2007年08月23日

反町ジャパンの苦悩

 北京五輪を目指す反町ジャパンは、最終予選初戦でベトナムを1-0で下し、最低限のノルマを果たした。試合後の反町監督は、「初戦ということで、周りからのプレッシャーもあり、難しい試合だった。リトリートされて守りを固められ苦労した」と率直な感想を述べていた。

 日本は負傷の伊野波に代わり3DFの右に細貝を起用。トップ下は家長ではなく「攻守の切り替えが速いため、前からプレスを掛けたかった」(反町監督)という理由から柏木を抜擢し、3-5-2システムで試合開始から主導権を握ってベトナム陣内に攻め込んだ。

 対するベトナムは、アジア杯の対日本戦に採用した4-1-4-1から、さらに中盤を厚くする4-5-1のシステムで、日本の持ち味である「パス回し」を封じにかかった。

 日本の決定機は5回、対するベトナムは1回。シュート数は16対2、ボールポゼッションでも61・35対38・7と圧倒した。しかしながら、ゴールは46分に右CKから青山直が挙げた1点だけ。引いて守りを固める相手に攻めあぐねたことを示すデータでもあるが、攻めあぐねたのはそれだけが原因ではないだろう。

 79分には、それを象徴するようなシーンがあったが、その兆候は20日に西が丘で行われた練習でも見受けられた。ハーフコートを使っての8対8のフォーメーション練習でのこと。右サイドでボールを持った水野がプレスを受けたためドリブル突破を試みた。すると反町監督は「お前が上手いのは分かるけどな」と言いつつ、他の選手を呼んで隣と前にサポートに入り、トライアングルを作って、水野には周囲の選手を使うよう指示していた。
 
 今現在、韓国で世界大会を戦っているU-17やU-20世代ではなくU-22の選手たちである。大学生の本田拓を除けば、細貝と平山以外はJでもレギュラーの選手で経験は豊富なはず。にもかかわらず、チームとして1年以上経過しても、最終予選を前にしてサポートの動き方をレクチャーしなければならないところに、反町ジャパンの苦悩を垣間見たような気がした。

 チームとして周囲の選手を使うことが、個々の能力から「出来るのか出来ないのか」とは別次元の問題として、周囲の選手を使う意思が「あるのかないのか」という問題こそ、このチームの抱える深刻なテーマではないだろうかと思ったものだ。

 ベトナム戦の79分のプレーに戻ろう。それまで右サイドで突破を仕掛けていた水野が左サイドのオープンスペースに流れて、フリーでボールを要求した。同サイドでボールを保持していた本田圭は水野には出さず、サポートに寄った本田拓に戻す。すると水野は不満のジェスチャーを示してボールから目を切ってしまった。本田拓はリターンボールをダイレクトで水野の前のスペースに出したのだが、反応が遅れたために動き出すことが出来なかった。水野は本田拓のプレーに拍手で応え、守備のために帰陣したが、本田圭とはコミュニケーションを図ろうともしなかった。

 もしもこれが日本代表なら、大人のチームだけに、問題があればお互いに要求して解決を図ったかもしれない。また、U-17やU-20といった若いチームなら、監督やコーチの指導を素直に受け入れるのではないだろうか。反町ジャパンの難しいところは、年齢的に「大人のサッカーが理解できるほど熟成していないものの、素直にアドバイスを受け入れる子供でもない」中途半端な年代であり、その裏づけとしてJリーグでレギュラーという自信が、今はマイナスに作用しているような気もしている。

 とりわけ攻撃を組み立てる選手の誰もが「マイ・ワールド」のサッカー観を持ち、「自分のプレーを出すこと」にサッカーをプレーする喜びや意義を見出しているのではないだろうか。恵まれたフィジカルとパスセンス、ドリブル突破も出来る梶山のタレントは誰もが認めるところ。しかし、運動量の少なさと意外性のありすぎるプレー、難しいことを好む傾向は、クラシカルな「10番」では許されても現代サッカーでは使いにくい選手のカテゴリーに入ってしまう。彼だけではなく、本田圭も水野も、家長も、「自分のやりたいプレー」を優先しているために、五輪代表はチームとしてなかなか機能しない弊害があるような気がする。

 反町監督は「U-20(選手)との融合の時間が少ないものの、サウジアラビア戦までは時間があるので、良いトレーニングプログラムを作ってクラブチームのように(五輪チームの)精度を上げたい」とベトナム戦後に話していたが、Jリーグで実績のある選手を選ぶ方法とは別に、チームにとって有用な選手を選ぶことも、チーム強化に役立つような気がしたベトナム戦だった。

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posted by 六川亨 |01:34 | コメント(11) | トラックバック(0)
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2007年08月13日

反町ジャパンの悲劇

05年オランダでのワールドユース。平山もキレがあった

 いよいよ来週22日から北京五輪アジア最終予選がスタートする。今週17日にはそのメンバーが発表されるので、攻撃陣にはどんな顔ぶれが並ぶのか楽しみだ。

 といったところで、反町ジャパンに対しては厳しい評価の方が目立つようだ。僕自身も、チームの軸や骨格が決まっていない印象を受けるし、チームコンセプトも(たぶん「ボールも人も動くサッカー」だろう)試合を見る限り、浸透しているとは思えない。

 その原因の一つは、J2とJ1の監督経験しかない反町監督のキャリア不足が挙げられるだろう。そして、最も大きな原因は、この年代だけなおざりにされた、「強化の継続性」の欠如と、チームとしての「経験不足」にあるのではないだろうか。 

 日本は98年にタイで開催されたアジア大会より、2年後の五輪出場を目的として、フル代表ではなくユース年代の強化のためにチームを送り出すようになった。98年はトルシエ監督と山本コーチのコンビで臨み、選手も宮本、中村俊、戸田ら97年ユース組に加え、その年のアジアユースで台頭してきた小野、稲本、高原らが融合してアジアの列強に挑んだ。対戦相手はフル代表のためグループリーグは1勝2敗で終わったが、その経験が翌年にナイジェリアで開催されたワールドユースで準優勝につながる。

 97年組と99年組という、日本サッカー史でも稀有なタレントで編成されたシドニー組は、楽々と予選を突破し、本大会ではベスト8に進出する。そして02年、釜山アジア大会では代表スタッフの山本監督が01年のユース組を率いて準優勝を果たす。アジア最終予選はUAEで原因不明の下痢に悩まされたものの、無事にシドニーの切符を獲得して3大会連続の五輪出場を達成した。

 ところが、現チームは05年のオランダ組が主力で06年にドーハで開催されたアジア大会の臨み、北京五輪を目指すというスタイルは変わらないものの、前回2大会とはちょっとチーム事情が異なる。チーム強化にかなりのブランクがあるのだ。
 
 それまでユース年代から指揮を執っていた大熊監督は05年6月のワールドユースでチームから離れる。ここまでは同じだが、その後、北京を目指すチームは休眠状態に入る。05年は10月にハノイで開催された親善大会3試合に、塚田監督がチームを率いて参戦しただけだ。そして06年に入っても北京を目指す動きは鈍く、ようやく6月に反町監督が就任すると、8月に日中韓の交流戦でチームは再始動する。

 おそらく05年の6月以降は、W杯予選に加えてコンフェデ杯、東アジア選手権などジーコ・ジャパンのサポートでサッカー協会も手が回らなかったのかもしれない。攻撃陣の軸は平山でいいのかどうか。カナダで活躍した森島がフィットするのか。はたまた森本が救世主になるのか。中盤でも、梶山の運動量で「ボールも人も走るサッカー」が表現できるのか。家長や谷口、本田圭らがその能力を十分に発揮できるスタイルを構築できるのか。こうしてみると、最終予選を目前に不安ばかりが募ってくる。

 そしてまた、彼らはその才能を十分に伸ばす機会が与えられなかったことも残念でならない。時間はあったはずなのに、チーム強化で後手に回ったからだ。なぜ、05年のワールドユース後に五輪監督を速やかに決定しなかったのか。今さらではあるが、機会があったら関係者に取材してみたい。


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posted by roku03 |17:44 | コメント(9) | トラックバック(0)
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2007年08月10日

選手の名前

 8月7日は、プレマッチのマリノス対バルサ戦を取材した。バルサはスタメンでエトー、ロナウジーニョ、アンリの豪華FW3人を起用したが、まだアンリは身体が重たそう。アーセナル時代のキレ味鋭い突破は陰を潜め、マリノスDF陣を混乱させる場面は皆無だった。

 試合はバルサが1-0で勝利し、対戦成績を1勝2分けとしたが、果たして8月末から始まるリーガ・エスパニョーラで、ライカールト監督は超豪華な攻撃陣をどのように起用していくのか。こちらの方が気になって仕方がない。今回は来日しなかったメッシやデコなど、攻撃的なタレントは世界一と言っても過言ではないだろう。問題は、彼らのほとんどが守備に関して効果的な動きができるかどうか疑問符がつくということだ。

 例えばロナウジーニョが10人いても、勝負となれば話は別のはず。ライカールト監督のような守備的プレーヤーのスペシャリストも必要になってくるし、むしろ現代サッカーでは彼のようなタイプの選手の方が重宝される傾向にある。たぶんリーグ戦とカップ戦で「ターンオーバー制」を導入するのだろうが、その際にスーパースターたちのモチベーションをいかにコントロールできるか。超豪華な攻撃陣は、ライカールト監督にとって諸刃の剣となるかもしれない。
 
 マリノス戦は18歳の新鋭ジオバンニが決勝点を決めたが、翌日のメディアでは彼のことをドス・サントスと表記する媒体もあった。こうした海外選手の表記の統一は、編集者にとって頭痛のタネの一つでもある。彼に限らず、ロナウヂーニョ、エトオと表記する雑誌もあるように、似ていて微妙に変わってくるから厄介だ。

 ライカールトにしても、彼の氏名が日本のメディアに登場したのはEURO88ドイツ大会でのこと。当時の大会を取材した僕は、なんて日本語に置き換えたらいいのか分からず、オランダ人サポーターに聞きまわったものだ。そこで得たニュアンスは「ライカー」の後に「ル」の促音が巻き舌で入り、最後は「ト」で終わるというものだった。しかし、それでは日本語として不自然だと思い、「ル」の促音巻き舌を省略して「ライカート」として、当時勤めていたサッカーダイジェスト誌で紹介した。

 結果的に「ライカート」は定着することはなく、当時ライバル誌だったサッカーマガジンの採用した「ライカールト」が彼の日本語表記としてこれまで使用されている。とはいえ、それもオランダとスペインで通用するのか、常識を疑ってかかることも必要だ。例えばライカールトと同時期に活躍した「フリット」は、イタリアでは「グリット」と呼ばれていたし、「ファン・バステン」もイタリアでは「バン・バステン」だった。基本点に日本は、母国語での発音を優先するが、所属するクラブでは当然その国の言語となって表記されるため、微妙に変わってしまうのだ。

 オランダ人を例に挙げれば、クライフの大ファンである清水カメラマンが、オランダで「自分はクライフのファンだ」と言っても、それは誰だと怪訝な顔をされたそうだ。オランダ人によると、「クリュフ」というのが正確な発音らしい。かつてデンマークに「シモンセン」という名選手がいたが、彼の所属するドイツのボルシアMGで金子達仁氏が清水氏と同様なトライをしたところ、「ジーモンジー」と訂正されたこともある。同じアルファベットでも、ラテン系とドイツでは発音も随分と変わってしまうようだ。

 一見すると些細な問題のようだが、選手の名前一つを取っても、日本に紹介し、定着させるまでには様々な紆余曲折がある場合もある。

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posted by roku03 |10:25 | コメント(9) | トラックバック(0)
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