2007年07月28日

光明高校 vol,2-負けの輪廻(後)-

 これだけの選手がふたり。そしてどちらも最終学年。たったひとりの個人インターハイ出場者は、関東大会の後に控える、神奈川県高総体最終予選会で決定する。関東大会の試技終了後、貝瀬監督が「(県高総体最終予選では)審判、やりたくないです」と言ったのもうなずける話だった。



 昨年、インターハイ出場を果たしたのは蜂須賀だった。昨年の手具は棒と棍棒。棍棒は野呂が不得手とする一方で、「手具が小さい分、大きく動ける」と語る、蜂須賀のもっとも得意とする種目だった。しかしこの年の野呂の敗因はそれとは無関係に、「練習不足」という至ってシンプルなものだった。



 野呂が新体操を始めたのは高校に入ってから。中学校までは器械体操部に所属していたが、高校進学をきっかけに、新体操の道を進んだ。持ち前の器用さで、野呂はその年の11月に行われた新人大会で優勝を果たした。

 これが、いけなかった。新人戦とはいえ、新体操を始めて1年もたたずして獲った頂点は、彼を慢心させるには十分だった。
「これで勝てるんだ」。

 
 そうした気持ちのゆるみは、すぐに練習にあらわれ、すなわちそれは結果にもあらわれた。2年次の関東大会の結果は「ボロボロ」。そこから「負けたくない、と思って」臨んだ同年の県総体最終予選では、蜂須賀、野呂、ともに落下のミスがあったにも関わらず、0.2もの差をつけられ、蜂須賀がインターハイの切符を手にした。


 「この0.2は、ミスではなく実力の差なのだ」―――突きつけられた現実を、痛感した。




 時間軸を戻して今年の6月、県総体最終予選。場所は大会の都合で、光明高校の体育館で行われることとなった。

 いつもの場所で、いつものメンバーと、いつもの演技をする。ただひとつ違うのは、これで高校最後のインターハイ出場者が決まるということだ。
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 この日、貝瀬監督は関東大会での言葉通り、自らは採点せずOBに審判を任せた。どちらかを切ることは、ふたりの三年間を見てきた監督には酷だった。



 試技順は野呂が1番、蜂須賀は4番と、多少間隔が空いていた。そのためふたりは試技の合間に、互いの演技を見る時間が十分にあった。それぞれ誰の演技のときでも、大学生さながらの激しい応援の檄を飛ばし合った。

 ふたりに「相手の演技を見てるとき、何を考えていたか」とたずねると、どちらも「応援のときは何も考えずに、ただ応援していた」といった答えだった。

おそらくそれは本当だろう。ただ、互いの演技を見つめる視線が、いつもより真剣だったのもまた本当だ。
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 そして、わずか1時間半ほどで、結果は下される。





 野呂 昴大   棒:9.275  リング:9.225
 蜂須賀 竜太  棒:9.125  リング:9.175




 最後のインターハイ出場権は、野呂が掴んだ。蜂須賀は棒でラインオーバーのミスで減点。関東に続き、ここでも「まさかのミス」に泣かされた。



 しかし私の目から見て、ふたりの実力はほぼ均衡していた。ただ、唯一その差を挙げるとするならば「負けを知った者の強さ」ということに尽きる。

今でも、去年のインターハイに出場できなかったことについて野呂は「すごく悔しかった」と語る。あの日の負けの悔しさが、1年越しの思いとなって彼を勝利に導いた。







 7月21日。インターハイを目前に控えたこの日の光明高校の体育館で、私はまた、「負けを知った者の強さ」を目の当たりにした。

 光明の伝統で、夏は選手たちが自ら坊主頭になる。ただ彼に関して言えば、変化したのは姿だけではないようだった。
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 別に普段がふざけているというわけではない。おそらくインターハイが近い、ということもあっただろう。しかしこの日、約1ヶ月ぶりに見た蜂須賀は、練習に対して他の誰よりも「真摯」であるように見えた。



 この日、インターハイの団体演技と同時に、野呂以外の選手はすでに国体予選の個人演技の練習に入っていた。国体は団体出場メンバーのうち4名が、棒・リング・縄・棍棒の一種目ずつ個人競技に出場し、個人と団体の点数を合わせて競われる。

 棍棒での出場を予定している蜂須賀は、この日朝から頭痛と吐き気を抱えていたにも関わらず、個人練習で何度となくダイナミックなタンブリングを見せた。途中、具合悪そうに座り込んで頭を抱える姿を見せながらも、それでも個人の流しの後にはすぐにラストの確認。呼吸も整わないまま、何度も同じ動きを繰り返す。時折、ひとりフロアを抜けて貝瀬監督に動きの指導をもらいに行く。練習が終わりの時間に近づき「ハチ(の流し)で最後ね」と言われた後も、時間ギリギリまでタンブリング練習を行った。
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 光明高校には不幸なことに、わくわくさせてくれる選手がふたり、最終学年にいる。

 どちらかが勝つということは、どちらかが負けるということ。その負けがまた選手を強くする。彼らは三年間、その繰り返しを演じてきた。
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 或いはその負けの輪廻こそ、私をわくわくさせてくれる源なのかもしれない。

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2007年07月25日

光明高校 vol.2-負けの輪廻(中)-

 光明高校に2回目の取材に訪れた日、「面白い演技をする子がいるな」と思った。とにかく、手具操作が器用。演技の中に多分に盛り込まれたそれは、見る側を飽きさせない。素早さと間、その人目をひく緩急のつけた動きには、思わず見入ってシャッターを押す手を止めてしまう。それが、野呂昴大だった。
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 部の中でも、野呂は周囲に気を遣うタイプだ。ひとりひとり順に行うタンブリング練習で、野呂は自分の次の選手が誰であっても必ず、その選手の着地を確認するまでマットの隣に補助に立っている。高校始めの1年生がタンブリングに入ると「補助、補助!」と声をかける。
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 光明高校では週1回、地元の小学生を対象とした新体操教室を行っている。教えるのは高校生たちだ。その中でも面倒見の良い野呂のまわりには、いつも子供たちが集まってくる。あんまり集まってちょっかを出してくるから、身動きがとれなくなって「あー!!」なんて声をあげることもしばしばだ。
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 よく周りに気がつくということはそれだけ、まわりに左右されるということでもある。


 大会会場で、蜂須賀は自然に集中力を高めていけるタイプだ。会場に入る前に、深呼吸しただけで、スイッチが入る。
 一方で、自身を「雰囲気にのまれる方」だと語る野呂は、意識的に集中を高め、調整を図らなければならない。だとするならば今回の結果は、彼の調整への努力の賜物である。



 「個人は動いていないと不安」だと語る野呂は、関東大会の公式練習でも、ピョンピョンと軽快にフロアを動き回った。学校の練習に組み込まれている、可動域を広げる運動“操体法”も、どこに行っても必ずやるように心がけた。

 その成果あってか、一種目めの棒で種目別1位を獲得。しかし、二種目めのリングに入る前にそれを聞かされたことは、彼にとってプレッシャー以外の何者にもならなかった。

 チームメイトの蜂須賀の演技についてすら、「自分よりうまく見える。でもここで自信をなくしたら、大きく動けなくなるから、見ないようにしてる」と語る選手である。1位ときいてのプレッシャーは、想像に難くない。




 それを打ち払おうと、ここでも周囲の演技を極力見ないように努めた。その分、練習場で体を十分に温め、必ず一汗かいてから演技に入った。結果、リングの演技直前、彼はアップゾーンで自身が1位であることを忘れるほどに集中していた。


 そして臨んだリングの演技。終盤の複雑な手具操作では会場を沸かせ、見事ノーミス。2種目を制し完全優勝を飾った。
 





 野呂はどちらかというと調子に波のある選手。だとしたら、今の彼は完全に波に乗っている。

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2007年07月23日

光明高校vol.2-負けの輪廻(前)-

 光明高校の恵まれている点は、OBがよく練習を見に来てくれること、スプリング入りの立派なフロアがあること。それから、見ている側をわくわくさせるような選手がいることだ。
 不幸な点は、それがふたり、しかも同じ最終学年にいるということ。



 そのうちの一人目、蜂須賀竜太の演技の魅力は、ダイナミックなタンブリングと、シンプル且つ大きな動きの徒手。それだけで、十分に人を魅了することが出来る選手だ。
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 6月20日に行われた関東大会。昨年のインターハイ出場者である蜂須賀は優勝格と目されながら、棒、リングともにまさかのミス。順位は1年の佐々木のひとつ下、5位に沈んだ。だがあの関東大会の日、最も会場の空気を変えたのは、間違いなく彼だった。

 関東大会個人種目には、関東地区から23名の選手が選出される。23名がそれぞれ2種目ずつ、それも男女あるわけだから、大会の後半には多少なりとも空気がダレてくる。
 それが蜂須賀の演技が始まって数秒、散漫だった会場の意識が一斉に彼に向けられたのがわかった。人の意識というのは、ある特定の状況下では見えるのだ。そして彼は、その特定の状況をつくり出すことが出来る。


 
 彼の演技はなぜ、そこまで空気を変えることができるのだろうか。おそらくそれは「隙のなさ」に起因する。

 これは特に個人演技に関して言えることなのだが、どんな選手でも演技中、体の一部の集中が切れる、という瞬間が多かれ少なかれある。例えば両手で複雑な手具操作をしている時。投げ上げた手具が落ちてくるのを待つ瞬間。そんなとき、下半身や姿勢など、いわゆる「お留守」の状態になる。つまり、集中が体の細部に行き届かず、隙が生じるのである。

 人を魅了する、雰囲気のある演技には極端にこれが少ない。
杉本清志、野田光太郎、大原秀一といった全日本を制した多くの選手は、この「隙」が限りなくゼロに近い。
 これはある程度の努力と、そこからはセンスによるところが大きい。そしてファインダーを通じて、彼にはそのセンスがあるのだと感じた。



 演技を連写で写真に撮っていると必ず、「カッコ悪い」ショットが何枚か混ざってくる。手振れやピントがずれているとかそういうことではなく、姿勢や体の状態として、「カッコ悪い」ショットである。
 しかしこれが、殊に蜂須賀に関しては極端に少ない。ラストポーズの直前、手具を投げ上げた直後。普通では明らかにタイミングを逸したショットであっても、写真として使えるかは別として、それなりに様になっているのである。
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 彼の「隙のなさ」が全日本覇者と同じレベルだとは言わない。ただ、彼にはそれに近づくことのできる素質があることは確かだ。そしてそれが私の期待を膨らますのに十分なものだということも。
 
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2007年07月11日

紫野高校 -機能(後)-

では、このチームを機能させているもっとも大きな要因は何だろうか。
それはおそらく、絶妙な人間関係だろう。
 まず、3年の山根と坂口。彼らは演技にせよ性格にせよ、まったく逆のタイプである。
山根の演技の魅力は、前述したようにタンブリングの強さである。一方で坂口は徒手の動きが好きで、練習もしばしばそちらに偏ってしまうほどである。
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 学校でも、山根が比較的おとなしい友人が多いのに対し、坂口はにぎやかなグループとつるむ。「新体操がなかったら、接点がなかったような二人」と監督語るほどに対照的なふたりだが、不思議と仲が良い。お互いが足りない部分を補いながら、部をまとめる。不思議な調和がとれているのだ。
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 調和ということに関して言えば、2年の3人も面白い。
 2年には小椋、廣庭という個人で選抜出場を果たした2名の選手がいる。個人ではこの二人が間違いなく、紫野を背負って立つ存在だろう。そしてそれと同時に、この二人は長い間ライバル関係でもあった。


 小学校5年から同時に新体操を始めた二人は大会に出場するようになってから、表には出さないが互いをライバルと意識するようになっていた。結果から言えば、これまで順位では常に小椋が上だった。それが、今年3月の選抜で初めて廣庭が順位を上回った。続けざまに、5月の近畿大会でも廣庭が二位、小椋が三位。このことはどちらの選手にも少なからず、心理的に影響を与えたはずだ。
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「2年があの二人だけだったら、気まずいこともあったかもしれない」
監督がそう語る、二人の中和剤になるのが、同じく2年の和藤だ。

 和藤は、何というか独特の雰囲気をもっている。「マイペース」という言葉があまりにもしっくりくる彼は、大会でもプレッシャーを力に変えて、練習以上の演技をみせることがある。周りに左右されるどころか、自ら空気をつくり出すような存在。それは練習中にも言えることだった。




 倒立の練習中のことである。この日は10本、全員で倒立を止まれば終わり、というメニューだった。しかし逆に言えば、10本止まらなければ延々とつづくということである。

 一度、集中が切れて止まらなくなると、そこから立て直すにはさらに集中力が要る。しかし本数をこなせばその分だけ疲労がたまり、集中力が失われる。消耗してくると声も出なくなり、雰囲気も悪くなる。この日は6本までは止まったが、そこからが進まない。悪循環のスパイラルにはまると、なかなか抜け出せないのだ。


 「あと4本、止めたら良いだけやんか」そんな折にふっと、どこか力の抜けたように言うのが和藤だった。すると周りも「そやな」と返す。チームから肩の力が少し抜けたのを感じた。
 結局、この日は10本止まるのに23本の倒立をしたわけだが、そこから苦しい場面になっても、選手の表情から笑顔は消えなかった。
 この場面での和藤の言葉は、どんな檄や掛け声よりも効果的だったに違いない。つまり、彼はそいういう存在なのだ。
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 こうした練習に、部で唯一の一年の石井はよく喰らいついている。器械体操出身の石井はこのとき、新体操を始めてわずか2ヶ月ほどだったが、ジュニアからの経験者のいる中でよくついてきているな、という印象をうけた。
 
 部員は団体が組めるぎりぎりの6人だから、当然石井も団体に入る。しかし周囲との力の差を見ていると、一本通すだけでも相当に辛いだろうと思わずにはいられない。しかし石井はそれについて「みんなと差があるのは辛いけど、通した後、達成感があるから」とはにかんだような笑顔で答える。


 個人練習の時間になると、それぞれ演技をもっている5人は各自練習に入るが、新体操を始めてまだ日の浅い石井は、基本的な手具操作の練習を黙々と続けるのみである。が、彼がひとりで練習しているシーンは、案外にすくない。

 例えば、練習中に坂口の手具が転がって場外に出る。それを、フロアの外にいる石井が拾って渡す。すると「ありがとう。お礼に教えたるわ」といって坂口が新しい手具操作を教える。こんな調子で、代わる代わる誰かしら、教えにやってくる。
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 この日、個人選手全員で2本ずつ、リスクをやって落とした本数×1分、壁倒立(壁に脚をよりかからせる形でする倒立)をする、という少しゲーム性のある練習をすることとなった。石井はまだリスクはできないが、罰ゲームの倒立には参加する。この日は結局3本落として、壁倒立3分が決定した。大学生でもキツイという3分の壁倒立、2年生が途中で根を上げる場面もあった中、周りよりもひと回り体格の小さい石井が、黙って耐えた。

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そうした彼の努力を誰もが認めている。だからよく教えるし、周囲もまた、それによって得るものがあるのだろう、と思う。
 「石井君、(壁倒立)落ちんかったな」「がんばったやん」
 練習後に周りからそう言われると、彼はまたはにかんだように笑った。 
 



 木学監督に今年のチームについて聞くと、去年は北村がひっぱっていくチームだったが今年はみんなでひっぱりあげよう、というチームだと語った。そして「彼らは特別かもしれないですね」と結んだ。


 学年や役職ではなくひとりひとりの性質がかみ合うことで、部は機能している。紫野高校はこういう部活もあるのだと、私に教えてくれた。

またひとつ、楽しみなチームが増えた。





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2007年07月09日

京都市立紫野高校 -機能(前)-

「チームが機能する」というのは、団体において個々がそれぞれの役割を全うし、それらがうまくかみ合っている状態を指す。だとしたら、紫野高校はチームとして機能していると言えるだろう。それも、何というか、少し不思議なかたちで。





 例えば、練習中のこと。
「さぁ、しっかり!」「集中集中!」
練習中、もっとも声を出すのは主将というが相場だが、ここでは2年の廣庭がその役割をかって出る。
 タンブリングがうまくいけば、「よっしゃ!」と拍手。朝から晩までの一日練習がつづいた、連休の最終日、疲労がピークに達していたチームを「さぁ、声出して!」と真っ先に盛り上げたのも、彼だった。
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 例えば、上下関係の希薄さ。
 強豪と呼ばれるチームには「フロアの上では学年の上下関係なく、指摘しあう」という気風があるが、そういうことではなくここでは日常的に上下関係がない。
「今のラスト、良かった」。個人演技の練習中、2年の小椋はまるで友達に話すように、3年の坂口に言う。ここではそうすることが自然な、そんな空気なのだ。





例えば、団体演技に対する意識。「団体と個人、どちらが好きか」と尋ねると、全員がもれなく「個人」と答える。多くのチームは団体演技を通じて改めてチームとしての意識を強めるが、ここではどうもそうではないらしい。





 とにかく、今まで目にしてきた「機能しているチーム」とは明らかに違う。それでも、このチームはなぜだかうまいこと調和を保っている。いったい何が、それを可能にしているのか。それらは練習を注意深く観察し、選手たちの性格を知れば、みえてくるものだった。





 まず、練習中のことに関して。
 これに関していえば、ひとえにタイプの違い、ということに尽きる。主将の山根は、自らあれこれ指示を出すタイプではない。練習中、もっとも声を出して雰囲気を盛り上げるのは2年の廣庭だし、下級生や中学生によく教える、面倒見が良いタイプなのは3年の坂口だ。代わりに山根は、そのどちらとも違う形で部を引っ張る。
 
 今年の紫野の団体の構成で、山根のパートは他の選手の3倍の運動量に相当する。彼のパートはタンブリングが多く、当然そこがもっとも消耗する部分なのだが、「ここのところ調子が良くない」と木学監督が語っていたその日ですら、その部分を1本の流しの中で何度も何度も練習した。取材で滞在した3日の間、私は練習中に、彼の口から「疲れた」といった類の言葉を聞くことはなかった。
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 それから、上下関係の希薄さについて。
これは、京都体操協会が運営している新体操教室の影響が多分にある。

 現在の2年の小椋と廣庭はその新体操教室出身であり、その練習場所であった紫野高校には小学5年から出入りしている。高校入学前から3年のふたりとは一緒に練習してきた。それが高校に入ったとたんに「先輩・後輩」なることのほうが、彼らにとっては不自然な話だ。現に彼らは昨年(2006年)インハイ準優勝を飾った北村正嗣のことも「まーくん」と親しげに呼ぶ。

 そういったわけで、紫野高校は至極自然な形で「上下関係のないチーム」となった。
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 それから、団体に対する意識。
 これは練習を見ていれば、納得のいく話だった。
 部の雰囲気は、先にも述べたように上下関係がないせいもあり、基本的にゆったりとしている。
「ぼちぼち始めようか」。朝8:30という、比較的早い時間に始まる紫野高校の部活は、木学監督のこの言葉をきっかけにがらりと雰囲気を変える。
 
「徒手!」監督が言うが早いか、走りもアップもすっ飛ばしていきなり、団体のバランスの練習から入る。そこから続けざまに上下肢、斜前屈、体回旋といった団体の部分練習を、ハイ次、ハイ次と、めまぐるしい速さでこなしていく。
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それが終わるとすぐに団体の流し。
「今言われたとこ、各自で言ってけ!」曲を流して動きながら、先ほどの部分練習の確認。1曲終わると、間髪いれずにもう1曲。見ている側が苦しくなるほどに、まさしく息つく暇もない。選手たちも呼吸が荒くなり、思わず顔が歪む。が、そこにすぐに「しんどい練習しとんのやから、しんどいの当たり前や!出すな、そーいうの!試合で(雰囲気に)のまれんぞ!」と厳しい檄。
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3分ほど、柔軟の時間を入れるとすぐにまた部分練習。続いてタンブリング練習。それが終わると10分ほど休憩をはさんで、すぐに団体の全通しを1本。また数分の休憩を入れて、全通し。これが三度、続く。ここまでがようやく終わると選手たちは息も絶え絶えに、ラストポーズをきめた場所から立ち上がることすら困難な状態。するとそこに追い討ちをかけるように「すぐに立ち上がれ!」


―――そしてこれが、個人に入るとまた一変する。
 「こうしてみたら?と提案する程度」だという監督の言葉通り、演技構成から練習法にいたるまで、ほぼまったくと言っていいほど、指示が出ることがない。
 「(流し)誰から?」「ジャンケン?」なんて言いながら個人演技を流す順番を決めるのんびりとした風景は、つい先ほどまでの団体練習とはあまりにもかけ離れていて拍子抜けしてしまう。
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 これを見れば、団体としての意識が希薄だとかそいういうことではなく、選手たちが「個人のほうが好きだ」と答えたことにも納得がいく。
「個人は自分の自由にできるから」といった後で、少し遠慮がちに「…個人は怒られないから…」といったことにも。


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2007年06月25日

佐賀県立神埼清明高校(後)

5月上旬。訪れた神崎清明高校の練習を見ていてもっとも驚いたことは、その空気であった。


走りから始まって、柔軟、タンブリング練習と続く練習は、全52名が同じメニューを、同じ空気の下で行う。主将の岡原が声をかけると一斉に返ってくる選手達の返事には、迫力すらあった。



しかしそれが、団体練習に入ると一変する。



 団体演技の練習はレギュラー6名と、そのまわりで動く補欠の4名を中心に行われる。
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 この時は見せ場である組みの要、2年の久納が故障中で、完全な練習ができなかった。加えて、時期としても選抜大会が終わって、次の全国大会まではだいぶ間があいていた。


 しかしそれらを加味したとしても、レギュラーとその周りを含む10名と、それ以外の選手達の空気が、あまりに違いすぎる。





 団体と同じ動きをする選手もいれば、補強をする選手もいる。団体練習中、他の選手については「基本、自由」だという中山監督の言葉通り、正しく、「自由」なのである。
「レギュラーになりたいやつは、やれば良い」。言葉通りの、そんな雰囲気だった。
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 人数の多い部になると、レギュラーとその他のメンバーとの間の空気の違いが問題となる。どうしても乖離してしまうそれを、ひとつにまとめることが必要となる。他の選手はこののびのびとした空気の中で、ダレないのだろうか。それについて監督は一言、「ひっぱり方だね」。



 レギュラーは基本的に固定されているが、練習中にちょいちょい、選手を入れ替えるのだ。このときもレギュラーの木原が故障中だったこともあり、代わりに1年の亀川が練習に加わっていた。こうしたことを度々することで、周りの選手たちにも「自分にもチャンスがある」ということを示すことができ、士気が高まる。レギュラーにも危機感が生まれ、相乗効果が期待できる。

今回の木原の場合も、故障中ということと共に、彼の精神的な弱さの克服のため、競わせたという側面が強い。



 この空気の違いと、もうひとつ。驚いたことに、練習中、ほとんど中山監督の檄をきくことはなかった。




 かつては烈火のごとき檄が飛んでいたという。しかし今回の取材の間、私が監督の檄を聞いたのはたったの一度きりだった。

 なぜ、このような形にシフトしたのか。それについては「変えたのではなく、生徒が変わった」のだという。


 「生徒達の尻を叩いて叩いて練習させると、計算したとおりの結果がでる。しかしそうじゃなく生徒達自身でやらせると、計算外の、それ以上のものができる」
 昔は指示をして始めて動いた選手達が、そんな風に変わってきた。だから、「厳しくしなきゃいけないところで、あえて我慢」するのだという。




 生徒自身が理解してやる。「本当の、大学に近いような練習」。それがのびのびとした空気の本質であり、彼らが進化しようとしている、新しい神崎清明の姿だ。



 
 とはいえ空気に関して言えば、やはり大会前にはレギュラー中心の練習になり、他の選手がダレてしまうことがある。そういったときには「大会前に、みんなで話し合って」気持ちをひとつにするのだと、2年の田原(たばる)は語る。それもやはり、選手達が主体的に行っていることだ。

 着実に、その姿に近づいているようだ。




「ジャパン(全日本選手権)で高校生が大学生と勝負できるようにするのが理想」だと語る中山監督。かなり力強い言葉だが、結びの言葉は更にそれを感じさせる。


「徒手の違いはあるが、できると思ってる」


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 神埼の進化はもう、始まっている。その日がやってくるのも、そう遠くはないだろう。




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2007年06月24日

佐賀県立神埼清明高校(中)

 指導者を志してから13年目、中山監督はようやく高校教員になる機会に恵まれた。しかし配属された佐賀工業はまたしても男子新体操部のない学校であった。そこでの3年の経験を経て、ようやく念願の神埼清明高校の監督に就任したときには、すでに15年の月日が経っていた。

 「恩師と交代するかたちで、(部に)入った」というその言葉に、月日の長さを感じずにはいられない。
 

 月日の長さと言えば、この16年目の神埼清明新体操部への配属、奇しくも教育委員会時代に開いた新体操教室の一期生、当時小学2年生だった生徒と、時を同じくしての入部であった。



 このことは、監督がそれまで地道に撒いてきた種が、ようやく芽吹こうとしていることを象徴しているかのようだった。






 当時部員わずか4名だった神埼清明の新体操部だったが、その新体操教室一期生の入部で、一気に11名となった。人数の面では、これに加えて中学教員時代の経験が役に立った。

 当時から、神埼に中学校から選手を送ることを精力的に行ってきた中山監督だが、その当時の横のつながりから、神埼清明への進学を勧めてもらうことができた。その影響は絶大で、部の人数が最多の28名だったときには、そのほとんどが高校はじめの素人だった。

 多くの部が抱える最大の懸念材料・人数の確保は、神埼ではこのときすでに問題ではなくなっていた。




 そうして部を率いるようになった中山監督がまず始めにとりかかったことは、演技構成を変えることだった。
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 神埼清明高校新体操部は、歴史が長い。しかしそれが逆に、マンネリ化という状況を生んでいることに、監督は気づいていた。構成を「新しい」ものに変えるとともに、その翌年には香川の坂出工業高校出身の、神埼とは何の所縁もなかった松岡コーチを呼び寄せた。とにかく、「新しい風を入れたかった」。


 
 それからはもう、毎日毎日、激しい檄が飛んだ。そして「怒るときは本当に、殺すくらいの勢いで」と語られる当時の中山監督の指導と、それに喰らいついてきた選手達の努力は、かなり早い段階で日の目を見ることとなった。



 中山監督就任のその年に国体10位。その翌年にはなんと、同大会で優勝を果たしたのである。





 一度機能し始めた神埼清明の強さは、そこから衰えを知らなかった。監督就任翌年から、神埼が表彰台から姿を消した年はなかった。

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 結果が出始めれば、他がついてくるのにさほど時間は要さなかった。

 もともと女子新体操がさかんであった佐賀県である。県立とは思えぬほどに立派な体育館は、実績を評した県の協力によって建てられた。新しいエバーマットやフロアも、県の援助によるものである。数年前から、体育協会に設立されたトレーナー部会から、病院に勤める医師がトレーナーとして派遣されるようになった。
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 傍目にみれば瞬く間の大躍進。しかしそこに至るまでに15年の月日が費やされていることを、多くの人は知らない。




 教育委員会時代につくった新体操教室、中学教員時代につくった横のつながり、野球部監督時代に培った経験―――長い年月をかけたそれらがようやく形になった。


 卒業生も大学で活躍をみせ始め、神崎清明は新体操の名門として不動の地位を獲得した。記念すべき新体操教室一期生、その最年少だった少年は、気づけば青森大学の主将を務めていた(2007年現在)。






 長い時間をかけてつくり上げた部は、時間をかけた分だけ、成熟した。

 

 そしてここにきて、神崎清明は更に新しい形に姿を変えようとしている。





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2007年06月22日

佐賀県立神埼清明高校(前)

神埼清明高校を訪れたときの印象は、「整っているな」というものだった。

 県立とは思えぬほどに立派な専用体育館にはフロアが1面と半分ほど敷け、天井も十分に高い。そんなだだっ広い体育館の端に立って、めいっぱいカメラをひいてもファインダーに収まりきらない部員達は、小・中・高あわせて52名にもなる。
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 その周りには女子マネージャーが4名。掃除や飲み物の準備といった雑務から、倒立の回数などの練習の記録をとるなど、選手を支える。
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 加えて県のトレーナー部会から派遣されるトレーナーが、週に数回、、部活を訪れる。リハビリや柔軟の指導から、合宿時には食事メニューのアドバイスまで行われるというから、その環境は大学並みかそれ以上だ。
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 とにかく、すべてが整っている。そういう印象だった。







 中山監督について、少し話そう。というのはそれがすなわち、神埼清明がそこに至るまでの道程を示しているからである。





 多くの指導者がそうであるように、彼もまた神埼の監督に就任し、現在の部の形をつくるまでにはかなりの時間を要している。


 国士舘大学出身の中山監督は大学卒業後すぐに、指導者の道を志した。大学時代の自身を「練習嫌い」と言ってはばからない彼は、当時全日本選手権三連覇という偉業を成し遂げている。当時は本当に、「負ける気がしなかった」。

 それだけに、指導者を志してからの道のりは、臍を噛む思いだったに違いない。




 大学卒業後、指導者になるべく地元・佐賀県に戻った。しかし配属されたのは、男子新体操部のない中学校だった。


 そこで野球部をうけもつ傍らコーチとして神崎清明に通った。ただでさえ休みのない運動部を、ふたつも掛け持った状態。こうした生活が続いたのは数年の話ではない。実に12年間、この“二足のわらじ“の状態は続いた。

 しかしこの12年間、ただ神埼への異動を待ちながら過ごしていたわけではなかった。



 中学教員になって8年目の年、現場を離れて教育委員会に入ることとなった。そこにいる3年の間に、佐賀県に男子の新体操教室を開いた。最年少が小学2年生からなるそれは、近年でこそ各地に見られるようになった、男子新体操のジュニアチームの先駆けであった。

 自身がそうであるように、「男子は高校はじめ」が主流の新体操の中で、ジュニアから選手を育てようという考えは、当時としては先進的だった。




 また考え方も、この頃に大きな影響をうけた。
 野球部の監督に就任したが、自身の野球経験は中学校の3年間のみ。振り返るには遠すぎる。男子新体操の世界では「間違いなく、自信があった」中山監督だったが、そこでの実績がほとんど意味をなさない環境に長く身を置くこととなった。



「考え方の幅が広がった」「まっすぐに新体操に(指導者として)入っていたら、(今のように)勝ってない」




 全盛期には「ちょっとやって」勝てる自信があったし、実際にそれで結果を残してきた。新体操に関しては、確固たる自信があった。「負ける気がしなかった」といっていたほどの人である。その人にそこまで言わしめるこのときの経験は、当時の彼に幾ばくの影響を与えただろうか。



 新たな分野から得るものの多かった中学の8年間だったが、このとき監督は野球部を全国ベスト8に導いており、そこから甲子園出場選手も輩出している。大学での実績は意味を成さなくとも、そこで培ってきたことは間違いなく通用するものだった。多くの学びとともに、これまでの自身の指導に間違いはなかったのだと、確信した。



 そしてそれを立証するチャンスが、ようやく与えられようとしていた。



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2007年06月08日

小林工業vol.1-背負うもの(後)-

 これだけの想いがある。どうしても、他県に勝ちたい事情もある。そうした中で迎えた選抜大会。
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 会場入りしての公式練習中、本番を目前にしていやおうなく高まる気持ちとは裏腹に、時任は自身の鎖骨に激痛が走るのを感じていた。

 本番までは本当に、時間がなかった。





「全国大会でこの痛みのある状態で、自分の中でかなり追い詰められていた」



 絶対に勝ちたい事情がある。多くの人からの期待は、痛いほどに感じている。
 後にそう語る時任の心境は、察するにはあまりあるものだった。
 心身ともに追い詰められたこの状況で、彼は本番を迎える。








 それから一月。今にして思えば、と時任は話す。

「ラインオーバーは方向を確認していれば出なかった。倒立も、いま思えばビビッてやってた。思い切りやってれば、できたんじゃないかと思う」
 



 確かに、大会会場での彼は冷静さに欠けていたかもしれない。だからこれはミスの原因や言い訳としてではなく、ひとつの事実として知っておいてもらいたい。大会後になって初めて分かったことなのだが、この時、彼の鎖骨は折れていた。








 走りから始まった練習は、基本徒手、バランス・倒立、タンブリング練習、簡単な団体分習と続いた後、構成作りにはいる。その間、彼らは常に声を出し続ける――――いや、その姿は叫ぶ、と言ったほうが正しいかもしれない。
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 小林工業の卒業生で、一昨年まで青森大学の主将として活躍していた日高コーチは、選抜の結果についてこう語る。
「(団体)2位には納得いかない。でも逆に、勝たなくて良かったのかもしれない。そこで慢心しないために」



 練習中、ひときわ激しく、何度も何度も叫ぶのは主将の上畠。
 その姿は、3年間の想いと選抜での悔しさを決して忘れまいと、自身と周囲に言い聞かせているようだった。
 

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 この負けは確かに、彼らをまた強くした。









 構成作りでは「組み」と呼ばれる、接触を伴う大技を中心に構成を組み立てていく。

 その中で持ち上げられる役を引き受けるのは、チームの中で比較的体格の小さい、2年の有村だ。何度も何度も持ち上げられたり、逆さになったりを繰り返すため、その顔は血が上って真っ赤になる。
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 マットをくみ上げて、その上で組みの補助をするのは時任。

 積み上げたマットの高さは、2メートル以上になる。その上に立つとちょうど、体育館に高く掲げられた部旗を背負う形になる。
 






 毎日、練習の始めと終わりに挨拶をする部旗。

 彼が背負っているその二文字は、彼ら選手達と、そして監督がこれまで自身に課してきた言葉に、他ならない。

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2007年06月03日

小林工業vol.1-背負うもの(中)-

 宮崎県には男子新体操部のある中学校が3つある。高校でも「珍しい」と形容される男子新体操部は、中学になれば更に希少になる。そんな中で、一県に三校もの中学があることは、九州勢を「古豪」たらしめている所以である。なぜあえて「九州勢」という言い方をするかというと、それが必ずしも宮崎に、小林工業に安定した戦力をもたらす要因とはならないからである。



 数少ない中学での男子新体操経験者である。他県の高校、とりわけ私学などは黙っていない。全日本ジュニアなどで好成績をおさめた選手は全国からオファーをうけるし、彼らもまた、県外に出る気持ちが強くなる。結果、現在の小林工業の3年生は、地元中学から進学した4名のみとなった。
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 小林工業はここしばらく優勝から遠ざかっている。今年の3年生は、中学まで同じ地元で新体操をしていた同輩達が他県に行って優勝しているのを、何度となく見てきた。その姿を見た周囲の人間からの、「あのメンバーがみんな小林に入っていれば…」という言葉も耳にしてきた。
 その先に続く言葉は、彼らにはあまりに辛辣だ。


「大会で会うと、ライバル心がわく」と、3年の坂元は同輩について語った。
副主将の時任は「(同輩が)他県にいったことを考えると、絶対に負けたくない。自分達は地元でやっている仲間たちと、強い弱い関係なく、勝つんだ、という気持ちで」と、その心情を素直に語った。その言葉からは、悔しさと切なさとがない交ぜになったような、複雑な想いを感じた。そしてその想いは、部の総意でもあった。
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 小林工業では学年ごとに部誌を書くことになっている。その日の練習メニューと、感じたことなどを、選手達が毎日持ち回りで書くのだ。そこに「優勝」の二文字がおどるのを、何度も目にした。
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 その中で、選抜後におこなわれた祝賀会についてはこのように書いている。



「自分達の祝賀会には保護者や先生方、OBや地域の方々など100人近く来てくださって、とてもうれしかったです。
また、多くの方に応援の言葉をいただき、自分達がどれほど期待されているかが分かりました。
これからはその応援を一身に背負い、気を引きしめてがんばっていきたいです。」





 「今年の九州は強い」という言葉を取材で行く先々で聞いていた。それによるプレッシャーはあるか、とたずねると、2年の岩下はそれよりも「祝賀会で保護者やOBから応援の言葉をもらったことによるプレッシャーが大きい」と答えた。

 主将の上畠は「応援してくれる人の期待に、今年は絶対に、応えたい」と話した。“絶対”という言葉の力強さを改めて感じさせるような、そんな言い方だった。




 そんな多くの人の期待を背負う中で、彼らが誰よりもその期待に応えたいと感じている相手は、唯ひとりだろう。
「優勝して、必ず喜ばせたい」。3年の水久保がその言葉を向けるのは、永野監督に他ならない。
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 監督について選手達に尋ねると、その第一声は必ず「厳しい」といった類のものだった。そしてその後に必ず「けど、」と付け足してから、言葉がつづく。



「けど、自分達を勝たせるために一生懸命」
「けど、自分達を育ててくれる」
「けど、自分達を勝たせるために、がんばってくれてる」

 


 永野監督が小林工業に、単独で監督として就任したのは昨年のことだ。“単独で”というのは、それ以前は年長の監督とともにふたりで指導していたためである。

 
 正監督としての経験はわずか一年だが、常勤講師の時代を入れると9年、永野監督は小林工業の卒業生であるから、現役の頃を入れるともう12年、小林工業にいることになる。誰よりも小林工業を知っているし、思い入れはまた、強い。


 最近、監督は自腹でマイクロバスを購入した。遠方から来ている選手は、20時を過ぎると終電がなくなる。そうなったときに、選手を自宅に送り届けるために使われるのだ。
 

 OBから、「先生、もっと遊んでくださいよ」と言われるほどに部活一筋。「自分のために、金、使ってないんじゃないですかね」との声があるほどだ。「あんなにしてくれる人、なかなかいないですよ」。
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 選手の勝ちへのモチベーションが高い小林工業だが、それを維持するには指導者の更に高いモチベーションが必要になる。一日の間に監督は「絶対に、勝ちます」という言葉を何度口にしただろうか。そのモチベーションの源は何かと尋ねると、「選手の将来のため」と答えた。


 「勝てば生きていく上での自信になるし、たとえ負けたとしてもその努力は絶対に無駄にならない」。


 言ってまた、その日何度目かになる「絶対に、勝ちます」を口にした。



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