2007年08月29日

リアリズムと相容れないジャポニズム。

「日本の選手達は、冒険に臨むような面持ちで自国開催のワールドカップに臨んでいたのではないか?私から見れば非常にナイーブだった・・・ヨーロッパの基準で見ればリアリズムが足りなかった。ただ、その純粋さはヨーロッパの人間を感動させるものでもある。」
エキセントリックなフィリップ・トルシエの通訳として活躍したフローラン・ダバディの言葉である。

ヨーロッパ人は、美しさの中にとげのある「薔薇」を愛し、日本人は咲いたままに散りゆく「桜」を愛するという。
ダバディはこの違いに深く頷きながら聞き、後に上記の言葉を穏やかな笑顔を携えて語った。
(番組名も正確な言葉も思い出せない・・・でもニュアンスは正しいはず・・・)

印象派の勃興・・・かつてヨーロッパ文化の新たなる潮流に大きな影響を与えたのは日本の文化である。技術を突き詰め、写実性に富んでいた当時のヨーロッパ絵画・・・そこに骨董品の包み紙として使用されていた日本の絵画に出会い、やがて浮世絵と葛飾北斎に出会う。左右非対称や色使い、独特の遠近法の表現技法は驚きをもってヨーロッパに迎えられた。
ジャポニズム・・・ヨーロッパでの一連の日本文化の流行はこの「ジャポニズム」という言葉を生み出し、やがては印象派の誕生に結びついていったらしい。

僕は文化史や芸術史に詳しいわけではないけれど、肝心なのは今よりも遥かに「差別」や「蔑視」の激しいヨーロッパで、日本の文化がこのように迎えられた・・・という事だ。逆を言えば、ヨーロッパ人の文化に対する構え方や、それを文化の進歩に結びつける貪欲さは、僕の尊敬するところでもある。


「結果こそ全てだ!!」と言わんばかりの悪しきリアリズムを、僕は忌み嫌う。「勝利の為に人間性を放棄せよ!!」という狭量さを僕は忌み嫌う。
サッカーの世界でも、「リアリズムが足りない・・・」という言葉はよく聞かれる事でもある。
体格的に不利な日本においては、「引いて守る」という選択肢は無謀そのものでもある。もちろん相手のいること・・・引いて守らなければならない場面があるにせよ・・・そのリアリズムを求めている割に、日本のサイドバックは単独突破と正確なクロス、限界しらずのタフネスを求められている・・・そんな選手は世界を探しても片手ほどしかいないにもかかわらず。
日本のサッカーは、「綱渡り」のサッカーでもある。引いて守る・・・というコンセプトを、優先順位の最上位に置くことはあり得ないと僕は思っている。
まず考えるべき事は、人数をかけて強引にでも押し込んでくる相手をどのようにして押し下げるかであり、ポゼッションの時にいかにしてリスク管理をするかでもあると思う。
それは既に多くの指揮官が実行していることでもある。そして観る側はそのコンセプトを共有し、コンセプトを実行する為の負の部分に焦点をあて、その局面を切り抜いての批判など自分の無理解をさらけ出すことだと知るべきである。それはリアリズムを求めることと断じて違うのだと僕は思っている。

ダバディはこうも言う。
「ルールの運用や、マリーシア・・・そういうものを活用して欲しいと僕は思っているのだけれど・・・そういう意味では、日本の選手達はナイーブ・・・ただそれは、感動を呼ぶナイーブさでもあると思う。日本の選手達の生きる冒険は、確かにヨーロッパに足りないものでもある。」
ダバディは「薔薇」を愛する自分を吐露しながら、「桜」の美しさに魅入られている自分の感情をこう表現する。


日本のサッカー界は、本格的に歩みをはじめたばかり・・・だとも言える。Jリーグの特性の定義づけも、日本サッカーへの共通理解もまだ先のことだとは思う。
そうだとしても、日本のサッカー文化は世界の何処とも違う「ジャポニズム」として世界に発信するべき文化になるべきだと僕は思っていたい。
勝つためのシステムが優先され、勝者の為のシステムが構築され、コマーシャリズムに毒され、マネーの力に凌駕されているのが、現在のヨーロッパサッカーであるならば出会うべきは、将来に僕たちが手にする「日本のサッカー文化」であるのかもしれない。

日本が本当に手にすべきは冷徹なリアリズムなどではなく、『物語』を次々に紡ぎだす『日本のサッカー文化』であるはずなのだと僕は思う。

(親愛を込めて敬称略)

追加:歴史(順番)に誤りがあるという指摘がありました。もう少し調べて、追加を付け加えますが、論旨は変わらないので記事はこのままアップしておきます。無知なのに見切り発車・・・申し訳ございません。
歴史の記述は、ヨーロッパの芸術に日本の文化が影響を与えたことが重要・・・というくらいで見て下さい。


追加の後の修正・・・そして追記・・・

無知は恥じである・・・そして僕は無知であり、無恥である・・・恥を隠す為にいかにして、お茶目な奴だから許してやろう・・・という雰囲気に持っていこうか?とも考えたのですが(もちろんウソです。)、全面的に救いようもなく、僕がいかに浅はかな人間であるか?の表明をしてしまいました。
何より結論を出しうるだけの知識もなく、結論を出していた事こそが、最大の誤りであった・・・のだと思います。
事実関係の誤り(勘違い)を修正した本文はこのままにして(無知を自覚しておく為に・・・そして日本の一般的な認識として)、追記として書き加えます。

印象派に影響を与えたという「ジャポニズム」・・・という括りは恐らくは日本人の傲慢である。
事実、専門家の見方として、その技法に「共通点」は無く、むしろ写真技術の登場こそが決定的な要因であった!!というのが印象派を生み出した土壌を持つ欧州のスタンダードな美術史の認識であるらしい・・・
そして「歴史」が、事実関係の積み重ねや、検証の積み重ねである以上、そして技術的な共通点が無い以上は、正しい美術史はそちらだと言うしかない。

それでも僕はこうも思ってしまう。印象派を生み出した天才達が、ジャポニズムの天才達に刺激を受けたもかもしれない・・・そして、印象派の天才達の表現の動機の片隅に、日本人の存在があったのなら僕は満足である。
その葛藤を超克して、印象派はより良いものになった・・・とは言わない。それは傲慢でもある。
そうだとしても、ヨーロッパと日本の天才達が刺激しあっていたのかもしれない・・・という事は、歴史と違う「物語」として付け加えておきたい気がする。

所詮僕は庶民である。そうありたいとも思っている。
だから僕が絵画を見るうえで重要なのは、表現の動機や、作品に込めた感情だったりする・・・それを想像してみるのは至上の娯楽でもある。
たかが庶民が、技法を語り、受け売りの表現を使ったりするのは、僕からすれば見苦しいのである。(専門知識をもって技法の素晴らしさを語れるのはもっと素晴らしいのは言うまでもないww)

近代や国家という概念が生まれる遥か昔・・・日本の識字率は世界一だった。
みすぼらしい着物から、紙と筆を取り出し、絵を描いてみせる日本の庶民に、外国の使節団はすごく驚いたらしい。

日本の文化は大衆文化でもあるといわれる。
日本の庶民が望むサッカーが実現され、それがヨーロッパのサッカーの天才達や理想主義者たちに、爽やかな風を吹かせられるのならば・・・
それはやはり誇るべき「ジャポニズム」に違いない。

追伸 追記を書く為の動機を与えてくれた、拙い僕のブログにコメントをくれる人に感謝を捧げつつ・・・

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posted by モーリー |15:39 | コメント(26) | トラックバック(0)
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2007年08月21日

監督の『創造力』。

「理想」と「現実」は違う・・・これは当然そうなのだろう。
ただ理想なき現実も、現実なき理想もあり得ない・・・個人的にはそう思う。
どちらが先でもなく、どちらも大事なのではなく、どちらも必ず存在するものだと僕は思っている。

「監督としての自分はリアリストである・・・」
日本代表の現監督であるイビツァ・オシムはそう語る。
「ロナウジーニョがいないからといって、攻撃的に振舞えない・・・というのではいけない。それを言い訳にしてはならない。そこは監督の創造力・・・とも言える。選手がいないからと言って、つまらないサッカーばかりしていたら、誰もスタジアムに見に来なくなる・・・」
そして違うある時にこう語っている。
「千葉に来て驚いたことは、負けても『次、頑張れ!!』と言ってくれること・・・日本の人たちは勝利だけを見に来ているのではない。と感じた。」
これを「勝負に甘い」と言わないオシムはロマンチストだとも言える。少なくともサッカーそのものに対しては理想主義者かもしれない。
こういうある種ナイーブな「理想」は、いずれ日本が力をつけた時、世界のサッカーに突きつける最大の武器になるはずだ!と個人的には思っている。(これは、サッカーはエンターテインメントだ!というのとは違うが、この話はまた今度・・・・)
(「」内引用:僕の記憶なので不正確かも・・・)

オシムは「集団」と「組織」を使い分けて話す。そして、
「最高の組織サッカーはバルセロナだ。」と語る。
彼らはもちろん上手い。抜群に上手い。でも上手いだけではもちろんない。彼らは味方を信じて走る。スペースをつくる為に、ボールを受ける為に・・・そしてそれは二手先、三手先を描いて走っている。その走りは創造的でもある。
ボールを送る側もしかり、フリーだから渡しているわけでも、プレッシャーを受けたからでもなく、しっかりと「意志」がボールに込められていると感じられるパスを出す。そうでなければキープしてみせる!という責任感あるプレーだともいえる。彼らは紛れもなく最高の『組織サッカー』の一員でもある。
それは彼らの技術の結晶とも言える。そしてその「技術」は天からの授かりモノ・・・とばかり言い切れないのではないか?と諦めの悪い僕は思ってしまう。その「意志」の蓄積が彼らの技術を支える「知性」を生んだのだ!と断言したくなる。
つまり「組織」とは、人間(選手)を組み込むものではなく、人間そのものが構築するもの・・・
そういう原点をプレイする側も、観る側も持っていたい。

そして一人の選手が劇的に「組織」を変えることは有り得ることでもある。
それはロナウジーニョのような男かもしれないし、マケレレのような男かもしれない。

そして「監督の創造力」が「組織」に与える影響も、必ずある。ましてや現代サッカーは、監督の時代とも言われる時代である。
「意志の統一」がいかに大事かは、ドイツで既に学んだことでもある。
これはあくまでもピッチにおける「意思の統一」の話である。重心を後に置きすぎた日本は、試合の多くを主導権を握られた状態で戦った。
「攻撃」と「守備」は分断され、攻撃陣がカバーする守備範囲は途方もなく広く、守備陣が攻撃を助ける為に走る距離はとてつもなく長かった。
残念ながら、日本の11人はただの「集団」であり、それ自体が一つの生き物の様に感じられる「組織」ではなかった。

何が言いたいのか分からなくなってきた・・・・
実は反町監督にエールを送りたいのだ。
実のところ僕は彼のサッカーが嫌いである。そして彼の会見を見るたびに「イヤミか!!」と突っ込みを必ず入れているほどに、彼の横文字の多いコメントが好きにはなれない。(よく解からない)
そんな僕でも彼のいいところは見えている。
彼は間違いなく五輪代表監督に執着する男ではない。そういう保身の男ではない。と僕は思う。
日本サッカーの前進の為に、多くの若者に経験を積ませる為に、今の日本に足りないパーツを補う為に・・・そして何より若い選手に世界を経験させる為に五輪出場権を・・・と思っている。それは僕から見れば目の前の若者達によせる「愛情」にも見える。
ただ一方でこうも言いたい。
「それはわかっている。ただ・・・」
所詮は僕も無責任な立場から言っているだけ、「ただ・・・」の後は、飲み込むしかないのかもしれない。

ただ反町監督はこうも言っているのである。(これも曖昧・・・)
「日本のサッカーと呼べるものがないいじょうは、とにかくこれが日本のサッカーとやって見せるしかないのかもしれない。そういう方向で行くしかない。行った先が間違いだとしても、それをやる事に意味があるのだと思う。」

上のオシムさんの言葉は、そのオシムに「チェルシーを真似ている節がある」とされた新潟時代の反町監督に向けられた言葉のような記憶がある。あくまでも暗にではあるが・・・
僕は反町さんの表現する「日本のサッカー」が見たい。それこそがきっと日本の為であるはずだ。
今後雨後の竹の子のように出てくるはずの「日本スタイル」の一つとして、反町監督のサッカーがあって欲しい・・・と僕は思っている。

追伸 面白かった対談を記事にしようと試みようと・・・するはずもなく、面白かった・・・という印象しか僕の脳には残ってないようです(苦笑)


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posted by モーリー |19:55 | コメント(9) | トラックバック(0)
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2007年08月07日

偉大なるセルジオ越後・・・その背中を凝視せよ!!

僕はセルジオ越後さんが大好きである。
僕の中での彼の本質は「さわやかサッカー教室」で、子供を見つめる慈愛の眼差しであり、日光アイスバックスの選手達に寄せる愛情である。
彼が畑違いのアイスホッケーに行ったのは、ほんの少し理解できる気がする・・・と言っては彼に失礼だろうか?そこに、「情熱」と「古き良き共同体」があるからなのかもしれないと、浅はかにも思う。
彼の育ちは、ブラジルである・・・
かつては「全日本」の誘いを「中身はブラジル人だから・・・」
と言って断ったそうだが、彼はブラジルで育った日本人・・・つまりはマイノリティである。彼が遠くブラジルで聞いた、両親の母国と彼の見た日本は随分違ったのかもしれない・・・残念ながら、彼は日本でもマイノリティだったのかもしれない・・・

それはともかく、僕はセルジオ越後さんが大好きである。
哀愁を感じさせるその背中は、父ナシで育った僕の理想の父親像でもある。
今の彼がしようとしている事は、彼が育ったサンパウロの日本人街をモデルに、古き良き想像の日本を、両親から聞いた日本を復活させようとしているのかもしれない・・・とも想像する。日光の町でそれが実現されればこんなに素晴らしいことはないとも思う。日光の町の人たちは、是非セルジオ越後を支えて欲しいとも思う。それは自分の子や孫を何かを残すことかもしれない。
日光アイスバックスの選手の情熱が、セルジオさんを動かした。僕の思う彼は、情の深い男でもある。

「東洋人にもサッカーは出来る!!」
とは、日本人サッカー選手への最大のメッセージでもある。この言葉の意味をもっと考えてみてもいいかもしれない。
ブラジルでの彼は間違いなく、日系人として育ったのだ。

そして彼は、日本にサッカーを根付かせようとした男でもある。
彼のいうサッカーとは、全員がプレイするゲームのことであり、それは最大の遊びでもある。
プロだけがサッカーじゃない!!と言ってるようにも思う。
彼の日本サッカーへの嘆きは、コーチに区切られて楽しそうにサッカーをしない子供達にであり、プレイできない選手達に向けられる。チャンスを与えて欲しいと彼は願っている。

空き地で大人も子供も入り混じって、真剣に勝負する・・・彼が日本で見たい光景はそういうものに違いない。

彼の提言は全てが愛情である・・・と僕は思う。
苦言を言う事は、彼が引き受けてやっていることでもある。彼がそれを引き受けられるのは、強いからでもある。

僕も今度、恥ずかしがらずに子供の試合に混ぜてもらおう。セルジオさんのようには技術は教えられないけれど・・・

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posted by モーリー |01:37 | コメント(54) | トラックバック(0)
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2007年08月07日

日本人の『個』を考える・・・無駄に・・・個人的に・・・

『個』と『個人技』は違う・・・
それを一緒にしてしまっては、アジアカップから進歩出来ない・・・ファンが・・・と、僕は思う。
ポゼッションを目指したはずのサウジアラビアは、結局は体に染み付いたカウンターサッカーになっていたし、ラインを押し上げてパスサッカーをしようとしたように見える韓国も、結局は強引な突破や縦パスに頼った。

アジアにおける日本は既に『個』性的だ。
アジアではただ一国だけ、毛並みの違うサッカーをしている。
他国のメディアの論評を見ても、そういう評価は多い。僕もアジアにおける日本のサッカーは特殊だと思っている。

『個』が足りない・・・
そう嘆く声がチラホラ・・・テレビをつけても、新聞を見ても、雑誌を読んでも『個』が足りない・・・
言葉遣いが、あまりにも曖昧でサッカーが余計に難しくなる。
『個』とは、あまりにも広義で、曖昧だ。単独で突破ができないインザーギは『個』が足りないのか??

日本に足りなかったのは、「単独突破」と「シュート」である・・・

ドリブルに関して言えば、全ての選手がそれをできるわけではないので、「それ」を持たない選手に、「それ」を求めるのは酷かもしれない。それに、そういう選手が日本に全くいないわけではない。
アジアカップのメンバーでは、水野や太田がいたが、練習で信頼に足る動きを見せなかったのか?彼らに責任を負わせるのは酷だ!!とオシムが考えたのかは、本人にしか分からない・・・
家永も、永井も、田中達也も、松井大輔も、選ばれてはいなかった。オシムがそういう戦い方を選んだ!としか言いようがない事でもある・・・
いずれにしても、オシムは世代交代を進める大義を得た。急進的には進めないだろうが、静かなる世代交代は進行中なのかもしれない。

話が逸れた(笑)
加地や駒野に、単独突破を求めるのはあまり「フェア」ではないように個人的には思う。彼らの後ろの膨大なスペースにまず、思いを馳せて欲しい。それを「チャレンジ」と呼ぶのか?「無謀」と呼ぶのかは、個人のサッカー観に委ねるのしかないのかもしれないが・・・

「シュート」に関して言えば、単純に「選択肢」「引き出し」不足・・・と言えばいいのではないかと思う。それを日本人であることに、求めてしまっては・・・日本人の口から、あそこはシュートでしょう!!と言えば、いいのかも・・・
かつてのロシアの皇帝と言われたモストボイは、
「ボールを持ったときに、最低10個の選択肢を持っている・・・」
と言った。本当がどうか(笑)は、本人しか分からないが、いい選手というのはたくさんの選択肢を持っているのだと思う。
マリノスファンの僕から言わせれば「シュート」しか頭にない、「ラ・ボンバ」ことメディナベージョのような選手は、困り者でもある・・・可能性が低くとも「シュート」ばかり打つ選手を嘆く僕は、やはりパスサッカーが好きなのかも・・・

話が逸れまくっていますが、既に日本サッカーは充分に個性的であるのだと僕は思う。この速いパス回しを土台に、肉付けしながら、最高の到達点やバランスを発見すべきだと個人的には思う。
開幕時のベルディ・・・鹿島との二強時代のジュビロ・・・浦和としのぎを削る、現在のガンバ・・・
Jの歴代のトップランナーは、いずれもパスサッカーを標榜するチームでもあった。今では上位チームのものだけではなくなり、甲府はその魅惑のサッカーで、多くの者をひきつけ、多くのサポーターに愛されている。個人的には、公共工事で彼らに、サッカー専用スタジアムを与えるべきだ!!とすら思っている。あの距離はモッタイナイ!!

また逸れてる・・・・
日本人の『個』は、今のところ速いパス回しで発揮されている。アジアにこれほどのパス回しをするチームは他にあるまい!!と僕は誇っている。(パス回しだけじゃ勝てませんよ!!という声が聞こえてきそうだww)
そして、それを「ベース」に後は肉付けし、進歩するだけだ!!とも思う。最後にある歌舞伎役者の言葉を借りて・・・

「『型』なき『型やぶり』は有り得ない!!『型』の無い者はただの『型無し』に過ぎない・・・」

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posted by モーリー |01:04 | コメント(5) | トラックバック(0)
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