2008年03月25日

スペシャリストの生きる道。

『スペシャリスト』として生きる覚悟。

前回自分で予告しておきながら、オシムの求めるスペシャリストってどんなものだろうか?と少し考え込んでしまった。参考にしたい記事を、探したけれど結局文献が見つからず正確に引用することも出来ない。
オシムは以前に、ポリバレントとスペシャリストの関係を語る際に
「~しか出来ない選手」
とスペシャリストを表現していたように記憶している。

またゴールデンブーツ賞を獲得したパンチェフのことを、彼の得点能力の素晴らしさ、そしてそれがいかに特殊な能力であり偉大な才能であるかを認めつつも、
「しかし、それだけだった・・・」
とも語っている。批判を浴びつつも、より活動的で、よりチャンスそのものを多く獲得できるであろう選手(名前を失念。)を好んで使っていた。

少なくともサッカーは足し算ではない。最高の選手達を集めれば最高のチームが出来るというわけではない。それは既に歴史が証明していることでもある。
だからといって特別な才能を持つ選手が必要ないわけではない。ボールを獲られない方法を知っている選手。キープすることで時間を調節できる選手。人よりも多く見えることで、多くのことを一本のパスを解決できる選手。いいチームには必ずこういう選手が何人かはいる。オシムはその選手達にも、多くの活動量や、長い距離を走ることを厭わない精神。ボールへチャレンジする守備を求めていた。それはスペシャルな能力を持つ選手を、よりスペシャルにする為の要求でもあった。

ではスペシャリストとは?
以前にも書いたオシムが描くサッカーの未来を語った言葉の中にある一節。
「一人のストッパーと、FWしか出来ない選手。」
現代サッカーは選手個人により多くの選択肢を持つように要求することで成り立っている・・・とも言えるし、選手にとってはより多くの仕事が与えられている・・・という言い方も出来るでしょうか?
その仕事量は膨大で、考えなければならない事、同時に考えておかねばならない事は非常に多い。
本物のトップチームにおいては、考えるよりも先に体が反応しているとしか言いようのないくらいに、プレースピードが速い。
ここで語ってきたような前提でポリバレントを解釈してしまえば、もはやスペシャリストなど必要ないように思えてしまえる。

しかしながら例えば「得点を獲る」といった任務だけを背負ってピッチにいる選手がいるというならば、多くの任務を持つものよりも、より深く一つのディティールを探求することが可能なのだと僕は思っている。その行為がDFに恐怖心を与え、相手チームの攻撃精神そのものを奪ってしまう場合もある。それ程の力を持つ者が居るのならば、もはやチームの戦術として組み込まれていると言えるのだと思う。そうであるのならばそれは単純な足し算ではない。(ただし、勇敢に戦うことでその存在を無効化する・・・という方法論が確立されつつあることも知っておかねばならない。)

それ程の力を、チームのメカニズムを変えるだけの力を持つ者は残念ながら日本には居ない。世界のトップ10を目指すと言うのならばそう言わなければならない。アジアカップ敗戦後のカメルーン戦で、いわゆる「個」の突破を期待されて登場した大久保も、田中達也も、スピードはもたらしたが、有効なドリブル突破などただの一度も無かった。来日したばかりのカメルーン相手にすら・・・である。個人で仕掛けるのならば、必ず二回に一回は勝たなければならない・・・そうでなければチームの走る意欲を奪い去ってしまうだけである。(実際には、楔としての勝負というのは有り得る。シュートも同じ。)

実際には守備をするFWのほうがより多くのチャンスを得られる。スペースを意識できるドリブラーのほうがより多くの突破のチャンスが得られる。それは動かしようの無い現代サッカーの姿だと、僕は思う。そしてなお、勝負して突破できるドリブラーであり続けなければならないし、シュートチャンスに決めてしまえるFWであり続けなければならない。そういう覚悟を持たなければ、本当の武器を持つことが出来るとは思えないし、チームの王様として君臨したとしても、今のままでは間違いなく国内使用にとどまってしまうだろう。
そもそも過保護な中では、本当の勝負心は育まれない。と僕は思う。
そもそも如何なる批判を受けようとも、中傷を受けようとも、それでもチャレンジできる人間でなければ、そもそも「スペシャル」ではない。

結局は自分が優秀なサッカー選手であること、チームにとって有益なサッカー選手である事は自分で証明して見せなければならない。スペシャリストであろうが、ポリバレントであろうが、貢献度こそがサッカー選手にとって優劣を決める唯一の手段である。

問われるのは見る者の目だとも言える。いかなる武器を持っていてもそれをゲームで活かさなければいい選手だとは言えない。その為に何が必要なのかを、見る者が知っているのならば、いいサッカーを育てる為のほんの後押しくらいにはなるかもしれない。「スペシャリスト」と聞いて何を想像するのか?はその人のサッカー観を表しているとも言える。その総体がサッカーのスタイルを形成するのならば、「日本化」は遠い・・・ような気もする。
少なくとも僕は、FWは点だけ獲ればそれでいい・・・・何て軽々しくは言えない。

敬称略

追伸 オシムさんが退院した。本当に嬉しい。
「日本に来たのは偶然。一年目は特にそう。ただ、二年目以降は私の意志だ。」
オシムさんはどういう選択をするでしょうか?「いいサッカー」を愛する私たちがいる!と少し声を挙げたい気分です。

追伸の追伸

読み返してビックリ!!オシムイズムについて一行も書かれていないです。ですから題名を変えて載せることにしました。ちょっと今の僕には書けそうもないテーマなので・・・今年中の宿題ということでお願いします。

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posted by モーリー |20:58 | コメント(16) | トラックバック(1)
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2008年03月06日

オシムイズムの体現者たれ! ~4~

『ポリバレント』と『スペシャリスト』・・・対立論の無意味。

以前に少し書いたことがある。最高のポリバレントはサッカーのスペシャリストであると・・・
今もテレビや雑誌では二つは対立するものとして議論の対象になる。「ポリバレント」か?「スペシャリスト」か?この二つは全く対立しないと僕は思っている。
オシムの言うところの「ポリバレント」なタレントとは、決して器用な選手を指して言っていることでも、複数のポジションをこなせるという意味でもない。ましてや、素晴らしいドリブルやパスやシュートというスペシャルな能力を持っていないという意味でももちろん無い。
例えばオシムの言うところの「ポリバレントな能力」というのは、ロナウジーニョにペロッタの運動量があれば、加地にベッカムのクロスがあれば・・・という問いかけのようなものでもある。
今では代表でいわゆる「ワンボランチ」として使われているらしい鈴木啓太・・・今の代表ではDFラインの前の掃除屋に過ぎず、去年のプレイに比べるとスケールダウンの印象は否めない。これはシステムやフォーメーションが変わってしまったのが原因ではないと思う。
「オシムさんに頭の中を変えてもらった」という鈴木啓太は、オシムによくこう言われていたそうである。
「啓太!もっとシュートを狙っていいんだぞ!」
自分に出来ることをするというのは悪いことではない。ただ、限界を自分に決めてしまってはサッカー選手としての伸びは期待できない。彼の前に出る力や、誰よりも早く守から攻へと切り替え、カウンターの起点にすらなっていた姿は今の代表では殆んど見られない。そこでのプレイが彼に向上心を与え、さらには自分に足りないものを強く自覚させていたに違いないと僕は想像する。

現代サッカーの潮流は、一つの仕事だけしてればいいというのを殆んど許さない。攻撃の選手は攻撃を・・・守備の選手は守備を・・・というのは殆んど許されてはいない。
「自分の得意なプレイだけをしようとしていた選手がまだいた。」
これは、アジアカップの総括でオシムがいった言葉だ。誰のことかは正直分からないが、全員に当てはまることだとも言える。オシムの選手達へのメッセージだと僕は思っていた。見るからにそういう怠惰な選手は居なかった。

ポリバレントな能力は現代サッカーに適応する為には必要な能力だ。必要とあれば、俊輔もロナウジーニョも、サイドバックの仕事をする必要がある。中澤がゲームメイカーにならなければならない瞬間はあるし、駒野がウイングになったりFWになったりする必要も試合の中には必ずある。そこで何が出来るかがオシムが求めていた能力でもあると僕は思っている。
俊輔がパサーだから、守備が出来ないとか、駒野はDFだから、前線に行っても脅威にはならないとか・・・それは決して相手チームは見逃してはくれない。内田のクロスの精度が加地より上だとしても、覚束ない守備を見せていれば、そこはたちまちにしてチームの弱点になってしまう。

攻撃な得意な選手には守備を、守備の得意な選手には攻撃をするように仕向けるのはオシムの常套手段であった。この事一つとってもオシムの言わんとしていた「ポリバレント」が透けて見える。

仕掛ければ失敗してもいいのか?その意気込みやヨシ!とは僕も思う。ただ、仕掛けても失敗してもいいとは思わない。せめて二回に一回くらいは勝たなくては、チームの走る姿勢すら奪いかねない。そういう執念が無ければ勝てないかもしれないし、それでも仕掛けることが出来なければ、シビアな場面では勝負できない。・・・かもしれない。勝負するとはそういうことだと僕は思う。過保護な中では、そういう勝負心は洗練されないのではないか?
また「スペシャリスト」の間違った解釈は、スケールの小さなドリブラーや、シュートを打つことが素晴らしいと勘違いするFWを育てることになりはしないか?
ヘディングのスペシャリストである巻は、カウンターつぶしのスペシャリストでもある。予測やマークに優れた阿部勇樹は、ボールを奪えば攻撃の起点になり、ドリブルでも持ち上がることが出来る。またその流れのまま攻めあがれば、相手にとっては危険なフィニッシャーでもある。
恐らくはプレイの選択肢の少ない巻を、オシムはポリバレントなタレントに分類はしないが、ジェフ時代に相手のエース・・・守備の苦手な選手に、度々阿部をマッチアップさせていたことを考えても、間違いなくトータルな能力に優れた阿部はポリバレントなタレントである。そして、彼自身は今も足りないものに気づき続けているのではないか?
オシムが「ポリバレント」な能力を選手に求め続けていたのは、選手としての「引き出し」を増やす為だったのだと今は感じている。そして一般的にはその「引き出し」が多い選手は、いい選手とされているのも事実だと思う。

オシムは選手に「均質」を求めていたわけではない。ただ、チームに対する責任として、最低限の仕事を求めていただけだと僕は思う。いわゆる「スペシャリスト」を嫌っていたわけではない。


敬称略

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posted by モーリー |20:48 | コメント(17) | トラックバック(0)
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