかやの外だなぁ。例のルールがありますから。
ユベントスのレグロッターリエは復活組の33番です。
昨季のユーベ残留は引きとり手がなくて“しかたなく”といったフンイキでした。
それがあれよあれよという間にラニエリ監督の信頼を得てポジションを獲得。
気がついたら背番号と同じだけ、セリエAに33試合出場していました。
ユーベに移籍してからはや五年。長年のドサ回りがようやくむくわれたかっこうです。
レグロッターリエはもともと、ミラクルキエーボの一員として脚光を浴びた選手でした。
その実績をひっさげて、03-04に威風堂々ユベントスに来臨!
…ところがここでは監督マルチェロ・リッピにてんで相手にしてもらえず。
彼はすごすごとローンの旅に出たわけなのであります。
04-05冬にはボローニャへ、翌シーズンはシエナへ。
その間のはたらきが実り、06-07にはユーベに戻ることになります。…セリエBでしたが。
しかもBとはいえ腐ってもユーベはユーベ。彼のあつかいは単なる便利屋に…。
いやあ長い冬でした。ココから這いあがったからこそ、彼は成熟したのでしょう。
昨季途中には2011年まで契約延長したレグロッターリエ。いろんな人生がありますなぁ。
そんな居所を定めぬ渡り鳥のくせに、レグロッターリエの背番号にはアクがあります。
キエーボ、シエナ…彼がつけたのはどういうわけか66番!
…現所属のユベントスは巨大な背番号を認めていませんからねえ。
33は妥協の産物なのかな? キャリアをみるとそんな気がいたします。
ベルギー人のコンパニは今季からマンチェスター・Cにやってきました。
彼は若いころからビッグクラブの注目をあびた選手でしたね。今だって若いけど。
アンデルレヒト時代から、足元はやわらかくフィジカルも強靭!
…などと風評は伝わってきました。文字情報先行型という印象でしたね。
まあ今季からはプレミア、おまけに話題性たっぷりのシティですから。
いやがうえにも彼の映像を見る機会はありそうです。
さてこのコンパニ。背番号的には彼もまたエライ経歴をもっています。
というのは06-07から昨季まで、二年間在籍したドイツはハンブルクでのこと。
CBの彼は、ここでなんと10番を背負っていたのです。
…まあマテウスのいたドイツですから、伝統がいきづいてるのやもしれませんよ?
ただやっぱりねえ。DFラインに10番は見たくないのであります。
そんな彼がシティでつけたのが33番。理由は知りませんが、なぜかホッとしました。
ところが今季のコンパニは、中盤で使われる機会が多いんですよね。
うーん、そのポジションなら10番アレルギーもすくなかった…かな?
そんなコンパニがいたブンデスリーガにも、すぐれた33番が存在します。
彼の名はマリオ・ゴメス。シュツットガルトとドイツ代表のアタッカーです。
まあ彼のことはわたしがとやかく言わずとも有名でしょう。
なんせ06-07には、シュツットガルトでマイスターシャーレを獲得した男ですからね。
夏のユーロは無念だったでしょうが彼は若い。いくらでもとりかえすハズです。
今季も順調にゴールをかさねていますからね。
そのゴメスの背番号が33。これはデビューしてから今にいたるまでかわりません。
ヒヨッ子だった当時はともかくも、いまや彼はシュツットガルトの堂々たるエース。
そういう選手がつけるナンバーは、もっとほかにあるんじゃないの?
…などと思っていた矢先、シュツットガルトの大先輩のことを思いだしたのです。
ユルゲン・クリンスマンについて多く語る必要はないでしょう。
彼はシュツットガルトで脚光をあび、インテルやモナコ、スパーズなどで活躍しました。
そして彼のナンバーといえば18。これまたみなさんおなじみかと思います。
W杯でも彼は常に18番をつけていましたからね。
そんなクリンスマンが、最終キャリアとなった第二次トッテナムで背負ったのが33番。
…まあこのシーズンは途中加入でした。18が空いてなかっただけなのやもしれません。
それにしてもできすぎてるような気がするんですよねえ、すくなくともわたしには。
1+8=9であるように、3×3=9なのかなと。
ゴメスの33がその意味であるとはいいません。先輩に敬意を表するなら18でしょうし。
まあ33の方向性は見えたのかなと。近い将来33番をつける選手に注目してみますかね。
<おまけ>
今回はコレいってみましょう。
…ハイ、単なるダジャレであります。
posted by shousetsu |17:12 |
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