2007年08月04日

トータルフットボールは続くよ、どこまでも...

えー、申し訳にくいのですが、「トータルフットボール完結編」と銘打って前回投稿したのですが、過去記事の方になんと『クライフ』様が降臨されて来ましてなんだか盛り上がりそうなので、どうぞご覧ください。↓

  トータルフットボール(1)
  トータルフットボール(2)
  トータルフットボール(3)(4)


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posted by サッカーニョ |23:58 | トータルフットボール | コメント(2) | トラックバック(0)
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Re:トータルフットボールは続くよ、どこまでも...

今回はかなり駄文で長いから密やかにこちらへ置かせていただき。


トータルフットボール その後

西ドイツワールドカップは、前回のメキシコ大会などに比べると試合の質が落ちると言われたものです。
一試合あたりの得点数は過去最低。勝てばいいという姿勢が目立ち、1966年イングランド大会並みの水準でしかない、と。
ところが、ビジネスと手を携えた勝利至上主義は蔓延し、地球基準かというまでになりました。振り返ってみれば、特に西ドイツ大会が低レベルとも言えなくなってしまいました。

もはやトスタン、ジェルソン、ペレ...、このようなクラスが揃うことの方が奇跡で、プラティニ、ジレス、ジャンジニ...でもかなり難しいのかも。
カテナッチョを粉砕するお祭りこそが例外になったのでした。

そんなことも影響してか、74年のオランダが、
>目撃した人々の記憶の中でかなり美化され
ていったのでしょうか。
美化するんなら82年のブラジル、フランスとか、86年のデンマークとか、いろいろありそうなんですが、決勝まではいかないと駄目なんですかね。
なにより「トータルフットボール」という目立つ看板も大きいでしょうね。
で、前に書いたように、この看板を分割しようと思います。

美化か歪曲か?テレビのせいか?
1974年のオランダを、クライフ監督のアヤックスやバルセロナの似像としてしまう論調は、見てない人のもだと思いたいですね。

また、当時のオランダが未来のサッカー、西ドイツが旧態依然だったという言い方も多いみたいです。それは74年大会の終盤のみをとりあげた誇張、というより図式化を意識するあまりの錯誤だし、ベッケンバウアーがネッツァーを排除したかのような話等々、何らかの間違った底本によるのかもしれません。

別の問題かもしれませんが、歴史を論ずるとどうしても「現在を到達点」だと思いがちです。現状に至る過程が歴史であるかのように考えてしまう。だから、仮に資料が同一でも、今から50年後に同じものを論ずる際の見方は別物になります。

ちなみに西部さんは74年西ドイツ代表を、対東ドイツ戦の録画で見直してみたそうです。そして西独はジェフと似ていると言います。
(「イビチャ・オシムのサッカー世界を読み解く」2006年対磐田戦)
「どちらもマンマーク、ただし西ドイツのほうは流れの中でどんどん前へ出て行く。ポジションはあってないようなもので、非常にアグレッシブ。これと似ているのだから千葉のサッカーは『古い』ということもできそうだが、西ドイツが『新しかった』ともいえる」

まあ、これで終わりではないんですけどね。
このあと文章は続き、「だから分業の方が正しいのだ」ということになって、ポジション別にジェフの選手のタイプを分類してます。サッカーニョさんが教えてくれた、クライフ監督のアヤックスの例のように。

ところが「分類してみると、GKは別にしてもストッパーとターゲットプレイヤー以外は、特徴と役割がかなり重なる部分もあり、実際に複数の選手が、複数の役割とポジションをこなしていた」となります。いろいろ条件付きですが。
ふぅむ、この表現って、セルジーニョとルイジーニョ、オスカーが仲間はずれ(?)だったカーニバルにも当てはまっちゃうかも。まあ、色はともかく、見栄えが全く異なりますけどね。おっと。

1974年正月は、藤枝東高校が高校選手権で準優勝に終ります。今になってみれば、すでに前年から始まっていた静岡県準優勝時代の二年目に過ぎません。
このときは優勝した北陽高校よりも負けた藤枝東高校の方に、少年たちの人気は偏りました。理由は主にプレイヤーたち、中村、服部、内藤選手等々の個人技です。
しかしチーム自体も極めて攻撃的で魅力があり、それはかなり流動的なサッカーでした。

このチームの流れるようなイメージが印象深かったので、後年に清水勢が台頭してテレビに登場してきたときには、地理的に近くともスタイルはずいぶん異なるものだなと思いました。
まあ、中山選手たちの藤枝東を見たときにも、かなり強い違和感を覚えましたけど。

74年時点、すでに藤枝東は総体・選手権で6回優勝し、国体でも勝ってます。これからも優勝争いを続けるんだろうなと思ったものです。
高名な長池実先生はサッカーマガジンに連載を持ち、ときには単発の寄稿もなさってました。
西ドイツワールドカップ後は、「サッカーのためにはオランダに優勝して欲しかった」と書いていたはずです。
また、「サッカー教室」という本も上梓されました。チャナディの「サッカー」が分厚すぎて(たしか二分冊?)、「サッカー教室」の方が手軽でした。
でも凝縮された中身は二十一世紀にあっても名著だろうと思えるもので、「私は根性ということばがきらいです」として意志の力を説き、技術練習やスモールゲームなどを網羅する実用書でした。(1973年大修館)

この長池先生、元来4-3-3は流動的なサッカーだとお考えで、さらにオベラートのケルンを見て「ポジションのないサッカーを考えた」そうです。
ケルン来日は1973年のこと、西ドイツワールドカップの前年です。
読売に来ていたバルコム監督は、73年正月の藤枝東についても「技術がしっかりしてる。また、ボール無しの動きが素晴らしい」という意味のことを言ってたはずです。
そしてケルンに感銘を受けた長池先生は、そのスタイルを押し進める。で、流動的スタイルをある程度まで完成させたのが、74年正月の準優勝チームではないでしょうか。

新たな目標となったオベラートのチームもポジションチェンジ型だったわけで、当時の西ドイツは代表チームやボルシアMGに限らず、流動的な攻撃サッカーがかなり普及していたようです。
ブンデスリーガは世界でもトップの失点数を誇っていたと聞きます。一点とっても終らないんですね。で、イタリアに弱い。

そんな西ドイツの流動的な攻撃サッカーを酌み取ろうとした、日本のチームもあったんですね、74年ワールドカップよりも前に。
これらはある種のトータルフットボール、極端なスペース圧縮を伴わないが、「全員攻撃・全員守備・ポジションチェンジ」という点で、トータルなスタイルと言えると思います。

いや、はっきり言えば、74年ワールドカップが始まる前は、72年欧州選手権優勝の西ドイツ代表をトータルフットボールと称してたはずです。
英語の人たちは、割とそうだったんではないでしょうか。エリック・バッティはそんなスローガンを使わない人でしたが、レズリー・バーノンとかは、西ドイツをトータルフットボールと形容してます。

牛木さんが座談会で往時を回顧なさってるページを見つけました。
>http://www.salon2002.net/news/200604_3.html#2
2006年4月時点での話です。
このうち「<Ⅷ> トータル・フットボール」という項では、牛木さんが本質に関わる部分で同種のことに触れられています。

> 「トータル・フットボール」ということばの意味は何であるか

>ワールドカップの2年前に、(西)ドイツがイングランドに遠征し...
>イングランドの新聞に...
>(西)ドイツのサッカーはトータル・フットボールだと書かれていたという

>分業制ではないという意味
>2年前にすでに使われていた言葉をオランダに当てはめたのではないか

>この場合は「全員攻撃、全員守備」という意味
>オランダがやった守備ラインを上げるとか、
>コンパクトに囲い込みをするとかということとは、直接の関係はない

ワールドカップ二年前、西ドイツのイングランド遠征というのが、ネッツァーがいた1972年欧州選手権の準々決勝第一戦ですね。
下のはウェンブリーでなく、例の決勝の方ですが
>http://jp.youtube.com/watch?v=6WBcJnwUtxo&mode=related&search=
これは五分割でアップされてたのと同じソースの短縮版みたいです。ただ、三点目がオフサイドかどうかの微妙な位置関係が、リプレイではっきりしますね。

あ、そういえば、ちょっと脇道へ。ネッツァーはエクストラで替えが利かない。だからドメスティックなプレイヤー中心に、ストロングポイントはコレクティブ。
ついでにベッケンバウアーも唯一無二、ミュラーも異能だから、普段はビットカンプやコステデを使う。特別な存在の人たちはインパクト・プレイヤーとして、ここぞというときに「個の力」を活してもらうのが正当。
なんて言ったら一体全体...
クライフはもちろんプラティニも。ゾラも、バッジョだってリケルメだってそーなりますね。もしかして正当?

ええと。今現在は74年オランダから引っ張りだすのが、スペース圧縮・コンパクト型集中体制です。それを「トータルフットボール」であるとする。
が、それとは無関係に72年ころから、攻守の役割分担がとても流動的な攻撃サッカーを、トータル・フットボールとして語っていた。
当時の現地感覚はそうだったわけで、今でも文字面から遡及すればこうなるでしょう。

しかし以後の歴史を見ていくと、決定的に重視されたのは、オールコート・プレッシング、スペース論、プレイング・エリア論でした。
「トータルフットボール」の攻守は、実は表裏一体でもなく、後に伝わったのは一部分だったわけです。ま、当時もこれが主要コンセプトらしいので、この点のみを指して純粋な「トータルフットボール」と定義しますと言われたら、もうそこでお終いですが...

はっきり分けちゃいましょう。仮に名付けたら...
攻撃型トータル=流動的ポジションチェンジの誰でも攻撃
守備型トータル=ラグビー風 地域獲得にオフサイドトラップ追加
トータル・トータル=74式オランダ
くだらないですねぇ。
でも、スペース制圧型のみを評価するのには反対。理論づけやすく真似しやすいとしても、それは片側からしか見ていない。追い回し速攻型は勝利至上主義に堕しやすい。

守備型トータルフットボールは、別の勢力、対人マークを重視する3-5-2の隆盛などと覇を競いながら普及する。非流動的サッカーが主流になっていきます。
ときには、相手陣へ押し込むこと自体がよしとされたり、ボールを奪ったら慌ただしくパス三本以内でシュートせねばならないと喧伝されました。ハーフカウンターという言葉もつくられたようです。

似たようなことは、マンマーク基調で、東ドイツとかがとっくにやってたのに。

こうした単純な論理は合理的で、勝利至上主義やリスク忌避、ビジネスと親和性が高く、両チームが同じことをやる試合、閉塞感の高い潰し合いが通好みとされました。そしてディテールに拘泥する論調を招きます。

ついでに74年オランダの守備の、プレッシング以外の面をざーっと見直しましょう。

ワールドカップ後の岡野さんのオランダ評の一端はこうでした。
「...一見攻撃的に見える。だが、よく見ると、シュルビアの出た後には、ヤンセンがちゃんと引き、最後尾には常に4人、そしてその前に少なくとも2人が残って6人で守備陣をひいていることが多い」

ここからローテーションの弱点、ディフェンシブでない選手が守るときの危うさをも指摘なさってました。
それでポジションチェンジが嫌われるようになるのでしょうか?

エリック・バッティは。
「...常に流動的に入れかわっているが、ちゃんと組織されている。それも守備的に組織されている。だから、ちょっと見ればオランダのシステムは攻撃的に思われるだろうが、注意深く見れば実は守備的であることが分かるはずだ」

ほかに守りについて割と一般的に語られたのが、オランダのファウルの多さ、スライディングタックルの多さでした。
ちなみに、決勝戦は西ドイツが後半になると守りに入ったものの、終ってみれば与えたフリーキックは15。オランダは25に上ったそうです。

それから、図書館の古いサッカーマガジンで、牛木さんがアヤックスを生で見たときの印象を書いてるのを発見しました。
1972年3月22日、アーセナル対アヤックスのチャンピオンズカップ準々決勝。つまらない自殺点でホームのアーセナルが 0 - 1で負けたそうですが、内容は見所が多かったといいます。

一つ目に挙げたのは自殺点の遠因になっただろう、アヤックスの「はやさ」。
直接論じてはいませんが、囲い込みもときおりやってたのではないでしょうか?
二つ目が、「攻撃ラインと守備ラインの間が、非常に狭いことである」。
ある瞬間、アヤックスのGKがボールを持ったときの図解が載ってます。ハーフウェイラインから自陣側 5~6メートルの幅に、アヤックスの十人が密集している図です。

このあとアヤックスは二連覇を、インテルを破って達成します。
もし、インテルがボルシアMGに4 - 2 & 1 - 7 で負けたままでいてくれたら、歴史は少し大きく変わってたでしょう。
Do not Come on in. Coke !!!

えー、さて、他方、誰もが攻めに参加する攻撃型トータルフットボールは、今やコーラのためだけでもなく、臆病さのせい(?)で顧みられなくなったように見えます。西部さん曰く、
>「...トータルよりも分業が正しいという結論もすでに出ている」
というわけです。
逆説的ですが、ワールドカップの水準にあっても、今さらCBがボール奪取だけでなく攻撃に参加できたということが特筆されちゃう時代ですから。
しかしまあ、昨今のスペシャリストって。

CBの組み立て能力の養成だ、攻撃参加だとか。ミッドフィールダーを最終ラインに下げる是非、なんて。
こういうのは全てポジション固定型の先祖返り時代だからこそ。
ベッケンバウアー、ピリ、ボギチェビッチ以前に戻ってるんですね。

確かにベッケンバウアーほどの万能型は、これはほんとの天才だから、五十年にひとり、ふたり程度でしょう。でも。ルイス・ペレイラやマティアス・ザマーは十年に十人以上いるのでは?ローラン・ブランならもっとたくさん、トゥリオ、中澤...、あれっ、駄目か。

ウィングではなくサイドハーフ?
90分アップダウンできるスタミナが不可欠?
エポ○ク社のサッカーゲームみたい。部品?
四六時中動き回ること自体が最重要指標とされていいものか?
確かに、循環器系の能力向上や筋力増大の方が安直な道、判断力・平衡感覚・技術を鍛えるよりもずっと早い。これも正論ではありますけどね。レッツ・ゲット・フィジカル...

ラトー、ガドーハの好評ウィング・コンビは、アップ・アンド・ダウンではなくイン・アンド・アウトだからこそシュートができました。彼らが畝を耕すように、タッチライン沿いに行ったり来たりだけだったとしたらどうでしょう。
鹿島に来たジョルジーニョも同じようなことを言ってましたね。わたしはそれ以前のトヨタのジョルジーニョが好きでしたけど。

フィジカルといえば、牛木さんは西ドイツ大会の予選、イングランドがポーランドに引き分けて敗退する試合をロンドンでご覧になったそうです。

>力づく、体格づくのサッカーの限界を、ぼくはこの目で見たと思う。
>東ヨーロッパの機敏で鋭利なサッカーが
>力のサッカーに対抗できることを、ポーランドはみごとに示した。

1973年の話ですよ。
ついでに論旨と関係ないですがもうひとつ。

>ポーランドのラトーが逆襲ドリブルで2点目をあげそうになった...
>そのとき、イングランドのマクファーランドが、うしろから
>ラグビーのタックルのようにラトーの首に抱きついて独走を引き止めた。
>サッカーの母国の誇りをかなぐり棄てたかのような、
>みにくい、悪質な反則だった。
(ロイ・マクファーランドは、どっちかというと技術がある方でした)

さて、戦前のオーストリアから戦後のハンガリー、それを見ていただろうミケルス監督のオランダへと、延々引き継がれたのかもしれない流動攻撃の系譜は途切れたのかもしれません。
ハンガリーを破ったヘルベルガー、その後継者たちは攻撃志向の西ドイツ・トータルフットボールをつくりあげました。が、今やそれも過去の話。
ベルリンの壁が瓦解して十何年。
しかしそれ以前にブンデスリーガが朽ち始めて三十年?
アムステルダムの地盤沈下から三十年?
ドナウ、流れ変わらずして、水、同じからず。

しかし、です。
流動的な「誰でも攻撃」というのは案外ナチュラルなもので、規制がなければゲームはそうしたかたちをとるのではないでしょうか。
2001年のスペース・オデッセイのように、モノリスが出現すると、自然体が攻撃型トータルフットボールへと組織化される、そしてまたセンセーション、なんて。

いにしえのハンガリー代表コーチングスタッフは、プスカシュたちオリンピックチームの自然発生的コンビネーションにヒントを得て、そこから流動攻撃スタイルを洗練させていったとも言われてます。
理論づけたのが、ガザ・カロクセイやグスタフ・セベシュ、カルマールやブコビといった人々らしい。
意外にもオーストリアから継承した部分は少なかったのかもしれません。
蒼きダニューブが天啓を招きがちなだけだったりして。
シュバルツバルトからウィーン、そしてブラチスラバ、ブダペスト、ベオグラード...

ドナウ流域とは限りません。朝鮮戦争後、モノリスは平壌の窪地に現れて、爽やかな「イケイケ」を唆したのかもしれません。
ペレとともにブラジルの空を高く飛翔、いっとき雲隠れした後、80年代に入ってソクラテスたちの狂奔を導いたのかも。
また、西ドイツ・オランダで旋回しつつ藤枝も経由、オブラック、ミルヤニッチの気分しだいではユーゴスラビアでも見え隠れし、そして二十一世紀には唐突に市原あたりで低空飛行?
カウンター型でもそれなりに、流動的なトータルフットボールをなし得るわけです。

青い鳥のように、見える人さえいれば将来も、モノリスだかダヌビウスだかは出現することでしょう。そのとき、レベルの高い選手が揃う僥倖に恵まれれば、きっと歴史は繰り返す。
そして観衆は未来を見たと叫ぶに違いありません。


いや、これじゃあ愚痴ですね、すいません

posted by コリバノフ | 2007-08-23 19:46

トータルフットボールは続くよ、どこまでも...

トータルフットボール その前

非常に流動的な攻撃と見た場合のトータル・フットボール、その起源のひとつ、大きなひとつは、ダニューブ・フットボールだということみたいです。

第二次世界大戦を挟む四十年前後の間、世界は、英国、大陸、南米という三大勢力に別れ、イギリスだけが別の方角に向かった模様。
そして紆余曲折あったとはいえ、英国流の基調だった極端な速さが、その後、二十一世紀初頭にまで、強大な影響を及ぼすにいたったようです。
イギリスではWM以来、センターハーフはストッパーのこと。フルバックはサイドバック。ウィングハーフとは、タッチ沿いに広く開きはせずに、中盤で絞り気味の攻守の要。その片方が、さらにセンターバックに下がっていく。

コンチネンタル・スタイルの本流は、西欧ではなくドナウにあり、ミトローパ・カップ諸国を中欧と見るなら、イタリア、スイスからバルカンにまで広がる、ショートパスとポジショニング技法を主体にした一大勢力として発達したようです。
基本になるフォーメーションは2-3-5。ピラミッド、あるいはメトードともほぼ同じ。三人オフサイドが、ふたりに変更されても、この伝統が続きます。
中欧からはかけ離れてますが、レアルのミゲル・ムニョスも若いころを回想して、1947年まではストッパーを使わなかったと言ってます。

2-3-5というと異様にフォワードが多く、バックふたりで守れるのかと勘違いしちゃいそうですが、これは要するに4バックのゾーン・ディフェンス。
フルバックはサイドバックではなく、センターバックになる。ウィングハーフがサイドバックで、センターハーフはストッパーではなく、攻守にわたって中盤で鍵を握る重要人物。
攻撃的な4-1-2-3と見れる、ある種の普遍的かたちです。

南米では、ブラジルが早くからWMを採用したみたいです。しかし1958年には、装いを変えて優勝する。
他方、1920年代から1954年までの南米の盟主とも言えるウルグアイには、マン・ツー・マンWMと並行して、2-3-5ゾーンの伝統が、根強く残ってたのではないかと推測します。その最上のチームが、主力を欠いた同士の決戦で、ハンガリーに負けた人たちだったのかもしれません。

オフサイドトラップが横行し過ぎてルールを変えようという機運は、英国プロ以外では、あまりなかったようです。
おそらく、技巧的にパスとドリブルで組み立てるスタイルが主流で、守備側とのかけひきに勝てるだけの攻撃ができていたものと想像します。
それがオフサイド改定後も伝統的に継続し、せっかち型、密着マーク型への転換は、戦争前後の時期だったのではないでしょうか。

さて、ウィリー・マイスルは若いころ、1910年代、兄が呼び寄せたジミー・ホーガンに、個人指導も受けたことがあるそうです。それは、まだスピード偏重に侵されていないときのスタイルだったようですが、具体的な内容が明瞭ではありません。
他方、そのころから、ブリテン島に隔離された英国プロ・サッカーは、速さと激しさと、次いで、密着マークを加えた流儀に急傾斜していきます。その後、戦中から戦後の二十年くらいのうちに、四人のフラット・バック・ラインになるんですね。
今、この島の様子が、サッカーの一般的な歴史とされていて、ダニューブ派は軽視される状況にあるようです。

ドナウの流れはハンガリーにあって最高の輝きを見せ、1970年代に向けて衰退していきます。
ニラシ等を擁して一時的な復興をもたらした、ハンガリー代表のバロタイ監督は、プスカシュ型からの脱皮の方法について一文を残したようです。なんとその概念は、余計なことをせずにゴールへ向かうことらしい。

ご本人が書いたのではないと思いますが、バロタイ監督のコンセプト図なるものを見ました。
GKがCBにボールを渡し、そこから中盤のひとりを経由して、すぐさま引いたOLへ預け、さらに左翼前方へ走るCFに送る。そしてCFがアーリー・クロスを入れ、ミッドフィールダーとORが殺到する絵でした。
プスカシュたちの幻影を追い払うって、下手になったから「ダイレクト・プレー」でも、ってことだったかもしれないですね。

ドナウ始点の湧き水があるドイツでは、ヘルベルガー監督が、早い時期から中欧的なポジションチェンジを取り入れて、守備を気にしながらも攻撃を発展させていったみたいです。それは1954年ワールドカップのころに、ある程度はかたちになってたらしい。
マイスルによれば、「こま」を意味するドイツ語でそれを表現していたといいます。
1970年を挟む時期、西ドイツでオールラウンドなスタイルが爆発したのは、レベルの高い選手が揃ったことのほかに、ヘルベルガーの薫陶を受けたコーチたちと、ハンガリー、ユーゴスラビア出身のコーチたちが活躍したせいもあるのではないでしょうか。

ブリテン島では、サー・マットが、マンチェスターで似た試みをしてたと書いてあります。バスビー時代のピークを三つあると捉えると、最初のときのようです。
英国流に走力を前面に出したものらしく、三十分続くかどうかだったという見方をマイスルはしてます。そしてそれを「スイッチ」と称してたらしい。

マイスルの著書には、具体的なポジションチェンジのやり方を記してはいないようですが、全貌はまだわかりません。
過去、現在の事例、「こま」、「スイッチ」、ハンガリーなどから、将来はオールラウンダーのものになるのだとして、その発展型を「渦巻き」としました。

文章で残してはいないのかもしれませんが、マイスルはかなり具体的なイメージを持っていて、それをエリック・バッティ等に喋ったらしい。
そしてエリック・バッティが、1954年から56年にかけてハンガリーが発展させたポジションチェンジ、その概念を分析して、1969年に本を出します。その分析の発端が1953年末のハンガリーの衝撃であり、大きな力になったのがマイスルの教示だったといいます。

イングランド対ハンガリーを観戦したときは、ボールなしの動きに規則的な本質を見ることはできなかったようです。しかしその後のハンガリー代表の進化と、それを理解したコーチたちの別のチームを見て、背後にあるだろう論理を構築し始めたらしい。
アルベール・バトゥー監督とレイモン・コパのランス、及びフランス代表、ベラ・グットマンのベンフィカ、HHのバルセロナ、インテル、ヘルベルガーの西ドイツ代表などがそれだといいます。
さらに、アントン・マラチンスキーのスパルタク・トルナバ、ロン・グリーンウッドのウエスト・ハムでのコーチングが役立ったようです。

三人単位のポジションチェンジ・コンビネーションが系統的に概念化されて文字になったのは、おそらく、エリック・バッティの著書が初めてかと思います。ポジションチェンジのほかに「プレース・チェンジ」という語、これを主に使ってます。
出版前に、その単純化した概念を、かつてのハンガリー代表コーチ、ガザ・カロクセイに読んでもらってお墨付きをもらったようです。カロクセイ博士によれば、ハンガリー代表での理論化の端緒は、上級コーチだったマールトン・ブコビによるらしい。

その本をオランダ代表やアヤックスのコーチが研究したかどうかはわかりません。
しかし、イタリア、ソ連などのサッカー協会は、翻訳権を取得して自国語で出版したといいます。エリック・バッティに講演も依頼したようです。

近い時期には、ほかにもHHやミゲル・ムニョスなどが、実践的・展望的に入れ替わりを略述している文章がありました。
そして1970年ころからは世界的に隆盛となる。とにかく日本も含め、流動的なスタイルが一世を風靡します。
そんな状況での西ドイツ・ワールドカップだったというわけです。
下地は連綿とあったのでしょう。


さて。
それが80年代に向けて次第に衰退し、2007年時点ではほとんど死滅したかに見えます。この過程では、敗北忌避主義が大きく影響したように思います。
今や、オランダ流コーチたちが指導する美しいサッカーとは、70年代と似ても似つかぬ固定ポジション維持に大きく傾いたもののようです。元来は自在に適切な位置取りができる優れた選手たちに対しても、ことのほか入れ替わりを戒めているかのようです。ほかも一部を除けば、大部分が似たようなものに見えます。
現行の統一ドイツは、かつての西ドイツとは別物になりました。しかし低レベルながらも、ときおり思い出したように「プレース・チェンジ」が見られるのは、根底にあるコーチ学校の伝統なのか。

個人的には、「分業が正しいという結論もすでに出ている」という見方は想像力に欠けると思います。
チャプマンのアーセナルを見た人の多くは、それが永遠の結論だと思ったでしょう。西ドイツでのオランダにもそのような感じを受けた人がいたようです。しかし誰もがそうではなく、また、結論も証明されてはいない。にもかかわらず、目前の時流を到達点と見て、それに寄り添って証明を考えてしまう人もいる。
ルールに激変なくサッカーが続くなら、いつの日か、隔世遺伝が噴出するでしょうね。

posted by コリバノフ | 2007-12-27 21:03

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