2008年10月17日

オシムイズムの体現者たれ! ~9~

「想像力。」と「スペースメイク。」

例えばアウェイのオマーン戦。駒野のクリアがオマーンの選手に当たる。この日一番危険だったオマーンのFWの前にこぼれる。トゥーリオあわててチェック。倒してPK。
例えば親善試合のコロンビア戦。俊輔が味方DFラインの前でこぼれ球をフリーで拾う。味方が一気にギアを上げカウンターの準備。俊輔タッチをミス。敵に渡る。中澤あわてて守備の準備。既に遅く、決定的なパスをカウンターの準備に入っていた加地とのギャップに通される。
前者は駒野のミス。後者は俊輔のミス。そう言ってしまうのは簡単である。事実、ミスに違いない。しかしながらミスの無いサッカーは有り得ない。サッカーはミスを紡ぎあうスポーツだという人もいる。
トゥーリオは相手よりも反応が遅れ、中澤は全くの想定外だったように見えた。

「ミスを想定して準備する。」
「それでも行くと判断すれば、それをリスクだと自覚する。」

オシム時代の日本代表のサッカーを見返してみると、全員にその意識が植え付けられている気がする。事実、中澤は「オマエの準備も足りていなかった。俊輔もミスをする。」と言われている。

想像力が足りないのかもしれない。サッカーはよりハードな運動量を要求しているように見えるのに、人が動かない印象を受ける。前への意識が強いのに「前に人数が足りない。」と嘆く指揮官の元では、スペースを作ってそこを狙う意識は少ないように見える。ゴール前に必要なのは、人数ではなく、有効なスペースだと言いたくなる。その上で人数が必要ならば納得が行く。どうしても、ユーロを見て、オシムサッカーを思えば、現代表のサッカーに批判的になってしまう。
日本人はあまり要求し合わないと言われる。事実そうだと思う。そうだとしても、日本人は常に相手が何を想像しているのか考える癖があるのではないか?だから、使いたいスペース。フォローに来て欲しい確度や場所やタイミングを、より精密に考えられるというのは傲慢だろうか?「感じる」という繊細さを持っているのではないか?その前提で話し合わないのはナイーブにすぎるとしても、その繊細さを活かしたパスサッカーと言うのは有り得ると僕は思う。怒鳴りあわなくとも、確認しあえばいいのだと思う。
想像力を常に働かせるというのは、集中力を切らさないと同義だと思う。コンセプトを体現するのもいいだろう。自分の良さを出すのもいいと思う。でもそれだけではサッカーにはならない。サッカーはフリーランニングが殆んどを占めるスポーツだ。そうであるならば、そのランニングにも想像力を働かせるべきだと、僕は思う。
スペースがあるのは前方だけではない。後ろにもある。そこに下がってボールを捌ければ、それで敵の選手を一人ひきつければ、それで生まれるスペースがある。そういう意識を全員で共有してはじめてパスサッカーが出来る。
実は、岡田監督の目指すサッカーは僕にはあまり見えていない。パスサッカーでは無いのかもしれない。サッカーを見ても解からず、コメントを聞いたらもっと解からない。
あまりにも選手が団子状態で、全員にスペースが無い。それでフリーズしてしまうから、スペースが生まれない。プレスをかけるためだという大木理論にしては、相手のサイドバックorウイングバックを誰が見るのかハッキリしない。
オシムを失って、意気消沈した日本に、再び闘う気持ちを注入したのは間違いなく岡田監督だろう。マリノスタの僕にとっては、素晴らしい思い出と勝利をくれた監督だ。ある意味ヒーローでもある。ただ、監督時代末期は、何をやりたいのか、そのバランスの到達点が見えなかったのもまた事実。今も同じような状態であると感じている。少なくとも僕は攻撃的な二人をDFラインの前に並べれば、攻撃的になるとは思わない。

少なくとも今のサッカーは日本的ではないと思う。大和魂や、サムライ魂だけが日本ではないと僕は思う。『日本サッカーの日本化』は既にして終わってしまったのか?



追伸

何故だかコメントが返信出来なくなってしまいました。
意味がわかりません。
ブログという公に発信されるもの、意見や批判や批評・・・そういうものを書いておきながら、一方で自分は批判されたくないという人たちの為に、和やかな雰囲気とやらを作るために、制限が増えてしまったようです。
自分勝手なのは、礼儀やら、社会性を叫びながら、顔も出さず、リスクも負わない私も含めたブロガーではないでしょうか?
選手や監督、その家族や友人も見ているかもしれないにも関わらず・・・
僕はそういうものを「アンフェア」と呼びます。
マリーシアでも、狡賢さでもない、ただの「アンフェア」です。
せめてブロガーは批判も、中傷すらも、甘んじて受けるべきです。それに対しての返答をするべきなのです。それが大人の作法だと僕は思っているし、最低限の、本当に最低限の礼儀だと思うのです。
その胆力が無いのならば意見など言う資格は無い!・・と僕は思います。

僕が間違っているのか?ならば去るのみ。

posted by モーリー |22:15 | コメント(15) | トラックバック(1)
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2008年10月17日

オシムイズムの体現者たれ ~8~

中村俊輔 『一部』と『中心』

久しぶりに彼のあのような顔を見た。マリノスが降格争いをしているシーズン・・・既にして中心にしてエース。彼はよくふてくされたような顔をして、仲間に怒りをぶつけていた。

中村俊輔の現代表における役割は間違いなく変わった。彼の仕事はラストパスを出し、局面を打開し、得点に絡むこと・・・である。現代表のコンセプトが招く必然の消耗戦に巻き込まれつつ、彼はマジックを求められる。常に何かをしなければならない。そういう役割を任されている。

「常に天才でなくとも、一試合のうち2,3回だけ天才であればいい。」
「10人が中村に合わせるよりも、中村がチームに合わせたほうが簡単だ。」

そう言ってのけたオシム。そして見事な知性と献身でチームにフィットした中村俊輔。
オシム時代とは違い、現代表の攻撃は、全て個人のアイデアと技術に依存している。攻撃の「中心」である中村俊輔は、戦術や攻撃パターンそのものだ。
現代表に関して言えば、大久保は間違いなくブレーキになっているし、長谷部は味方にスペースを消され、また味方のパスコースを作れない。進む場所が判らない。遠藤はいつ失うか解からないマイボールを気にする余り、味方を追い越せない。阿部はカバーすべき場所が多すぎて、しかも攻撃まで求められている。
オシムは「チームは組み合わせ」だとよく言っていた。そう考えれば、不幸な組み合わせだと思う。一人ひとりではいい選手なのに、今のチームでは輝きを失っている。トゥーリオがロングボールを多用しなければならないのは、パスコースがないからだと思う。大久保がスペースメイクをしないのも、バイタルエリアに留まるのも意識が欠如をしているからに他ならない。ようは、考えて走っていない。

シュートが入らないのは今に始まったことではない。結果、引き分けたことも問題ではない。それよりも問題なのは、かつてあったものを失ってしまったことだ。いて欲しい場所に人が居ない。居てほしくない場所に選手が立っている。それではパスはまわらない。
岡田監督が、監督を引き受けた経緯など関係はない。協会も、会長も、政治も関係はない。サッカーファンである僕にとっては、ピッチの上で行われているサッカーが全てである。だから、本来のいい部分が引き出されていない選手達を見るのは悲しい。
俊輔に責任を背負わせ、トゥーリオの選手寿命を縮めてまで、する価値のあるサッカーだとは思わない。選手を消耗するのだけはやめて欲しい。
それでも俊輔はチームの為に誰よりも走り鼓舞している。長谷部は、顔に似合わぬ気迫で戦っている。トゥーリオも怪我を押して、明日のことなど考えず体を張っている。それだけに虚しい。

既にして行われているのが日本のサッカーである。それは一つの真実でもある。
それでも敢えて言いたい。
現代表のサッカーは『日本』のサッカーではない。
・・・と、僕は思う。


posted by モーリー |20:54 | コメント(15) | トラックバック(0)
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