2008年11月10日
「オシムサッカー」を「客観的」に見てみる。
例えばオシムが健在だとして、今現在はどのような姿になっていたのか?これを少し想像してみようと思う。
こういう試みをすると必ず、「過去に拘るな!」とか「オシム信者か!」とか言われそうなのですが、そうではなく、いくつかの例や発言を通して、彼のありのままの「監督としての能力」や「サッカーの監督に求められる能力」を考えてみようとする企画です。
「私が発明したものなど何も無い。」
彼は戦術論のみの戦術論を嫌う。様変わりした日本のサッカーについての質問や、変貌したジェフ、ある種の新風をJに吹かせたジェフについての質問にはいつもこう答えていた。
その方法は私が考えたものではない・・・と、それがサッカーの進化の方向で、いわゆるトレンドなのだと・・・私は今も学んでいる・・・と。
「流動性」というキーワード。
例えば就任当初と、いわゆるゾーンの4バックを採用したコロンビア戦以降・・・僕は代表監督時代のオシムサッカーは二種類に分けられると思っている。
結論から言えば、前者と後者・・・守備の方法はあまり変わっていない。攻守の入れ替わりの場面でのファーストプレスを非常に大事にしていた事、そしてハーフウェーラインを越えれば、先ず人を捕まえるゾーンマークであったという事。そして必ず数的優位を保つという事・・・その為に、ショートカウンターをする為のプレスに関して言えば、現在のほうがよりアグレッシブだという見方も出来る。ただ著しくバランスが悪いだけである。
そしてオシムサッカーの特徴。マークを捨てて攻撃における数的優位を確保する。その多くは、守から攻へと局面が切り替わった時に起きる・・・そうやって「玉突き」のように前のスペースを突き続けることで、簡単にボールを失わないビルドアップが可能になっていたのだと思う。同時に、そういうリスクを冒す場面は「ミスをしてはならない瞬間」でもある。その場面におけるミスとは、技術的なミスだけに留まらない。起こり得るミスを想定できないのも、当然ミスとなる。
同じ4-2-3-1でも人選も、メカニズムも違う。
布陣に捉われすぎて、相手を見ていないのが現在の代表のサッカーであるなら、あくまでも数の論理、相手の出方によっていかようにも変化できるのがオシム時代のサッカーであったと言っていい。駒野のクロスを加地が決めるという場面さえあった。計算されたリスクであるのならば、何の制限も無かったのがオシムサッカーであった。
更に言えば現在の代表は、いわゆる「流動性」に欠けたサッカーである為に、個人の技術に頼るしかなく、ビルドアップと呼べるものは皆無。縦のポジションチェンジも、スペースを作り利用することも、それを続けるといったことも出来ない。対峙するポジションで、それぞれが個人として上回るしかない。加地や駒野や鈴木啓太はストッパーになれたが、内田や長谷部はストッパーにはなれない。・・・という事でもある。スペシャルな集合体では弱点が多すぎるという事。左サイドバックの阿部に攻めさせれば怖くは無いチームである。
俊輔と内田のサイドをしつこく攻め続ければ、日本のブロックは下がるしかなく、ロングボールを蹴ったとしても競り合いに強い選手は前線には居ない。オシムは必ず両ゴール前に体を張れる選手を置いていた。
流動性という話に戻せば、違いはよりわかりやすい。例として中村俊輔。彼はサイドハーフとしては余りにも中央に絞ってプレイしすぎる。それは中央に渋滞を起こす事を意味するケースもある。そして当然ながら、相手のサイドバックをフリーにするという行為でも、当然ある。例え中央に絞って数的優位を作ったとしても、狭い局面においてはそれが優位かどうかは難しい。そこで加地。彼は意識的に前のスペースを埋めていた。相手のサイドバックを彼が抑える事は、実に多かった。そうすれば当然加地の後ろには広大なスペース。そこには鈴木啓太。彼が埋めるというよりも、常に近づいておいたことで、そこで破綻をきたすことが殆んど無かった。現代表のサッカーはポジションやブロックを意識しすぎるあまり、内田が後方待機するケースさえある。それでは、内田が出る意味などないのである。
実はジーコも同じイメージで、サイドのスペースを空けて、使おうとしていたがいかんせん、あまりにも方法論と論理が違いすぎる。
「空いたスペースにどんどん人が飛び込むイメージ」
これはオシムも岡田監督も、共通してイメージしている点である。違うのは、岡田監督のそれはタイミングが一つである点。翻ってオシムはアプローチが多彩な点。オシム時代の場合は、そのタイミングが先送りになることも多く、全員が同じ場面でスピードアップすることが少なかった。そういう点が、横パスばかりのサッカーと揶揄されていたのとは無関係ではないと思う。
現代表は、そのタイミングを失すると、ボールも人もフリーズしてしまう事が多く、空いているはずのスペースを使えないことが多い。この場合は押し下げたDFラインの前にスペースがあるはずで、そこで縦のポジションチェンジがない為に、ゴール前にスペースがなくなるのだと思う。
フルスプリントの距離が長く、方向が大体同じになってしまっている為に、有効なスペースはいつまでも空かない。そのうえ「走り」が報われない。要は考えて走れていない。
オシムの場合も遠からず、遠藤や憲剛、俊輔が「時々」FWにならないばっかりに、何度も方向転換をし、考え抜いた「速い」パス回しが生きない。最後までスピードが上がりきらない。
「楔」としての勝負パスや、シュートがある事への理解が少し足りなかった。
サッカーは『足し算』か??
ジーコにも、岡田監督にも、オシムとの共通点は確かにある。イメージが似ていないとはとても思わない。事実、中心メンバーはあまり変わらない。ただ、個人個人の良さを全て「足し算」で考えている節があるのがジーコと岡田監督ならば、無理なくそれぞれの良さが出る仕組みになっているのがオシム時代のサッカーという事ができようか?
事実、ジーコは福西に、岡田監督は阿部に、リスク管理やバランス管理を背負わせている(いた)ように思う。
監督の能力とはつまり、「組み合わせ」のセンスだという見方も出来る。
弱点が少ないチームを構築できるか?
あるいは、弱点を覆い隠すだけの長所がある。長所で相手を上回る事が出来るチームであるか?
個々の輝きを見れば、そのチームがいいチームか?そしていい監督であるか?がわかるのだと思う。
チーム作りの出発点は何処であろうか?といつも思う。オシムの異質さは実はここにあるのではないか?といつも思っている。多くの場合は、まず布陣。そしてコンセプト。そして選手。そういうものを見極めて調整する。
オシムはそのどれでもない。
選手の可能性・・・とでも言うのだろうか。その選手そのものを伸ばしてしまう。それを実現することで、一つ上のチームを作ってしまう。
選手の選択肢を増やすこと、判断のスピードを速めることで、チームそのものを伸ばしてしまう。上手くは言えてはいないが、これは明らかに異質だと僕は思う。オシムの凄さはそこにある。
岡田監督がオシムのようである必要など無い。同じサッカーを目指す必要もない。サッカーはピッチの上が全てである。実際にいいサッカーを見せればいい。説明するよりも、言い訳するよりも、遥かに簡単である。
僕らも同様。実際に行われているサッカーを判断すればいい。いい監督であるかどうか?選手が能力を出し切っているか?サッカー協会の会長はサッカーをしないのである。
敬称略
posted by モーリー |17:48 |
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2008年10月17日
「想像力。」と「スペースメイク。」
例えばアウェイのオマーン戦。駒野のクリアがオマーンの選手に当たる。この日一番危険だったオマーンのFWの前にこぼれる。トゥーリオあわててチェック。倒してPK。
例えば親善試合のコロンビア戦。俊輔が味方DFラインの前でこぼれ球をフリーで拾う。味方が一気にギアを上げカウンターの準備。俊輔タッチをミス。敵に渡る。中澤あわてて守備の準備。既に遅く、決定的なパスをカウンターの準備に入っていた加地とのギャップに通される。
前者は駒野のミス。後者は俊輔のミス。そう言ってしまうのは簡単である。事実、ミスに違いない。しかしながらミスの無いサッカーは有り得ない。サッカーはミスを紡ぎあうスポーツだという人もいる。
トゥーリオは相手よりも反応が遅れ、中澤は全くの想定外だったように見えた。
「ミスを想定して準備する。」
「それでも行くと判断すれば、それをリスクだと自覚する。」
オシム時代の日本代表のサッカーを見返してみると、全員にその意識が植え付けられている気がする。事実、中澤は「オマエの準備も足りていなかった。俊輔もミスをする。」と言われている。
想像力が足りないのかもしれない。サッカーはよりハードな運動量を要求しているように見えるのに、人が動かない印象を受ける。前への意識が強いのに「前に人数が足りない。」と嘆く指揮官の元では、スペースを作ってそこを狙う意識は少ないように見える。ゴール前に必要なのは、人数ではなく、有効なスペースだと言いたくなる。その上で人数が必要ならば納得が行く。どうしても、ユーロを見て、オシムサッカーを思えば、現代表のサッカーに批判的になってしまう。
日本人はあまり要求し合わないと言われる。事実そうだと思う。そうだとしても、日本人は常に相手が何を想像しているのか考える癖があるのではないか?だから、使いたいスペース。フォローに来て欲しい確度や場所やタイミングを、より精密に考えられるというのは傲慢だろうか?「感じる」という繊細さを持っているのではないか?その前提で話し合わないのはナイーブにすぎるとしても、その繊細さを活かしたパスサッカーと言うのは有り得ると僕は思う。怒鳴りあわなくとも、確認しあえばいいのだと思う。
想像力を常に働かせるというのは、集中力を切らさないと同義だと思う。コンセプトを体現するのもいいだろう。自分の良さを出すのもいいと思う。でもそれだけではサッカーにはならない。サッカーはフリーランニングが殆んどを占めるスポーツだ。そうであるならば、そのランニングにも想像力を働かせるべきだと、僕は思う。
スペースがあるのは前方だけではない。後ろにもある。そこに下がってボールを捌ければ、それで敵の選手を一人ひきつければ、それで生まれるスペースがある。そういう意識を全員で共有してはじめてパスサッカーが出来る。
実は、岡田監督の目指すサッカーは僕にはあまり見えていない。パスサッカーでは無いのかもしれない。サッカーを見ても解からず、コメントを聞いたらもっと解からない。
あまりにも選手が団子状態で、全員にスペースが無い。それでフリーズしてしまうから、スペースが生まれない。プレスをかけるためだという大木理論にしては、相手のサイドバックorウイングバックを誰が見るのかハッキリしない。
オシムを失って、意気消沈した日本に、再び闘う気持ちを注入したのは間違いなく岡田監督だろう。マリノスタの僕にとっては、素晴らしい思い出と勝利をくれた監督だ。ある意味ヒーローでもある。ただ、監督時代末期は、何をやりたいのか、そのバランスの到達点が見えなかったのもまた事実。今も同じような状態であると感じている。少なくとも僕は攻撃的な二人をDFラインの前に並べれば、攻撃的になるとは思わない。
少なくとも今のサッカーは日本的ではないと思う。大和魂や、サムライ魂だけが日本ではないと僕は思う。『日本サッカーの日本化』は既にして終わってしまったのか?
追伸
何故だかコメントが返信出来なくなってしまいました。
意味がわかりません。
ブログという公に発信されるもの、意見や批判や批評・・・そういうものを書いておきながら、一方で自分は批判されたくないという人たちの為に、和やかな雰囲気とやらを作るために、制限が増えてしまったようです。
自分勝手なのは、礼儀やら、社会性を叫びながら、顔も出さず、リスクも負わない私も含めたブロガーではないでしょうか?
選手や監督、その家族や友人も見ているかもしれないにも関わらず・・・
僕はそういうものを「アンフェア」と呼びます。
マリーシアでも、狡賢さでもない、ただの「アンフェア」です。
せめてブロガーは批判も、中傷すらも、甘んじて受けるべきです。それに対しての返答をするべきなのです。それが大人の作法だと僕は思っているし、最低限の、本当に最低限の礼儀だと思うのです。
その胆力が無いのならば意見など言う資格は無い!・・と僕は思います。
僕が間違っているのか?ならば去るのみ。
posted by モーリー |22:15 |
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2008年10月17日
中村俊輔 『一部』と『中心』
久しぶりに彼のあのような顔を見た。マリノスが降格争いをしているシーズン・・・既にして中心にしてエース。彼はよくふてくされたような顔をして、仲間に怒りをぶつけていた。
中村俊輔の現代表における役割は間違いなく変わった。彼の仕事はラストパスを出し、局面を打開し、得点に絡むこと・・・である。現代表のコンセプトが招く必然の消耗戦に巻き込まれつつ、彼はマジックを求められる。常に何かをしなければならない。そういう役割を任されている。
「常に天才でなくとも、一試合のうち2,3回だけ天才であればいい。」
「10人が中村に合わせるよりも、中村がチームに合わせたほうが簡単だ。」
そう言ってのけたオシム。そして見事な知性と献身でチームにフィットした中村俊輔。
オシム時代とは違い、現代表の攻撃は、全て個人のアイデアと技術に依存している。攻撃の「中心」である中村俊輔は、戦術や攻撃パターンそのものだ。
現代表に関して言えば、大久保は間違いなくブレーキになっているし、長谷部は味方にスペースを消され、また味方のパスコースを作れない。進む場所が判らない。遠藤はいつ失うか解からないマイボールを気にする余り、味方を追い越せない。阿部はカバーすべき場所が多すぎて、しかも攻撃まで求められている。
オシムは「チームは組み合わせ」だとよく言っていた。そう考えれば、不幸な組み合わせだと思う。一人ひとりではいい選手なのに、今のチームでは輝きを失っている。トゥーリオがロングボールを多用しなければならないのは、パスコースがないからだと思う。大久保がスペースメイクをしないのも、バイタルエリアに留まるのも意識が欠如をしているからに他ならない。ようは、考えて走っていない。
シュートが入らないのは今に始まったことではない。結果、引き分けたことも問題ではない。それよりも問題なのは、かつてあったものを失ってしまったことだ。いて欲しい場所に人が居ない。居てほしくない場所に選手が立っている。それではパスはまわらない。
岡田監督が、監督を引き受けた経緯など関係はない。協会も、会長も、政治も関係はない。サッカーファンである僕にとっては、ピッチの上で行われているサッカーが全てである。だから、本来のいい部分が引き出されていない選手達を見るのは悲しい。
俊輔に責任を背負わせ、トゥーリオの選手寿命を縮めてまで、する価値のあるサッカーだとは思わない。選手を消耗するのだけはやめて欲しい。
それでも俊輔はチームの為に誰よりも走り鼓舞している。長谷部は、顔に似合わぬ気迫で戦っている。トゥーリオも怪我を押して、明日のことなど考えず体を張っている。それだけに虚しい。
既にして行われているのが日本のサッカーである。それは一つの真実でもある。
それでも敢えて言いたい。
現代表のサッカーは『日本』のサッカーではない。
・・・と、僕は思う。
posted by モーリー |20:54 |
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2008年09月12日
FWはシュートを打たねば・・・
大口を叩く前に結果を残さなければ・・・
闘う気持ちを表に出さねば・・・
そう言う前に私たちも恐らくやらねばならぬことがある。
サッカーを知らねば、監督や選手の意図を理解せねば、自分の解釈でよいサッカーを持っていなければ・・・
ムードでしかないナショナリズムや偏狭としか言いようのない民族主義、コンプレックスからきているとしか思えない『日本人は・・・』という大上段からの語り口。全て、サッカーの内容を精査するのに必要のないものばかりだと僕は思う。
「代表は常に勝利を目指さねばならない。」
というのは嘘である。
そういう覚悟を持った者だけに、代表としての資格があるだけの事である。私たちファンが言う事ではないと僕は思う。
自らを投影し、夢を託す存在。その集合体が代表でもクラブでも「チーム」なのだと僕は思う。
シュートを打たないFWは私たちの姿なのかもしれない。ズルズルと下がるDFラインも、リスクの無い選択も、アリバイの為のポジションどりも、突き抜けようとする者に疎ましい感情を覚える姿も、全ては私たちの姿であると言える。
意見は言いたいのに、リスクは負いたくない・・・・僕は意見を言うならば、リスクは負うべきだと考えます。どんな批判も受けて然るべき。それが嫌ならば口をつぐむのほうがよっぽど潔い。
それをして始めて意見を言う資格があるのだと僕は思うし、サッカーに携わる者への敬意がはじめて担保されると僕は思っている。
僅かな批判で傷つくナイーブさはサッカーには不要だと僕は信じる。
日本サッカーの日本化には、ファンたちのサッカーに対する愛情と厳しい目が必要不可欠だと僕は思う。サッカーを語ろう。
追伸 ブログ再開のご挨拶です。次回はオシムイズム~8~です。それにしても久しぶりだ・・・
posted by モーリー |20:39 |
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2008年06月17日
森本貴幸。
今でもデビューの衝撃は忘れられない。ただその後は、試合に出ても成長が感じられない。自分の得意なプレイしかせずに、使いにくい選手だなと感じていた。
一気に話は飛んで今年のセリエAの最終戦。優勝の可能性を残したローマ戦に、森本登場。当のカターニャは残留争いの渦中。異様な雰囲気のスタジアム。森本は前半あまりチャンスを作れなかったチームに後半から加わる。
生粋の点取り屋と呼ぶに相応しいスピネージは今季は不調でしかも怪我をして出られない。そんなスピネージに憧れる森本は「ボンバー」になりたいと言う。激情と楽観が交互に現れているように見えるスピネージはまさに「ボンバー」。
話は飛んでローマ戦。後半から登場した彼は、今までに見た彼の中で最高の出来だったと断言できる。とにかくボールを呼び込む。倒れてもすぐに起き上がり、ゴールに向かう。チームにとって頼もしいFWの姿がそこにはあった。パヌッチやメクセスといったシビアなディフェンダーを相手に、僅かなスペースを突き続ける。チームメイトもそれに呼応し、勝負のパスを連発。間違ったほうに熱くなっていた前半が嘘のよう。そのパスを引き出したのは間違いなく森本。しかも決して上手くないポストに降りてくることも・・・狙ってしたものか?どうか?わからないけれど間違いなくチームを助けていた。ただ、全てのボールに反応しようとする。パスが来なくても、動きなおす。ある意味献身的な日本型ボンバーに彼ならなれる。五輪代表では難しい仕事を任されているけれど、彼ならば、日本のボンバーになれる。その可能性を感じさせる。
大久保嘉人。
この前退場した彼については賛否両論。彼が他のエキセントリックな選手と違うのは、気を使われていない事、決して腫れ物に触られるような天才肌の選手とは違うという事。彼がチームの為に何をしているかは知っているし、味方に愛されるのも彼の特徴。
彼の闘う気持ちは間違いなくチームに必要。彼は駆け引きを得意とはしていないと僕は考えるけれど、敵DFにとっては「熱をうつされる。」嫌な選手だと思う。局面局面での敗北を嫌い、とにかく向かっていく。考えるよりも、体が動く。
かつては自分と相手の勝負を最優先に考え、チームに多大な迷惑をかけてきた選手でもある。敵DFの卑怯な挑発が許せない。誤審であるにも関わらず、高圧的な審判が許せない。相手が押してくれば、自分も押す。デビュー当時の、田中誠とのやり取りは有名。僕は微笑ましく見ていられた。
そんな彼もいつしか変わる。キャプテンの西澤明訓が怒っていた理由さえあまり解からなかった彼も、自分の自意識の中だけの勝負が、いかにサッカーにとって無益かもう知っている。だからといって、熱くならない自分もありえない。今の彼は結構魅力的だ。
今回のは事故だと思う。許される行為では決して無いけれど、彼をスポイルするだけのサッカー界ではあってはならない。と、僕は思う。
アドバイザー・イビツァ・オシム。
アドバイザー就任だそうだ。僕にとっては、非常に残念なニュース。一体何の仕事をするのだろうか?サッカーにおけるトップダウンなど全く無意味。ましてやおぼろげな形しかスタイルの無い日本サッカー。スタイル同士のせめぎ合いでしか、スタイルは構築できないと僕は考える。
オシムも決してそのような役職は望んでいないだろうと思う。それでも彼が引き受けてくれたのは、純粋に日本への情や感謝だといったものだろうと思う。義理堅い彼は、決して断れなかったのだと思う。
ビッグクラブのベンチにいい選手が座っているのは、サッカーにとっても、その選手にとっても残念だと考えるイビツァ・オシム。
僕も同じ理由で、彼が現場から離れるのを残念に思う。中国や韓国であっても構わない。純粋に彼が作ったチームを見てみたいと思う。
それが許されなくても、若年層のチームや、ナショナルトレーニングセンターで、選手を指導してもらっても良かった。彼の愛するサッカーは現場にしかないはずだ。
家族の事もある。祖国のことを思うこともあるだろう。それでも彼は再びサッカーチームを、サッカー選手を指導したいはずだと僕は思う。それは確信を持って言える。いずれにせよ残念なニュース。
日本のサッカー界を取り巻く人々はこのニュースを喜んでいいのだろうか?
敬称略。
posted by モーリー |20:04 |
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2008年05月26日
「長谷部と今野のビルドアップ」と「啓太と憲剛のビルドアップ」と松井大輔の取り扱い。
「メッシやロナウジーニョが守備をするならば、彼らが出る意味はない・・・」
とはサッカーという競技の本質を語ろうとするときのオシムの良く使う言い回しであった。松井大輔はメッシでもロナウジーニョでもないが、日本では数少ない特別な攻撃性能を持った一人である。
今シーズンの彼はベストシーズンと言っていいほどの出来だったと個人的には思っています。基本は左のウイングと言っていい位置取りをしながら、右にまわってチャンスメイク、クロスに対する動き出し・・・見ていてレベルアップを意識しようとしているように思えて、素晴らしい出来だったと感じています。
守備に関して言えば、引いて守るのは強くはない・・・と言えるのだと思います。しかしながら、前から蓋をする守備、相手の死角からボールをさらう守備は非常にセンスを感じることの出来る選手だというのが僕の印象です。量的にも彼のようなタイプにしては決して少なくはないレベルです。行くべき時には行ける判断も持っているという印象。
「君を出すときは守備というよりも、どちらかと言えば攻撃の事を考えたい。あまり下げたくはない。」
といった趣旨の事をスイス戦の前に、オシムは松井に伝えたといいます。対面のベーラミは攻撃に特徴のある選手ですが、彼(ベーラミ)に守備をさせる選択をオシムはしたという事だと思います。そして、それが可能だとも・・・ベーラミと松井ならば、松井で、日本のビルドアップならばそこに到達できるというのが、オシムの判断だった・・・と僕は思います。
そう意味ではきちんとしたビルドアップか、守備の免除が松井の輝く方法だと言えると思います。力が上の相手ならばなおさらそうです。守備の免除に関して言えば、日本にはまだ守備の免除をしてまで、収支がプラスになるタレントはいないといって良いと思います。そうであるならばビルドアップか、松井をあまり下げない守備のメカニズムが必要ですが、今の日本代表にはそれがないと言ってしまっていいのだと思います。
ゲームが始まったときは松井が高い位置取りが出来ていたせいか、スリートップのような布陣に思えました。何故?遠藤がピッチの左半分にいるのか?松井は何故右ウイングのような振る舞いなのか?逆にしたほうが上手くいくと思います。玉田はこの試合ではベストプレーヤーだったと思いますが、彼は右でも左でも制限さえなければ、輝ける選手ですからなおさら、意味がわかりませんでした。
それからこのゲームでボランチを務めた長谷部と今野が、攻撃を停滞させた原因だったと僕は思います。故に世間の長谷部への高評価は頷き難いものがあります。彼のよさは、量を保障してくれるという事、長い距離を走ることで、バランスをとりチームを押し上げるという能力にあると思います。ボールロスも少なく、パスが上手いとは思いませんが、技術は高く、動きながらでも質が高いところに彼のよさはあると思います。
ただ、細かいパスを繋いでビルドアップをするというサッカーをした経験がなく、ビルドアップの際に効果的な動きが全く出来ません。駒野と中澤のところでパス交換のミスがありましたが、原因の多くは長谷部と今野の動きのなさにあります。二人が横並びになってDFラインに蓋をする場面があまりにも多すぎました。トゥーリオのところでボールが止ってしまうのもそこが原因だと思います。スペースを空ければトゥーリオはそこに進出できる稀有なプレーヤーです。同時に高いラインを保てて、コンパクトなサッカーが実現できます。
今野に関して言っても、彼をアンカーに推す人が多いのもイマイチ僕には納得できないところです。彼のボール奪取技術は日本でトップクラスだと思いますが、前に出られるという条件付きです。バランスをとるのが決して上手な選手では無いと思います。
「4バックの時は、DFラインの前に守備の専門家を置きたい。」
マリノス時代の岡田さんの言葉です。そしてその時は那須がその役割を任されていました。今野はそういうプレーヤーではありません。苦しいときでも前に出れる、ボール奪取に関わった時に最後まで行ける。そういう反転力が彼の良さです。その切り替えの素晴らしさと、馬力、シュートの上手さ・・・そういう彼の良さが殆んど出ていませんでした。恐らくはDFラインの前の番人としての役割を強く言われたのだと僕は考えます。故にDFラインから上手にボールを引き出せない。ポジションを離れることでスペースを作れない。そういう選手がDFラインの前に二人いては、縦ポンにならざるを得ず、それを日本がやってしまえば、重心は下がらざるを得ないのだと思います。
オシム時代は基本的に、攻守が切り替わった瞬間に、DFラインの前には一人、啓太が動く、憲剛が動く、遠藤も、俊輔も降りてくる・・・時々トゥーリオが前のスペースで起点になる。特に啓太と憲剛が、縦横無尽に敵を動かすことで、常に受け手が半身の体勢になることに成功していました。苦しいときは、サイドハーフを務める遠藤や俊輔が降りてきたスペースをFWが使うことで、起点を作り陣地を挽回していました。実に合理的なスペースの使い方だと言えると思います。
オシムはよくサッカーを言えに例えてこう言います。
「つくるよりも壊すほうが簡単だ。」
サッカーにおけるビルドアップはまさに「作る」作業だと言えると思います。日本はどのようなサッカーを作り上げようとしているのか?監督が変わったくらいで右往左往している現状が今なのか?それとも単に組み合わせの問題なのか?いずれにしても「ビルドアップ」が出来ていないのは間違いのないところだと思います。決して出来ないわけではないにも関わらず・・・
posted by モーリー |12:30 |
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2008年04月11日
時々こういうのが書きたくなる・・・では早速!!
桑原監督 お洒落。多分中々のモチベーター。サッカーは日本的オーソドックス。
哲也 ちょっとおとなしくなった。やっぱり結婚したからか??反応はやはりピカイチ。
勇蔵 相変わらずえげつない守備。攻撃にアイデアが欲しい。
ボンバー 今シーズンもボンバーはボンバー。出るとこは出てバランスとってる。
祐介 顔つきが変わった。いいDFになった。でも時々去年までの祐介。
マツ クローズドスキルは高いが、効果的に動けない。守備は鬼。相手は怖いと思う。
功治 中盤に潜伏するフィニッシャー。今シーズンも出だし良し。エース。ゴリラ①
ロペス キープもできるし、パスセンスもある。でも急ぎすぎ感もある。ゴリラ②
ハユマ やや狙われ気味も・・・ボールも運べるし、攻撃はまずまず。去年よりグッド。
コミ 去年ポストに当てといたシュートを回収中。DFの判断が早くなったのは見逃せない。
おおし 相変わらず根っこの生えた体幹。シュートは力みすぎもマリノスの戦術。
ロニー 早く点を取って欲しい。個人的には好きなタイプも、マルケスと見間違う。
サカティ 相変わらず地面を飛ぶランニング。スタメンで見たい。
ジロー 相変わらず走る。若い。
哲也・・・榎本哲也 勇蔵・・・栗原勇蔵 ボンバー・・・中澤祐二 祐介・・・田中祐介 マツ・・・松田直樹 功治・・・山瀬功治 ハユマ・・・田中ハユマ コミ・・・小宮山 おおし・・・大島秀夫 サカティ・・・坂田大輔 ジロー・・・清水
ガンバ大阪・・・この前のACLは凄かった。4バックに変えてからの特に終盤の守備は凄すぎた。明神がいい。橋本もいい。遠藤と二川はやっぱりいい。
浦和レッズ・・・オジェック放出は正解・・・遅すぎた感も。サッカーは苦しいが、やっぱりレッズはレッズ。まあ強い。
名古屋・・・ピクシーが凄い。小川、マギヌン、玉田が凄い。吉田は本当に19歳??クオリティは一番も選手層が薄いか?杉本の話はしたくない。
ヴェルディ・・・レアンドロと河野の守備がいい。攻撃はもっといい。ディエゴのチーム。個人的には好きなサッカー。 福西は最高のプレイを見せていると思う。那須がいいのは複雑。やっぱ頑張れ!!
鹿島・・・強い。青木がキレキレ。満男は調子悪い気がする。マルキーニョスと本山が要。二枚岩は硬い。コンビの手本。
マリノス・・・スクランブルアタックをしないマリノス。去年より大分ラインが下がった。後は若手の奮起とコンビの熟成。遅い攻めは去年より可能性を感じる。
バルサ・・・なんかおかしい。見てても面白くない。ボージャンは凄い。
アーセナル・・・失速。怪我人が多いし、選手層薄い。ウォルコット先発で見たかった。
ファーガソン・・・大胆。ビックリした。
posted by モーリー |22:41 |
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2008年04月11日
リスクを冒す『責任感』
「リスクを冒せ!!」
オシムは日本で率いたジェフ千葉で、あるいは日本代表でそういい続けた。それは「義務」であるかのように、日本人選手たちに言い続けた。
後方に選手をだぶつかせるサッカーを極端に嫌い、与えられた選手で方法論を変える。だからこそオシムはどのチームでも攻撃的なサッカーを実践できたのだと思う。
それは守備においても同じである。オシムは選手に「攻撃的精神」を植えつけることによって、多くの人間がボールに噛み付くことのできるシュチュエーションを多く作り出した。そして守備一辺倒にならない為の脱出手段もチームはより多く獲得することが出来た。
「何かを得たいと思うのならば、リスクを冒さなければならない。」
チームが得たいのは何か?それは「勝利」だけではない。そうでないと言うのならば、全ての戦術やシステムは「手段」に過ぎない。それではサッカーはつまらない。
僕はそうではないと思う。溢れんばかりの情熱を、鎖でつながれた信頼を、何かを創造するという志を、人間性をサッカーを通じて放散させるその様を、僕は感じることが出来る。だからサッカーは美しい。オシムが愛したサッカーも、そういうサッカーだと僕は信じている。
オシムはサッカーそのものに価値があると考えた。そしてそれを取り巻く様々なものにも価値があると考えた。そして全ての起源はサッカーであって欲しいと願うほどの、サッカー狂でもある。
だからこそオシムはサッカーそのものに対して誰よりも真摯に向き合ってきた。そしてその人生の素晴らしさがどれほど素晴らしいかを全力で伝えようとしたのだと思う。
ある時オシムは、中村俊輔の独りよがりの(けれど素晴らしい)パスに怒ったのだという。俊輔は「ボールを失うのが嫌なのかな?」ぐらいに思ったという。
それは違うと僕は思う。恐らくは下を向きながらポジションに帰って行ったであろう俊輔に怒ったのだと僕は思う。
「その素晴らしいアイデアを何故共有しようとしないのだ!」と・・・
そしてその思いは既にして俊輔に伝わっている。オシムの姿勢や志が伝えた・・・と言ってもいいと思う。俊輔は恐らくはオシムを相当に尊敬している。彼とサッカーを出来ないことを本当に残念に思っているに違いない。そして彼もまたオシムが日本でして来た事を引き継ぐ体現者であるのだと僕は信じている。
攻撃的な選手を並べるだけでは実践できないトータルな攻撃サッカーをオシムは披露した。
攻撃的に振る舞い、相手の思考の先手を取る事で、主導権を握る戦いこそが「日本的」であるという彼の描く日本スタイルの一端も披露した。
そして何より選手が彼の部屋のノックを叩かないことに寂しさを覚え、サッカーを語り合え!とメッセージを残した。
「受け身でも、ナイーブすぎてもサッカーは出来ない。」
彼は我々日本人を尊重して口には出さなかったが、彼は多くのメッセージを選手達に残したのだと思う。想像に過ぎないが解釈は選手達(自分たち)自身でするべきだ。そして多くのモノを共有すべきだと思う。何故ならば、イメージの共有されたサッカー。そういうサッカーこそが美しいから・・・私たちが感動してきたサッカーはそういうサッカーだと僕は信じる。
「責任感とは自らに対する畏れに対して抱くべきである。」
僕がオシムの発した言葉で、一番脳天を貫かれた言葉である。
何かを得たいと思うのならば、リスクを冒すのはもはや「責任」である。誰かに言われて何かをする「義務」ではないのである。
全てのサッカーにそれを期待したい。自発的に能動的に・・・それでもそれが見えない鎖で繋がっているようなサッカーが見たい。
そして観衆である私たちもまた、それらを「理解」する「責任」があるのかもしれない。それが何かを批判したり不満を持つ(僅かな)権利を得るための義務だと思う。
それは「結果」に対してではないと僕は思っている。そして恐らくはオシムも・・・
敬称略
posted by モーリー |21:42 |
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2008年04月04日
失われた『意識』と『勇気』。
日本代表は違うチームになった。そう感じる。誰もボールを追い越さないし、攻守が入れ替わっても反応が遅い・・・自分達で自分達のプレイエリアを狭め、自分達で窮屈にしている。
「サイドの裏に大きく蹴れ。」
僕の見る限りボールホルダーに対する周囲の反応はそういう風に見えた。
一体何が変わってしまったのか?少なくとも岡田監督は日本人の長所を活かすと言った・・・岡田監督本人のサッカー理解と併せて、こういうサッカーを選択したのだろう。僕の考えるところとも、オシムの考えるところとも違う。それ自体は問題ではない。結果自体も問題ではない。バーレーンがいいチームだったともいいサッカーをしたともは思わないが、簡単な相手ではないとは思う。問題は、今後に可能性を全く抱けなかったことである。
日本のスリーバックに対して、バーレーン選手三人がプレスをかけた時に今野が苦し紛れにGKに戻し、川口が大きくアバウトに蹴った時に、日本はもうビルドアップを放棄したのだな。と感じるしかなかった。だれもマークをはがす動きをしない。啓太はスリーバックの前に構える門番に成り果て、憲剛はボールを貰ってから何かをする選手になってしまった。どちらかが動けば、今野は簡単に出せた。このコンビはオシムが監督の時の基本コンビでもあったはず・・・わざわざ狭いスペースに留まり、一人で二人をマークされていた。日本は後から繋ぐという意識を放棄したように感じる。そうだと思えば、岡田監督の人選は分かりやすい。正解がどちらにあるかは、歴史が証明する・・・とでも言うべきか?とにかく日本のサッカーは急激に変化している事だけは間違いない。
ビルドアップをするには全員の意思が統一されて無ければならない。少なくとも「全員が関与している。」という意識は持たねばならない。
オシム時代は、二人のセンターバックにはたくさんの(楽に通せる)選択肢があった。自分達の前、隣のセンターバック、隣のサイドバック、一人飛ばして逆のサイドバック・・・注目したいのは、自分達の前が相手の状況によって目まぐるしく変わっていたことだと思う。啓太が前にマークを引き連れて上がり、憲剛。時には遠藤や俊輔もそのポジションに降りてきていた。啓太にマークがついていかなければ、彼がそのまま受けてターンして、相手の視点を変え、また憲剛、遠藤、俊輔の三人が受けられるポジションに動く・・・苦しい状態で受けなければならない時は、ワンタッチではたける距離に誰かが居る。そうして相手は自陣ゴール前で、人垣を作るしかなかったのがアジアカップである。プレスをかけにくれば裏が大きく空く・・・そうしてはじめて繋がる(可能性が上がる)のがロングパスである。ロングパスありきというのでは繋がらないのは当たり前。後ろで誰もはがす動きをしないのであればなおさら・・・いい体勢で、視野を確保できなければ、バンバンロングボールを通すというのはクーマンでも無理だと思う。
人が先か?ボールが先か?オシムはパスサッカーについてこの質問をぶつけられた時に
「それは鶏と卵の話のようなもの・・・」
と答えたというが、僕はどちらか?と言われれば人が先だと思う。スペースの狭い現代サッカーでは特にそうだと思う。
いわゆるビルドアップに必要ないわゆる三人目の動きと言われるものは皆無になり、だれもが受け手と出し手の関係を眺めているように思う。三人目の動きが出るにはあらゆる人間が考え走り、カバーに動かなければならない。受け手が受けた時に、また動き出すというのでは圧倒的に遅いし、いいアングルはつくれないと思う。僕自身は三人目の動きは、いつも必然ではないと思っている。それを必然とする為に、時間を作れて調整できる遠藤や俊輔がいて、彼らにアングルを与えることの出来る憲剛や阿部が彼らの後方に居た。オシムが選ぶサッカーと人選に矛盾はなかった。(勿論、彼らを使え!という事ではない。)
岡田監督のゲームプランとサッカー理解は、オシムの考える方向とは違う。オシムサッカーの継承を言うのならば、オシムの日本化の方向性を正しいと感じたのならば、岡田監督は適任ではない。彼がマリノスで優勝したときのストロングポイントを考えてみればいい。
それは日本代表が世界を相手にしたときに、相手に感じるストロングポイントであるはずだ。屈強な守備と、セットプレイでの高さ、前線に残る勝負を決められるFW・・・
後任監督は世界の潮流を知り、日本人の良さを知ろうとする人間で、人を見れる監督であれば誰でも良かった。岡田監督にした事のないサッカーを期待するのは圧倒的なミスだと僕は思う。
そしてまだ岡田監督はどのようなサッカーを目指すのか?アドバルーンを揚げていない。良いか?悪いか?は別にして、日本代表のサッカーの影響力が大きい現状で、それは良くない。先を見据えた議論が出来ない。ピッチで見せるサッカーでの回答もまだ。しかも、この先もあるかどうか分からない。
日本代表のサッカーに、人が動き、ボールが動くという「意識」は失われた。後ろに人数をだぶつかせないという前提で出来るパスサッカーは既になくなった。それを支える「勇気」はもうピッチではもう見られない。それはボールを「奪う」という意識すら、奪ってしまう。自陣で引きこもり、相手のミスに期待する引きこもりサッカーになってしまうのも必然。ゴールを守るだけの守備は決していい守備ではない。日本人の特徴である献身性は、そこで使われることになるだろう。
少なくとも僕はそんなサッカー見たくはない。もっと「良い」サッカーが出来るのを知っているのに・・・
監督交代はないだろうと思う。それは期待しない。ただ選手達には「意思統一」をして欲しいと思う。自分達で考える最上級のサッカー。自分達の能力がフルに発揮できるサッカーをして欲しいと思っている。そして、それが監督の意思と違ったとしても構わない。サッカーに対して誠実であるならば・・・
posted by モーリー |19:52 |
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2008年03月25日
『スペシャリスト』として生きる覚悟。
前回自分で予告しておきながら、オシムの求めるスペシャリストってどんなものだろうか?と少し考え込んでしまった。参考にしたい記事を、探したけれど結局文献が見つからず正確に引用することも出来ない。
オシムは以前に、ポリバレントとスペシャリストの関係を語る際に
「~しか出来ない選手」
とスペシャリストを表現していたように記憶している。
またゴールデンブーツ賞を獲得したパンチェフのことを、彼の得点能力の素晴らしさ、そしてそれがいかに特殊な能力であり偉大な才能であるかを認めつつも、
「しかし、それだけだった・・・」
とも語っている。批判を浴びつつも、より活動的で、よりチャンスそのものを多く獲得できるであろう選手(名前を失念。)を好んで使っていた。
少なくともサッカーは足し算ではない。最高の選手達を集めれば最高のチームが出来るというわけではない。それは既に歴史が証明していることでもある。
だからといって特別な才能を持つ選手が必要ないわけではない。ボールを獲られない方法を知っている選手。キープすることで時間を調節できる選手。人よりも多く見えることで、多くのことを一本のパスを解決できる選手。いいチームには必ずこういう選手が何人かはいる。オシムはその選手達にも、多くの活動量や、長い距離を走ることを厭わない精神。ボールへチャレンジする守備を求めていた。それはスペシャルな能力を持つ選手を、よりスペシャルにする為の要求でもあった。
ではスペシャリストとは?
以前にも書いたオシムが描くサッカーの未来を語った言葉の中にある一節。
「一人のストッパーと、FWしか出来ない選手。」
現代サッカーは選手個人により多くの選択肢を持つように要求することで成り立っている・・・とも言えるし、選手にとってはより多くの仕事が与えられている・・・という言い方も出来るでしょうか?
その仕事量は膨大で、考えなければならない事、同時に考えておかねばならない事は非常に多い。
本物のトップチームにおいては、考えるよりも先に体が反応しているとしか言いようのないくらいに、プレースピードが速い。
ここで語ってきたような前提でポリバレントを解釈してしまえば、もはやスペシャリストなど必要ないように思えてしまえる。
しかしながら例えば「得点を獲る」といった任務だけを背負ってピッチにいる選手がいるというならば、多くの任務を持つものよりも、より深く一つのディティールを探求することが可能なのだと僕は思っている。その行為がDFに恐怖心を与え、相手チームの攻撃精神そのものを奪ってしまう場合もある。それ程の力を持つ者が居るのならば、もはやチームの戦術として組み込まれていると言えるのだと思う。そうであるのならばそれは単純な足し算ではない。(ただし、勇敢に戦うことでその存在を無効化する・・・という方法論が確立されつつあることも知っておかねばならない。)
それ程の力を、チームのメカニズムを変えるだけの力を持つ者は残念ながら日本には居ない。世界のトップ10を目指すと言うのならばそう言わなければならない。アジアカップ敗戦後のカメルーン戦で、いわゆる「個」の突破を期待されて登場した大久保も、田中達也も、スピードはもたらしたが、有効なドリブル突破などただの一度も無かった。来日したばかりのカメルーン相手にすら・・・である。個人で仕掛けるのならば、必ず二回に一回は勝たなければならない・・・そうでなければチームの走る意欲を奪い去ってしまうだけである。(実際には、楔としての勝負というのは有り得る。シュートも同じ。)
実際には守備をするFWのほうがより多くのチャンスを得られる。スペースを意識できるドリブラーのほうがより多くの突破のチャンスが得られる。それは動かしようの無い現代サッカーの姿だと、僕は思う。そしてなお、勝負して突破できるドリブラーであり続けなければならないし、シュートチャンスに決めてしまえるFWであり続けなければならない。そういう覚悟を持たなければ、本当の武器を持つことが出来るとは思えないし、チームの王様として君臨したとしても、今のままでは間違いなく国内使用にとどまってしまうだろう。
そもそも過保護な中では、本当の勝負心は育まれない。と僕は思う。
そもそも如何なる批判を受けようとも、中傷を受けようとも、それでもチャレンジできる人間でなければ、そもそも「スペシャル」ではない。
結局は自分が優秀なサッカー選手であること、チームにとって有益なサッカー選手である事は自分で証明して見せなければならない。スペシャリストであろうが、ポリバレントであろうが、貢献度こそがサッカー選手にとって優劣を決める唯一の手段である。
問われるのは見る者の目だとも言える。いかなる武器を持っていてもそれをゲームで活かさなければいい選手だとは言えない。その為に何が必要なのかを、見る者が知っているのならば、いいサッカーを育てる為のほんの後押しくらいにはなるかもしれない。「スペシャリスト」と聞いて何を想像するのか?はその人のサッカー観を表しているとも言える。その総体がサッカーのスタイルを形成するのならば、「日本化」は遠い・・・ような気もする。
少なくとも僕は、FWは点だけ獲ればそれでいい・・・・何て軽々しくは言えない。
敬称略
追伸 オシムさんが退院した。本当に嬉しい。
「日本に来たのは偶然。一年目は特にそう。ただ、二年目以降は私の意志だ。」
オシムさんはどういう選択をするでしょうか?「いいサッカー」を愛する私たちがいる!と少し声を挙げたい気分です。
追伸の追伸
読み返してビックリ!!オシムイズムについて一行も書かれていないです。ですから題名を変えて載せることにしました。ちょっと今の僕には書けそうもないテーマなので・・・今年中の宿題ということでお願いします。
posted by モーリー |20:58 |
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