2012年02月07日

【最強ヒストリー】カブラヤオー 第9話

第9話 残りの競走生活
文=瀬戸慎一郎 写真=JRA
※馬齢表記ほか、文章は掲載当時のままです
『競馬 最強の法則』1998年8月号収録


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  カブラヤオー不在の菊花賞を制したのは、故・中島啓之騎乗のコクサイプリンスであった。2着には4分の3馬身差でロングファスト、3着には半馬身差でハーバーヤングが続いており、なかなかの激戦であったといえるだろう。この菊花賞2、3着馬は、ダービーで2、3着し、カブラヤオーに完膚なきまでに叩きのめされた馬であった。それだけに、菊花賞に使えなかったことが返す返す惜しまれてならない。「もし、カブラヤオーが出ていれば勝っていた」と主張するファンが極めて多いのは当然であろう。当の菅原泰夫にしても、

「ほぼ間違いなかったでしょう。万全の状態で使えたなら、カブラヤオーは史上3頭目の3冠馬になっていたはずです」

 と、いまだに悔しがるほどなのだ(*1998年当時)。競馬史上には何頭かの“幻の3冠馬”が存在するが、なかでもカブラヤオーは、特に“当確”に近い馬であった。近年では、トウカイテイオーがカブラヤオー同様の“ほぼ3冠に勝てたはずの馬”であろう。

 この年、最後の大一番・有馬記念を制したのは、3冠には縁のなかった4歳(*現在の馬齢表記で3歳)馬のイシノアラシであった。1番人気の天皇賞馬フジノパーシアは2着に敗れている。カブラヤオー不在の秋競馬には、突出した実績を残した馬がいなかったことになろう。こうなると、年度代表馬争いは、春シーズンに皐月賞、ダービーを含め5戦5勝という文句ナシの成績を残したカブラヤオーと、桜花賞、オークスを制した名牝テスコガビー(カブラヤオー同様、秋のビクトリアカップには出走しなかった。なお、ビクトリアカップは現在の秋華賞、旧エリザベス女王杯に相当する)に絞られてくる。この両者の比較では、東京4歳ステークス(*現、共同通信杯)で現実に先着したカブラヤオーに分があるのは当然といわねばならない。また、テスコガビーはオークストライアルでも3着に敗れており、カブラヤオーのようにパーフェクトではなかった。これによって、カブラヤオーは、栄えある昭和50年度の年度代表馬に選出されたのである。

 また、昭和50年は、カブラヤオーだけでなく菅原泰夫にとっても生涯最高の年であったといえるだろう。カブラヤオー、テスコガビーの2頭によって春の4歳(*現在の馬齢表記で3歳)クラシックを独占するという快挙を成し遂げたのだから。この偉業を達成したのは、日本競馬史上、菅原泰夫ただ一人しかいない。

 年明けた昭和51年、5歳(*現在の馬齢表記で4歳)になったカブラヤオーには悲報が待っていた。休養生活を送っている最中の3月、育ての親ともいえる茂木為二郎が他界したのである。カブラヤオーは森末之助厩舎に転厩することになった。それにともない、菅原泰夫も森厩舎の所属騎手となっている。

 昭和51年は競馬が熱く燃えた年であった。TTG、すなわち、トウショウボーイ、テンポイント、グリーングラスの3強が頭角を現わし、密度の濃い闘いを繰り広げていた時期なのである(春の時点ではトウショウボーイ、テンポイントによる2強対決ではあったが)。そんななか、休養を余儀なくされていたカブラヤオーの影はどうしても薄くならざるを得ない。

 ダービー以来となるカブラヤオーの復帰戦は、5月22日の東京競馬場における平場オープンであった。このとき、菅原泰夫は茂木為二郎の法事のため、山形にある茂木の実家に出向いていた。そのため、カブラヤオーの鞍上は久々に菅野澄男となっている。

 この復帰戦でカブラヤオーは本命の支持を受け見事な勝利を収めた。いかにメンバーが手薄なオープン戦とはいえ、丸々1年ぶりのレースに勝ったのだから、“カブラヤオー健在”をイメージづけるには十分であったといえるだろう。これで、3歳(*現在の馬齢表記で2歳)の新馬戦からの連勝記録は“9”に伸びた。

 ところが、次走の平場オープンでは、11頭立ての11着という、思わぬ大敗を喫することになる。もっとも、このレースではスタートの際ゲートに頭をぶつけ脳震盪のようにフラフラになったという事情があっただけに、基準外の敗戦というべきであろう。その1カ月後、札幌に遠征して短距離ステークスを圧勝していることからも、惨敗の理由が単なるアクシデントであったことに疑いの余地はないだろう。

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 なお、二つの平場オープン戦、短距離ステークスには、それぞれ菅野澄男、赤羽秀男が騎乗していた。これは、“一度カブラヤオーに乗せて、強い馬に乗るということを経験させてやろう”という厩舎側の配慮であったらしい。“見習いジョッキーの黛幸弘に勝利をプレゼントするために、負けるはずのないトウショウボーイに乗せた(黛が騎乗した平場オープン戦で、トウショウボーイは日本レコードで圧勝している)”という有名なエピソードがあるように、当時は騎手を育てる方法のひとつとして、最強馬クラスに乗せるということが行われていたようである。

 その後、カブラヤオーは天皇賞を目指して東京競馬場の平場オープン戦に出走した。大一番を控えた時期であっただけに、鞍上に主戦・菅原泰夫が戻ってきたのは当然であろう。もちろん、本命に推されて楽勝したのはいうまでもない。

 ところが、本番を控えた1週間前に、屈けん炎が再発してしまう。症状は調教ができないまでに悪化していった。これでは天皇賞どころか再起することすらむずかしい。結局、カブラヤオーはそのまま引退に追い込まれてしまったのである。

 カブラヤオーの5歳(*現在の馬齢表記で4歳)時は、華々しい活躍を見せた4歳(*現在の馬齢表記で3歳)時とは対照的にいささか地味なものであった。もうひと花どころか、ふた花もみ花も咲かせることのできる可能性があっただけに悔やまれる。不完全燃焼のままの引退といわねばならない。

「天皇賞を取って茂木先生の墓前に添えたかった」

 当時、菅原泰夫はそういって無念を語っていた。

 その反面、菅原が安堵を覚えたことも否定できない。無謀といわれる戦法で「菅原はなにを考えているんだ」という罵声を受けずにすむのである。また、それに対して貝のように口を閉ざさねばならぬ必要もなくなる。

 カブラヤオーが引退してはじめて、菅原泰夫は頑ななまでに逃げにこだわった理由をようやく白日の元に晒した。そのことは誰もが納得し、菅原の芯の強さに脱帽した。

 勝負師・菅原……。

 いつしか人は、致命的な弱点を隠し通して2冠馬に導いたジョッキーをそう呼ぶようになっていた。後に菅原は、ミナガワマンナ、ホリスキーといった馬とともにその勝負師ぶりを発揮することになる。そして相棒のほうは、弱みを見せないための厳しい闘いを強いられながらも、勝負師の期待に応えた馬として鮮明に記憶された。


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2012年02月07日

【最強ヒストリー】カブラヤオー 第8話

第8話 菊回避の決断
文=瀬戸慎一郎 写真=JRA
※馬齢表記ほか、文章は掲載当時のままです
『競馬 最強の法則』1998年8月号収録


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 皐月賞、ダービーを制したカブラヤオーに、昭和39年のシンザン以来11年ぶりの3冠の期待がかけられたのは当然であろう。夏の休養期も順調に送れただけに、期待は確信に変わっていった。

 ところが、そろそろステップレースに使おうかという9月下旬、予期せぬアクシデントが起きた。蹄鉄を取り替える際ツメを深く切り過ぎてしまい、それが原因で発熱し、屈けん炎になってしまったのである。これが尾を引いたのはいうまでもない。

 それでも、3冠への望みは捨て切れない。いくぶん回復したこともあり、とりあえず西下したのである。トライアルこそ使えなかったが、菊花賞の最終追い切りにはどうにか間に合わせることができた。

「ぶっつけでも、使って使えないことはない」

 追い切りの結果、菅原はそう判断した。少なくとも、8分程度のデキに仕上がったことには確信が持てたのである。

 当時、カブラヤオーの管理調教師・茂木為二郎は病床にあった。そのため、カブラヤオーに関していうなら、調教助手を飛び越え、所属騎手の菅原泰夫が調教師の代理のような立場にいたのである。カブラヤオーに関する決定権は全て菅原に委任されていた。

 しかし、ことは3冠を取ろうかという馬に関する問題である。やはり、いち騎手でしかない菅原にはさすがに荷が重かったというべきであろう。

「出走させること自体は不可能ではありません。しかし……」

 菅原は、病の床にいる茂木に相談した。

 愛弟子・菅原に対する茂木の信頼は揺るぎないものであったらしい。答えはダービーの時と同じであった。

「おまえの判断に任せる」

 たったひとことそう答えただけであった。

「カブラヤオーは負けてはいけない馬なんだ。また、8分程度のデキで長丁場を使えば、将来的に取り返しのつかないことになる可能性をはらんでいる。そして、出てきたらかならず人気になる馬でもあるのだ。ファンへの責任も重い」

 そう考えた菅原は、断腸の思いで菊花賞回避を決断した。そうすることが、馬やファンに対する最善の方法であると信じていたからである。

 こうしてカブラヤオー3冠の夢は潰れた。


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2012年02月07日

【最強ヒストリー】カブラヤオー 第7話

第7話 我が道を行く
文=瀬戸慎一郎 写真=JRA
※馬齢表記ほか、文章は掲載当時のままです
『競馬 最強の法則』1998年8月号収録


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 菅原泰夫の苦悩が増すのと比例するように、カブラヤオーに対する周囲の期待も募るばかりであった。とくに、桜花賞馬テスコガビーがオークスでも圧勝しているだけに、カブラヤオーの2冠達成も当然のように信じられていたのである。また、菅原泰夫自身にとっても、4歳(*現在の馬齢表記で3歳)春クラシック全勝という前人未到の記録がかかっていた。期待するなというほうが無理な話であろう。

 結局、菅原の結論はあるべきところにいきついた。

 逃げる。

 どう考えても、やはりそれしかないのである。

「力でコイツを負かせる馬なんているはずがないんだから」

 開き直りであった。レースが直前に迫ると、不思議なことに迷いは消えていた。土壇場に追い詰められたときの精神力の強さが、菅原の真骨頂なのかもしれない。

「堂々とカブラヤオーの競馬をします」

 菅原泰夫はそう宣言した。

 ダービーのゲートが開いたとき、真っ先に飛び出したのはやはりカブラヤオーであった。菅原の入れた数発の出ムチが、皐月賞同様の激しい流れを暗示していた。

 そのような興奮のなかにありながら、菅原泰夫は極めて冷静であった。後先考えないように思えた出ムチも、実はしたたかな作戦だったのである。

「皐月賞もダービーも、何発も出ムチを入れたように見えるでしょ。でも、実は1発しか入れてないんですよね。残りは単なるポーズだったんです。しかも、わざとオーバー・アクションでね。それは、“何が何でもオレがいくぞ”という宣言だったんですよ。そうすれば、追いかけてくる馬もいないだろうと。で、思いっきり飛ばすように見せかけて、マイペースに持ち込もうという算段だったんです」

 当時29歳に過ぎなかった菅原は、すでに立派な勝負師だったのである。

 もっとも、それだけのお膳立てをしながらも、菅原の目論見ははずれたといわねばならない。明らかな意思表示をしながらも、皐月賞ではレイクスプリンターに追いかけられ、ダービーでも同様につつかれる展開になったのだから。当時の競馬は今のような甘っちょろいものではない。大本命であればあるほど、楽な競馬はさせてもらえないのである。

 絡んできたのは、関西馬のトップジローであった。カブラヤオーとトップジローはマッチレースのように飛ばしあい、後続を5、6馬身引き離して1コーナーを回った。

 東京の2400メートルは恐るべきハイペースで流れた。前半1000メートルの通過タイムはなんと58秒6。史上空前のハイペースといわれた皐月賞の58秒9を、さらに0秒3も上回っているのである。しかも、皐月賞より400メートルも長く走らなければならないレースなのだ。“魔の桜花賞ペース”どころの話ではない。

「ムチャクチャだ。皐月賞ならまだしも、ダービーまでこんなペースで行くなんて」

 スタンドのあちこちからそんな声が飛んだのはいうまでもない。

 3コーナー。皐月賞でのレイクスプリンターがそうであったように、ダービーでの刺客トップジローも早々と息切れした。カブラヤオーのスピードについていった無理がたたり、みるみる馬群のなかに飲み込まれていったのである。レース後、トップジローの鞍上、外枦保重秋は、

「カブラヤオーを追いかけているとき後ろを振り返ったら、後続とだいぶ離れていました。我われはそれくらい飛ばしていたんです。で、こっちは2コーナーあたりであっぷあっぷなのに、カブラヤオーときたらまだ平気で走ってるんだからね。向こう正面ではもうバカバカしくなってしまいましたよ」

 と呆れ半分のコメントをしている。スピードの違いを思い知らされ呆然としてしまったわけだ。また、皐月賞でカブラヤオーに挑戦したレイクスプリンターが、限界を越えて骨折し安楽死処分されてしまったように、トップジローの将来にも悲劇が待っていた。ダービー以降、一度も勝てないままに終わったのである。カブラヤオーは、皐月賞で他馬を殺し、ダービーでは他馬の将来をメチャメチャにしてしまったことになる。

 ただ、テンの5ハロン58秒6のハイペースは、カブラヤオー自身にとってもきつい流れであったらしく、4コーナーに差し掛かるあたりでは、ハクチカツ、ホシバージ、ロングホークらの接近を許してしまった。直線に入ったとき、後続との差はわずか1馬身程に詰まっている。直線なかほどで、狙いを定めたようにハーバーヤング、ロングファストが襲いかかってきたとき、カブラヤオーは苦しそうに外にヨレたほどであった。

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 カブラヤオー危うし……そう直感したものは決して少なくない。

 けれども、そこからカブラヤオーは脅威の底力を見せた。馬体を立て直すと、恐るべき二の脚を使い、まさに鏑矢(かぶらや、鳴り矢の意)の勢いで伸びていったのである。懸命に追い込んだロングファストも届かない。カブラヤオーは2着以下に1馬身4分の1の差をつけ、堂々とダービーのゴールを駆け抜けた。

「どんなレースになっても、強い馬は強いんです」

 勝利ジョッキーインタビューで、菅原泰夫はそういって胸を張った。それは、壮絶なレースを乗り切った愛馬に対する最高の褒め言葉にほかならない。また、2着に敗れたロングファストの松田幸春も「あの馬は強すぎます。絶対に覆えせない」と脱帽している。カブラヤオーは問答無用の競馬で4歳(*現在の馬齢表記で3歳)最強馬の座についた。


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2012年02月07日

【最強ヒストリー】カブラヤオー 第6話

第6話 戸惑い
文=瀬戸慎一郎 写真=JRA
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『競馬 最強の法則』1998年8月号収録


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 カブラヤオーは恐るべき内容の競馬で多くのファンを圧倒したが、その裏では、無謀とも思えるペースで飛ばした菅原泰夫の騎乗に批判めいた声が出ていたことも否定できない。当の菅原にしても、

「もし、いまのように競馬がメジャーであったなら、ファンやマスコミから集中攻撃を受けていたことでしょうね」

 と、漏らしているほどなのだ。それくらい常識はずれな乗り方だったのである。皐月賞の勝利インタビューで「ダービーでも今日と同じレースをすれば負けるわけがないんです」という発言をして、強気なところを見せてはいたものの、その実、微妙に心が揺れていたのも仕方のないことなのかもしれない。

 ダービー・トライアルのNHK杯は、そんな菅原の心境が反映されたレースといわねばならない。

 カブラヤオーは当然のように1番人気に支持されていた。そして、当然のように“逃げる”と考えられていた。ところが、大方の予想を裏切り、カブラヤオーは逃げずに2番手からの競馬をしたのである。

 逃げ一辺倒では2400メートルはもたない。だから、2番手で折り合う競馬を試したのだろう……控えるという試みは、だいたいそんなところに落ち着く。

 確かに、菅原泰夫は本番を見越して、好位からの競馬を意識し始めるようにはなっていた。その気持ちはよくわかる。けれども、そういう戦法は、“他馬を怖がる”というウイークポイントへの対処と矛盾してしまうのだ。

 では、どうすればいいのか?

 確かに逃げはしなかったが、菅原泰夫は逃げ馬の直後につけるということもしなかった。ポツンと1頭だけ、しかも、内外大きく離れた位置で2番手を追走していたのである。要するに、距離のロスを全く度外視して、終始大外を回っていたのだ。事情を知らないファンにしてみれば、全くもって奇妙な戦術と映ったことであろう。しかも、カブラヤオーを除く16頭は、めまぐるしく順位の入れ替わる激しい攻防を展開していたのだ。「菅原のボケはなにをやっとるのか」と、思ったファンが少なくなかったのはいうまでもない。もっとも、この日は不良馬場であったため、馬場の外目のほうが走りやすいという事情から、そんな作戦に出た部分もあったに違いない。いずれにせよ、見た目にはあまりにも奇妙な競馬だったというべきであろう。

 それでもカブラヤオーは強い。道悪をモノともせず、直線で鋭い脚を使い、2着ロングホークに6馬身もの差をつけて圧勝したのである。エンジンの違いは歴然であった。

 カブラヤオーは2番手からの競馬でも勝てたわけだが、実質的には逃げたのと大差ないものであった。菅原泰夫は、「ダービーでNHK杯と同じレースをするのは、いたずらに距離のロスをするだけであって、ほとんど意味がない」という結論に達したのである。

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 ただ、もうひとつの手段が考えられる。逃げ馬とは全く正反対の追い込み馬への転換にほかならない。逃げるだけ、追い込むだけという馬は、たいてい気性的な問題からそういった極端な戦法をとらざるを得ないのであって、脚質転換は決して机上の空論ではないのである。事実、「カブラヤオーはミスターシービーのような追い込み馬になる可能性があった」と主張する人もいるほどだ。

 もっとも、菅原自身は追い込み馬への可能性を早い時期から捨てていた。

「馬込みを割ることができない恐がりの馬だから……」

 よしんば、馬群に関係ない大外一気の競馬が可能であっても、常に距離ロスの問題がついて回る。NHK杯でやった競馬と同工異曲なのだ。そしてなにより、ダービーという大一番でいきなり脚質転換するのは自殺行為にも等しい。結局、逃げるのが最善の手段であった。

 とはいうものの、なかなか踏ん切りがつかない。やはりダービーは特別なのである。皐月賞のときは何のためらいもなく逃げることを決心できたが、今回ばかりは迷いを振り切ることができなかった。もちろん、距離的なこともある。悩みに悩んだ末、菅原は師匠の茂木為二郎に相談した。

「どうすればいいんでしょうか……」

 茂木の答えは簡単であった。

「おまえの好きなように乗ればいい」

 全幅の信頼にほかならない。皐月賞でも全て菅原に任せていたのだから、ダービーにおいても同様なのは当然であろう。

 それでも、菅原の迷いは消えなかった。それどころか、迷う要素がさらに増えたというべきであろう。信頼されればされるほど、責任というものは重くのしかかってくるものなのだ。


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2012年02月07日

【最強ヒストリー】カブラヤオー 第5話

第5話 恐怖の鏑矢(かぶらや)
文=瀬戸慎一郎 写真=JRA
※馬齢表記ほか、文章は掲載当時のままです
『競馬 最強の法則』1998年8月号収録


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 東京4歳ステークス(*現・共同通信杯)の結果に、菅原泰夫は驚愕した。

「ジュニアカップまでの3連勝で、カブラヤオーの力を理解したつもりになっていました。しかし、あの馬は我われが思っていたより、もっともっと強い馬だったんです」

 菅原は、カブラヤオーが最強馬として君臨できる器だと確信したのである。と同時に、以前妙に気になっていた理由がわかったような気がしてきた。名馬というものは、常識という物差しでは計れないものなのだ。

 その後、カブラヤオーは再び菅原泰夫とコンビを組んで弥生賞に出走し、関西のロングホークらを相手に難なく逃げ切って見せた。これで5連勝。しかも、破ったロングホークはこの直後にスプリングステークスを制しているのである。カブラヤオーが皐月賞の大本命となるであろうことはもはや疑いの余地がなかった。

 ここで、昭和50年の牡馬クラシック路線の流れに触れてみよう。

 彼らの3歳(*現在の馬齢表記で2歳)時にあたる昭和49年の時点では西高東低という感があった。函館3歳ステークス(*現、函館2歳ステークス)に勝ったホシバージ、デイリー杯3歳ステークス(*現、デイリー杯2歳ステークス)の覇者ニルキング、阪神3歳ステークス(*現、阪神ジュベナイルフィリーズ。当時は関西の2歳王者決定戦だった)の勝者ライジンらの関西馬が有力視されていたのである。しかし、これらは早熟であったり、故障したりなどでクラシックの主役を張るには至らない。対する関東牡馬陣はというと、“黒い弾丸”といわれたテスコガビーの前にガン首を揃えて討ち死にするというありさまであった。おまけに、明け4歳(*現在の馬齢表記で3歳)になると、関西でエリモジョージ(シンザン記念)、スリーフラム(きさらぎ賞)らが頭角を現したほか、各ステップレースの勝ち馬が猫の目のように変わるという状況だったのである。まさに“戦国”の様相を呈していたといわねばならない。

 そんなはっきりしない情勢を根底から覆すかのように登場したのがカブラヤオーであった。本番前までの同馬の快走ぶりは前述のとおりである。

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 皐月賞の当日、カブラヤオーは2.3倍の1番人気に推されていた。2番人気には弥生賞でカブラヤオーの2着に屈しながらもトライアルのスプリングステークスに勝ったロングホークが支持されている。

「全部おまえに任せる。悔いが残らないように乗ってこい」

 レース前、茂木はそれだけを菅原に伝えた。

 スタートが切られると、まずは関西の韋駄天レイクスプリンターが脱兎の勢いで飛び出した。しかし、馬込みで揉まれたくないと考えていた菅原は、2番手に甘んじるつもりなどサラサラなく、強引にハナに立とうとする。菅原は鬼気迫る勢いで何発も出ムチを入れた。“絶対に引かない”という逃走宣言にほかならない。

 皐月賞は史上空前のハイペースで流れた。カブラヤオー、レイクスプリンターの作った流れは、前半の1000メートルを58秒9というとてつもないラップが刻まれていたのである。もし今の競馬なら、58秒台前半、あるいは57秒台に匹敵するかもしれない。まるで2頭の“テレビ馬”がガンガン飛ばしているというような光景であった。

 けれども、カブラヤオーとレイクスプリンターでは格が違う。3コーナー付近では早々とレイクスプリンターを振り払い、頑として先頭を明け渡さなかった。

 このカブラヤオーの逃げは、ほとんどのファンに“暴走”と映っていた。後続馬群にいたロングホークの武邦彦でさえ「カブラヤオーは潰れるだろう」と見ていたのである。

 そんな空前のハイペースで飛ばしたにもかかわらず、カブラヤオーの脚は一向に衰える気配がなかった。力強い脚で中山競馬場の坂を駆け上がると、ゴール前で二の脚を使い、迫ってきたロングホークに2馬身半も差をつけて悠々と先頭でゴールイン。しかも、勝ちタイムの2分2秒5はレースレコードであった。カブラヤオーは恐るべき内容の競馬で皐月賞を制したのである。レース後、菅原泰夫は、

「カブラヤオーについてくる馬はみんな潰れてしまいますよ。ダービーでも今日と同じレースをすれば負けるわけがないんです」

 と、高らかな勝利宣言をした。

 それにしても空恐ろしいレースであったといわねばならない。カブラヤオーに挑んだレイクスプリンターは、前半の無理がたたって先頭から37秒3も遅れる大差のシンガリでゴール入線することになったのだが、実は、レース中に右の後脚を骨折していたのである。レース直後安楽死処分となったほどの致命傷であった。そのため、

「カブラヤオーは尋常じゃない。バケモノです」

 と、レイクスプリンターに騎乗した押田年郎が涙を流しながらコメントしたほどである。つまり、カブラヤオーのスピードについていったレイクスプリンターの脚が限界を越えてしまったということらしいのだ。

 競りかけた相手を殺してしまうほどの馬。カブラヤオーはそんなふうに呼ぶものさえ出てきたほどである。まさに恐怖のスピードという以外にないであろう。


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