2007年08月13日

反町ジャパンの悲劇

05年オランダでのワールドユース。平山もキレがあった

 いよいよ来週22日から北京五輪アジア最終予選がスタートする。今週17日にはそのメンバーが発表されるので、攻撃陣にはどんな顔ぶれが並ぶのか楽しみだ。

 といったところで、反町ジャパンに対しては厳しい評価の方が目立つようだ。僕自身も、チームの軸や骨格が決まっていない印象を受けるし、チームコンセプトも(たぶん「ボールも人も動くサッカー」だろう)試合を見る限り、浸透しているとは思えない。

 その原因の一つは、J2とJ1の監督経験しかない反町監督のキャリア不足が挙げられるだろう。そして、最も大きな原因は、この年代だけなおざりにされた、「強化の継続性」の欠如と、チームとしての「経験不足」にあるのではないだろうか。 

 日本は98年にタイで開催されたアジア大会より、2年後の五輪出場を目的として、フル代表ではなくユース年代の強化のためにチームを送り出すようになった。98年はトルシエ監督と山本コーチのコンビで臨み、選手も宮本、中村俊、戸田ら97年ユース組に加え、その年のアジアユースで台頭してきた小野、稲本、高原らが融合してアジアの列強に挑んだ。対戦相手はフル代表のためグループリーグは1勝2敗で終わったが、その経験が翌年にナイジェリアで開催されたワールドユースで準優勝につながる。

 97年組と99年組という、日本サッカー史でも稀有なタレントで編成されたシドニー組は、楽々と予選を突破し、本大会ではベスト8に進出する。そして02年、釜山アジア大会では代表スタッフの山本監督が01年のユース組を率いて準優勝を果たす。アジア最終予選はUAEで原因不明の下痢に悩まされたものの、無事にシドニーの切符を獲得して3大会連続の五輪出場を達成した。

 ところが、現チームは05年のオランダ組が主力で06年にドーハで開催されたアジア大会の臨み、北京五輪を目指すというスタイルは変わらないものの、前回2大会とはちょっとチーム事情が異なる。チーム強化にかなりのブランクがあるのだ。
 
 それまでユース年代から指揮を執っていた大熊監督は05年6月のワールドユースでチームから離れる。ここまでは同じだが、その後、北京を目指すチームは休眠状態に入る。05年は10月にハノイで開催された親善大会3試合に、塚田監督がチームを率いて参戦しただけだ。そして06年に入っても北京を目指す動きは鈍く、ようやく6月に反町監督が就任すると、8月に日中韓の交流戦でチームは再始動する。

 おそらく05年の6月以降は、W杯予選に加えてコンフェデ杯、東アジア選手権などジーコ・ジャパンのサポートでサッカー協会も手が回らなかったのかもしれない。攻撃陣の軸は平山でいいのかどうか。カナダで活躍した森島がフィットするのか。はたまた森本が救世主になるのか。中盤でも、梶山の運動量で「ボールも人も走るサッカー」が表現できるのか。家長や谷口、本田圭らがその能力を十分に発揮できるスタイルを構築できるのか。こうしてみると、最終予選を目前に不安ばかりが募ってくる。

 そしてまた、彼らはその才能を十分に伸ばす機会が与えられなかったことも残念でならない。時間はあったはずなのに、チーム強化で後手に回ったからだ。なぜ、05年のワールドユース後に五輪監督を速やかに決定しなかったのか。今さらではあるが、機会があったら関係者に取材してみたい。


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posted by roku03 |17:44 | コメント(9) | トラックバック(0)
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