2008年03月25日

スペシャリストの生きる道。

『スペシャリスト』として生きる覚悟。

前回自分で予告しておきながら、オシムの求めるスペシャリストってどんなものだろうか?と少し考え込んでしまった。参考にしたい記事を、探したけれど結局文献が見つからず正確に引用することも出来ない。
オシムは以前に、ポリバレントとスペシャリストの関係を語る際に
「~しか出来ない選手」
とスペシャリストを表現していたように記憶している。

またゴールデンブーツ賞を獲得したパンチェフのことを、彼の得点能力の素晴らしさ、そしてそれがいかに特殊な能力であり偉大な才能であるかを認めつつも、
「しかし、それだけだった・・・」
とも語っている。批判を浴びつつも、より活動的で、よりチャンスそのものを多く獲得できるであろう選手(名前を失念。)を好んで使っていた。

少なくともサッカーは足し算ではない。最高の選手達を集めれば最高のチームが出来るというわけではない。それは既に歴史が証明していることでもある。
だからといって特別な才能を持つ選手が必要ないわけではない。ボールを獲られない方法を知っている選手。キープすることで時間を調節できる選手。人よりも多く見えることで、多くのことを一本のパスを解決できる選手。いいチームには必ずこういう選手が何人かはいる。オシムはその選手達にも、多くの活動量や、長い距離を走ることを厭わない精神。ボールへチャレンジする守備を求めていた。それはスペシャルな能力を持つ選手を、よりスペシャルにする為の要求でもあった。

ではスペシャリストとは?
以前にも書いたオシムが描くサッカーの未来を語った言葉の中にある一節。
「一人のストッパーと、FWしか出来ない選手。」
現代サッカーは選手個人により多くの選択肢を持つように要求することで成り立っている・・・とも言えるし、選手にとってはより多くの仕事が与えられている・・・という言い方も出来るでしょうか?
その仕事量は膨大で、考えなければならない事、同時に考えておかねばならない事は非常に多い。
本物のトップチームにおいては、考えるよりも先に体が反応しているとしか言いようのないくらいに、プレースピードが速い。
ここで語ってきたような前提でポリバレントを解釈してしまえば、もはやスペシャリストなど必要ないように思えてしまえる。

しかしながら例えば「得点を獲る」といった任務だけを背負ってピッチにいる選手がいるというならば、多くの任務を持つものよりも、より深く一つのディティールを探求することが可能なのだと僕は思っている。その行為がDFに恐怖心を与え、相手チームの攻撃精神そのものを奪ってしまう場合もある。それ程の力を持つ者が居るのならば、もはやチームの戦術として組み込まれていると言えるのだと思う。そうであるのならばそれは単純な足し算ではない。(ただし、勇敢に戦うことでその存在を無効化する・・・という方法論が確立されつつあることも知っておかねばならない。)

それ程の力を、チームのメカニズムを変えるだけの力を持つ者は残念ながら日本には居ない。世界のトップ10を目指すと言うのならばそう言わなければならない。アジアカップ敗戦後のカメルーン戦で、いわゆる「個」の突破を期待されて登場した大久保も、田中達也も、スピードはもたらしたが、有効なドリブル突破などただの一度も無かった。来日したばかりのカメルーン相手にすら・・・である。個人で仕掛けるのならば、必ず二回に一回は勝たなければならない・・・そうでなければチームの走る意欲を奪い去ってしまうだけである。(実際には、楔としての勝負というのは有り得る。シュートも同じ。)

実際には守備をするFWのほうがより多くのチャンスを得られる。スペースを意識できるドリブラーのほうがより多くの突破のチャンスが得られる。それは動かしようの無い現代サッカーの姿だと、僕は思う。そしてなお、勝負して突破できるドリブラーであり続けなければならないし、シュートチャンスに決めてしまえるFWであり続けなければならない。そういう覚悟を持たなければ、本当の武器を持つことが出来るとは思えないし、チームの王様として君臨したとしても、今のままでは間違いなく国内使用にとどまってしまうだろう。
そもそも過保護な中では、本当の勝負心は育まれない。と僕は思う。
そもそも如何なる批判を受けようとも、中傷を受けようとも、それでもチャレンジできる人間でなければ、そもそも「スペシャル」ではない。

結局は自分が優秀なサッカー選手であること、チームにとって有益なサッカー選手である事は自分で証明して見せなければならない。スペシャリストであろうが、ポリバレントであろうが、貢献度こそがサッカー選手にとって優劣を決める唯一の手段である。

問われるのは見る者の目だとも言える。いかなる武器を持っていてもそれをゲームで活かさなければいい選手だとは言えない。その為に何が必要なのかを、見る者が知っているのならば、いいサッカーを育てる為のほんの後押しくらいにはなるかもしれない。「スペシャリスト」と聞いて何を想像するのか?はその人のサッカー観を表しているとも言える。その総体がサッカーのスタイルを形成するのならば、「日本化」は遠い・・・ような気もする。
少なくとも僕は、FWは点だけ獲ればそれでいい・・・・何て軽々しくは言えない。

敬称略

追伸 オシムさんが退院した。本当に嬉しい。
「日本に来たのは偶然。一年目は特にそう。ただ、二年目以降は私の意志だ。」
オシムさんはどういう選択をするでしょうか?「いいサッカー」を愛する私たちがいる!と少し声を挙げたい気分です。

追伸の追伸

読み返してビックリ!!オシムイズムについて一行も書かれていないです。ですから題名を変えて載せることにしました。ちょっと今の僕には書けそうもないテーマなので・・・今年中の宿題ということでお願いします。

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posted by モーリー |20:58 | コメント(16) | トラックバック(1)
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2008年03月06日

オシムイズムの体現者たれ! ~4~

『ポリバレント』と『スペシャリスト』・・・対立論の無意味。

以前に少し書いたことがある。最高のポリバレントはサッカーのスペシャリストであると・・・
今もテレビや雑誌では二つは対立するものとして議論の対象になる。「ポリバレント」か?「スペシャリスト」か?この二つは全く対立しないと僕は思っている。
オシムの言うところの「ポリバレント」なタレントとは、決して器用な選手を指して言っていることでも、複数のポジションをこなせるという意味でもない。ましてや、素晴らしいドリブルやパスやシュートというスペシャルな能力を持っていないという意味でももちろん無い。
例えばオシムの言うところの「ポリバレントな能力」というのは、ロナウジーニョにペロッタの運動量があれば、加地にベッカムのクロスがあれば・・・という問いかけのようなものでもある。
今では代表でいわゆる「ワンボランチ」として使われているらしい鈴木啓太・・・今の代表ではDFラインの前の掃除屋に過ぎず、去年のプレイに比べるとスケールダウンの印象は否めない。これはシステムやフォーメーションが変わってしまったのが原因ではないと思う。
「オシムさんに頭の中を変えてもらった」という鈴木啓太は、オシムによくこう言われていたそうである。
「啓太!もっとシュートを狙っていいんだぞ!」
自分に出来ることをするというのは悪いことではない。ただ、限界を自分に決めてしまってはサッカー選手としての伸びは期待できない。彼の前に出る力や、誰よりも早く守から攻へと切り替え、カウンターの起点にすらなっていた姿は今の代表では殆んど見られない。そこでのプレイが彼に向上心を与え、さらには自分に足りないものを強く自覚させていたに違いないと僕は想像する。

現代サッカーの潮流は、一つの仕事だけしてればいいというのを殆んど許さない。攻撃の選手は攻撃を・・・守備の選手は守備を・・・というのは殆んど許されてはいない。
「自分の得意なプレイだけをしようとしていた選手がまだいた。」
これは、アジアカップの総括でオシムがいった言葉だ。誰のことかは正直分からないが、全員に当てはまることだとも言える。オシムの選手達へのメッセージだと僕は思っていた。見るからにそういう怠惰な選手は居なかった。

ポリバレントな能力は現代サッカーに適応する為には必要な能力だ。必要とあれば、俊輔もロナウジーニョも、サイドバックの仕事をする必要がある。中澤がゲームメイカーにならなければならない瞬間はあるし、駒野がウイングになったりFWになったりする必要も試合の中には必ずある。そこで何が出来るかがオシムが求めていた能力でもあると僕は思っている。
俊輔がパサーだから、守備が出来ないとか、駒野はDFだから、前線に行っても脅威にはならないとか・・・それは決して相手チームは見逃してはくれない。内田のクロスの精度が加地より上だとしても、覚束ない守備を見せていれば、そこはたちまちにしてチームの弱点になってしまう。

攻撃な得意な選手には守備を、守備の得意な選手には攻撃をするように仕向けるのはオシムの常套手段であった。この事一つとってもオシムの言わんとしていた「ポリバレント」が透けて見える。

仕掛ければ失敗してもいいのか?その意気込みやヨシ!とは僕も思う。ただ、仕掛けても失敗してもいいとは思わない。せめて二回に一回くらいは勝たなくては、チームの走る姿勢すら奪いかねない。そういう執念が無ければ勝てないかもしれないし、それでも仕掛けることが出来なければ、シビアな場面では勝負できない。・・・かもしれない。勝負するとはそういうことだと僕は思う。過保護な中では、そういう勝負心は洗練されないのではないか?
また「スペシャリスト」の間違った解釈は、スケールの小さなドリブラーや、シュートを打つことが素晴らしいと勘違いするFWを育てることになりはしないか?
ヘディングのスペシャリストである巻は、カウンターつぶしのスペシャリストでもある。予測やマークに優れた阿部勇樹は、ボールを奪えば攻撃の起点になり、ドリブルでも持ち上がることが出来る。またその流れのまま攻めあがれば、相手にとっては危険なフィニッシャーでもある。
恐らくはプレイの選択肢の少ない巻を、オシムはポリバレントなタレントに分類はしないが、ジェフ時代に相手のエース・・・守備の苦手な選手に、度々阿部をマッチアップさせていたことを考えても、間違いなくトータルな能力に優れた阿部はポリバレントなタレントである。そして、彼自身は今も足りないものに気づき続けているのではないか?
オシムが「ポリバレント」な能力を選手に求め続けていたのは、選手としての「引き出し」を増やす為だったのだと今は感じている。そして一般的にはその「引き出し」が多い選手は、いい選手とされているのも事実だと思う。

オシムは選手に「均質」を求めていたわけではない。ただ、チームに対する責任として、最低限の仕事を求めていただけだと僕は思う。いわゆる「スペシャリスト」を嫌っていたわけではない。


敬称略

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posted by モーリー |20:48 | コメント(17) | トラックバック(0)
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2008年02月12日

オシムイズムの体現者たれ! ~3~

『はやさ』と『技術』。

全てはゲームの為に・・・それが為されていれば、オシムは何も禁止しない監督だ。それが有効であり、手段ならば、オシムはどんなアイデアやトリックも喜んで眺めるだろう。
最近良く思う事はオシムが本当に成し得た事は、千葉においても、代表においても、素晴らしい組織を構築したという事ではなく、むしろ個々人を鍛えることで、チームを素晴らしく有機的で同じ「意志」を持った組織を作ったことだと思うようになった。いわゆる「システム」に当てはめるでもなく、選手に合わせたサッカーをするだけでもない。選手そのものを伸ばしてしまう。もっと言えば、その選手の才能と全力を引き出す事が出来る。
そういう意味では彼は本当のコーチだった。

前回の記事で触れたことの続きですが、オシムは日本人には「はやさ」と「技術」があると言った。そして彼が言うところの「はやさ」と「技術」とはどういうものなのか?少し考えて見たいと思います。
その前に日本のサッカー界にいつもあるこんな議論について考えてみます。
「日本にカカがいれば、メッシがいれば、あるいはC・ロナウドがいれば・・・居ないからこそ日本は組織で対抗し、勝負しなければならない・・・」
皆さんも一度は聞いたことのある、あるいは似たような言い回しを聞いたことがあると思います。もちろんいるに越した事はないけれど、彼らですらも組織の中でしか輝けない。あるいは彼らの特別な能力を、戦術の一つに置く事はあっても、彼らが戦術そのものにはなり得ない。と僕は思います。
少なくともこのような意見に僕は賛同したくないし、そんな後ろ向きな気持ちで作られる組織に僕は魅力を感じません。オシムも恐らくは(少なくとも全てには)賛同しないでしょうし、日本人選手には日本人選手にしかないクオリティがある・・・と反論するかもしれません。もちろん多分ですが・・・

「一人一人が体格で劣っていても、個人技で劣っていても、全員が速い判断で連動を続けていけば、ちょっとやそっとじゃ止められないのかな?というのがかなり見えてきた。」
とは中村俊輔の言葉である。
そして今現在も日本で足りないとされる『個』の能力・・・この漠然にして曖昧な言葉が、日本の進路を曇らせているのではないか?僕はそう思います。

例えば日本のサッカーと世界のサッカー。どちらがより有機的で能動的なサッカーか?と言われれば、間違いなく現時点では世界のサッカーと僕は答えます。個人技に秀でた選手・・・日本で言うところの「個」のある選手(同義で使われているような気がします。)ですら、組織の一部として、あるいは組織の後ろ盾を得てしか輝けないのが、世界の潮流だと僕は思っています。

オシムはある個人の特別な技能を発揮させる為に働く選手、組織を機能させる為の目を持つ選手を「水を運ぶ選手」と呼び、その必要性を説きました。実際にその選手達を得たチームは、かつての「オールスター」のチームよりも遥かに美しいサッカーを見せることでその正しさを証明したと思います。

「日本人選手はその技術をゲームで有効に使えていない。あるいは速いスピードの中では精度が落ちる。」
「日本人は本当に練習熱心だ。ただ、それは独りよがりかもしれない。」
巻は居残りのシュート練習を何度も却下されたそうだ。オシム曰く
「私の練習には必要なものが全て詰まっている。」
練習の為の練習と思っていたのかもしれない。あるいはゲームに必要な技術というものを考えさせる為に言った言葉かもしれない。いずれにせよ、オシムは日本人選手はゲームにおいて全ての能力を発揮できていないと思っていたのだろう。

中村俊輔が、漠然としたイメージで語ったサッカー。
それを可能にする「はやさ」と「技術」こそが、サッカーにおける本物の「はやさ」と「技術」なのだと僕は思う。
オシムが日本人に「技術」があると言ったのは、日本人のボール扱いの上手さや器用さを、自分ならばゲームに昇華できる自信があったからなのではないだろうか?
あるいは「はやさ」と言ったのも、ただ単に敏捷性があるといった身体的な特徴だけではなく、自分ならば学習意欲旺盛な日本人選手に、判断や準備などサッカーに必要なあらゆる「はやさ」を叩き込むことが出来ると考えていたのだろう。
少なくとも純粋な意味でのスピードではないと思う。(遅いとは思わないけれど)
「松井がはやいと思っているのならばどうかしてる・・・」
と言ったのも敢えて言ったことだろう。だとすれば我々は何故言ったのかを考える必要があるように思う。
Jで、あるいは国際試合で戦った外国人選手は口を揃えていう事は、サッカーがはやいと意味とは別に
「すばしっこいし、しつこい、ちょこまかしてやりにくい。」
この特性を生かしたときに、前述したような課題を、日本人の特性である旺盛な学習意欲で武器にすらした時に、オシムの言うところの日本人によるサッカーの「日本化」があるともオシムは思っていたのだろう。
これらにオシムをして凄まじいと言わしめた「走りきろうとする意欲」をプラスしたサッカーこそが日本の目指す道ではないか?と思う。

かつてピッチで数々の芸術を披露したベルカンプはサッカーの未来をこのように語っていた・・・
「これからのサッカーはセンターバックを二人残して全員がフレキシブルにポジションチェンジを繰り返していくようなサッカーになっていくんじゃないのかな?」
オシムはさらにこの二人のうち一人もよりポリバレントな能力を持っていることが望ましいとした。彼の目線は常に未来に向かっている。
ベルカンプの予言は当たりつつある。そしてオシムが、
「サッカーの未来は日本の望むべき方向に向かっている。」
と言った。祖母井さんによれば彼は誰よりも日本サッカーの未来を信じていたという。オシムは日本人選手のクオリティならば、そのようなサッカーが出来ると信じていたに違いない。

今の日本のサッカーに、あるいは日本のサッカーの未来に本物の「はやさ」と「技術」はあるだろうか?
あるいはファンである僕たちは、サッカーにおける本物の「はやさ」と「技術」が見えているだろうか?
現代表コーチの大木さん曰く
「日本化?それはみんなでやるんだよ。」
だそうである。

敬称略

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2008年01月21日

オシムイズムの体現者たれ! ~2~

日本人選手の『可能性』と『理想像』。

『日本に来て最初の頃、私が驚いたのは、選手が左足でも右足でも上手にプレーできたり、またヘディングが上手い等、良質のサッカー選手に必要とされる全条件を備えていることだった。また戦術的な分野に関して言えば、日本人は学習能力がとても高い。彼らの向上心もまた凄まじい。日本人選手はぶっ倒れるまで走っているので、練習場から本気で追い出さないといけないくらいだ。(中略)
日本のサッカーレベルがヨーロッパで過小評価されているのは今に始まったことではない。(中略)
しかし、Jリーグとヨーロッパのサッカーレベルのみを比較した場合、日本は尻込みする必要はないと確信している。』

日本とヨーロッパを比較した場合、当然のことながら身体的なハンディキャップは存在するとし、それは現代サッカーにおいては、カバーするのが難しいデメリットとしながらも、
『しかし日本人選手は別のクオリティを有する。それは他国選手より大きなクオリティでもあり得る。端的に言えば、日本人選手はとてもスピードがあり、極めて敏捷で、また技術的に優れている。』
(『』内全て引用「イビチャ・オシムの真実」より。)

僕は監督イビツァ・オシムの最も優れた能力の一つは、あらゆる「先入観」と呼ばれるものを排除して物事を見極める力にあると思う。もちろん「完全な」排除が可能などとは思ってはいないけれど・・・彼の目は信頼に足るものだと、僕は思っている。(僕も似たような印象を日本人選手に持っている。)
この「スピード」というものは、オシムが本来的に使っている「スピード」のことではなく、単純に「すばしっこい」という意味合いであると思う。
そして「技術」と言っているのも、彼が本来の意味合いで使っているものではない。単純にボール扱いが上手いという意味合いで捉えたい。
端的に言えば「スピード」も「技術」もゲームに昇華されていなければ、「スピード」とも「技術」とも呼ぶべきではない。(これらについてはまた次回)
少なくともオシムはゲームに昇華できていないそれらを「潜在能力」と考え、それらをゲームに昇華する方法を思考し、オシムはそれを「日本化」と呼んでいた。

そして僕も常々感じていたこと、ある人はそれを「コンプレックス」と呼び、ある人は「リスペクトし過ぎる」と言った。
ヨーロッパや南米に対する「見えない壁」に対しては、「尻込み」する必要は全く無いとし、その克服(慣れというべきか)には、実際に比べる機会を多く設けるべきだとした。実際にジェフ時代には、トルコでキャンプを張り、代表に就任してからはヨーロッパへの遠征を望んでいたと聞く。そして浦和のCWC出場を我が事の様に喜び、もしミランと対戦することになれば?の問いには
「それは日本のサッカーにとって素晴らしいこと。何故ならば自分達の良さに気づくことが出来る。」
と言い放った。
「経験する為」でもなく、「世界への挑戦」でもない。オシムはそうは言わなかった。オシムはそれ程に日本人の潜在能力を信じていたのだろう。
(勝てる・・・というのではなく。)

そして本題・・・日本人選手の「技術」や「スピード」のみならず、オシムをして「凄まじい向上心」「ぶっ倒れるまで走る」「走りきろうとする意欲」こそが、オシムが信じていた日本人サッカー選手の潜在能力だったのではないだろうか?
「私は監督と呼ばれるのは好きではない。あえて言うならば教師だろう。」
と言っていたオシムにとっては、日本の選手たちは「教えがい」のある選手達だっただろう。もちろん彼は「受け身」すぎると言う苦言も忘れない。

「頭の中を変えてもらった」鈴木啓太は新しい代表のリーダーになるべく、今も鹿児島で奮闘していることだろうし、
「出来ることと、出来ないことがわかった」とミラン戦の後に語った阿部勇樹は、敗北を糧に、オシムを越えようとしている最中である。

そしてオシムが珍しく個人名を挙げてまで語った理想の日本人選手、それは「中山雅史」。
伝説に埋没せず、今なお生ける伝説である彼こそが、オシムの言う理想の日本人選手である。
僕の思う中山雅史の最も優れた才能・・・それは「尽きることのない向上心。」である。

オシムが残した様々な言葉は、今なお理想のサッカー選手を浮かび上がらせる。それは日本人にとっては、日本人の精神性と優位性を体現する理想の日本人選手だと言っていいのだろう。
そしてその「理想」を越えていこうとする者だけが、その「理想」に近づくことが出来るのではないか?今はそう思っている。

敬称略

(次回は「はやさ」と「技術」について)
「イビチャ・オシムの真実」
ゲラルト・エンツィンガー  トム・ホーファー著
平陽子訳(日本語版)

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2008年01月14日

オシムイズムの体現者たれ! ~1~

『オシム流の継続』と『日本化』

少なくとも僕が知っている限り、オシム流の継続なる言葉そのものが、オシムの残したかったものを理解しない言葉であるように思う。オシムは
「日本は既にして誇るべき日本なのだ!」
と言った。彼が千葉を、日本代表を率いてピッチで体現したかったのは、決して「自分」のサッカーではない。
自分に与えられた選手で、最高のサッカーを披露しようとしていただけに過ぎない。そこに彼のサッカー哲学、サッカー理解を込め、そして日本人サッカー選手の潜在能力を最大限に引き出そうとしていたのが彼のサッカー・・・いわゆる「オシム流」と言われるサッカーだと言っていい。それをオシム流のサッカーと呼ばれるのは本人の望むところではないだろう。
彼はそれを「日本サッカーの日本化」と呼び、その完成形は、今後の日本のサッカー界にとって大きなヒントになるはずだった。

そういう意味では、継続すべきは「日本化」であり「オシム流のサッカー」などではないのだと思う。それはオシムの望むところではなく、オシム自身は
「そんなサッカーもう古い・・・」
笑って皮肉るに違いない。

何故「日本化」が重要なのか?そもそも何故日本化が重要なのかは非常に大事な問題だ。それは決して私たちがオリジナリティを誇る為などではない。
「日本人はたった15年で欧州の常識を理解してしまったようにも見える・・・ただ、本当の意味で血肉になっているようには思わない。」
サッカーにおける法則のようなものについて、オシムはこのような感想を抱いている。うわべだけしか見ていない・・・とも語っている。千葉時代には
「日本の選手の学習能力は非常に高い、ただ忘れやすい。」
とも語っている。
結局は自分達で「サッカー」を理解せねばならない・・・という事なのだろう。例えば最先端のサッカーを模倣して勝てるのであれば、オシムはそれを選択するのではないか?それは充分に誰にも真似できない能力だとも言える。ただし、それは不可能なのだ。偽物は本物を越えないし、真似している間に本物は更に進化する。それほどまでにサッカーの進化は速いし、奥が深い。

それにサッカーを理解する人間がそもそも違う。日本人はブラジル人やイタリア人の精神性を本当の意味では理解できない。そもそも身体的な特徴も違えば、サッカーへの理解も違う。ブラジル人とイタリア人のそれもまた別物だ。

例えば日本人FWに足りないもの・・・
イタリア人は、狡猾さとエゴイズムと言うだろう。
スペイン人は、テクニックとアイデアと言うかもしれない。
ブラジル人は、マリーシアと積極性と言うのかもしれないし、
ドイツ人は、冷静さと覚悟と言うのかもしれない。
全て正解だという事は出来る。似通ったものだとも言えるのだろう。ただどれも、ヒントにはなっても答えにはなりはしない。
FWの理想像は自らが獲得し、自分達で創造するしかない。

オシムが言いたかったのはつまり、当然自分達のサッカーは自分達で創造するのだ!そうすれば、そこには自分達にしか出来ないサッカーがあるはずだ!と・・・

ヒントは既にしてある。世界の最先端で行われているサッカーは大きなヒントだ。それを自分達の「解釈」で、自分達の「言語」にせねばならない。自分達には出来ないことも、「もっと出来る」こともあるだろう。

それこそがオシムの言うところの「日本化」なのだろうと僕は「解釈」する。

僕はオシムが心血を注いでやろうとしたことに何とか報いたい。それはサッカーに少しでも携わる者として、せめて注ぎ得る限りの情熱でもって報いたい。
それはオシムがもしかしたら最後に情熱を預けようとした国の住民である僕の矜持でもある。
それと同時に、この作業を行うことがより良いサッカー選手を育てることや、より良いサッカーを育てることへの近道だという確信も、僕にはある。

次回は、「組織」と「自由」。をテーマに書きたいと思います。(予定)


追伸 あくまでもサッカーファンの立場から、ゆっくりと何回かに分けて書きたいと思います。

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2007年12月26日

浦和とミランの差・・・その『差』はズバリ!『コレクティブ』の力。

セパハン戦で見せたポジティブな浦和は見せられず終まい・・・
いつもと違うミランに耐え、いつものミランの狡猾に負ける・・・僕の評価ではこういう事になる。
浦和は素晴らしい組織だった!というのは僕にとっては嘘に等しい言い回しであり、個の力で負けたというのも正しくはない(間違ってはいないけど・・・)。僕の定義ではよりコレクティブだったのは間違いなくACミランだった。遅くなりましたが、そして随分と久しぶりですが、トヨタカップ(こっちの方がしっくりくる)の感想です(苦笑)。
素直に浦和の選手達の奮闘は素晴らしかったと称えたい。僕はもちろんセパハンとミラン・・・浦和と対戦するチームを応援したが、個々の踏ん張りや意欲は素晴らしく、素直に浦和レッズは素晴らしかったとは思う。実は最初のタイトルを「浦和レッズ斯く戦えり!!」としようとしたくらいです。

しかしながら、戦前からの日本人は浦和レッズを応援すべし!的な、サッカーやJリーグの理念を理解しない、もっと言えば浦和レッズを消費物としか考えていない者たちに(レッズサポはここに怒ってね。)よって、作られた雰囲気への反発もあり、浦和善戦!とか、やはり「個」の差!!的な論評に僕は違和感を感じてしまう。
簡単な感想は、最初に書いたとうり・・・
結局は昨年のCLと同じ、カカこそがミランの数少ない武器にして、最大の戦術。セードルフがいかにしてカカの長所を引き出そうとしていたかを見ていれば、それは良くわかる。
浦和の失点シーン・・・あれはしょうがない。あのような状況を作られてしまえば、どんなDFも無力。去年オールド・トラフォードではもっと残酷に切り裂くカカを見た(笑)。つまりはあのような状況を作られる前に防ぐか!スペースを与えないか!二つに一つしかないが、浦和の時間帯に起きたミランの得点は、ゲームを読む目や、意思統一、共通理解で勝ったミランの罠にかかったといっていい。少なくとも、浦和にも勝機はあったと僕は思う。
浦和側から言えば、引いて守ったというよりも、自然に引かされた。という表現が圧倒的に正しい。セパハン戦では、今シーズン初めてポジティブな浦和を見たけれど、やはり付け焼刃。浦和はJでの戦いにおいても、引かされる戦いのほうが圧倒的に多い。それは監督の能力というよりも、監督と選手のパワーバランスが崩れているから・・・と言ったほうが正しいかもしれない。
オジェックはいいコーチだと思う。ただ、カリスマが足りない。レッズのようなチームの監督に一番必要な能力が足りない。今シーズンの初めに、選手の言うままに現状追認したツケがここにきて出てしまったというべきだろうか。巷で言われている「ターンオーバー」を採用しなかったからでは決してない。僕は純粋なターンオーバーで成功したチームを知らないし・・・
話が逸れてしまった(苦笑)。

全く文章が繋がりそうもないので、強引にコレクティブの差を論じれば、カカの力を出させたミランと、永井のドリブルが一度も無かった浦和の差とも言えるし、あれほどゴールから遠いところでドリブルするワシントンは脅威ではない。と言える。
もっと言えばゲームメーカーというよりも、チャンスメーカーと呼ぶべきピルロをあれほどフリーにさせてはいけないし、永井はタッチラインを背にしてでも、ゴールから後退しても前を向かなければならなかった。相馬のドリブルを活かす為にも、彼がボールを持ったときの反応が必要だったし、カカやセードルフが流れてくるサイドのスペースをいかにして消すかは、約束事として確立させておくべきだった。浦和の奮闘の象徴である三人のMFの奮闘は素晴らしかったが、守から攻への切り替えにまで頭が回らず(そういう意味ではポンテの離脱が痛すぎた)、それがミランのセンターバック二人がセンターラインにずっといるかのような圧倒的なポゼッションに繋がってしまった。選手一人ひとりは俊敏だが、速さのある攻撃ができなかったのはこの点に尽きる。彼らがそれ程疲弊してしまうほどに、彼らの量に依存した奮闘だったとも言える。ジラルディーノ一人に、三人のセンターバックで守り、ピルロに狙いを定めたラストパスを何本も出させていては、さすがに苦しい。そういう意味ではオジェックは無策だった。
つまりコレクティブとは、個の集積。より多く選手の特性を活かし、能力にフルに出し切る力だと僕は思う。そういう意味では、浦和はまとまりがあり、素晴らしい集団であり、素晴らしい戦いを見せたが、サッカーにおけるコレクティブな戦いは出来なかった。コレクティブな戦いぶりで言えば圧倒的にミランに分がある。
アンリを失って、より素晴らしい戦いをするようになったアーセナルを見ればその答えは既にある。

机上の論理であれば、もっといい戦いが浦和には出来た!と僕は思う。選手個人に依存した戦いをさせられていたのはむしろ浦和。局面で見せたクオリティにこそ、日本サッカーが世界に誇るオリジナリティを獲得するヒントがある。少なくとも僕にはそれが見えた。僕の書いている事は、机上の論理でしかない。それは紛れも無い事実。しかしながら、それをやって見せなければ空想かどうかさえわからないのもまた事実。少なくともサッカーにおける「個」とは、個人技の事ではない。

最後に、オシムの言葉を借りて締めくくりたい。
「浦和がCWCに出られる事は、日本のサッカーにとっては素晴らしい事だ。何故ならば・・・自分達の本当の良さに気づくことが出来る。」
レッズの選手達には自分達の未来が見えているだろうか?いや、知性ある彼らならば大丈夫だろう。そして見る側の観客である私たちには見えているだろうか?私たちもまた、日本サッカーを形成する一つの要素なのだから・・・

皆さん良いお年を!!

追伸 乱文失礼。師走はやっぱり師走なもので・・・最初に言い訳しておきます(苦笑)。

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2007年11月21日

『その権理』を持つのは、イビツァ・オシムだけである。

ポストオシムについて色んなところで話されている。
ある意味仕方がないところだ。これからもサッカーは続くし、重要な戦いはすぐ目の前だ。ましてやここで機能不全に陥るようでは、大きな組織のトップとして相応しくない。

しかしながら、何故こうも腑に落ちないのか?
敬意が欠けている?サッカーよりも重要な事がある?家族の気持ちを考えるならば?僕にとっては、そのどれでも相応しい表現ではない。

オシムは欧州のジャーナリストにこう語っている。
「日本人は誠意ある人々だ。だから私も誠意を持って応えるべきだと思う・・・他のオファーがどれほど魅力的なものでもね。いや、ジェフとの契約を解消する理由など、ひとつもない。」
いわゆる「キャリア」を考えれば、そしてオファーしたチームの顔ぶれをみれば、いつオシムがヨーロッパに帰ってもおかしくはなかった。むしろ、それが自然だと言っていい。
しかしながらオシムは千葉に留まった。そして恐らくは、残りのサッカー人生を日本のサッカーの為に捧げる覚悟は出来ていたはずだ。
オシムを留めたのは、彼の信頼する祖母井さんや、彼を愛するジェフサポーターの誠実さや人間性だと言っていいだろう。
そしてその姿の向こうに彼は、イビツァ・オシムは日本を見ていたのである。

彼はその長い経歴において、一度も解任されたことがない監督である。もちろんこのような事態になっている以上は、「解任」という表現は使われないのは理解のうえで言わせてもらうならば・・・
それでも彼の意志で「それ」を決めさせるべきである・・・と僕は思う。
オシムの進路を決めることが出来るのはオシムだけだ。
彼の体が回復し、再発のリスクを負っても彼が監督をするというならば、僕はそれを支持するし、見守るだろう。しかしながら我々は「それ」を望んではならない。
そしてイビツァ・オシムという人間を少しでも理解するというのであれば、彼がどのような振る舞いをするかは想像に難くない。我々は、黙して語らず・・・それを理解しなければならない。

名誉監督などという役職を望むのは著しく圧倒的に敬意を欠いている。彼が愛するサッカーは現場にしかない。そして後任の人選を彼に委ねるというのも問題外である。

今こそ我々の誠意が問われているのではないでしょうか?
我々ファンは、彼を待つ事ができるはずだ。彼の名誉を守り、生ける伝説をサラエボに持ち帰ってほしいと僕は思う。それを望むことが出来るのは、責任を負わない我々ファンだけだ。元々、彼はサラエボからの借り物ではないか!彼は日本の為に尽くし、日本サッカーの為に倒れたのである。我々は恩義に報いるべきだ。

そして協会は、今こそ完全なる密室談合を遂行しなければならない。あらゆる事態を想定し、迅速に正確に行動しなければならない。少人数で、それを遂行して欲しい。
そもそも監督選定は技術委員の仕事だ。会長すら外しても構わない。自分達の意思を明確にして、会長が口を滑らせるようなことがあれば全員で辞職するぐらいの覚悟でいれば、会長も口出しできないだろう。川渕会長・・・彼は口が軽すぎる。
マスコミもそれを理解し、スキャンダリズムやセンセーショナリズムを追い求めてはならない。それは許されない。それは言論の自由などではない。

『止った車』を再び動かしたのは間違いなくイビツァ・オシムだ。わずかの期間でチームに自信と信頼をもたらした。そして、チーム以外のサッカー関係者、サッカーを見る側に『イズム』を浸透させた。彼は現時点でも日本サッカー界の伝説である。(こういう言い方は本人は嫌いだろうけれど・・・)

私たちは私たちの祈り方がある。私たちは彼が愛した人達のように誠意があるだろうか?誠実であるだろうか?

僕は後任人事やそれを取り巻く周囲の覗き見趣味に加担したくない。
そして彼の帰還を待ちたい。それが僕の『サッカーの教師』に対する祈り方である。

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posted by モーリー |17:03 | コメント(42) | トラックバック(0)
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2007年11月16日

ただ祈る。ただ、ただ祈る。

「私は無神論者と言っていい。」

そう言っていたオシム監督が倒れてしまった。情報はほとんど無い状態だが、良くないらしい・・・
僕もオシムの言う意味では、無神論者かもしれない・・・
不敬な自分を恥ながらも、無力を知りながらも、今はただ、ただ祈りたい。

生きて帰ってきて欲しい。イビツァは「シュワーボ、オスタニ!」の大合唱とともに、日本人に見送られながら故郷に帰らなければならない。
「死ぬのならばボスニアがいい。」とあなたは言ったではないか!!

彼には義務がある。私達の前に姿を現しておどけてみせなければならない。

「私はまだ生きています。」と・・・・

今はただ祈りたい。

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posted by モーリー |17:41 | コメント(6) | トラックバック(6)
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2007年11月15日

『浦和レッズ』は日本サッカーの『目標』に非ず!!

バイタルエリアに広大なスペース・・・間延びと言ってしまうのもはばかられるほどのアンバランスは近年の浦和レッズの戦いそのものだった。
いかに日本屈指の質と量を誇るMFである鈴木啓太と長谷部誠をもってしても、埋めきれるはずもない。
ましてやサイドでは常に数的優位を作られている状況、彼らがカバーしなければならないエリアはあまりにも広大だ。
そのエリアを狭めるには、そのエリアに人数をもう一人割き、DF5人-MF2人の構図をDF4人ーMF3人にするか、DFラインを押し上げるしかないが(他にもあるけどメンバーの構成的に・・・)、前者はオジェックが選手とのパワーゲームに敗れ、後者は前の選手の守備意識が低い為に難しい・・・ポンテは中盤に戻ったり、前から追ったりいつも頑張っているが、さすがに一人ではどうしようもない。昨日の試合で見せたような戻る守備のほうが正解だと思う。
怪我でベンチだった田中達也も献身的な選手だが、守備陣(最終ライン)の意識がおよそ現代サッカーからすれば、悪癖と言っていいメカニズムから脱却するのは、容易ではないだろう。
ようするに浦和は日本が目指すべき方向性とは逆に舵を取っているのである。
オシムも「今日は内容よりも結果。」と暗に「いい内容のサッカー」ではないと暗示している。

もちろん「いい内容のサッカー」の追求も、勝利に近づく為の手段に過ぎないとすれば、浦和の方向性にケチをつける気など全くない。
しかしながら、このサッカーが無条件に相手にボールを渡し、無条件にミドルシュートを打たせ、無条件に敵のFWをゴール前に近づけることは理解すべきだろう。それは日本のサッカーが目指すべきではない方向であることは間違いないだろう。
時に結果を伴うチームが、その国のスタイルを形作ることがある。いやむしろそれこそが、その国特有のサッカー文化の発展のスタンダードだろう。
メディアや新聞各紙はともかく、サッカーファンや、ましてや他のチームのサポーターまでもが歓喜一色、祝福一色、浦和万歳状態だ!!僕はそのことがとてつもなく不安である。気が付けば浦和を見習え!の大合唱である。(サッカーのスタイルばかりではないだろうけれど・・・)

マリノスファンの僕からすれば、ほんの一ミリも嬉しくない出来事である。むしろ心が見る見るうちに冷めていくのを感じた。「どうでもいい。」と言い聞かせ、一人の観客であろうと徹したつもりが、あれ程にセパハンを応援してしまうとは思わなかった。
埼玉県民の日を勝手に祝福に使われた大宮サポーター・・・たった一度のリーグ制覇で浦和に日本の王者面を許している、磐田、鹿島、我が愛するマリノスのサポーター達・・・遥かに「志」の高いサッカーを見せているにも関わらず、観客の多い少ないで、差がつけられているように言われがちのガンバ大阪のサポーター・・・僕たちは完全に迫害される民である(失笑)。

・・・それはともかく、日本を・・・Jリーグを代表しているというのならば、それにふさわしいサッカーを見せて欲しいと僕は思うのである。
浦和の人々が、「僕たちの、私達のサッカーは・・・浦和レッズは、ただのエンターテインメントではない。」と言うのならば、世界を目指すと言うのならば、浦和の人々の「美意識」こそを浦和レッズのサッカーに求めて欲しいと思う。

本当ならば一人のマリノスファンとして、
「浦和レッズおめでとう!!感動をありがとう!!」
と言い、ありとあらゆる賞賛で、浦和レッズを燃え尽き症候群に追い込むという高度な戦略をとろうとも考えた(これまた失笑)。
しかし正直者で、優しいだけが取り柄の僕にはそんなことは出来なかった。Jリーグの代表として、日本代表として、という掛け声の下にみんなが団結して応援するなんて僕からすれば気持ちが悪いことだ!!浦和の人達だって逆ならばそうだろう??

最後に・・・僕が何処かの外国人であれば、スタジアムの雰囲気に、選手の頑張りに感動したかもしれない(しれない)・・・という事は、告白しておこうと思う。

浦和レッズは、他のサポーターの嫉妬や、悔しさを掻き立てている。恐らくは一番の功績はそこだと僕は思う。こうして各チームそれぞれの物語や歴史は積み上げられるのだと僕は思う。

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posted by モーリー |16:24 | コメント(66) | トラックバック(1)
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2007年10月30日

サッカー専用スタジアムの正義・・・税金は有意義に!!

うーん・・・公務員の教養が貧しい・・・僕がせっせと「お国の為・・・」と思って迫害されながらもタバコを吸い・・・
わざわざ故障の多い燃費の悪い車を、エコを叫ぶ現代人に冷たい目で見られながらも乗り・・・
どんな誘いも断らず、勧められた酒は全て飲み干す・・・

そういう思いをして、納めた税金をものの見事に無駄遣いをしてくれる・・・何故サッカースタジアムに陸上トラックをつけるのだ!!

僕は普段ニュースで「また税金の無駄遣いです!!」と聞いても、あまり腹が立たない。官僚達は大衆を馬鹿にしているのだろう。それに「私利私欲」渦巻く現代日本である。官僚達だけにそういう振る舞いを求めるのも間違っている。あくまでも僕の経験に基づいた実感だが、醜いほどにみんながみんな欲深い・・・野心と呼べるほどのスケールもなく、大義と呼べるものももちろんない。官僚の無駄遣いはまさに「ミーイズム」の帰結・・・
だからもちろん政治資金報告書に記載する領収書は一円から・・・なんて思わない。そんなのみみっちい!!と思ってしまう。絶対にそんな政治家は見たくない。

ただ!ただ!!何故新しく作られるスタジアムに陸上トラックが付いてくるのか解からない。全く理解できない。それが(陸上に対して)平等だと言うならばそもそも競技・・・(陸上関係者は)競うことをやめればいいのだ。
政治家も、経済ばかりを優先し共同体や故郷(の原風景)を破壊してきたことを猛省せねばならない。そして地域の人々の集まりであるサッカースタジアムにはせめて、そういう場所(共同体の集まり)であって欲しいという思いを込めなければならない。現在に生きる我々は、子孫に対しての責任がある。我々はせめて子孫に原風景と呼べるものをわずかでも残さなければならないのだ!何の背景も持たない人間をこれ以上に増やしてどうするのだ!!
官僚も公務員もエリート意識や軽蔑心を持つのならば、私欲優先の大衆にある程度は抗って欲しい。街の景観を破壊する看板や、注目を浴びたいだけの建設には許可を出さないで欲しい。大型のショッピングモールよりも、魚屋や八百屋のウンチクを聞きながらする買い物のほうが文明的だ。それと同じで、サッカーの試合とは、ある人にとっては自らの帰属意識を確認する祭りでもある。人間の営みとしては文明的で健康的なのだ。そしてエリートであるならば、悪しき平等意識を訴える人間を、ねじ伏せる理屈と振る舞いを持たねばならない。

そもそも日本は豊かなのに、なぜ併用でなければならないのか?陸上の選手だって、陸上専用(ある??)でやったほうが良いに決まっている。
サッカーなんかは専用スタジアムでするべきものだ!

外国のサッカーや野球を見てまず思うことは、「このスタジアム羨ましい」という思いである。
日本は現在にでも応用できる建築技術を持つ国である。そして世界的な建築家を多く排出している国でもあるらしい・・・
何故ピッチの選手が誰か判らないスタジアムでサッカーを見なければならないのか??

税金をもっと有意義に使って欲しい。

僕は孫に侮蔑される爺さんにはなりたくはないのである。

これは大衆の権化である僕の屁理屈だ!大宮の人たちが手にしたスタジアム羨ましかったww

追伸・・・関係ないけど、聖地「国立」でコンサートをする者に「畏れ」はあるだろうか?僕は嫌いだ!!

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posted by モーリー |20:19 | コメント(17) | トラックバック(0)
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