2007年10月21日

早野監督解任?報道と、今季コレまでのマリノスの目標達成度。

菓子杯で負け、リーグでも四連敗・・・・あわせて六連敗・・・
新聞を見れば「早野監督は今季まで・・・」って!!就任した経緯があれだったし、シーズン前に新型スカイラインもらって上機嫌で、写真に写っていたときなんかは「もういいから、辞めてくれ!!」って思ってたけれど・・・
クラブの「転換期」に「攻撃的」なチームへの改革を期待されて、就任した早野監督・・・与えられた戦力の上積みは無きに等しく、連覇の中心メンバーからドゥトゥラ・奥・久保を放出した中でのスタートとなった。プラスアルファは「若手の成長」。かつてコレを掲げて降格争いをした記憶が甦る。マリノスファンとしては、この上なく不安なスタート。降格争いも有り得る!!と思っていただけに、シーズン中に見せたサッカーはいい意味での驚きもあった。

早野監督の攻撃的なサッカーの定義は、「相手にサッカーをさせない!!」というものだった。とにかく前からプレス!プレス!「ハードワーク」はチームの共通認識になっていった。
開幕前にチームとしてのベースとなる部分、持つべき共通のメンタリティとして「素直さ」「オープンマインド」「チーム意識」を掲げた早野監督。ハードワークが実践された事を考えると、これはある程度達成されたと考えていいのではないか?
そして既存のメンバーの再生。若手の台頭という、開幕前に掲げた二本の柱も、前者は達成されたと考えてもいいと思う。
諸刃の剣とも思われたシーズン序盤の松田の扱いは、松田のチーム愛と、早野監督の柔軟性をもって成功に終わる。松田は、今現在もチームの象徴であり、精神的な支柱だということをピッチで証明してくれた。また攻撃サッカーには欠かせない資質を持った選手であることも付け加えたい。
中澤ももちろん柱だと言っていい。黙して語らず、キャプテンマークを巻いた彼は、プロとして必要なものをピッチで表現しようと必死に頑張っているように見える。精神的にも張り詰めていただろう事は、想像に易い。持ち前の明るさもチームにとっては救いだったに違いない。
山瀬兄も、河合竜二も、坂田大輔も、田中ハユマも「サッカーに全てを懸ける」という意気込みを見せてくれたように思う。
それでも来季に戦力としての上積みを保障してくれる若手の台頭は、小宮山ただ一人・・・と言ってもいいくらいに、レギュラーを任せられる若手の台頭は無かった。その小宮山も、ドゥトゥラの穴をある程度埋めていたと僕は思っているが、競争をもって獲得したわけではない。ドゥトゥラの放出が成功だったとハッキリ言えるものでもなかったが、プロ一年目という事を思えば、充分に合格点。今は壁に当たっているという感もあるが、個人的には相馬直樹を越える資質を持っていると思っている。後は、失敗体験や成功体験を自分の成長につなげられるか?が分岐点になると思う。そこで知性を見せれば、日本最高のレフトバックにもなれると思う。
その他は、序盤の斉藤・マイクに長谷川アーリア・・・アーリアは怪我もあったが、マイクと斉藤は、序盤にプロ初ゴール(共にナビスコで)を決めたものの、先発を脅かすこともなく、スーパーサブとしてチームにオプションを与えたわけでもない。期待した乾も、出場機会も少なく、期待の若手という枠を飛び出すことができなかった。個人的には木村和司~中村俊輔~というサッカー小僧の10番の系譜に名を連ねて欲しい!!と考える程の才能の持ち主。今は産みの苦しみだと信じていたい。
そして今現在最も弱いポジションの若手達。山瀬弟に狩野・・・前線と最終ラインを繋ぐべき彼らも、成長したとは言いがたい。弟は戦術に縛られ、ライン際に拘りすぎ、本来の良さが生きていないように思う。また、好不調の波も激しい。狩野はフロントからすれば奥の後釜に・・・と思っていた選手だろう。チームの変化についていけず名指しこそされなかったが、「ハードワークしないから・・・」といって外された選手は恐らく彼・・・今は悩んでいるのだろうが「今は出来る事をする。」だけでは駄目なことも事実。残りの試合で、何としてもチームに変化を付けれられる選手であることを証明しなければならない。それでもこのシーズンが彼らにとって実り多きものになるかどうかは、これからの活躍に懸かっている。

「どうやってこれほどのハードワークを実践させているのか聞いてみたい。」
とは柏の親分、石崎監督。
「今恐らく最もいいサッカーを見せているチーム・・・」
と、オランダの知性フェルフォーセン。
「マリノス対策を考えたまで・・・」
と公式戦で初めてフォーメーションを変更した関塚監督・・・
前線の三人と(坂田・大島・山瀬兄)と最終ライン(松田・中澤)と河合竜二
の資質に頼ることも多かったとはいえ、ハードワークを標榜した前線からのプレスによる「攻撃サッカー」はある程度実現できたと言っていいと思う。それで攻めきることができれば、大量得点も奪えることも実証した。

「例えばバルセロナのようなサッカー」
シーズン前に、4-3-3を実践しようとしたことを考えれば、早野監督の望む選手が与えられなかったことは事実だろう。今の布陣は、持ち駒を最大限に利用する為の当然の布陣と言える。
そう考えれば足りないセクションは明白、得点力とアイデアを持ったウイングと、前線と最終ラインを繋ぐことのできるコンダクター・・・ビルドアップに参加できるサイドバック・・・早野監督はそういうなかで同業者から高い評価を得るだけのチームを、一時的にとはいえ完成させた。
対策を講じられた時の打開策に乏しかったことと、乾やマルケス、狩野といったいわゆるボールプレイヤーを戦術に組み込むことができなかったのは事実だとしても・・・・

それでもフロントは監督を変える!!というのならば、今の形を発展・進化させられる人物を選ばなければならない。そしてそういう人材はあまり多くないのではないか?
チームに縦軸が通るような決断を、フロントには期待したい。

追伸 マリノス神社壊したい(苦笑)

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posted by モーリー |14:49 | コメント(5) | トラックバック(1)
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2007年10月16日

『サッカー』は『スポーツ』に非ず!!

亀田バッシングを、醒めた目で眺める今日この頃・・・
たかだか18歳の青年?に、一般紙や報道番組(いやワイドショーか??)までが批判している・・・うーん・・・僕の趣味ではない。
犬飼発言問題でも感じたことだが、現代日本の人間関係のなんと希薄なことか!と感じられずにはいられない。
勝てば官軍、負ければ賊軍。空気やムードに便乗し、手のひらを返す卑劣漢がテレビの司会者やコメンテーターを務める時代である。そのくせ、ピンチになれば「テレビは公器である!」などと言ってみせるのだから始末が悪い。彼らこそが、同じ穴の亀田である。うーん・・・上手くない!

いやそういう事が言いたいのでは無かった。
僕が非常に違和感を感じたのは
「ボクシングはスポーツだからルールを守れ!」
という言い回しである。彼らはボクサー命を懸けて、人生を懸けて戦っているはずである。スポーツであれば何でも良かったわけではないはずだ。スポーツと言う言葉が、ファッションや健康の為としても使われるこの国においては(この表現嫌い。)決して、真実を浮かび上がらせることは無い。

サッカーにおける「美」に関しては非常に複雑だ。素晴らしい技術も、勝利への執着も、敗北への過剰な拒否も、全ては美しい!!と僕は思うのである。
ルールを破ってでもするいわゆるプロフェッショナルファールは忌み嫌うものでもある。僕としては、醜いと感じることでもある。
ただそれをチームの為の、勝利の為の、自分以外の誰かの為の「責任感」だと感じることもあるのは事実である。そして、僕はそれを「美しい」と感じるのことも告白せねばならない。
理屈ではなく「卑怯者」だと罵られようが、「スポーツへの冒涜」だと後世に語られようが、自分以外への誰かの為に・・・という覚悟があるならば、それは僕にとって美しいと感じるのモノなのである。(選手生命を奪う権利は誰にも無いことは当然として・・・そういうファールは駄目よ!!)

(残念ながら亀田一家にはそれが無いのだろう。彼らにとってはボクシングもただの手段なのではないか?もともと興味が無かったし、これから見ることは無いだろうけど・・・)

上に書いたようなものも、ファンの感情、その土地柄の表現、伝統への畏れも・・・その他全てひっくるめて「サッカー」なのだろう。
クライフもスパレッティもカペッロもモウリーニョも全員がそれぞれの「サッカー」を実践していたに過ぎないのではないか?
サッカーには、その人の人生も、感情も全てが込められているのだろう。また人格の表現をする者たちによって形成されてもいる。日本にも既に「レッズこそ我が人生!!」と思っている人達がいるではないか!!僕が他者としてそれを眺めた時に、それは間違いなく美しい人生なのだ。

恐らくはテレビメディアはそれを理解はしない。彼らは自分の力を過信し、畏れを抱くことも無く、何を消費すべきか?どれが旨みがあるか?探しているに違いない。テレビから日本のサッカー文化やスポーツ文化が形成されることはまず有り得ない。全てはただのブームである。

僕にとって「サッカー」は「スポーツ」ですらない。喜びであり、人生そのものだとも言える。時に、人格の表現であったり、美意識の表明でもある。
テレビがサッカーを蹂躙しようとする時に、僕は何も持たない無力の者でもある。ただ、テレビで映されるサッカーを、今回の亀田騒動を眺めるような目では決して見たくはない。
それがサッカーを愛でる僕の願いである。

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posted by モーリー |22:27 | コメント(12) | トラックバック(0)
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2007年10月05日

超私的告白!!ACLに対する正直な感情・・・

数年前・・・ACLに、我が愛するマリノスが出た頃とは隔世の感があるこの頃・・・

「ACLには、もちろん全力で取り組みます・・・・」
と、岡田監督が宣言してしまわねばならなかったほどに、日本における・・・Jリーグにおける注目度も、優先順位も低かったACL・・・

韓国のチームには、Kリーガーの奇跡のような爆発??で、得失点差で決勝トーナメント行きを阻止され、中国のチームには奇跡のようなクリアと、UFCのような戦いと、機転を利かせた証拠隠滅(テレビに映さない)で、決勝トーナメント行きを阻止された・・・
韓国チームの爆発に、奥歯に物の挟まった言い回しでチクリと皮肉った岡田監督と、中国の地でリンチに遭いかけたアン・ジョンファンと、その密集地帯にこの日一番のフリーランニングで駆けつけた(そのぐらい速かった!)奥大介を覚えているのは、マリノスファンくらいではないだろうか?

これがワールドカップ予選や、チャンピオンズリーグならば「国際問題」に発展したに違いない・・・と、負けを認めたくないマリノスファンの僕は思ったものである。


奇跡のような物語を歩みつつあった(個人的に応援していた)川崎フロンターレは、結局一度も敗北することなく大会を去ってしまった・・・
そして、現在の主役は浦和レッズである。
実力に見合うだけの結果を残し、準決勝まで進んでいる。そして、アウェーの第一戦でも、上々の結果を残している。
みんなが、褒めている・・・
「あの」セルジオ越後も褒めている。
オシムに至っては、
「日本の名誉がかかっている・・・」
「日本中が浦和のACL優勝を望んでいると思う・・・」

・・・・僕はすかさず「浦和の名誉だろ!!」とすかさず突っ込みを入れ、「俺は望んでいない!!」と、反射的に思ってしまった。
最近問題発言をした人が「Jリーグのサポーター」という言葉を発明したが、やっぱり「レッズ頑張れ!!」とは、単純に思えない。
達也のゴールはオフサイドだった・・・と言いたくなるし、ズルズルとラインが後退してしまうサッカーは日本のサッカーではない!!とも言いたくなる・・・ハッキリ言ってただの「嫉妬」である。
来年のACLの出場権が「ほぼ」絶望的なだけに、その気持ちはなおさら強くなってしまう。(天皇杯の勝者が翌年のACLに出るというのは本当にどうにかして欲しい!)

しかし人間とは不思議な生き物でもある。あれほどにレッズには勝って欲しくない!!と思っていたのに、「Jリーグのサポーター」という言葉を鼻で笑っていたのに、いざ試合を観戦(もちろんテレビ)すると、「やっぱ負けるな!!」(いや、「とりあえず勝っとけ!」かも)
と思っているから不思議である。

この何とも言えない感情は一体なんなのか??
アジアカップで、サウジアラビアの記者が言っていた事を思い出す。
「日本の記者たちは、Jリーグがアジアで最強だ!と言っているが本当なのか?攻撃に怖さが全く無かった。」
これは日本がサウジに敗れた後に記事として書いたものである。いかにも、コンプレックスのある感じではあったが、イラッときたことを覚えている。恐らくは、記者同士でもやりあったのだろう。あまりにも私的な感情が込められているように感じた。とはいえ、Jリーグを戦うマリノスまでコケにされたような気がして悔しかったと、サウジのリーグ戦を見たこともないのに思ったものである。

僕はJリーグのサポーターなのか?それとも無自覚なナショナリストなのか?
どちらも違う。
僕はマリノスファンでしか有り得ないし(サポータと呼べるほどにはサポートしてないという意味で・・・)、ナショナリズムが必要な時は自覚的でありたいと思う(決して自然に湧き出る感情ではないという意味で・・・)。
やはり「Jリーグの名誉の為に・・・」という言葉がしっくりくるだろう。自分の愛するチームが所属しているリーグである。アジアで最強であったほうがいいに決まっている。

それでも・・・やはり僕は「レッズ頑張れ!!」とは言えないのである(笑)
この悔しさも嫉妬も、マリノスを応援するパワーになるのだろう。
Jリーグの歴史も、物語性も確実に積み重なっている。こうやってサッカーやその文化は発展していくのだろう。

そういう意味では、「Jの名誉」を背負っている浦和レッズの背中を(とりあえず)押したい気持ちにもなる・・・
ただそれでも「レッズ頑張れ!!」とは言わないほうがいいのだろう。自分に渦巻いた感情を思うと、それが正解ではないか・・・と決め付けてしまったほうがよさそうである。

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posted by モーリー |20:39 | コメント(23) | トラックバック(1)
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2007年09月29日

『ベストメンバー規定』問題で思うあれこれ・・・運よく問題提起になったが・・・

たくさんの人達がこの問題について書いている。そしてその印象は、僕の第一印象とほとんど変わらない・・・
簡単に言えば
「何故?JFAのお偉いさん方が、首を突っ込むのか??」
「ベストメンバーって・・・あなた方が決めることなのか??」
「サポーターの気持ちを代弁してなんかはいない!!」
「そもそもベストメンバー規定なんていらない。」

至極まっとうな意見だと思う。
ただ僕なんかはベストメンバー規定を、日本に出稼ぎに来る多くのチームにだけ適用して欲しいと思う(笑)
それでも彼らは、CLやリーグの試合ほどは走らず、玉際も激しくプレイしないだろう。むしろレギュラーメンバーとかトップチームの当落線上の選手達のほうが、頑張る。そして、そのほうが結果が出る・・・という考え方ももちろん成り立つ。
そして優先順位を持たず、全ての試合に全力を尽くせ!と規定を作ったとして、決勝戦ほどには走れないのも、(プロ精神とは別に)当然でもあるように思う。そんな規定は空理空論にすぎない。理想論とさえ言えないのではないだろうか?
本当に誰かが死ぬまで、この規定やこういう問題はなくならないのだろうか?だとしたら、JFAの方々は、人間やサッカー、クラブ・サポーターを理解していないだけではなく、本当に多くの信頼を失う組織になってしまう。
そうならない為にも、今各所から上がっている多くの声に耳を傾けるべきであり、もう一度この規定を整理して考えるべきである。
「なぜ?」この規定が必要なのかを真剣に考えて欲しい。


それだけならば、すでに多くの人が語っている問題でもある。
それでも、この問題の原因が明らかになってくるにつれ、思うこともある。

武田社長が上手く振舞っていれば、何も問題はなかったのだ・・・と、聞けばJリーグの専務理事の犬飼さんと、武田社長は先輩・後輩の関係があるらしい・・・
もちろん犬飼さんは、Jの総意としてチャーター機を出したのであろうし、Jの代表としてACLに参加している川崎フロンターレは、その待遇を受けるのは当然である。(優先順位を決めてはいけない規定を作っている側の理屈としては矛盾があるが)Jの総意として、そろそろ本気でACLを獲りにいこうよいう決意の表明としてもいい決断だったように思う。

そしてJを何より大事にして欲しい!!というのは犬飼さんの立場からすれば当然でもある。その思いを受け取って欲しいのもあっただろう。
もちろんそれが、ジュニーニョや憲剛を先発として使うことではないのは上でも述べたとおり・・・
それでも武田社長が一言
チャーター機を飛ばしてくれたことを挨拶程度にでも感謝し、柏戦のメンバーがベストであること・・・Jへ中東の往復の過酷さをコンディショニングの観点から報告して還元し(もちろん企業秘密は隠してもよい)、『Jの代表』としてベストを尽くしていることを、柏戦の前に報告&提案&強調していればこんなに煩わしく、醜い問題は発生していなかったのではないか?(ただ間違いなくいい問題提起になった)

もちろん先輩・後輩としてではなく、Jの代表と川崎Fの代表として話せば良かったのである。

それにしても犬飼さん、多くの人が居る前で怒鳴りつけたと言うし・・・
武田社長をはじめ、フロンターレの事務方たちが、最低限のビジネスマナーや危機管理を欠いていたかもしれないとはいえ(どんな間抜けな規則も、規則は規則であると言う事と、提案は違う場所でも出来るという意味で・・・)、組織の上層部に居る者の発言としては、お粗末極まりない。
その怒りが、全く理解できないものではないにせよ、ほとんど理不尽な怒りを根拠に、昔の上下関係を持ち出して、叱責するなどとは(そうでなければもっと問題。)、組織を束ねるものの振る舞いとして、圧倒的に不適格である。仕事の優劣以前に、その資格を問われてしかるべきである。


追伸 ACLに出ているチームが羨ましい!!そして、面白い!!本当にそう思うようになった。それは歴史の積み重ねなのかもしれないし、Jやその関係者達の努力の賜物かもしれない。
JFAやJリーグは、この大会をもっと魅力あるものにする為に、出来ることをして欲しい。出場枠についても話し合って欲しいし・・・


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posted by モーリー |20:05 | コメント(8) | トラックバック(1)
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2007年09月23日

最高の『ポリバレント』は、サッカーの『スペシャリスト』である。

アジアカップの敗戦を機に、「個の力」や「スペシャリスト」がクローズアップされるようになってきた。いや、もっと前から日本では言われていることでもある。
多くの元・有名選手や、著名な解説者もそのように言っておられる。
「個」については以前に語ったとおり・・・http://www.plus-blog.sportsnavi.com/samurai103/article/40

今回は『ポリバレント』と『スペシャリスト』を考えてみようと思います。
その前に、(マルチロールやユーティリティとは違う)ポリバレントなる「概念」を持ち込んだ現代表監督のイビツァ・オシムの言葉を少し紹介したい。
「現代サッカーでは、様々な能力が要求される。それゆえの『ポリバレント』であって、これは私の発明ではない。」
そして選手の配合においてはこのように語っている。
「個人的には、FWしか出来ない選手が一人、センターバックしか出来ない選手が一人・・・それ以外は、何でも出来る選手で構成されるのが理想ではある。」

『スペシャリスト』とは言わずに、~しか出来ない選手・・・と語っているのは興味深い事実である。そして、それらの選手が必要だと感じていることも・・・

リッピ・ユーヴェが体系化したマルチロールとも違う、たくさんのポジションを任せられるユーティリティとも違う、サッカーにおける『ポリバレント』とは、どのように解釈すべきなのだろうか?
それを理解する為には、そもそも現代サッカーとは何であるか?を理解してみせなければならない。と僕は思う。
それさえ理解すれば、ポリバレントが決して「器用貧乏」や「武器のない選手」と映ることはないのだと思う。
僕のポリバレント解釈は簡単に言うとこうなる。
ピッチの何処にいても正しい判断が出来て、それを可能にする技術と身体能力を兼ね備え、正しいポジショニングを取り、それを可能にする持久力を持っているタレントこそが、最高のポリバレント・・・と言うことになる。そして、そんな選手がいれば間違いなくサッカーのスペシャリストであると言えるだろう。

しかしながら、そんなタレントは世界中探しても居ないだろう。
それでもレベルの違いこそあれ、そういう要素を兼ね備えた選手は、特にモダンなサッカーを標榜するチームのピッチ上には必要であると僕は思う。
そして最高のポリバレントは今後も出てこないように思われる。(それを目指す必要はあるにせよ)それほどまでに、考えるスペースも時間もピッチ上には残っていない。次々に、ポジションを移動し、なおかつたくさんの選択肢を用意するのは、ほとんど不可能ではないか?とも思えるほどである。
何がミスで、何が意図的で、何が効果的か?テレビで見ていても見逃してしまうことすらある。録画している試合では、繰り返し見てようやく気づくこともある程である。

それ程過酷な現代サッカーだからこそ、求められるポリバレントでもある。
例えば、中村俊輔はある時にはFWにならなければならず、ある時にはサイドバックの位置でボールを奪わなければならないかもしれない。
例えば、世界最高のサイドバックとも称されるダニエウ・アウベスが出没するポジションがサイドに限定されないことを思えば、日本のサイドバックの選手達もまだまだ伸びしろが有るのかもしれない。
ローマのスパレッティが、ペロッタをいわゆるトップ下に置いている事を考えてみれば、技術やイマジネーションだけが攻撃力を生むのではないと理解できるかもしれない。

だからこそ、現代サッカーとは『ポリバレント』なタレント達で構成されなければならない・・・とは言い切れないのが、またサッカーの奥深さなのだと思う。
事実上サッカーにおける最高の『ポリバレント』は不可能ではないだろうか?と書いたばかりである。
例えば、得点のみを狙い続けるフィリッポ・インザーギは『スペシャリスト』を考える上での最高のテキストである。
ダバディ曰く
「インザーギは、柳沢よりずっと下手・・・(技術がない)」
と言わしめるほどの技術しかなく、ポストプレイや、ビルドアップの参加、前線での守備を「アリバイ程度」にしかこなさない彼が、現代サッカーにおいても輝き続けられるのは何故か??
それは「得点を決めてきた」という結果だけを語るのでは充分ではない。
あれほどのハードな運動と並行して、たくさんの選択肢を持ちつつ、「速く」判断することは不可能であることの証明でもあるのではないだろうか?
ただ得点だけを目指し、いかにしてDFを欺くか。いかにして味方からいいパスを引き出すか?相手の思考を思い、味方の思考を思い、相手の視野から消え、味方の視野に入り、どんなタイミングでボールを要求し、どちらの足で、どのタイミングで打つのか??
恐らくは、インザーギは恐ろしいほどのスピードで様々なことを考えているはずである。
それをチームの為のスペースメイクや、ビルドアップを考えながら行うのは不可能とも言える。

そして、その為だけに「サッカー」を生きる者と、様々な要素を考えつつ「サッカー」を生きる者とでは、その判断一つに精度やアイデアの差が出て当然だとも言えるのではないだろうか?
そしてそれ程の「特別な」能力があれば、いかに整備された組織であろうとも打ち破り得るのだろうと思う。

理屈の上では、『ポリバレント』で構成するサッカーは可能である。実現すれば、この上なく美しいだろう。しかし、それはほとんど不可能である。
そして現代サッカーでは、『スペシャリスト』だけで構成する事を許してはくれないだろう。(成り立たないという意味で・・・)
しかしながら、だからこそ『スペシャリスト』は、組織を壊す武器になりうるのだろう。

これはどちらが重要か?という二元論では語りきれない問題でもある。


サッカーは、様々な矛盾と対立のスポーツ・・・とは西部謙司さんの言葉である。

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posted by モーリー |15:20 | コメント(9) | トラックバック(1)
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2007年09月18日

『技術』と『予測』のフィジカル論!!~世のお母さん見てください!!~

日本人はフィジカルが弱い!!
というのがもはや当たり前になりつつある昨今・・・

フィジカルとは何ぞや??と思わないこともなく、スタミナやアジリティはフィジカルではないのか??と思わないこともないのだけれど・・・

ここでは「いわゆる」フィジカル・・・日本人が弱いとされている、当たりの強さやパワーについてしっかりと想像力を働かせて考えようという、無茶な試みでございます。

外国人に言わせると「ちょこまか」と動く日本人は、それなりに脅威であるらしい・・・
それでも彼らがフィジカル・・・当たりの強さで優位に立っているのは否めない。またプレスに対する感じ方も違うようだ。
日本人が国際試合を戦えば度々洩れる感想・・・
「プレッシャーが激しかった。」
しかしながら欧州や南米からJリーグに来る選手の感想の一つとしてこういうものがある。
「次々に選手が沸いて出てくるような感じがする・・・また、ディフェンスがしつこいのでドリブル突破もしづらい・・・」(川崎F・ジュニーニョ)

うーーん・・・納得しづらい・・・

またセルティックで活躍する中村俊輔は、首脳陣から
「一体どのようなトレーニングを積んできたのか??」
とアカデミーにそのノウハウを蓄積する為に、ヒアリングを受けたらしい・・・去年少し話題になった運動量とともに、彼は類まれなるバランス感覚を有しているらしい。
ルマンの松井大輔は、神経系ではチームトップの数字を叩き出しており、それがルマンの人々を驚かせる技術の下地になっているのだろう。
彼の課題であるコンスタントさ・・・を考えれば、疲労に影響されやすい神経系が彼の優位部分であることは、至極納得である。
フランクフルトの稲本は、ドイツで最も重んじられる1対1で、その持ち味を充分に発揮し、チームに貢献している。日本よりも遥かに激しいとされるブンデスで・・・である。

確かに彼らは紛れもなく日本のトップ選手たちである。そうであっても、この事実は興味深いものでもある。
そういえばスペインはマジョルカから帰還した大久保嘉人は、日本のサッカー・・・Jリーグのサッカーにフィットするのに半年くらいかかった。
スペイン帰りの彼の感想は
「サッカーが速く、運動量が多い・・・」
であったような気がする。リーガのDFに耐えうる為に身に付けた鎧は、日本では重たくなるだけで、無用の長物だったらしい。

いつかのセリエAで中田英寿と、中村俊輔がピッチで交した言葉はこうだったらしい・・・
「ヒデさんは、フィジカル(トレーニング)やってるんですか??」
「今はあまりやってないよ!!体が重たくなるから・・・」
「僕もキレが無くなりそうで、あまりやってないんです。」
「そのほうがいいよ!!ここでやってれば自然とつくから。」

前置き??が長くなった・・・
日本サッカーの日本化が叫ばれて久しい現在・・・やはり日本人が有している特徴を全面に押し出すサッカーが、日本のサッカーだと言うのならば、やはりフィジカルの優位性も多少は考慮する必要がある。
曖昧な言い方で恐縮だが、そういう意味では「キレ」と「ミドルパワー」こそが日本の特徴だと言っていいのだと思う。そしてそれが戦術や戦い方に繁栄された時に、また日本化は一歩前進するのだろう。

しかしながら、相手は相手の優位性を押し出してくるだろう。
そしてそれからは間違いなく逃れられないのが「現代サッカー」であり、もっと言うならばたとえ技術と判断でそれをすり抜けたとして、『ゴール前』では必ず逃れられないのが「サッカー」である。

ここでようやくタイトルにある「技術」と「予測」のフィジカル論。
例えば、日本人選手と変わらないような体格を持つアルゼンチン選手は、なかなか倒れない。それは国際大会を初めて体験する日本人選手とは、随分違っているように見える。
僕がその単純な見た目の違いよりも目を見張るのは、相手の力を利用する「技術」であり、腰を低く構えたり、死角から当たって来る相手に体を預ける「予測」である。彼らはそれをサッカーに必要な「技術」の一つとして、まさに「体得」しているのである。

日本人としては立派な体躯を誇った中田英寿はこう語っている。
「相手が来る!!とわかっていれば大抵耐えられる。そういう覚悟・・・絶対に倒れない!!と構えていれば、大抵耐えられるものだよ。」
そして日本に来てからFWに転向し、得点を量産するジュニーニョはこう語る。
「多分慣れた事が大きい。最初はついて行けなかった部分もある。僕は日本に来てから成長したんだ!!」

思えば僕の好きなディフェンダーは大きくない選手が多い。
プジョル・キブ・アジャラ・コルドバ・・・・
そして日本人もあまり大きくない。
プジョルの間合いや、アジャラやコルドバの体の預け方を学ぶことが出来れば、日本サッカー界の弱点はやがて、弱点ではなくなり、相手の嫌がるものにすら成り得るだろう。

解決策は難しい。
審判の協力も必要だろう。JFAはFIFAルールに則って、審判の基準を設定しているらしいが、それも考え方一つなのかもしれない。簡単ではないが、優位性と、弱点を補ってしまえるような基準や考え方に挑戦して欲しい。
例えば、ボール保持者の体勢でファールか?否か?を決めるのも悪くないのかもしれない。
また、若年層でサッカー以外の競技を体験させるのも悪くないのかもしれない。ラグビーや柔道、果ては古武術まで・・・ヒントは転がっていそうではある。ちなみに、競り合いに強い巻はアイスホッケー経験者で、卓越したコーディネーション能力を持つ福西は体操経験者らしい。

僕は基本的には、機械や器具を使ったフィジカルトレーニングは補足程度に留めるべきだと思っている。体は膨らんでも、実際に使えているかは疑問であるし、実際に耐性のない筋肉にしかならない・・・というのが経験上の感想である。
体幹を鍛えるにしても、実際には体の重みを使ったもので充分である。
何よりも実際の動きの中で、トレーニングをしたほうが遥かに実践的である。そして体がいかに動いているか??という意識のもとでトレーニングすれば、必要な筋肉は自然と身についていくものである!!と僕は考える。集中なき反復もまたよろしくはない。

そしてこのフィジカル論の核は、何から目線かわからない僕からの、世の中のお母さんがたへのお願いとなる。
今の社会が危険なのは充分にわかる。そして子育てほどの重労働はないと知りながらお願いしたいことがある。
とにかく子供を外で遊ばせて欲しい。おもちゃもあまり与えずに、テレビもあまり見せないで欲しい。
スポーツする為に、特にサッカーに必要な神経系は、幼少期が肝心らしい・・・そして健全な魂は健全な肉体に宿る・・・とは昔からの格言でもある。お母さん頑張ってください!!
そして「クラブ」に出来ることもあるだろう。地域の結束も、お母さんの負担を少なくするに違いない!「クラブ」も「J」もまだまだ出来ることはあるはずである。
そして当然、お父さんも頑張らなければならない。

僕はいい選手を見るたびにこう思う。君のお母さんは立派だ!!

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2007年09月09日

世界でたった二人の『サイド』の選手・・・加地と駒野は素晴らしい!!

加地や駒野はサイドの選手らしい・・・
サイドの選手はスペシャリストでないと駄目らしい・・・
そしてテレビでも文句言われて、ここのブログでも文句言われている・・・

きっと僕が馬鹿なのだ!!そうに違いない!!
だって僕には、言っている事の意味がわからないのだから・・・

僕は彼らのことはディフェンダーだと思っていたのに、ドリブル突破と、クロスの精度を求められている・・・確かにあったほうがいいに決まっている。でもそんな選手が世界に何人いるのだろうか??

日本代表のサイドは、加地と駒野らしい・・・
僕はてっきり、加地と駒野と俊輔と遠藤だと思ってしまっていた。
加地と駒野のポジションはピッチの端から端までカバーするというポジションらしい・・・そしてそのポジションは「サイド」と言うらしい・・・知らなかった・・・

そして加地と駒野はスペシャリストでなければならないらしい・・・
そしてそのスペシャルな能力とはドリブル突破と、クロスの精度らしい・・・
僕は間違っていたらしい・・・加地や駒野はポリバレントなタレントで、守備の時に間違いが少ないから起用されていて、さらにディフェンスの選手としては水準以上の攻撃性能を持っているからだと思っていた・・・
最近ではサイドの選手の優先順位は攻撃性能が優先されるらしい・・・オシム監督は何故?水野と家長をトゥーリオと中澤の隣に置かないのだろうか?ファーガソンは何故?ギグスとC・ロナウドをビディッチとファーディナンドの隣に置かないのだろうか??
そうか!!彼らはいくらスペシャルな能力を持っていても『サイド』は務まらない・・・だって『サイド』の選手は、ピッチの端から端まで、カバー出来なければならないのだから・・・
だったら世界中をさがしても他に『サイド』の選手はいるのだろうか??僕は知らない・・・

そうか!!とにかく攻撃が好きな人たちに違いない・・・1-0で勝つよりも4-5で負けたほうがいいと思っているに違いない!!えっっ!!とにかく結果だ!と言っている??難しい話は僕にはわからない・・・けれどボールが奪えなければ攻撃できないことも知っているし、サイドバックは随分と前に走っていかなければ攻撃できないことぐらいは知っている。

彼らを『サイド』と呼ばないで欲しい。そもそも『サイド』なんてポジションはないし、現代サッカーでサイドのエリアを一人でカバーしているチームなんてない。
サイドのスペシャリストを置かないミランも、そこを二人でカバーするメカニズムを確立している。

彼らは現在の代表に欠かせない選手達である。
事実彼らはこのチームで重要な役割を果たしている。守から攻への切り替えが早く、高いポゼッションを可能にしている。
ボール回しが、手詰まりになれば逆サイドで待ち構え、ボール回しの休憩地点となり、組み立てなおす為の時間を稼いでいる。
ボールを失えば後に広大なスペースを空けていることを知りながら・・・
そして素早いリトリートで、センターバックがサイドにつり出されるのを見事に防いでいる。あのスピードで駆け上がり、同じようなスピードで戻る時もある。目の前にフリーの選手がいれば、素早いプレスもかけている。
僕ならば、5分と持たずに乳酸だらけの体になって痙攣を起こすだろう。
そしてなお、アタッキングゾーンでのフリーランニングでチームの攻撃のスピードを上げているのである・・・

彼らほどチームと勝利に忠実で勤勉に走り続ける選手が槍玉にいつも挙がるのが不思議である。

僕は彼らを誇りに思う。

ただオシムさん・・・・ハユマと小宮山も本当にいいですよ!!

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posted by モーリー |20:08 | コメント(43) | トラックバック(0)
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2007年09月04日

たまには「戦術」を語ってみる。~個人的「現代サッカー」解釈~

日本のサッカーは「守備の文化」がない・・・
と言われている。
ドイツワールドカップでは二度の逆転負けを喫し、先日のU-20、U-17の世界大会では、いずれも最後は逆転負けで大会を去った・・・
国際大会での日本は、逆転負けを演出する側に回ってしまっている。

どういう守備が日本人の特徴に合致しているか?を考える上で「守備の文化がない」・・・という言葉は邪魔なだけであるし、「リアリズム」がない・・・と言ってしまうだけでは、あまりにも乱暴な気がする。

冷静に考えて、日本が選択すべきは極力ラインを下げない守備・・・だと僕は考える。
そうであっても、サッカーは相手のあるゲーム、ラインを一度も下げずにゲームを終えるのは不可能である。そのときに僕が必要だと考えるのは「攻撃的精神」である。
Jリーグと海外のリーグを見比べて一番感じるのは「ボールに喰らいつくシュチュエーション」の数の違いだと思う。
それは「悪しき先送り」だとも呼べるもので、結局は相手がゴールを決めるか、シュートやパスをミスするまで相手の攻撃が終わらないことを意味しているのではないか?
最終ラインに殆どの人間が吸収されて、バイタルスペースを空けてミドルシュートを連発される光景・・・
あまりにも攻撃が出来ない時間が多く、ずるずると下がってきてしまうFWの姿は、現在の日本のサッカー界に共通する問題であるとも言える。
「受けない守備」・・・「攻撃的精神」を貫く守備の出来るチームは、日本にはそう多くはない。
全くのフリーであるにも関わらず、大きくクリアをするだけの守備も世界のトップ10を目指す日本が忌み嫌うべき現象である。

あのイタリアのACミランでさえも、守りきろうとしても守りきれないのが現代サッカーであるとも言えると思う。
昨年のCL優勝は、受けに回らず、攻撃的な守備を貫いたからだとも言えるのではないか?
全てのケースで当てはまらないにせよ、攻撃の得意な選手に変えて、守備の得意な選手を交代で入れることは、必ずしも「守備固め」や「逃げ切る」戦略にならないことは、既に証明されていることでもある。

ただボール保持者に、守備者がボールに喰らいつくことの出来ないシュチュエーションも存在する。
一人で膨大なスペースをカバーしなければならない時、ボールを持った選手に多くのスペースを与えられている時、数的不利になった時・・・・
そうはならない為の「リスク管理」や「コンパクトフィールド」こそが必要不可欠である。

リスク管理に関しては、サイドバックやアンカーや中盤の選手の知性に懸かっていると思う。
相手の手薄なところを攻める・・・という共通理解がなされている限りは、このうち誰が最前線まで駆け上がっても構わない。ハッキリとした動きは逆にリスクの所在地を明確にする。そしてそれは縦へのスピードをチームにもたらし得る。
コンパクトフィールドを実践し続けるのは非常に難しいが、理屈の上では可能でもある。どのポジションの選手もそれを実践する為の体力が求められてもいる。
コンパクトであることは、別にラインの高低を意味はしない。重要なのはボールに喰らいつくシュチュエーションを作り出すことだ。一発でかわされるかもしれない・・・というのは守備者からすれば、大変な恐怖だとも思う。そういう事態に陥らない為の、保障でもある。
ラインを上げるべきだとしたのは、日本サッカーが倒していかなければならない相手の優位性を消す為でもある。

その守備を実現したとしても、押し込まれる場面は必ず出てくる。
そしてその脱出方法こそが実は鍵でもある。
守から攻への素早い転進、一番小さな局面でのフリーランニングによる数的優位の確保、簡単にクリアをしないという共通理解、そして厳しいボールを自分のものにする技術・・・裏への大きなパスや、それに対する走り込みも一つの手段(最後の手段)でもあると思う。

「精神的守勢」に陥れば、相手の前進を許し、相手の攻撃の時間を長くするだけでもある。攻守が入れ替わっているにも関わらず、足が止まっている場面が多く見られるのが、その証明でもある。

そういう訳で「攻撃的な守備」こそが日本のサッカー界が目指すべき道であるのだと僕は思うのである。

そしてコインの裏表と同じで、攻撃にもいい影響を与えるはずだ。

ボールと戯れているだけだ!!と言われがちな日本選手の技術も、応用を経て、より実践的なものになるのではないだろうか??



うーーん・・・文章として大丈夫だろうか?と思いつつ・・・

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posted by モーリー |11:12 | コメント(15) | トラックバック(0)
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2007年08月29日

リアリズムと相容れないジャポニズム。

「日本の選手達は、冒険に臨むような面持ちで自国開催のワールドカップに臨んでいたのではないか?私から見れば非常にナイーブだった・・・ヨーロッパの基準で見ればリアリズムが足りなかった。ただ、その純粋さはヨーロッパの人間を感動させるものでもある。」
エキセントリックなフィリップ・トルシエの通訳として活躍したフローラン・ダバディの言葉である。

ヨーロッパ人は、美しさの中にとげのある「薔薇」を愛し、日本人は咲いたままに散りゆく「桜」を愛するという。
ダバディはこの違いに深く頷きながら聞き、後に上記の言葉を穏やかな笑顔を携えて語った。
(番組名も正確な言葉も思い出せない・・・でもニュアンスは正しいはず・・・)

印象派の勃興・・・かつてヨーロッパ文化の新たなる潮流に大きな影響を与えたのは日本の文化である。技術を突き詰め、写実性に富んでいた当時のヨーロッパ絵画・・・そこに骨董品の包み紙として使用されていた日本の絵画に出会い、やがて浮世絵と葛飾北斎に出会う。左右非対称や色使い、独特の遠近法の表現技法は驚きをもってヨーロッパに迎えられた。
ジャポニズム・・・ヨーロッパでの一連の日本文化の流行はこの「ジャポニズム」という言葉を生み出し、やがては印象派の誕生に結びついていったらしい。

僕は文化史や芸術史に詳しいわけではないけれど、肝心なのは今よりも遥かに「差別」や「蔑視」の激しいヨーロッパで、日本の文化がこのように迎えられた・・・という事だ。逆を言えば、ヨーロッパ人の文化に対する構え方や、それを文化の進歩に結びつける貪欲さは、僕の尊敬するところでもある。


「結果こそ全てだ!!」と言わんばかりの悪しきリアリズムを、僕は忌み嫌う。「勝利の為に人間性を放棄せよ!!」という狭量さを僕は忌み嫌う。
サッカーの世界でも、「リアリズムが足りない・・・」という言葉はよく聞かれる事でもある。
体格的に不利な日本においては、「引いて守る」という選択肢は無謀そのものでもある。もちろん相手のいること・・・引いて守らなければならない場面があるにせよ・・・そのリアリズムを求めている割に、日本のサイドバックは単独突破と正確なクロス、限界しらずのタフネスを求められている・・・そんな選手は世界を探しても片手ほどしかいないにもかかわらず。
日本のサッカーは、「綱渡り」のサッカーでもある。引いて守る・・・というコンセプトを、優先順位の最上位に置くことはあり得ないと僕は思っている。
まず考えるべき事は、人数をかけて強引にでも押し込んでくる相手をどのようにして押し下げるかであり、ポゼッションの時にいかにしてリスク管理をするかでもあると思う。
それは既に多くの指揮官が実行していることでもある。そして観る側はそのコンセプトを共有し、コンセプトを実行する為の負の部分に焦点をあて、その局面を切り抜いての批判など自分の無理解をさらけ出すことだと知るべきである。それはリアリズムを求めることと断じて違うのだと僕は思っている。

ダバディはこうも言う。
「ルールの運用や、マリーシア・・・そういうものを活用して欲しいと僕は思っているのだけれど・・・そういう意味では、日本の選手達はナイーブ・・・ただそれは、感動を呼ぶナイーブさでもあると思う。日本の選手達の生きる冒険は、確かにヨーロッパに足りないものでもある。」
ダバディは「薔薇」を愛する自分を吐露しながら、「桜」の美しさに魅入られている自分の感情をこう表現する。


日本のサッカー界は、本格的に歩みをはじめたばかり・・・だとも言える。Jリーグの特性の定義づけも、日本サッカーへの共通理解もまだ先のことだとは思う。
そうだとしても、日本のサッカー文化は世界の何処とも違う「ジャポニズム」として世界に発信するべき文化になるべきだと僕は思っていたい。
勝つためのシステムが優先され、勝者の為のシステムが構築され、コマーシャリズムに毒され、マネーの力に凌駕されているのが、現在のヨーロッパサッカーであるならば出会うべきは、将来に僕たちが手にする「日本のサッカー文化」であるのかもしれない。

日本が本当に手にすべきは冷徹なリアリズムなどではなく、『物語』を次々に紡ぎだす『日本のサッカー文化』であるはずなのだと僕は思う。

(親愛を込めて敬称略)

追加:歴史(順番)に誤りがあるという指摘がありました。もう少し調べて、追加を付け加えますが、論旨は変わらないので記事はこのままアップしておきます。無知なのに見切り発車・・・申し訳ございません。
歴史の記述は、ヨーロッパの芸術に日本の文化が影響を与えたことが重要・・・というくらいで見て下さい。


追加の後の修正・・・そして追記・・・

無知は恥じである・・・そして僕は無知であり、無恥である・・・恥を隠す為にいかにして、お茶目な奴だから許してやろう・・・という雰囲気に持っていこうか?とも考えたのですが(もちろんウソです。)、全面的に救いようもなく、僕がいかに浅はかな人間であるか?の表明をしてしまいました。
何より結論を出しうるだけの知識もなく、結論を出していた事こそが、最大の誤りであった・・・のだと思います。
事実関係の誤り(勘違い)を修正した本文はこのままにして(無知を自覚しておく為に・・・そして日本の一般的な認識として)、追記として書き加えます。

印象派に影響を与えたという「ジャポニズム」・・・という括りは恐らくは日本人の傲慢である。
事実、専門家の見方として、その技法に「共通点」は無く、むしろ写真技術の登場こそが決定的な要因であった!!というのが印象派を生み出した土壌を持つ欧州のスタンダードな美術史の認識であるらしい・・・
そして「歴史」が、事実関係の積み重ねや、検証の積み重ねである以上、そして技術的な共通点が無い以上は、正しい美術史はそちらだと言うしかない。

それでも僕はこうも思ってしまう。印象派を生み出した天才達が、ジャポニズムの天才達に刺激を受けたもかもしれない・・・そして、印象派の天才達の表現の動機の片隅に、日本人の存在があったのなら僕は満足である。
その葛藤を超克して、印象派はより良いものになった・・・とは言わない。それは傲慢でもある。
そうだとしても、ヨーロッパと日本の天才達が刺激しあっていたのかもしれない・・・という事は、歴史と違う「物語」として付け加えておきたい気がする。

所詮僕は庶民である。そうありたいとも思っている。
だから僕が絵画を見るうえで重要なのは、表現の動機や、作品に込めた感情だったりする・・・それを想像してみるのは至上の娯楽でもある。
たかが庶民が、技法を語り、受け売りの表現を使ったりするのは、僕からすれば見苦しいのである。(専門知識をもって技法の素晴らしさを語れるのはもっと素晴らしいのは言うまでもないww)

近代や国家という概念が生まれる遥か昔・・・日本の識字率は世界一だった。
みすぼらしい着物から、紙と筆を取り出し、絵を描いてみせる日本の庶民に、外国の使節団はすごく驚いたらしい。

日本の文化は大衆文化でもあるといわれる。
日本の庶民が望むサッカーが実現され、それがヨーロッパのサッカーの天才達や理想主義者たちに、爽やかな風を吹かせられるのならば・・・
それはやはり誇るべき「ジャポニズム」に違いない。

追伸 追記を書く為の動機を与えてくれた、拙い僕のブログにコメントをくれる人に感謝を捧げつつ・・・

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posted by モーリー |15:39 | コメント(26) | トラックバック(0)
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2007年08月21日

監督の『創造力』。

「理想」と「現実」は違う・・・これは当然そうなのだろう。
ただ理想なき現実も、現実なき理想もあり得ない・・・個人的にはそう思う。
どちらが先でもなく、どちらも大事なのではなく、どちらも必ず存在するものだと僕は思っている。

「監督としての自分はリアリストである・・・」
日本代表の現監督であるイビツァ・オシムはそう語る。
「ロナウジーニョがいないからといって、攻撃的に振舞えない・・・というのではいけない。それを言い訳にしてはならない。そこは監督の創造力・・・とも言える。選手がいないからと言って、つまらないサッカーばかりしていたら、誰もスタジアムに見に来なくなる・・・」
そして違うある時にこう語っている。
「千葉に来て驚いたことは、負けても『次、頑張れ!!』と言ってくれること・・・日本の人たちは勝利だけを見に来ているのではない。と感じた。」
これを「勝負に甘い」と言わないオシムはロマンチストだとも言える。少なくともサッカーそのものに対しては理想主義者かもしれない。
こういうある種ナイーブな「理想」は、いずれ日本が力をつけた時、世界のサッカーに突きつける最大の武器になるはずだ!と個人的には思っている。(これは、サッカーはエンターテインメントだ!というのとは違うが、この話はまた今度・・・・)
(「」内引用:僕の記憶なので不正確かも・・・)

オシムは「集団」と「組織」を使い分けて話す。そして、
「最高の組織サッカーはバルセロナだ。」と語る。
彼らはもちろん上手い。抜群に上手い。でも上手いだけではもちろんない。彼らは味方を信じて走る。スペースをつくる為に、ボールを受ける為に・・・そしてそれは二手先、三手先を描いて走っている。その走りは創造的でもある。
ボールを送る側もしかり、フリーだから渡しているわけでも、プレッシャーを受けたからでもなく、しっかりと「意志」がボールに込められていると感じられるパスを出す。そうでなければキープしてみせる!という責任感あるプレーだともいえる。彼らは紛れもなく最高の『組織サッカー』の一員でもある。
それは彼らの技術の結晶とも言える。そしてその「技術」は天からの授かりモノ・・・とばかり言い切れないのではないか?と諦めの悪い僕は思ってしまう。その「意志」の蓄積が彼らの技術を支える「知性」を生んだのだ!と断言したくなる。
つまり「組織」とは、人間(選手)を組み込むものではなく、人間そのものが構築するもの・・・
そういう原点をプレイする側も、観る側も持っていたい。

そして一人の選手が劇的に「組織」を変えることは有り得ることでもある。
それはロナウジーニョのような男かもしれないし、マケレレのような男かもしれない。

そして「監督の創造力」が「組織」に与える影響も、必ずある。ましてや現代サッカーは、監督の時代とも言われる時代である。
「意志の統一」がいかに大事かは、ドイツで既に学んだことでもある。
これはあくまでもピッチにおける「意思の統一」の話である。重心を後に置きすぎた日本は、試合の多くを主導権を握られた状態で戦った。
「攻撃」と「守備」は分断され、攻撃陣がカバーする守備範囲は途方もなく広く、守備陣が攻撃を助ける為に走る距離はとてつもなく長かった。
残念ながら、日本の11人はただの「集団」であり、それ自体が一つの生き物の様に感じられる「組織」ではなかった。

何が言いたいのか分からなくなってきた・・・・
実は反町監督にエールを送りたいのだ。
実のところ僕は彼のサッカーが嫌いである。そして彼の会見を見るたびに「イヤミか!!」と突っ込みを必ず入れているほどに、彼の横文字の多いコメントが好きにはなれない。(よく解からない)
そんな僕でも彼のいいところは見えている。
彼は間違いなく五輪代表監督に執着する男ではない。そういう保身の男ではない。と僕は思う。
日本サッカーの前進の為に、多くの若者に経験を積ませる為に、今の日本に足りないパーツを補う為に・・・そして何より若い選手に世界を経験させる為に五輪出場権を・・・と思っている。それは僕から見れば目の前の若者達によせる「愛情」にも見える。
ただ一方でこうも言いたい。
「それはわかっている。ただ・・・」
所詮は僕も無責任な立場から言っているだけ、「ただ・・・」の後は、飲み込むしかないのかもしれない。

ただ反町監督はこうも言っているのである。(これも曖昧・・・)
「日本のサッカーと呼べるものがないいじょうは、とにかくこれが日本のサッカーとやって見せるしかないのかもしれない。そういう方向で行くしかない。行った先が間違いだとしても、それをやる事に意味があるのだと思う。」

上のオシムさんの言葉は、そのオシムに「チェルシーを真似ている節がある」とされた新潟時代の反町監督に向けられた言葉のような記憶がある。あくまでも暗にではあるが・・・
僕は反町さんの表現する「日本のサッカー」が見たい。それこそがきっと日本の為であるはずだ。
今後雨後の竹の子のように出てくるはずの「日本スタイル」の一つとして、反町監督のサッカーがあって欲しい・・・と僕は思っている。

追伸 面白かった対談を記事にしようと試みようと・・・するはずもなく、面白かった・・・という印象しか僕の脳には残ってないようです(苦笑)


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posted by モーリー |19:55 | コメント(9) | トラックバック(0)
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