2008年01月21日
オシムイズムの体現者たれ! ~2~
日本人選手の『可能性』と『理想像』。 『日本に来て最初の頃、私が驚いたのは、選手が左足でも右足でも上手にプレーできたり、またヘディングが上手い等、良質のサッカー選手に必要とされる全条件を備えていることだった。また戦術的な分野に関して言えば、日本人は学習能力がとても高い。彼らの向上心もまた凄まじい。日本人選手はぶっ倒れるまで走っているので、練習場から本気で追い出さないといけないくらいだ。(中略) 日本のサッカーレベルがヨーロッパで過小評価されているのは今に始まったことではない。(中略) しかし、Jリーグとヨーロッパのサッカーレベルのみを比較した場合、日本は尻込みする必要はないと確信している。』 日本とヨーロッパを比較した場合、当然のことながら身体的なハンディキャップは存在するとし、それは現代サッカーにおいては、カバーするのが難しいデメリットとしながらも、 『しかし日本人選手は別のクオリティを有する。それは他国選手より大きなクオリティでもあり得る。端的に言えば、日本人選手はとてもスピードがあり、極めて敏捷で、また技術的に優れている。』 (『』内全て引用「イビチャ・オシムの真実」より。) 僕は監督イビツァ・オシムの最も優れた能力の一つは、あらゆる「先入観」と呼ばれるものを排除して物事を見極める力にあると思う。もちろん「完全な」排除が可能などとは思ってはいないけれど・・・彼の目は信頼に足るものだと、僕は思っている。(僕も似たような印象を日本人選手に持っている。) この「スピード」というものは、オシムが本来的に使っている「スピード」のことではなく、単純に「すばしっこい」という意味合いであると思う。 そして「技術」と言っているのも、彼が本来の意味合いで使っているものではない。単純にボール扱いが上手いという意味合いで捉えたい。 端的に言えば「スピード」も「技術」もゲームに昇華されていなければ、「スピード」とも「技術」とも呼ぶべきではない。(これらについてはまた次回) 少なくともオシムはゲームに昇華できていないそれらを「潜在能力」と考え、それらをゲームに昇華する方法を思考し、オシムはそれを「日本化」と呼んでいた。 そして僕も常々感じていたこと、ある人はそれを「コンプレックス」と呼び、ある人は「リスペクトし過ぎる」と言った。 ヨーロッパや南米に対する「見えない壁」に対しては、「尻込み」する必要は全く無いとし、その克服(慣れというべきか)には、実際に比べる機会を多く設けるべきだとした。実際にジェフ時代には、トルコでキャンプを張り、代表に就任してからはヨーロッパへの遠征を望んでいたと聞く。そして浦和のCWC出場を我が事の様に喜び、もしミランと対戦することになれば?の問いには 「それは日本のサッカーにとって素晴らしいこと。何故ならば自分達の良さに気づくことが出来る。」 と言い放った。 「経験する為」でもなく、「世界への挑戦」でもない。オシムはそうは言わなかった。オシムはそれ程に日本人の潜在能力を信じていたのだろう。 (勝てる・・・というのではなく。) そして本題・・・日本人選手の「技術」や「スピード」のみならず、オシムをして「凄まじい向上心」「ぶっ倒れるまで走る」「走りきろうとする意欲」こそが、オシムが信じていた日本人サッカー選手の潜在能力だったのではないだろうか? 「私は監督と呼ばれるのは好きではない。あえて言うならば教師だろう。」 と言っていたオシムにとっては、日本の選手たちは「教えがい」のある選手達だっただろう。もちろん彼は「受け身」すぎると言う苦言も忘れない。 「頭の中を変えてもらった」鈴木啓太は新しい代表のリーダーになるべく、今も鹿児島で奮闘していることだろうし、 「出来ることと、出来ないことがわかった」とミラン戦の後に語った阿部勇樹は、敗北を糧に、オシムを越えようとしている最中である。 そしてオシムが珍しく個人名を挙げてまで語った理想の日本人選手、それは「中山雅史」。 伝説に埋没せず、今なお生ける伝説である彼こそが、オシムの言う理想の日本人選手である。 僕の思う中山雅史の最も優れた才能・・・それは「尽きることのない向上心。」である。 オシムが残した様々な言葉は、今なお理想のサッカー選手を浮かび上がらせる。それは日本人にとっては、日本人の精神性と優位性を体現する理想の日本人選手だと言っていいのだろう。 そしてその「理想」を越えていこうとする者だけが、その「理想」に近づくことが出来るのではないか?今はそう思っている。 敬称略 (次回は「はやさ」と「技術」について) 「イビチャ・オシムの真実」 ゲラルト・エンツィンガー トム・ホーファー著 平陽子訳(日本語版)
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posted by モーリー |19:53 |
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