2007年04月29日

日本FW論。~3~ 『エゴ』と『義務』・・・

『エゴ』に「普遍性」などない・・・
それは人間本来の本能であり、自意識とも承認欲求ともいえる「それ」に決まった形などない・・・と、僕は思う。
「エゴ」すなわち「自我」がない!と嘆いてみせるその姿は「型」への欲求であり、強制である。
そういう意味では、勝算無きシュートを連発するFWを大量生産するだけだと僕は思う。そもそも、根拠無き要求に迎合するポピュリストであるならば、それこそが「エゴ」無き姿そのものである。

前回僕は、釜本の中の日本的なものを見出した。「エゴ」が無いと批判する方々が、その「思い込み」をもとに引用してみせる言葉に意味はないとも思っている。
何故ならば僕が試合を見て実際に感じることは、戦術や役割に埋没してみせることでの「責任の回避」であり、選択肢の優先順位を感じることができない「知性の欠如」であり、期待や責任を背負う「義務への覚悟」の欠如であるからだ。

これらは本来的な意味では「日本人の長所」であるべきところであり、僕は現在のサッカー界で使われている「日本人は・・・」という言葉がどうにも卑屈で嫌なのだ。
「日本人」であることを理由に諦めてしまうようなことがあるのであれば、どんな理屈も、激励も虚しいだけではないか!と、思ってしまうのだ。

しかし、現在の現実を眺めてみればサッカーの首都は欧州である!とも言わねばならない。故に「模倣しろ!」という意見は間違いではない。と僕は思っている。
僕が問題だと思うのは、模倣するのは誰なのか?何故模倣したいのか?という大前提の欠如だ。
模倣するのは「自分」達であり、何故模倣したいかは、それが優れているからであり、言うまでもなく勝ちたいからであるはずだ。
ただ「素晴らしい」としたり、FWを見比べて「エゴ」が足りない・・・とするのはただの「卑屈」であり、停滞を生む「危険なムード」だと思う。

 一体「普遍性」とは何であろうか。文化とは元来個別的なものであり、従ってもし日本文化が普遍性をもちうるなら、それは日本人の一人ひとりが意識的に自らの文化を再把握して、日本の文化はこういうものだと、違った文化圏に住む人々に提示できる状態であらねばならない。それができてはじめて、日本文化は普遍性をもちうるであろう。そしてそれができてはじめて、日本文化は普遍性をもちうるであろう。
 そしてそれができてはじめて、相手の文化を、そしてその文化に基づく相手の生き方・考え方が理解でき、そうなってはじめて、相互に理解できるはずである。そしてそれができない限り、自分の理解できないものは、存在しないことになってしまう。

これはサッカーとは何の関係もない人の言葉だが、僕のここで言いたい事を良く表してくれている。

前にも述べたように、日本のFWの多くは猶予期間を生きている。すなわち責任ある立場に関わらず、それを履行しようとしない「無責任な子供」なのだと、僕は思う。

その国その国のサッカーが、度々文化的背景を根拠に語られるように、そもそも日本のサッカーとは何なのか?日本のサッカーが創造するFW像はどのようなものなのか?それが近い将来ピッチで体現されることを祈りつつ、ひとりのサッカー馬鹿の言葉を

日本のFWよ!義務への覚悟を・・・・


追伸 質はともかく、思えばドーハ組や、フランス組のほうがはるかに「日本的」に感じる。得たものも多いが、無くしたものもまた多い・・・


引用 日本はなぜ敗れるのか 故山本七平

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posted by モーリー |12:24 | コメント(9) | トラックバック(0)
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2007年04月13日

日本FW論。~2~ 『エゴ』と『義務』・・・

「自分が点を獲れずに勝つよりも、3点獲って3-4で負けるほうがいい・・・」
おおよそ日本の集団の(共同体)の論理から外れる発言・・・
言い放ったのは、いまだに多くの識者が日本サッカー史上最高の選手だとする釜本邦茂その人である!

この有名な発言は、実際に多くの日本のジャーナリストが引用し、「日本のFWは『エゴ』が足りない・・・」と嘆いてみせる・・・・
しかし同意を求めるその姿は、いわゆる日本の集団(共同体)の論理を振りかざしている・・・自らが嫌悪してみせる日本人FWと根は同じである。

「エゴ」のあるFWと聞いて、皆さんは誰を想像するでしょうか?
インザーギ?ロマーリオ?いずれにしても日本人ではないだろう。

精神のさらに内側・・・本能に近いといっていい「エゴ」を模倣せよ!!というのは、その時点で「精神」の敗北のようなものであり、「民族」の敗北でもある。と、僕は思う。
そして模倣したとして、自分の内なる感情ではない!という意味においては、もはやそれは「エゴ」ではないはずである。

オシムは前回の記事で紹介した話の続きとして、
「日本人は常にコピーしようとする傾向がある。彼らはイギリス人になりたがったりするが、実際には無理だ。あるいはブラジル人になろうとするが、当然これも不可能だ。真似はどこまでいっても真似でしかない。人は独自の道を探るべきだ。自分自身の人生観を追及しなければならない。」
と、語っている。

カズは、日本の裏側で「日本人」であることを強く意識したと語っている。
カズは退路を断ち、かの地で自分と向き合ってきた。 
だからこそ、どんな理不尽も越えてこられたのだろうし、何があっても心は折れなかった。
人々の願望どうりにストライカーになってなお、「カズ」であり続ける事が出来たのだろうと思う。

自分を何者か知らない者に「自我」など有るはずがない。
「責任」無き「自由」が、ただの「放蕩」であるように(ドイツで学んだはず・・・)、「アイデンティティ」無き「エゴ」は、ただの「モラトリアム」である・・・のだと、僕は思う。

頼りなく感じる多くの日本人FW達は、「猶予期間」を生きている。

そしてFWにある種の「異端」が求められるならば、僕はある歌舞伎役者の言葉を借りて、こう答えたい・・・
「『型』なき、『型破り』はありえない!!」

前回、クラマーさんの言葉を引用し
「打つべき時に打たないは、責任からの逃避である・・・」
と書いた。
FWにとっての「義務」は「責任」を負うことである・・・と、僕は思う。

ほんの少し釜本について調べてみた。少なくとも、冒頭の言葉が全てではない。
彼は、メキシコ五輪を回顧して
「自分がチームから、また今で言うサポーターの人たちから求められてたことは、『得点をする』ということ。どうやったら得点を挙げることができるのか?言ってみたらそれに全て賭けてた・・・」
彼は、パサーにも感謝の念を示している。

彼もまた、カズ同様に「責任」を全うすることに生きたストライカーだったのかもしれない。


求めよさらば与えられん。尋ねよさらば見出さん。


追伸 最後が少し、グダッとなったので続きをやるかも。
   次回は日本FW論~3~「異端」と「尊重」・・・(仮)です。



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posted by モーリー |21:46 | コメント(41) | トラックバック(0)
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2007年04月12日

日本FW論。~1~ 『エゴ』と『義務』・・・

その国のストライカー像は、その国の国民性を表すと言われている。
もはやこれは、語られ尽くした議題でもある。

誰もが「エゴ」が必要だと、口を揃える。
そして、そのようなものは、日本社会にはないとも・・・・

ある人は、「その」才能は鍛えようがなく、第二の釜本が現れるのを待つしかない!・・・と言い。
ある人は、「我々」が変わらなければならない!・・・と言う。

「アジアのサッカー史において、良くも悪くも流れを断ち切ることが出来たのは、釜本だけだ!!」
日本サッカーの慈父、クラマーさんの言葉である。
この言葉には、サッカーゲームの本質が隠されている・・・と、僕は思う。
サッカーとは、得点数を争うゲームである。パスゲームである・・・というのも真実ではあるが、それとて目的は得点を奪うことにほかならない。
この絶対の真理を、クラマーさんは上の言葉で表した。今に通じる言葉でもある。
そして、このようにも言えるのではないか?
「打つべき時に、打たないのは、責任からの逃避であり、結論の先送りである。」

今回は、日本のFWの話であり、「エゴ」についての話でもある。
そもそも「エゴ」とは何か?
日本語訳では「自我」と訳す。誰にでも自我の芽生えはあるが、日本のFWには「エゴ」が無いと言われている。

日本を愛するオシムは、海外の記者に日本についてこう語っている。
「日本人選手はその性格上、ひとりでは何も決定してはならない。『誰かに確認する前には何もするな!!』と、頭の中に働くブレーキがあり、これはメンタルブレーキとでも呼ぶべきか。選手達はピッチ上で抜群の連携を見せていても、ひとりで何らかのアクションを起こしたり、フィニッシュまで持って行くという、大きな個人的責任を担う場面になると、彼らはまず監督の許可を得たがっていると私はいつも感じる。このピッチ上の行動様式はこの国での日常を反映するものだ。このようにして機能しているのが日本社会なのである。誰もが常に口を挟もうとすれば共同生活は難しいというわけだが、サッカーにとっては非常に残念と言うしかない。何故なら、サッカーはインプロヴィゼーション(即興性)が命だからだ。」
と語っている。FWを語っているわけではないが、「その技術がゲームの中で生かされていない。」と語っていることが、この答えと結びついていると、言えると思う。
オシムは、
「日本の人口が約一億三千万であることを考えれば、その状況は理解しうる」と語っているが
「サッカーにおいては、この考え方はひとつのバリケードでしかない。」
とも語っている。

少なくとも、日本に深く関わり、日本サッカーに尽力した(している)二人の指揮官は、「フィニッシュ」の場面での問題を口にしている。
あるべき「自我」が、社会によってオーガナイズされている・・・とでも言えばいいのか・・・

冒頭に「国民性」のくだりを書いたが、こうしてみると我々の国民性はいかにもひ弱ではないか!とも思えてくる。
しかしながら、二人の日本を愛する指揮官は別の感想を口にしている。
クラマー氏が、バイエルンの監督時代、チャンピオンズ・リーグの前身、チャンピオンズカップで優勝した際、記者から「人生最高の瞬間ではないですか?」と問われ、
「いいえ、最高の瞬間は日本がメキシコ五輪で銅メダルを獲得した瞬間です。私は、かつてあれほど死力を尽くして戦う選手達を見たことがない。」と答えた。

オシムは
「日本は敗北に甘んじない国だ。それ自体は悪いことではない。」
と語り、
「日本人選手の向上心は、凄まじい。ぶっ倒れるまでグランドで走っている。練習場から本気で追い出さなければならないほどに・・・」
と語っている。

僕も決して日本人選手が精神性において、劣っているとは思わない。同時に、サッカーの為に国民性や日本社会を変えて欲しいとも思わない。

例えば、日本が生んだ偉大なFW。キングカズこと三浦知良。彼は「エゴイスト」というよりは「偉大なヒロイズムの体現者」であった。と言うべきだろうと思う。彼の振る舞いやプレイからは「エゴ」は感じない。彼は、望むべき場所に到達しようとした「意志の人」であり、また人々が望むべき場所を指向したという意味において、「ヒロイズム」の体現者であるとも言える。
そういう意味では、彼は「異端」のFWである。
「異端」ではあるが、人々が望んだ「義務」は、「責任」として果たした男でもある。
「自我」ではなく、人々が望むように自分を変えたのである。
しかも彼はポピュリストではなく、意志の人であるのに・・・である。

「エゴ」が足りないと、嘆くことはない!と僕は思う。
カズの成功を、ブラジル留学のみに求めてはいけない。と僕は思う。僕的には、「日本人であること」を強く意識したことが、彼の成功の大きな要因ではなかったか?と、僕は考える。

少なくとも、日本人は「ハングリー」なブラジル人でもなければ、「エゴイスティック」なイタリア人でもない!ということだけは確かだ。
最後にオシムとカズの言葉を・・・
「日本は既に、誇るべき日本なのだ!!」(オシム)
「日本も、世界なんですよ!!」(カズ)


「エゴ」と「義務」の結論は次回。
このシリーズ『日本FW論』は、まだまだ続きます。



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posted by モーリー |14:48 | コメント(9) | トラックバック(0)
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