2011年10月31日
10月8日、社会人大会で目にしたその演技は、圧倒的、という言葉のふさわしいものだった。
周囲を圧倒する、パイプオルガンの壮大な曲。それに合わせて演じるリングは、彼が身一つ動かす度にまた、さらに威力を増して周囲を圧した。手具を投げ上げ、タンブリング、キャッチまでの流れはあまりにも自然で、まるで歩いて取っているかのような余裕があった。ミスの予感など、微塵も感じさせなかった。
打って変わって切なげなヴァイオリンの旋律にあわせたスティックでは、動きの緩急が絶妙で、その早さ、勢い、滑らかさ、全てが曲と同化していた。美しく、滑らかで、且つ躍動感にあふれていた。
撮影しながら、自らの切るシャッター音すら邪魔だと思った。だが、撮らなければ。これだけの、シャッターチャンスしかないような演技でタイミングを逸すれば、それは全面的にカメラマンの腕のせいだ。
観客は、その威風堂々とした姿に圧倒される。彼の演技を見たほかの選手は、彼から視線を外せなくなったはずだ。カメラマンは、これで良い画が撮れなければ、恥だとすら思う。
あらゆる方向に、あらゆる形でプレッシャーをかける。それが、奥雄太の演技だった。
そんな圧巻の演技を終えた奥をアップゾーンで見守るのは、内海祐吾監督。大学時代の奥の指導者であり、この大会でも指導者として彼に同行していた。
この「圧倒的」な演技は、彼らが組まなければ実現しなかったものだ。そうはっきり言い切れるほど、彼らの師弟関係は、特殊だ。信頼が厚い、というのとは少しニュアンスが違うかもしれない。絆、という言葉でくくるものでもない。強いて言うなら、それは―――。
2003年、都内で行われた全国高等学校新体操選抜大会。そこで演技をする奥は、まだ体も十分に出来上がっていない選手だった。だが、大会に足を運んでいた内海監督は、見た瞬間に思った。
<これは鍛えれば必ず、ものになる>
直感した。そして間もなく、奥は当時内海監督が指揮していた、国士舘大学に入学することとなった。
地元である鹿児島を離れ、上京し国士舘大学の門を叩いた奥。彼のほうにも、監督の指導を受けるうち、徐々に深まっていく確信があった。
<理論が、自分の考えとフィットしている>
大学に入って長い時間は経っていなかった。にも関わらず、奥にとって、内海監督の指示はいつでも的確で、完璧だった。それは普段の練習から試合での持っていき方全てにあてはまり、そしてそれに伴って、結果は着実についてきた。1年の東インカレで優勝、鮮烈なデビューを飾ったのだ。続く全日本インカレ8位、全日本選手権でも8位に入った。
2年の東インカレでは5位、全日本インカレ4位、全日本選手権では5位。実力と実績は、確実に向上していた。さらにそうした実績は、彼に思わぬ機会を与えた。実力を評価された奥は、海外で開かれる、体操や新体操などの世界トップ選手の演技発表会、FIG(世界体操連盟)「ガーラ」に招待選手として参加することとなったのだ。
欧米人の反応というのは、実に正直なものである。良い、と感じるものに出会ったら、言葉で、態度で、それを表現する。そう感じるのが例え自分ひとりであったとしても、まわりの反応など気にせず、感動を表すのだ。
ガーラで演技を披露した奥の前には、そんな感情に嘘をつかない欧米人たちで埋め尽くされた、観客席があった。若干20歳の青年は、日本の代表として参加しているということに誇りと高揚感を抱きながら、堂々の演技を披露。傍らには、奥に「間違いない指示」を与える内海監督の姿。そして、演技を終えた彼に、観客は拍手で、歓声で、全身で、自分たちがいかに感動したかを伝えた。それは、1人や2人ではない。個々の力強い感情表現は、猛烈なパワーを持って、観客席から発せられた。
それは恐らく、奥の能力と内海監督の指導とが噛み合ったために生まれた、感動だった。
この選手と指導者は、確実に相性がいい。では、その理由は何であるか、と内海監督にたずねると、まず「直感」という言葉で答えた。そして「それと、きっと一緒にいる中で良い思いをしてきたからでしょうね」と話した。
ガーラでの成功体験は、間違いなくそのひとつだった。相性の合う指導者と出会い、海外遠征という貴重な機会に恵まれ、人を感動させる体験をした。さらに、国内の実績も、全日本選手権制覇まであと一歩、というところまで来ていた。
だがその矢先、奥の環境は一変する。内海監督が大学の指導を離れることになったのだ。
完璧にフィットしていた指導は、突然彼の傍から姿を消した。共にした成功体験は、唐突に過去の思い出となった。
しかしそれでも、大学3年からの2年間、奥は内海監督の教えを忘れることは決してなかった。それが自分の練習方法だと確信していたからだ。
卒業後、奥はマッスルミュージカルなどの舞台の道に進み、また一方で一昨年は社会人大会にも出場、全日本選手権にも駒を進めた。だが結果は、彼を納得させるものではなかった。
そして迎えた2011年。奥はこの年を「最後の年」にすることを決めた。年齢は24歳。引退するどころか、本来ならば選手としてのピークと言っていい年だ。しかしそれは、それゆえの決意だった。
<体力的に、今が一番の自分を出せる>
そしてピークだからこそ、終わらせるならここだと考えていた。
奥がそう決めたとき、頭に浮かぶのはひとりの人物だった。
2011年、初夏。内海監督の携帯電話に、懐かしい教え子からの着信があった。相手は無論、奥だった。話の内容は「また自分を指導して欲しい」。
だがこの時、内海監督は関東で女子のチームを指導していた。奥はこの時、彼の母校のある鹿児島で練習をしていた。指導など、普通に考えれば不可能に近い。
それに純粋な距離の問題に加えて、九州にいる選手と関東にいる監督では、大会に出場の際に問題が生じる。選手と指導者の登録地が別々になってしまうのだ。簡単にわかった、といえるような話ではなかった。すぐに返答などできるものではない。
しかし、奥は粘り強かった。さらにくり返される奥のこの言葉が、監督の心を打った。
「今年が、最後なので」
24歳、最後。奇しくもその年齢は、内海監督自身にとっても思い入れの深い年齢だった。その当時、監督は全日本選手権4連覇という記録を成し遂げていたが、記録以上に、当時のことは記憶として、深く監督の心に残っていた。心身ともにピークを迎える選手の心情、そしてそこを最後にしたいと思う選手の心情は、手に取るようにわかった。
監督は奥の指導者となることを了承した。
しかし、指導すると決めたところで、物理的に二人の距離が離れているという現状は変わらない。そこで練習は奥が鹿児島の母校で行い、演技のビデオを撮影、それを監督に送る、という形をとることとなった。ビデオを見た監督が電話で奥に指示を出す。それに合わせて奥が演技を修正、また監督にビデオを送る。この「通信指導」は、社会人大会直前にはほぼ毎日行われた。
大会への登録の問題は、監督が手を尽くし、鹿児島県の指導者登録をすることでなんとか解決した。
そして10月、ようやく、2人は数年ぶりに大会会場での直接指導を実現させた。
試合会場で、内海監督は感極まっていた。大会を振り返って、監督は話す。
「もう、最高でした。やっぱりこれだ、このタッグだ、と」
言葉じりには、隠し切れない熱がこもっていた。
指導を受ける奥は、微塵の迷いもなく、言い切る。
「自分にとって監督は、世界一の指導者だと思います」
社会人大会の会場練習の最中、こんなことがあった。
奥はフロアの上で、タンブリングの確認をしていた。着地の直後、たずねるように内海監督に視線を向ける。だが、監督は首ひとつ動かさずに奥に視線を返すだけ。それでも、彼には分かった。
<だめだ、もう1回>
そう、言っている。
もう一度、奥は同じタンブリングをする。再び監督を振り返る。やはり、身じろぎひとつせずに見つめてくるだけだ。それでも、わかる。
<うん、それで良い>
そう、言っている。
そして、圧倒的な演技は実現した。
彼らの師弟関係は、特殊だ。信頼が厚い、というのとは少しニュアンスが違うし、絆、という言葉でくくるものでもない。
強いて言うなら、それは―――
それは、圧倒的な「疎通」だ。
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2011年10月13日
中学から新体操を始め、高校で3年間、大学で4年間、そして社会人になってからも、さらに4年目となる今年。内田秀晴は、その年月が育てた“強さ”を見せつけた。
10月8日。長野県で行われた全日本社会人新体操選手権大会は、例年になく熱を帯びていた。熱源は、昨年の全日本選手権王者、北村正嗣を筆頭に、08年、09年と全日本選手権連覇を果たした春日克之、09年全日本選手権準優勝の木村功など、未だ現役時の活躍を強く彷彿させる、多くの選手たちの存在。そしてもちろん、09年社会人大会優勝の奥雄太、前年の社会人大会優勝者の内田ら、社会人の実力選手らの存在だった。
これだけ顔ぶれが揃ってくると焦点になってくるのが、熾烈な優勝争い。同時に、11月に控える全日本選手権への出場権のある、上位6位までの枠をかけた闘いだ。
そして前半2種目を終えた時点で、内田はその出場枠を争う位置にいた。前年優勝という彼の実績を考えれば、この6位を争う位置は思いがけないことだった。
彼がこの状況に追い込まれた理由は、先に述べた、出場メンバーのレベルの高さにあるわけではなかった。原因は、彼自身の中にあった。
変調は、今年の初めからだった。今回の社会人大会までの間に、彼には演技会など、いくつかの演技を披露する機会があったのだが、そこでどうにも「守り」に入ることが多かった。どこかで何かを制御するような、力を出し切れない演技がつづいた。原因は自分でもはっきりとはわからなかったが、あるいは、と思い当たることはあった。前年の全日本選手権。彼はクラブでミスをし、大きく順位を下げていた。もしかしたらそのミスを引きずっているのかもしれない、と思っていた。だが、彼にとって原因などはどうでも良いことだった。問題は、その不調から未だ復調し切れていない、ということだ。
10月8日、社会人大会、初日。内田はこの日、自分がいまいち大会に気持ちが入らないでいることに気付いていた。そしてその不安要素はそのまま、演技に表れた。この2種目について、彼はこう話した。
「こんなに崩れるのは初めてでした」「落とさないだけ良かった、という感じ」
全日本出場枠は、厳しい状況になりつつあった。
その翌日。大会2日目の朝を、内田はすっきりとした気持ちで迎えていた。少なくとも彼の中では、気持ちの整理をつけたつもりでいた。「6位入賞は無理だろう」という、一種ふっ切れた思いが彼の中にあったためだ。
だが、あきらめというものは簡単につくものではない。
この日の1種目めはクラブ。内田の試技順がまわってくると、彼はフロアに入る直前、自分に言い聞かせるように口の中で何事かをつぶやいていた。彼の中には、「6位は無理だろう」という気持ちがある一方で「でも、落とさないように」という気持ちがあった。
「6位は無理」という気持ちは、吹っ切るということ。それは、守りを捨てる、ということだ。
一方で「落とさないように」という考えは、演技を堅実にする、ということ。守りに入るということだ。
相反するふたつの気持ちは、演技の中で小さな不協和音となった。曲がかかり、演技が始まる。それから間もなく、助走をつけてタンブリングに入る。会場で何度か練習をし、確認していた技だ。その助走で、彼は練習より少しばかり早く走りすぎていた。その少しのズレは、踏み切り、宙に舞い上がる、というそれぞれの過程で少しずつズレを生じさせ、着地したとき、彼は尻餅をついていた。
大きな減点。これで、6位争いからは大きく離れることになる。演技を終えてクラブの得点を見たとき、内田は「終わったな」と思った。今度こそ、本当に。
クラブの後に控える内田の最終種目・ロープは、1時間ほどの昼休憩を挟んで行われることとなっていた。休憩の間、フロアはフリー練習用に開放される。内田を含む、この後に演技を控える選手たちが入れ代わり立ち代り、フロアで練習をする。
この時の内田は、傍目に見て実にリラックスしていた。それはあきらめとも、弛緩とも少し違う、周囲の空気もほど良くほぐすような、やわらかな空気だ。彼が普段練習している時は、きっとこんな感じなのだろう、と思わせるような自然さだ。気負ったり、逆にいつも通りを装ったような感じのない、本当の意味での自然体に見えた。
しばらくすると、内田はユニフォーム姿になって、ロープを持ってのタンブリングの練習を始めた。助走から踏み切り、高いタンブリング、着地、そしてそこから手具操作までの流れを確認。
と、アップゾーンや客席が、不自然に沸いた。社会人大会は大会規模が比較的小さいためか、出場者同士、観客など、顔見知りの多いアットホームな空気の中で行われる。この日は内田の出身校である埼玉栄高校の父兄や、選手の中には出身大の花園大学の選手、大会でよく顔をあわせた選手もいたから、彼らがはやしたてたりするのだ。思わず、内田も苦笑する。
会場の空気も彼の演技を歓迎しているかのような趣だった。でもそれは決して負担になるようなものではなく、あくまで自然に。ちょうど、今の彼のような、自然さで。
何度もその部分を繰り返し練習すると、成功するたびに周囲も楽しげに盛り上がってくる。内田も最後には「これ、本番で失敗するパターンじゃないですか」と思わず笑った。そんな冗談が出れば、もう大丈夫だった。
休憩後、彼の最後の試技順がまわってくる。最終種目であるロープを持ってフロアに立ったとき、彼の中にはひとつの思いしかなかった。「悔いのないよう、満足のいくように」。
曲が始まると同時に、彼の持ち味は前面に押し出された。体は、何か本能に近いものに突き動かされているように見えた。勢いに満ち、躍動した。その勢いは体だけにとどままらず、ロープにまで行き届いた。
音楽と体の動きは、これしかない、というようなタイミングで合致した。彼の体は曲を効果的に使うことを知っていた。そうした「見せ方」は、キャリアの分、格段に上手い。
ただのノーミス、ではない。会心の出来、という言葉でもまだ足りない。彼がこれまで身につけてきた全てのことを出し切り、見る人全てを魅了した演技だった。
曲が終わり、彼が動きを止めるや否や、会場全体から拍手が降り注いだ。当然だが、はやしたてるような拍手ではない。演技への賞賛と、そして敬意に満ちた拍手だった。
終わってみれば、彼は全日本選手権への切符を手にしていた。11月に再び、彼は演技をすることとなった。
前半2種目で追い込まれ、そして3種目めでもさらに追い詰められた。その状況下で、もてる力全てを出し切るということは、想像を遥かに超えて難しいことだ。そういう場面で「燃える」タイプならまだしも、そういった人間は稀有だ。だとしたら、それはひとえに彼の精神力の強さに尽きる。そして彼がそれほどの精神力を身につけるためには、多くのことを乗り越えてこなければならなかったはずだ。彼は年月をかけ、実力とそれを出し切る強さを兼ね備えた。
彼は、大会前日から大会中にかけて、彼は埼玉栄の父兄から応援のメールをもらっていたという。そして当日には、多くの人が応援に来てくれていた。彼が会心の演技を見せたとき、周りのほとんどの選手が手を叩いて喜んでくれた。
内田は今回、改めて感じたという。
自分はひとりで新体操をやってるわけじゃないということ。応援してくれる人がいてくれることは、有難いということ。
だが、内田がそうした人々に恵まれたのは、彼がこれまでの周りの人々に、そして新体操に真摯に向き合い続けてきた証だ。
彼はそうして、多くの人に応援される存在になった。
周囲の応援、彼の実力、そしてあの場で全てを出し切る強さ。あのロープの演技はまさに、彼が中学から高校、大学、そして4年間の社会人という年月をかけて培ってきた、全てだった。
この日、彼は初めて、大会でガッツポーズをした。
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社会人 |
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2011年09月28日
大会のアクシデントというものは、誰にでも起こりうる。花園大の野口勝弘のそれは、先の全日本インカレで訪れた。
個人の初日、種目はリング。情感たっぷりで、ミスする気がしないような迫力のある演技。その最中に、プツリと曲が途切れた。音響トラブルだった。
こうしたことは、大会で稀に起こることがある。野口自身も、これまでそうしたトラブルに見舞われる選手を目にしたことがあった。だが、しかし
<まさか、自分に起こるとは>
野口は音響トラブルに遭った選手たちがそうするように、静寂の中で演技を続けた。そして観客は、トラブルに遭った選手に対してそうするように、次第に野口に手拍子をおくった。彼がそれに合わせて演技を終えると、会場は健闘をたたえるあたたかな拍手に包まれた。ノーミス。野口は苦笑いを浮かべていた。
演技が終わった後、彼は野田監督から言われた。
「やり直しできるけど、どうする」
野口はしばし言葉につまった。
音響トラブルで演技の最中に曲が止まってしまった場合、救済措置として、選手にはその演技のやり直しが認められる場合がある。しかしそれは必ずしも、救済措置とは言い難い。何しろ、選手は渾身の力で演じる1本を、他の選手よりも1回多くこなすことになるのだ。もう一度同じだけの集中力を込め、気合いをいれ、体力を消耗して、演技を通さなければならない。
さらに野口に関して言えば、その日は大会初日だった。予選、決勝と戦い抜くことを考えると、すぐさま「もう1本、やります」と言える状況ではなかった。
彼は思案の末、やり直さずに次の種目にうつることに決めた。しかし結局、残りの3種目も、アクシデントの影響を全くうけず、というわけにはいかなかった。実はその後も試技順を間違われるなどの進行トラブルなどがあり、完全に切り替えることができた、とは言い切れなかった。野口自身の言葉を借りると「いつもと同じか、それより悪いくらい」の出来映えだった。
それでも、彼はインカレをこう振り返る。「楽しかったです」。清々しいまでの笑顔に、嘘はない。
はっきりとそう言えるのは恐らく、トラブル直後に彼と野田監督との間だけで交わされた、あのやりとりがあったからだ。
野口は高校から、個人選手として新体操を始めた。だが、高校時代の彼の演技を知る者は少ない。というのは当時、彼は県大会までの経験しかなかった。
それでも野口が大学で新体操を続けると決めたのは「新体操は、見るのもやるのも好きだから」という極わかりやすい理由からだった。そして進学後、自分の考えと現実のギャップに愕然とする。彼自身が後にそう話すように、彼はこの時、「新体操を十分に知っているとは言えない」選手だった。
個人選手として花園大学に入学した野口は、個人選手たちがリスクや投げタンだけの練習に時間を費やすことに驚いた。実は部員数の多かった高校時代、彼はリスクや投げタンだけにそこまで時間をかけて練習したことがなかった。
「4種目を2本ずつ通す」という、特に変わったことをするわけではない練習に、舌を巻いた。というのもそれまでは、限られた時間と場所に対して部員数が多すぎたため、そこまで通し練習をこなしたことがなかった。実を言うと彼は大学入学時点で手具のひとつであるロープを持っていなかった。高校ではやってこなかったので「大学入学のために買ったようなもの」だった。
そんな彼だから、大学に入ってからの苦労は想像に難くない。練習で「リスク連続10本キャッチ」という指示を出されても、野口だけがいつまでも終わらない。自然、ひとり居残りする日が続いた。そうすると、今度は次第にそれに先輩が付き合うようになった。先輩はリスク10本など軽くできてしまうから、完全に野口のための居残りだ。1年生の自分が、練習のために先輩を居残りさせてしまう状況に、とにかく恐縮しきりだった。
中でも一番悔しかったのは、リスクで「全員がキャッチするまで終われない」という練習。周囲の先輩、同級生がキャッチをする中、何度となく自分の番でリセットされる。疲労で集中力が途切れる。周囲の疲れも空気で伝わる。自分に苛立ち、悔しさで涙が出た。
さらに、野口はタンブリングも得意ではなかった。大学入学時、彼が唯一できるタンブリングは宙返りだった。そんな彼にとって、苦手なリスクとタンブリングが組み合わさった「投げタン」など、もはや恐怖といってもいいほど苦手だった。
だから、本当に信じられないことだが、彼は今でもリスクも投げタンも苦手だ。全国で上位争いを繰り広げ、あれだけ場慣れして見える野口は、その実、常に苦手意識と戦いながらフロアに立っていた。
大学1年は、とにかく練習についていくことに集中するうちに終わってしまった。だから大学2年にして全日本選手権出場を果たしたことは、その1年間の努力の賜物といって良いだろう。そして3年目になると、野口は大会での評価を確かなものにする。2年の全日本選手権18位から一気に躍進、3年の全日本インカレで入賞を果たした。そこでようやく、彼の中で余裕が生まれた。演技をこなすことから、別の視点に気付くようになった。「周りは、演技をどんな風に見ているのか」。
そのことを考え出すようになって、彼がもっとも気にするようになったのは、表情だった。例えば、今までやってきた演技のように、審判を強くにらむだけの演技だったら。自分が審判をしていたら、あまり印象に残らないんじゃないか。悲哀のある表情や、笑顔とか、人にはもっと多くの種類の表情、表現がある。それを出したほうが、印象に残るだろうし―――何より、そうした方がきっと、観ている人も楽しいんじゃないか。いつしか、そんな風に考えるようになった。
野口はそれから、曲に合わせて表情を変える練習も取り入れるようになる。曲の世界観を、動きと表情とを組み合わせて表現することに腐心する。練習中、彼からは誰よりも情感があふれるようになっていた。
8月4日、栃木県県南体育館、全日本インカレ。
音響トラブルに見舞われながら終えた、リングの演技の直後。野口がやり直すか否かを決めるまでに、監督とのわずかなやりとりがあった。
「やり直しできるけど、どうする」
野田監督の言葉に、野口は逡巡する。曲は止まったが、自分は精一杯に演技できた。次の種目からも、きっと切り替えができる。それに正直に言うと、体力的な面で、もう一度同じように演技を通す自信がない。大会での1本の消耗は、練習のそれとの比ではないのだ。
野口はやり直さずに次に行きたい、という気持ちが強かった。ただわずかに、後ろ髪をひかれる思いがあった。4年で最後のインカレだ。完全な演技をやりたい、という思いがあるのは当然だった。それはもはや、選手としての本能だ。ただそれが必ずしも賢い考えでないことも分かっていた。
彼はそのことを素直に監督に打ち明け、それから監督にたのんだ。
「自分がやり直すのをやめる、良いきっかけになる一言をくれませんか」
そして言われた野田監督の言葉で、野口はハラを決めた。
「今、会場中が味方になってくれたよ」
大学に入学して、リスク10本を目標にするところから始まった。次に投げタンもこなせるようになって、全日本選手権にも出られるようになった。余裕が出てくると、今度は表情と動きを研究して、審判と観客を楽しませたいと思うようになった。
その観客たちが今、味方になってくれているのだとしたら―――彼が演技をやり直す理由などなかった。
posted by reportage |20:18 |
花園大学 |
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2011年09月17日
チームの変化の時期、それも立ち上がり間もないチームのそれを目にすることができる、というのは貴重なことだ。その時期は選手の成長もはっきり分かる上、チーム自体の変化も大きいことが多いからだ。
草加ジュニア新体操クラブで設立2年目を迎えた男子クラスは、まさにその時期にあった。現在、3歳~小学5年までの23名が活動している。
草加ジュニアはもともと大規模な女子の新体操クラブで、そこに今回男子クラスを併設した。指導するのは、女子の指導者である北村るみ子先生、岡本琴美先生、そして花園大で個人選手として活動していた安藤庸介先生だ。
彼はもともと埼玉県出身で、高校も埼玉栄高校だった。卒業後地元に戻り、指導者を目指していたところ、タイミングよく草加ジュニアの話をもらったという。
草加ジュニアは現在、女子クラスに200名以上の生徒を抱えるほか、バレエクラスにブレイクダンスのクラスまでを持つ「総合型スポーツクラブ」として活動している。指導者の1人である岡本先生は草加ジュニアのOGであるというから、歴史、規模ともに十分すぎるほどに立派なクラブチームである。
しかしそうしたクラブであっても、そこに新たに男子クラスを設立するには苦労があったという。かねてより男子クラスの設立は希望していたというが、まず指導者がみつからない。2年前、たまたま安藤先生と縁があったが、彼も当初は埼玉栄高校での指導を考えていたというから、本当にタイミング次第ではどうなっていたか分からなかった。
しかし指導者を据えることはできても、実は彼には中高生以下の選手への指導経験がなかった。彼自身も「どうやっていいかわからなかった」と話すように、中高生への指導とジュニアへのそれはあまりにも違っていた。新体操の演技を良くするための指導と、新体操そのものを教える指導というのは、天と地ほどの差があった。そもそも、生徒たちのまわりにはこれまで「男子新体操」というものが存在しなかったのだ。
まわりで高校生や大学生が一緒に練習しているような環境であれば、「この練習をしていれば、ああいう選手になれるんだな」と無意識にでも感じることができるのだが、それができない。加えて、チームは男子に関しては全くのゼロからのスタートで、全員が等しく男子新体操の知識を持っていなかった。
生徒が「男子新体操がどういうものか知らない」という心もとない状態の中、唯一のお手本である安藤先生は、北村先生らのジュニアの指導方法と、自身の男子新体操の知識を組み合わせながら、とにかくやってみせて教える、という方法を地道に続けた。
そして試行錯誤の指導を続けながら2年がたった今年、チームはひとつ階段を上がることになる。公式大会に初めて出場できることになったのだ。男子の公式大会は小学4年生からしか出場することができず、今年ようやく、4年生以上の選手ができたためだった。
週1回の、1時間程度の練習の中で演技をつくることは容易ではなかったが、4人が1種目ずつ、個人で出場を果たした。生徒たちは埼玉県のジュニア選手権を経て、関東ジュニアにもにも出場することができた。しかしここで大事なのは、結果ではない。
生徒にとって初めての大会は、初めて多くの選手を目にする機会でもあった。それは恐らく、練習の中で断片的に見せられていた技がより具体的な、臨場感をもったものになって感じられた瞬間だったはずだ。「新体操とはこういうものなんだ」ということを、肌身を持って感じられたことだろう。あるいは、他人の演技を客観的に見られる分、自分で演技すること以上に、新体操の理解を助けてくれたかもしれない。
そして何より、生徒たちは大会後に楽しそうに言っていたという。
「来年も、また出たい」
近年、ようやく増え始めた男子新体操のジュニアチームだが、そこから中学、高校と新体操を続ける選手を育てることは、実は簡単なことではない。
少子化の進む昨今、子供1人あたりにかける習い事の金額は以前よりも確実に上昇している。さらにひとりっ子ともなれば「子供のために、興味をもったことはできるだけやらせてあげたい」という親心が生まれるのにも道理がいく。
そんな風潮に加えて、男子新体操はあらゆる運動の基礎としても有効な競技、という側面がある。基礎的な運動能力や、あらゆる競技で重要になる体幹を鍛えることができるためだ。そしてそのことは同時に、男子新体操を競技として見る妨げになる場合もある。
つまり、男子新体操のジュニアは現在、入ってくる間口が開かれている分、途中で他の競技に進んでいく選手も少なくはない、ということなのだ。
北村先生は話す。「今は成長をより多く実感できる分、生徒たちも教える側も、すごく楽しんでやっています。でもある程度までいったら、新しい壁にぶつかるだろうなとも、思っています」
それはある程度基礎ができるようになったときに「次に何を目指していくか」ということだ。生徒に「男子新体操」の継続を望むなら「生徒と親、そして指導者が同じ目標をめざしていくこと」が必要になる。そしてそれは、生徒の意志によって左右される部分が大きい。
まだ小学生の彼らの可能性はあまりに大きく、興味の対象はあまりに広く、そしてうつろいやすいものだ。
しかしだからこそ、初めての大会で彼らが素直に口にした言葉は、それなりに意味のあるものだと思いたい。
「来年も、また出たい」
動き出したばかりのこのチームから、未来の有望選手が出る第一歩として。
posted by reportage |15:37 |
草加ジュニア |
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2011年08月02日
地鳴りのような、歓声ではない。爆発するような、渦巻くような、勢いを持った歓声でもない。もちろん、何かに扇動されるようなそれでもない。
その日、青い森アリーナは、既成の表現ではぴったりとはまるものがないような歓声に包まれていた。埋め尽くされた客席。圧倒的な拍手と感嘆の声。
そこで生まれたのは、大きなひとつの感動を共有する、という感じとは少し違っていた。演技と選手たちに対する尊敬、畏敬、労い―――そんなあらゆる感情がひとりひとりの観客の胸に宿っていたように思えた。皆が各々、だが等しく、感動していた。
岡山県立井原高校は、今や男子新体操の強豪校のひとつとして名を知られている。その彼らが、昨年のインターハイで8位という辛酸をなめた。この時、長田京大(きょうた)監督の胸には去来したのはこんな思いだった。
<体格が、圧倒的に負けている>
他の強豪校、特に九州勢の高校生とは思えないほどのたくましい体格に比べて、井原の選手はあまりに細く見えた。もともと、九州のダイナミックなタンブリングや組みを見せ場とした演技と、井原の線の美しい体操を見せる演技とでは、根本的に魅力が違っていた。だが、それにしても―――
<これでは、見せたいものも見せられない>
体づくりが必要だと思った。
大会から戻ると、監督はすぐに選手に指示を出す。
「3週間後の今日に体重を量るから、それまでに1人10キロ増量してくること」
もちろん、できなかったときの約束つきだ。
「できなかったら、体育館の裏の山を全員、1時間で2往復ね」
体育館の裏にある山と言えば、1往復10キロほどの道程だった。それを2往復、つまり1時間で20キロを走らなければならない。これはハーフマラソンで優勝できる速さだ。さらに言うと、道は平坦ではない。上り下りのある山道をそのスピードで走ることは、不可能だとしか思えなかった。
選手は、その日から食生活を一変させる。メンバーのひとりである、房野 純(ぼうの あつし)の食事メニューは、こうだった。
まず、朝ごはんを食べて学校へ。昼は持参した弁当を食べるのだが、それが並ではない。大きさも深さもある、巨大なタッパーには、びっしりとご飯だけがつめられている。その量、実に3合。それとは別に、おかずだけが詰められた弁当も、たいらげる。
午後の授業を終えて、練習の前には近所のスーパーで、またご飯やパンといった炭水化物を買い込んで食べる。そうして部活へ向かい、練習が終わると家で夕飯をいつも以上にたくさん食べた。だいたいの選手は同様のメニューを食べ、さらに寝る前にコーラとカップ麺を食べる選手もいた。
「とにかくカロリーの高いものを、詰め込んで」食べたが、それでも激しい練習をしていると体重はなかなか増えなかった。何日かそうした生活をしていくうち、ようやくお腹が丸くなりだし、そしてそれはすぐに筋肉に変わった。
3週間後の同じ日を、メンバー全員が目標をクリアして迎えた。太ももは太く、体幹もがっしりし、おまけに背も伸びていた。フロアに立つ彼らには、以前よりも存在感があった。同時に裏山のランニングも、何とかまぬがれた。
選手が増量に苦しんでいた頃、長田監督は孤独な戦いを強いられていた。演技構成づくりだ。
新体操の団体の構成は、大体が監督とコーチや卒業生が中心になり、時には選手も混じって作ったりもする。あらゆる人間の知恵を借り、それでも何ヶ月も試行錯誤を重ねて作り上げる。それを、井原では監督が5ヶ月ほどの間ひとりで考え続ける。
「常に、他にはない新体操をやろうと思ってるんです」
笑顔で話すその言葉は、言うほど簡単なことではない。井原はこれまで大学でも優勝をを争うような選手を多く輩出してきたし、彼らも監督と母校を慕ってよく部活を訪れたが、それでも監督は自身でで考えることにこだわってきた。
「演技が考えられなくなったときが、引退の時だと思っているので」
頑なな意志が感じられた。監督は創部以来、その意志を貫き通している。
毎年のやってくるその孤独な戦いの中で、新しい構想が生まれたのは、3ヶ月ほどたった頃だった。新しい「バランス」を考え出した。
団体の中で必ず入るバランス。両手を前と横に広げ、片足を後ろに上げる、あの状態。通常、前に重心を置いた状態で立ってから、慎重に後ろの脚を上げることが多い。その方が安定するし、何より今までほぼそれが通例だったからだ。
それを、逆にした。まず、立って前屈した状態から、後ろ脚だけを上げた状態になり、その脚に合わせてバランスの体勢になるように、上体を起こす。言葉にするとそれまでだが、それは周囲が考える以上にリスクが高い。
何せ、選手はこれまで普通のバランスの練習しかしてこなかったし、自身もそれしか指導してきていない。さらに、わずかなふらつきも目立つため、もともと減点要素の高い技なのだ。にもかかわらず、ルール上決して加点対象になるわけではない。なぜなら、前例のない「他にはない新体操」だからだ。
そんな技や動きが、井原の演技には多く詰め込まれている。ふらつくリスクが高いにも関わらず、かかとを高く上げて立つこと優先し、決して評価対象にならなくとも、肩のライン、つま先の美しさにこだわった。たとえ他の誰が気にしなくとも、腕の回し方、上げ下げに至るまでを、言葉を尽くし、体を駆使して教えた。それが、「他にはない新体操」を生み出すからだ。
井原の練習は間違いなく「厳しい」部類に分類されるだろう。細かくひとつひとつの動きにこだわった練習は、あまりに緻密だ。地域の協力で体育館はほぼ24時間に近いほど使えるから、練習は深夜に及ぶこともしばしばだ。肉体強化の時のような課題を出されることだってある。
が、主将の細羽(ほそば)勇貴に監督についてたずねたときの回答は、思わず面食らってしまうようなものだった。
「やさしい先生です」
その後すぐに「厳しいときは、すごく厳しいですけど」という言葉が続いたが、第一声にその言葉が出たことは大きかった。
「厳しいです」「怖いです」「天才肌です」「面白いです」…だが、結果を残しながらも「やさしい先生」は稀有だ。
しかし、実際のところそうだった。監督は父兄や来客にはもちろん、OBや選手たちに至るまでをよく気遣ったし、いつも穏やかな表情を浮かべて話すから、誰もが親しみを持っていた。
とある日には「暇だったので」と花園大学を卒業したインカレ王者・谷本竜也がふらりとやって来た。一方で卒業後は新体操を続けず、消防士となったOBも訪ねてきていた。新体操を続ける続けないに関わらず、何というわけではなく、人が自然に体育館に集まってくるのだ。
そうした監督と選手の信頼関係は、実に単純なことから生まれている。練習を見ていると気づくが、長田監督は練習中―――いやそれ以外の場面でも、声を荒げることが全くないのだ。間違いや問題があれば、とうとうと選手に理由を説明した。ちょうど新体操の基礎を教えるように、相手が納得するように、実に真摯に説く。至極単純なことだが、それを時間をかけてされる機会というものは、実はそう多くはない。だから率先してそれをしてくれる監督に、信頼感が湧くことは自然だった。
小学校や中学校から井原のジュニアチームで、監督のそういった性質を知っている選手たちは、強い信頼感を抱いているようだった。そして、そんな選手たちと監督が今年のインターハイで目標としたのは、高得点を出すことでも、優勝することでもなかった。
「被災者の人や、東北の人たちに、勇気と感動を与えよう」
インターハイのためにバスで北上していたときのことだ。会場のある青森まで移動する途中、監督は運転手にひとつ頼みごとをした。
「宮城に寄ってもらえますか」
バスは少し遠回りをして、宮城県の沿岸へ向かった。
海岸でバスを降りると、生徒は絶句した。ひっくり返った自動車。本来は街であるはずの場所からも立ちのぼる、猛烈な潮の臭い。
テレビで見るのと現実とは違うと、誰もが思っていた。それでも、頭で理解していた以上の現実を目の当たりにすることでチームはやはり、決意を新たにした。ここの人たちに、勇気と感動を。
8月1日、青い森アリーナ、新体操団体競技。井原のチームは、昨年8位に終わったときのメンバーからほとんど変わっていない。にもかかわらず、フロアに立つ彼らの存在感は見違えるほど大きかった。それは苦労した肉体改造の賜物であり、そして何より、選手と監督が一丸となってかなえようとしている、ひとつの確固たる決意が表れていたためだった。
曲がかかり、選手が動き始めてわずか数秒で、会場は沸き立つ。動きの大きさ、迫力が圧倒的なのだ。これまでの井原の持ち味である、美しく精緻な体操はそのままに、力強さが加わり、タンブリングからわずかな指先の動きに至るまで、まるで全てが見せ場のように力強さに満ちていた。どこを切り取っても胸に迫るような演技に、会場が沸かない時間のほうが少なかった。
演技を終えた瞬間、監督は走り出していた。誰よりも早く、選手たちの健闘をたたえるために。
演技の直後、レギュラーの原田幹啓は「演技をしながら、会場が盛り上がっているのがわかった」と監督に話した。選手たちも口々に「演技していて気持ちよかった」と口にした。
選手のもとに駆けつけた監督は「こんな大舞台で演技をさせてもらって、応援してくれた人たちに、感謝しなさい」と話した。それから「こんなに無茶を言う監督についてきてくれて、良い演技をしてくれて、ありがとう」と言った。
周りに感動を与えたいという気持ち、そして彼らをつなぐ信頼関係が垣間見えるような言葉だった。
最後に、補欠だった大舌晃平は周囲の反応を気にするように「どの演技で1番会場が沸いてましたか?」とたずねてきた。
だから感じたままを伝えた。君たちの演技が一番だった、と。
posted by reportage |23:11 |
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2010年12月26日
年明け1月10日に、初の試みとなる新体操のイベントが開催となります。
新体操をご存知の方にとってはかなり豪華なメンバーで、二度と集まることはないかもしれない貴重な顔ぶれなので、少し首都圏からは離れた場所での開催ですが、行ってみる価値はあると思います
写真でご紹介した選手も登場します
現役を退いた選手の演技を見る機会は本当に少ないので、かなり貴重です!
また、プロとして活躍している選手も出演しているので、パフォーマンスとしてもかなりクオリティの高いものが見られると思うので、新体操を知るきっかけとしても良いきっかけになるかと思います。
チケットがわずかということでしたので、お早めのチェックをおすすめします
公演名:DANCE ONE「こんなステージ☆観たことない。」
日時: 2011年1月10日(月)
Open 12:30 Start 13:00~ Open 16:30 Start 17:00~
会場: 盛岡市民文化ホール(マリオス)大ホール
http://www.mfca.jp/institution/shiminBunka/
料金: 前売り 3.000円
当日 3.500円
※全席自由
※限定3,000枚
総合演出: 大沼 まゆみ(スタジオ DANCE ONE 代表)
振付協力: 荒川 栄(BLUE TOKYO)
GUEST:
■内山 麿我(Dancer)
*ここ数年、縁あって青森山田高校の演技構成に関わっているダンサーの方です*
2007より浜崎あゆみのバックアップダンサーとして活躍。現在「TOUR 2010」にも出演中。その他にも島谷ひとみ、宇多田ヒカル、安室奈美恵、倖田來未などのPV・TV・ライブ等 に出演。さらに青森山田高校新体操部のアドバイ ザーコーチとして団体の振付けも手掛ける。2009年にはインターハイ優勝、2009全国団体選手権優勝、 2010全国選抜優勝と3度の全国制覇の立役者となる。
■祝 陽平(俳優/パフォーマー)
*2009年、青森山田高校の主将で、現在は東京で事務所に所属しています。新体操の舞台・コカンセツにも出演。高校卒業後の成長が楽しみなパフォーマーです*
青森山田高校新体操部主将として2009和歌山インターハイにて団体優勝を果たす。今年3月に高校卒業し、現在役者をしながらストリートダンスチーム「ZING」のメンバーとしてパフォーマンスを披露している。舞台「コカンセツ」出演。2011年2月舞台「新宿バックストリート」出演決定!
■春日 克之
*言わずと知れた2009年全日本選手権チャンピオンです。卒業後、浜崎あゆみのバックパフォーマーとして活躍、現在もツアーに同行*
青森大学2006~2009/全日本選手権大会2008・2009個人チャンピオン/浜崎あゆみ カウントダウンライブ2009~2010/紅白歌合戦2009/浜崎あゆみアリーナツアー2010「Rock'n'Roll Circus」/カウントダウンライブ2010~2011 出演
■藤田 朋輝
*同じく、青森大学を卒業後、浜崎あゆみのバックパフォーマーとして活躍中*
青森大学2006~2009/高校次インターハイ個人総合チャンピオン/浜崎あゆみ カ
ウントダウンライブ2009~2010/紅白歌合戦2009/浜崎あゆみアリーナツアー2010「Rock'n'Roll Circus」/カウントダウンライブ2010~2011 出演
■横山 悟
*2008年の青森山田高校の主将で、あの千手観音の演技の先頭を努めていた選手です。彼も卒業後、上記のふたりと同じ道へ*
青森山田高校2006~2008/秋田国体団体優勝。2008キャプテン。浜崎あゆみ カウントダウンライブ2009~2010/紅白歌合戦2009/浜崎あゆみアリーナツアー2010
「Rock'n'Roll Circus」/カウントダウンライブ2010~2011 出演
■高橋雄太
*青森大学で主将として活躍し、その後舞台の道へ。2010年全日本選手権では、舞台「タンブリング」のメンバーで「烏森RG」として全日本選手権に出場、3位入賞を果たしている*
青森大学2004~2007 / 全日本選手権大会2004、2005、2006団体優勝。舞台「タンブリング」出演。シルク・ドゥ・ソレイユ公式オーディション合格。
■赤坂 麻里(Dancer)
岩手県盛岡市出身で今回共演チーム「スタジオ Dance One」出身のプロダンサー。これまで「少年隊プレゾン」「SMAPコンサート」のバックアップダンサーとし
て活躍。さらに「KinkiKidsコンサートツアー」「堂本光一ソロコンサート」「堂
本光一主演 SHOCK」(2001~2009)出演。
■白澤 美佳(ヴァイオリン奏者)
2007年より、『高嶋ちさ子12人のヴァイオリニスト』メン バーとして活動中。 ギター、ベース、パーカッションの入った3人ユニット『ジェントリーノーツ』ではヴァイオリンとボーカルを担当。新体操では青森山田高校、青森大学などに演奏提供している。
■林 ゆうき(作曲家)
高校生の時に男子新体操に出会い、踊るための音楽を選曲しているうち に伴奏音楽の世界に傾倒していく。演技者として大学に進学…音楽経験はなかったが、独自の音楽性を求め 大学在学中に独学で作曲活動を始 める。 2008年から、ドラマ音楽作成に関わる。主な作品はトライアングル(2009年、関西テレビ) BOSS(2009年、フジテレビ)嬢王 Virgin(2009年、テレビ東京)、左目探 偵EYE(2010年、日本テレビ)、絶対零度 ~未解決事件特命捜査~(2010 年、フジテレビ)、タンブリング(2010年、TBS)新体操伴奏曲、 パーフェクト・リポート(2010年、フジテレ ビ)、ストロベリーナイト(2010年、フジテレビ)、 2011年1月スタート フジテレビ月曜ドラマ『大切なことはすべて君が教え
てくれた』音楽担当。
出演:
■青森大学男子新体操部
(全日本学生選手権大会9年連続団体総合優勝/全日本選手権大会2010チャンピオン)
■盛岡市立高等学校男子新体操部
(沖縄インターハイ2010 団体総合準優勝 )
■青森山田高等学校男子新体操部
(全国高等学校選抜大会2010 団体総合優勝/全日本ユースチャンピオンシップ2010団体総合優勝)
■BLUE TOKYO
*青森発の新体操ユニット。2010年全日本インカレチャンピオン大舌恭平がリーダーを務め、柴田翔平、福士祐介らが所属。東京でのダンスイベントなどで活躍中*
■大舌 恭平
*こちらも言わずと知れた2010年全日本インカレチャンピオン。個人としての演技が見られる機会は貴重になりそうです*
■青森大学 中田吉光監督
■盛岡市立高校 野呂和希監督
■滝沢南中学校 小渡敏貴監督
■青森山田高校 荒川栄監督
お問合せ:スタジオ DANCE ONE
019-653-7564
http://www.danceone.jp/
※青森大学、青森山田高校、盛岡市立高校での問合せはしておりません
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2010年11月25日
当然のことだが、スポーツでは勝者を、大会では優勝者を大きく取り上げることが多い。だが、今回取り上げるのは準優勝のチームだ。このチームにとっては、それが「準優勝」という記録以上の価値があるからだ。
全日本選手権の個人では、多くの優勝者を輩出している花園大学。だが、同大会での団体での最高実績は3位だった。全日本インカレは準優勝も一度は経験してるが、今年はそのインカレでも3位。創部以来、表彰台の3段目は、花園大の定位置になってしまっていた。銅色のメダルは、もう何度となく手にしてきた。
もうかれこれ何年も、その上を目指しては、叶えられずにいた。この年の花園大の団体は、レギュラーである2人の4年生、主将の福田匠と同免木(どうめんき)亮介を中心としたチームだったのだが、彼らももちろん、その上を望んでやまなかった。
福田(奥)、同免木(手前)
2010年10月24日。インカレを終えて、多くの大学が11月下旬の全日本選手権に向けて、本格的な練習に入っているはずの時期だ。が、この時点での福田の考えるチームの目標は「とりあえず全通しをして、徒手(体操)のバラつきをなくすこと」だった。というのも、大会1ヶ月を切っていたこの時点で、花園大の団体は一度も演技を通していなかったのだ。
実は8月の全日本インカレを終えた直後に、彼らは構成を作り変えている。だが、彼らが懸命につくった演技は、野田監督に「全然ダメ」と一蹴されてしまう。
花園大の団体は、これまで他大学にない奇抜な構成で勝負をしてきた。青森大には完璧な同一性と組みなどの大きな見せ場が、国士舘にはタンブリングの強さがある。上位にいるそれらのチームに勝つために、花園大は構成力で勝負を挑み続け、それは花園大のカラーになっていた。だから、その部分で妥協するわけにはいかないのだ。
そういったわけで結局、1ヶ月ほどかけてつくった構成を、9月半ばからまたつくり直す羽目になった。そしてその結果、通しの時期は大幅に遅れることとなったのだ。
「このメンバーで新体操やれるのは最後なんで、やるからにはしっかりやりたい」と、語るのは同免木。だが、言葉尻にはやはり時間のなさへの焦りというか、もどかしさのようなものがにじんでいた。「あと1ヶ月で、最強のチームにしないと」。時間は決して多くはなかった。
それから間もなくして、全日本選手権での試技順が知らされた。聞かされた瞬間、同免木は「またか」と思った。福田は「ミスったら終わりだ」と思った。試技順は1番だった。
同免木がそう思ったのは、彼が大学に入ってからのここ数年、花園大が試技順1番をひくことが何度となくあったからだ。そして福田がそう思ったのは、試技順1番は全体の基準点になるため、点数が抑えられがちだからだった。だから「ミスしたら終わり」だ。
しかしそれは半分、現実のものとなった。
2010年11月20日、代々木第一体育館。全日本選手権の、団体予選。
試技順1番の緊張感あふれるフロアの中に、花園大学のメンバーが入っていく。それぞれが定位置につくと間もなく、曲がかかった。
花園大の演技は、序盤、選手たちの時間差の動きと、同時性とを巧みに組み合わせた構成から始まる。さらに4人がフロア中央で一列になると、それがサッと左右に分かれた、かと思うと奥から同免木が正面に向かってまっすぐに駆け出し、審判のまさに目の前でタンブリングを繰り出した。奥行きを生かした予想外の構成に、会場は沸き立つ。まず、見せ場は成功した。
が、中盤から少しずつ、調子が狂い始める。全体のバラつきはないものの、個々の選手の小さなミスが、ポロポロと出始めたのだ。主将の福田でさえ、実はタンブリングで背中を打たれて、スムーズな着地ができていなかった。そして決定的なことが、鹿倒立で起こる。
6人全員が同時に手をつき、脚を振り上げ倒立し、その片方を曲げた状態で、ピタリと止まる。
全員が頭の中で、カウントをする。
<イチ、ニィ…>
と、そこまで数えたところで、福田が隣の動きに気づいた。福田の真横の選手が、皆よりも1カウント早く、前転して降りたのが見えた。
<ああ…>
心の中で息を吐いた。絶望感が湧き上がった。
<終わった…>
隣にいたのは、同免木だった。
率直に言ってしまうと、この日の同免木は気負っていた。4年で、恐らく人生最後になる新体操の大会で、気合いが十分すぎるほどに入っていた。彼自身の言葉を借りるならば、「ビビって」いた。それが少しばかり、彼に狂いを生じさせたのだった。
しかし倒立を落ちてしまった次の瞬間には、とにかく「まだ演技は残っているから、今はミスは忘れよう」と切り替えることにした。そう言い聞かせて、何とか演技を続けた。
だが、ラストポーズを終えてフロアを出ると、気持ちが込みあがってきた。4年で、人生最後かもしれないこの大会で、ミスしてしまった自分が情けなくて、涙が出た。心の中では、彼自身も「終わった」と思った。
「お前、何やってんだよ」
試合後に言ったのは福田だった。
「本当、ダメだって」
険悪なムードすら漂う中での厳しい言葉は、同免木に追い討ちをかけるものだった。しかしレギュラーで4年が2人だけのこのチームで、彼に強く当たることができるのは福田しかいなかった。もっとも長い時間をチームでともに過ごし、同じだけの思い入れとプレッシャーを感じている彼でしかありえなかった。そして同時に、支えることができるのもまた、福田しかいなかった。
その日の夜の、花園大の宿泊先であるホテル。とことんまで落ち込んでいた同免木の部屋を、訪ねてきた人物がいた。演技直後に厳しい言葉を浴びせた、福田だった。
「ひとりじゃ寂しいだろうから、一緒にメシ食ってやるよ」
数年前、立場は逆だが、同じようなことがあった。
4年前、福田は団体選手として、同免木は個人選手として花園大学に入学した。同免木は2年から団体に転身し、自分でも「まさか、無理だろう」と思っていた中、その年のうちにレギュラー入りを果たす。福田もまた、2年の最初から団体レギュラー入りを果たしていた。
特に背が高く、ダイナミックなタンブリングが魅力の福田は、3年でもレギュラー入りは確実と思われていた。が、3年になって間もなく、福田は左足に痛みを覚える。西インカレにはだましだまし出場するも、その直後、左くるぶしの骨が欠けていることが分かった。治すには、3年のシーズンを丸々つぶさなければならなかった。
仕方なく、福田はそれからの期間をチームのアシストに費やすことにした。毎日、曲かけをしたり、練習の準備や後片付けをして過ごした。
「もともと、人をアシストとかするのは苦手なんで…大したことはしてないっすよ」
今になって話すように、それが本当にそうだったのか、謙遜なのかは分からない。だが当時、一生懸命に練習していたレギュラーメンバーには、十分な働きには映っていなかった。ある時、福田はメンバーのひとりからこんなことを言われる。
「お前、そんなことやってる場合じゃねぇだろ」
団体はチームだ。6人の選手がいるということは、6通りの考え方があるということだ。同じものを見ても、必ずしも同じようには感じない。そしてそのメンバーには、福田がサボっているように見えた。
次の日から、福田は練習に顔を出さなくなった。
練習に来なくなった福田の部屋に、同免木は何度も呼びに行った。直接「練習に来いよ」と言うことはなかったが、「おい、どうしたよ」と声をかけに何度も足を運んだ。
だが、福田が練習に来ることは一度もなかった。
そんなある日、県外の高校の監督が、練習を見に来てくれることがあった。その監督はもう何度も花園大を見に来ていたから、すぐに団体の変化に気づいた。
「おい、匠はどうした」。
ことのあらましを話すと、練習後に団体メンバーを食事に連れだした。それから、「アイツがいないと始まらんだろう。呼んで来い」と、福田を呼びに行かせた。練習には顔を出さなかったが、県外からわざわざ来てくれている監督に呼ばれたら、顔を出さざるを得ない。
部屋に呼びに行って事情を話すと、福田は食事の場にやってきた。食事を囲み、話をし、そして次の日からまた、練習に顔を出すようになった。要はきっかけが必要だったのだ。
このとき福田を呼びに行ったのも、同免木だった。
そして4年になり、主将になった福田が、今度はその立場に立っていた。「人をまとめるのは苦手なんで」「主将とか、向いてないっすね」。そう話しながら、福田はしっかりとその役割を果たしていた。その証に、決勝の日の朝を、同免木は完全に切り替えて迎えることができた。
<もう、何をしようがこれが最後の3分間だ>
そこにあったのは、予選での気負いとは違った種類の感情だった。
決勝の試技順は、予選の順位で決まる。そして花園大学の試技順は、ラストだった。つまり彼らが演技を終た時点で出た順位が、最終順位となる。
花園大学、とコールされ、福田が花園大学団体としての最後の返事をする。
「ハイッ」
位置につくと、流れ出すのはスピード感と緊張感のある曲。それに合わせた、花園大らしいシャープで一風変わった動き。それらが合わさることで、奇抜さと独自のセンスとが冴え渡った演技となる。
演技中、同免木は視野を極限まで広げて、メンバー5人の動きを捉えることに努めた。神経を研ぎ澄ませ、とにかく皆と動きを合わせることだけに集中した。すると途中から、観客席から聞こえていた声援が、だんだんと遠のいていくのがわかった。どこか離れた場所で応援の声が聞こえる。そんな感じだった。代わりに5人の呼吸だけが、異様に近くに感じた。だから彼は、それに合わせることだけにさらに意識を集中することができた。
見せ場である最初のタンブリングも、他にはないスピードある動きの組み合わせも、3つバックも、そして、鹿倒立も。ひとつひとつ確実に、成功を重ねた。集中状態を保ったままラストポーズをむかえ、演技は終わった。
フロアを出ると、皆で顔をつき合わせて口々に確認しあった。
「どうだった?」「ミスは?」「OKだった!」「OKやった!」
全員の「OK」をきいて、それからようやく、「ノーミスや!」となった。
緊張から解き放たれると同時に、急激に喜びが湧き上がって、メンバーで次々に抱き合った。と、今度は観客席から、どよめきとも、歓声ともつかない声があがった。点数が掲示されたのだ。電光掲示板は「28.625点」と表示した後、大きく最終順位を表示した。
『2th』
次の瞬間には、客席にいた花園大の部員が全員、フロアに駆け込んできた。もう誰が誰かもわからないくらいもみくちゃになりながら、でも全員が同じように喜び合って、抱き合った。
花園大学の、史上初の全日本選手権準優勝が確定した。
チームであるということは、時に楽しいが、面倒くさいものでもある。レギュラー争いもあるし、人間関係の齟齬だってある。練習など、その最たるものだ。
例えば、ある日の花園大での団体練習では、普段1時間で終わる練習を、4時間かけてやった。3分半の演技を、4つ程度のパート分割して行う「分習」、通常1パートあたり5~6本程度で終わらせるそれを、その日は1パートにつき最低20本やった。1パートあたり1時間はかかったというから、かける4で、4時間。肉体的にも、精神的にも激しく消耗するが、動きをあわせるには、それだけの労力が必要だ。
本番は本番で、同免木いわく「6人でやる分、責任も1人に6倍かかる」という。自分ひとりの失敗が、チームの点数に響く。大学での初めての大会では手が震えた。
だがそれでも大会に出たいのは、試合後の喜びがそれを遥かに凌駕するからだ。もう動きたくないほど疲れた次の日でも練習に向かってしまうのは、大会前日に一緒に銭湯に行くくらい、仲の良い仲間がいるからだ。そして何年も支えあってきた、同輩がいるからだ。
準優勝が決まった直後、同免木は話している。
「こいつが主将で良かった」
花園大学の創部以来初の、全日本選手権での準優勝。これは記録の上でももちろん、価値があることだ。だがきっとそれ以上に、彼らにとっては価値がある。
posted by reportage |03:12 |
花園大学 |
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2010年11月18日
“立っているだけで絵になる選手”
当時のジュニアチームの監督は、大舌恭平と出会った時の印象をこう語っている。
この最高のほめ言葉は、良くも悪くも、その後の大舌について回ることになる。
1年で全日本選手権準優勝を果たして以来、大舌には頭をもたげる、ひとつの思いがあった。
「名前で、点数が出ている」
後に大舌自身が、「自分は成績だけ見ると、高校時代の方がずっと良いんですよ」と話すように、高校時代の彼の実績は華々しいものだった。高校1年で個人で選抜大会優勝を勝ち取り、高校3年ではインターハイ優勝を果たしている。団体でも1年からレギュラー入りし、インターハイ優勝も経験した。当時のチームメイトには、谷本竜也がいる。高校時代、谷本がどうしても勝てなかった“同輩”は、大舌だった。
しかしそうした成績以上に、大舌の計算尽くされたような美しい体操は、評判だった。「構成作りは苦しいけど好き」だと話すように、周囲をわかせるように趣向をこらされた演技は、派手さがあって見ごたえ十分だった。ジュニア時代から「立っているだけで絵になる」大舌恭平という選手は、その演技と実績で、ちょっと名前を知られた存在だった。
大舌がそうした演技ができるのは、体操に対して並々ならぬこだわりがあること。そして周囲をわかせる構成作りができるのは、自分の演技を客観視することができるからだ。そして大舌が自分自身を客観的に見たとき、全日本選手権で準優勝をした演技は、彼の理想とはかけ離れたものだった。だから思った。「名前で点数が出ている」と。
そこからの彼の悩みは、成績が物語っていた。さすがに2ケタ順位はないものの、全国大会で、表彰台の高みは遠かった。自分の理想の演技ができず、順位は高校時代より落ちていた。自分のノーミスの演技よりも、ミスした他大学の選手に高得点出たりと、評価に対する不審に陥ったこともあった。
さらに、2年の終わりにはそんな彼に追い討ちをかけるようなことが起こった。
2008年の12月、全日本選手権の最終種目、種目別クラブの演技でのことだった。
映画「キル・ビル」の象徴的な曲で始まるその演技は、序盤に大きな見せ場がある。ダイビング前宙から、空中で体を開いて、伏臥の状態で着地する、ダイナミックな技だ。練習どおりに、勢いをつけて助走し、飛び上がり、両腕と膝とで着地した。すると一瞬の間があり、やがて大舌はゴロン、とフロアに倒れこんだ。客席から薄く、だが血の気の引くような女性客の悲鳴が上がった。大舌の腕が、本来曲がるほうとは逆に曲がっていた。
すぐにフロアから運び出された大舌は、手当てを受けると、そのまま高速バスで帰ることになった。負傷した右ひじは脱臼しており、全治1ヶ月。以前の怪我に比べれば大したことはないが―――ただでさえ悩みが深くなっていたところに、重なった怪我だった。悔しくてたまらなかった。
<また、練習が思い通りに行かなくなるのか―――>
大学1年の全日本選手権は、「名前で点数が出ていた」。そしてそれを変え、理想に近づくには、「自分の何かを変えなければならない」と大舌は考えていた。だが、その何かは3年になっても見つからなかった。
大舌は殊に新体操に関していえば、かなり頑固なほうだ。
ある時、大舌は周囲からこんなことを言われる。
「お前がやろうとしてること、審判は理解しないと思うよ」
それは、大舌の体操に対するこだわりがあまりに緻密で、繊細だったからだ。ジュニア時代の評価はもともと持っているものに依るのだろうが、少なくとも大学時代の体操の美しさは、彼の努力によるところが大きい。
斜前屈のつま先の角度、胸後反の腕の位置、一歩踏み出す時の足の運び。そうした彼の体操に対するこだわりは、監督が舌を巻くほどだった。そしてそれらのこだわりは、どれも点数として評価することの難しいものだった。
だが、大舌はそうしたことを変えるつもりはなかった。体操に関して言えば、審判がどう判断するかは、彼にとっては大した問題ではなかった。そうしたいから、そうする。もともと、大舌にはそういった頑なな部分があった。自分が納得しないことは、たとえ誰に何と言われても受け入れない。一見すると爽やかな好青年は、その心の中に絶対に譲らないものを持っていた。
その彼が自分を変えなければならないとすれば、それには相応の、理屈が要る。自分自身でこれまで新体操を突き詰めてきた彼にとって、それを見つけることは容易ではなかった。
そして、答えの見つからないまま、4年目を迎えた。
2010年、青森大で代替わりしてからの初めてのミーティング。大舌にとっては最終学年として迎えるミーティングだった。そこでは部員それぞれが今シーズンの目標を発表することなっていた。大舌は自分の番が回ってくると、きっぱりと言い放つ。
「自分は今年は、獲りにいきます」
その表情、言葉はまさに、ふっ切れたという言葉が当てはまるものだった。
「ふっ切れた」。4年になった大舌の言葉の変化は、まさにこの一言に尽きた。
名前で点数が出ていたこと。ノーミスの自分より、他大のミスした選手の方が点数が出ること。自分の理想の演技ができないこと。それらのことに、こう思うことで決着をつけた。
「自分がやるしかない」
周りに何も言われないよう、名前以上の演技ができるようにするには、それしかなかった。
彼は、自分の何かを変えなければ、とずっと考えてきた。だが彼が納得するような変えるべき何かは、見つけることができなかった。だが代わりに、彼すらも納得せざるを、悟らざるを得ない変化がやって来た。「時間がない」ということだ。
どんなに思い悩んでも、頑なになろうとも、タイムリミットにだけは抗うことができない。その悟らざるを得ない事実が、彼に「ハラをくくる」ような、一種の覚悟のようなものをもたせた。気づけば時間はなく、まさに考えている暇が惜しいほどに、「自分がやるしか」なかった。
変化はすぐに練習に、演技に、そして結果に表れた。
中田監督は大舌の性格をよく理解していたから、これまで「自分に必要ないと思ったら(指摘されたことでも)捨てろ」と話していた。彼が自分のやりたいことを持っている選手で、体操に強いこだわりを持っているということを知っているからだ。
だが、4年になってから、大舌は監督に指摘されたことは必ず、次までに処理、つまり習得してくるように努めた。そして実際、今シーズンに入ってから中田監督は大舌に二度、同じ指摘をすることはなかった。
一方で大舌の根本にある、「理想の演技」は変わらなかった。それが表れたのが、今年のインカレだった。2010年、全日本インカレでの彼の演技は、まさに「誰にも何も言わせない」演技だった。
ノーミスだとか、難度だとか、そういったことはもはや関係なかった。風を切る音がしそうなくらい、ダイナミックで大きな体操。情感たっぷりのしなやかな動き、かと思えば意表をつくようなダンスの動き。
本来は体操の動きのひとつでしかない、斜前屈だけで会場が沸くのだ。ふっと力を抜き、一気に後ろに屈みこみ、胸から引き上げるように、体を持ち上げる。たったそれだけの動きが、考え尽くされた角度、勢い、タイミングと視線が合わさることで、見せ場のひとつになる。
「お前がやろうとしてること、審判は理解しないと思うよ」
それすら受け入れて、その相手も魅了する。自分のやりたいことをやって、周囲を存分に沸かせる。彼の想いを全てかなえる、貪欲な演技だ。
大舌は2、3年での低迷が嘘のように、あっさりと表彰状の高みに立った。
だが、あの低迷は嘘ではない。周りの評価に悩んだことも、自分の理想と戦ったことも、怪我を克服したことも、ひとつひとつ、彼が自分自身と向き合って、乗り越えてきたことだ。今度は名前や、過去の実績ではない。今の彼が評価された結果の、優勝だ。
全日本選手権に向けて、大舌は日が近づくにつれて気合が入っていくのを感じているという。
だが、「気合は入っていくけど緊張はないです。やることは、変わらないので」と話す。
そう、やることは変わらない。彼の理想の演技―――彼ほどこだわりのある人間に理想を尋ねれば、おそらく言葉に尽きないだろうが―――つまり言ってしまえば「周囲を沸かせる演技」、それに向けて、努力をしていくのみだ。
思えば、アキレス腱を切った1ヵ月後に出場した東インカレで、最も会場を沸かせたのは、彼だった。点数などハナから分かりきっているのだから、演技をする必要などない。それでも、彼は演技をしてみせ、なおかつ会場を驚かせてみせた。あの頃から、彼の目指すところは点数よりも、周りを沸かせることにあった。
「やることは、変わらないので」。それはあの頃から、ずっとだ。
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2010年11月17日
2010年の全日本インカレで、大舌恭平は大学に入って初めてのタイトルを手にした。高校時代の実績からすれば、それは期待されたものがようやく手に入った、というような印象を受ける。が、そこまでの道のりは、なかなかに、奥深い。
大舌恭平の大学時代は、怪我とともに始まった。2007年4月4日。進学を決めた青森大学の入学式の前日。タンブリングの練習の最中のことだった。助走をつけて、踏み切った瞬間。
<あっ―――>
左足に何か違和感を覚え、そしてすぐにそれは激痛に変わった。次の瞬間にはもう、彼は立ち上がることができなくなっていた。その場で応急処置でダンボールで足を固定し、大舌はあわただしく中田監督の車で病院へと向かった。
「左足アキレス腱の断絶。競技復帰に半年、完全に演技できるようになるのに1年かかる」
それが医師の診断だった。それはつまり、1シーズンを丸々つぶすということだった。だがこの時、大舌はそうは考えていなっかった。
<逆に、絶対に早く治してやろう>
そんな一種の、意地のようなものが生まれていた。
それからが大変だった。大舌のリハビリや練習が、ということではない。周りがそれを止めるのが、大変だった。ろくに動けない状態で、大舌はとにかく練習をしたがった。膝下までギプスでガッチリと固定されたまま、何とか動く上半身の筋トレと、同じく上半身の動きの練習。文字にするとそれだけのことだが、それを大舌はとにかく怪我人と思えぬほどにやりこむのだ。
周囲、特に中田監督は、それを止めるのに腐心した。ギプスをしているということは、腱が再生するまでは動かさずにいる必要がある、ということで、さらにそれが本来故障している足首部分だけでなく、膝下までされている、ということは、それほどデリケートに扱わなければならない、ということでもある。少しの間違いで再断絶、ということもありえるのだ。
だから監督は、指導に使う力を10割とすると、1割を指導に、そして残りの9割を大舌の練習を止めることに使わねばならなかった。それほどの、練習量だった。
しかし幸いなことに、この年の最初の大会、東インカレは出場人数が少なかったため、出場さえすればふるいにかけられることなく、インカレに進むことができた。だから大舌に関して言えば、返事をしてフロアに入り、動作をひとつでもやってみせて、1点でも2点でも点数がもらえさえすれば、インカレに出ることができた。1種目それをやって、他を棄権したとしても、出場権は得られるのだ。
だから、東インカレでは動けなくとも、インカレに間に合えば良いだろう、というのが大方の見方だった。だが、そんな思惑とは裏腹に、練習を重ねるうちに大舌は手応えを感じていた。
<これなら、東インカレで少しは演技できるかな>
それから間もなく、彼は左足をかばうようにアレンジした演技を練習し始める。断絶からわずか1ヶ月ほどで、大舌は東インカレを迎えた。
大会当日、大舌は松葉杖をついて会場入りする。まだほとんど左足をついて歩くことができないのだ。相変わらずその部分はギプスでしっかりと固定されており、ジャージをはいていてもそれとわかる。ユニフォームを着ると、それはよりはっきりと分かった。
松葉杖をアップゾーンの近くに置くと、大舌は危なげな足取りでフロアに向かい、返事をすると、演技を始めた。
本来なら音楽もいらず、動作をひとつでも見せれば良いところを、曲に合わせて他の選手と同じように、1分半の演技を始めた。それは間違いなく、演技だった。
縄跳びは片足で飛び、シェネは右足を軸に回った。斜前屈や胸後反では、極力左足に負担をかけないように、それでいてその中で極限まで美しい体操をするよう、苦心のあとが見て取れた。
歩くことがままならないから、タンブリングはもちろん、移動すらほとんどない。それなのに、違和感こそあれ、窮屈さをまったく感じさせないのは、そこまで考えつくされた演技だからだ。片足にギプスをした状態で出場するというだけで異様なのに、それでここまでのクオリティの演技を見せ付けられるなど、誰もが予想していなかった。彼はこの調子で、4種目、全てをノーミスで通しきった。
しかし当然、タンブリングが入っていないから、どれも点数は5点に満たない。順位は22位。ただ、この大会で周囲をもっとも驚かせ、そしてある意味で沸かせたのは、間違いなく彼だった。
インカレ出場権をつかみ、再度診断を受けると、「タンブリングを蹴ることができるようになるまで、8ヶ月かかる」ということだった。だが、表向きは素直にその診断に耳を傾けながら、やはり大舌はこう考えていた。
<3日に1回は、蹴れるかな>
8月。3ヶ月前までは歩くことすらままならなかった男が、全日本インカレで5位入賞を果たした。そしてさらにその3ヶ月後、医師に言われたタンブリングの解禁までまだ2ヶ月ほど足りない状態で、大舌は1年にして全日本選手権で準優勝を果たした。
4年になった今、大舌は「自分は二十歳すぎてからは、大きな怪我はしてないんです」と話す。恐らく、この怪我から多くのことを学んだはずだ。怪我と戦うことはいかに労力を要するかを学び、その戦いは避けて通った方が賢いということを、身をもって学んだ。
だが、怪我を克服した大舌には、もうひとつ、超えるべき問題があった。それはある意味、怪我よりもずっと厄介なものだった。
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2010年11月13日
花園大学には現在、1年時にタイトルを手にした選手が2人いる。そのうちのひとりが、谷本竜也だ。細身の体躯で、体の線を美しく見せる丁寧な体操。スピード感と高さのあるタンブリングと、同じく高いジャンプでその身体能力を見せ付ける。演技に対する集中力が、審判を見つめる強い視線が、独特の雰囲気をかもし出す。
谷本はそうした魅力を強みに、大学1年、入学してわずか4ヶ月ほどで迎えた全日本インカレで、優勝をさらった。だが、その裏には、彼が「4年になった今でも忘れられないほどに、悔しい」と語る大会があった。
それは高校3年のインターハイの、県予選だった。
岡山県出身の谷本は中学時代、地元にあった男子新体操のジュニアチーム・井原ジュニアで新体操を始めた。当時から身体能力の高かった谷本は、何人かいた同級生の中でも特に優秀な選手で、ジュニアチームでは同輩に負けたことがなかった。が、高校に入ると一転、同級生がメキメキと力をつけ始め、気づくと高校2年のインターハイ、その個人での出場権は、ジュニア時代に常に負かしていた同輩が手にしていた。
ジュニアの時代からのチームメイトだから、同じ練習を、同じだけこなしているはずだった。谷本の身体能力は変わらず高かったし、タンブリングも得意で、体操だって負けているとは思えなかった。だが、谷本は自分が負けるようになった理由を知っていた。「構成力」だ。
ジュニア時代は監督に与えられた演技をこなすだけで良かった。だが、高校では自ら演技を作らなければならない。その、演技を作りこむことが、谷本はひどく苦手だった。そしてそれは、その名の通り「個」の表現力を発揮する場である個人においては、致命的とも言える弱点だった。
4年間、大学で個人選手として活躍していながら、谷本は「自分は手具操作が苦手で」「演技もつくれないし…」「本当は自分は団体向きなんですよね」などと、はにかみながら話す。確かに、個人選手は手具を操って見せるのが得意だったり、自分で表現したいものがあることが大前提にある。ならなぜ、谷本は大学で個人選手の道を選んだのか。
高校2年の夏。谷本は県予選でチームメイトに敗れて、インターハイ出場権を逃した。確かに、インターハイ出場を決めた同輩に比べると、自分の演技はつまらないものに思えた。彼の演技は素晴らく、常に自分や周りの高校生たちの、ひとつ先をいっているように思えた。そのよく作りこまれた演技と大きな体操は、すでに大学生のレベルに達しているようにすら見えた。
谷本は、毎日練習をともにすることで自分はその点では及ばないことを実感させられた。なら、どうするか。結論はひとつしかなかった。最後のインターハイ出場に向けて、谷本はかねがね評価されていた「身体能力」で勝負することにした。人よりも高いジャンプ力と、タンブリング能力を存分に見せつける。「とにかく動いて、動いて」、その一点をアピールすることを突き詰めた。
そして迎えた高校3年の初夏。谷本は県予選で高得点をたたき出し―――谷本と、去年インハイ出場を決めた同輩との同点優勝となった。
しかし、インターハイに出場できる個人選手は各県1名。同点優勝の場合は「種目別で最高得点を出した選手に」出場権は与えられることになっていた。
そしてそれは、谷本ではなかった。
県大会後、谷本は監督に声をかけられた。「お前、絶対大学でも新体操続けろよ」。
演技を作りこむことが、谷本はひどく苦手だった。そしてそれは個人選手にとっては致命的とも言える弱点だった。だがこの時、谷本は大学で個人を続けることを決めた。
その翌年の2007年。花園大学に入学した谷本は、多くの大学1年生が新しい練習に環境に戸惑う中、一人練習に没頭していた。彼自身、勝ちを意識したことはなかったが、高校時代のように「動いて、動いて」アピールする新体操に磨きをかけ続けた。結果、その年の全日本インカレで、同級生はおろか、上級生も押しのけて、1年にして優勝を果たした。
普段、花園大の体育館での谷本には、奔放というか、天真爛漫というか、純粋というか、そんな言葉が当てはまる。後輩にいたずらを仕掛けてみたり、突然デジカメを取り出して人を撮ってみたりする。真面目に大会の話をしたかと思えば、「ここ、見てください」と肘を見せて「こないだ洗濯してて、振り返ったらガーン!って洗濯機に肘ぶつけて…めっちゃくちゃ痛かったんです」なんてことまで真面目に話したりする。誰に対しても、何に対しても変わらず、自然だ。
そしてそれは新体操に対しても同じだ。
「楽天的な性格なので、(大会や練習も)みんなでワイワイ楽しんで。大会でも、自分の納得いく演技で終われればと思ってます」
大会ではいつも「心臓が飛び出るかと思う」ほどに緊張する。大会当日の朝など、おにぎり一口で吐き気をもよおすほどだ。
怪我で思うように練習ができなくなることも、やる気が出なくなることもある。そんな時は大会のDVDを見ることにしている。画面上を動き回る、様々な選手の、個性的な演技を見ていくうちに―――ああ、やっぱり自分は新体操が好きなんだなぁと思う。
構成づくりが苦手な谷本が大学で個人の道を選んだのは、高校時代の悔しさから。そして 「やっぱり、新体操が好きだ」から、だ。
大学3年頃から、谷本の演技には深みが出てきた。1、2年の頃のようなスピード感と勢いでかき回すような演技ではなく、体操ひとつひとつが成熟され、それだけで見せられるような選手になっていた。美しい体の線だけで、周囲を圧することができるようになっていた。
演技中、審判の真正面で手具を投げ上げ、技を入れてからキャッチするシーンがある。そのキャッチの瞬間、彼の目は手具を見ていない。審判をまっすぐに見据えたまま、「どうだ」とばかりに、強さと余裕をみせてキャッチするのだ。そのアピール力に、気圧される。それらはもう、テクニックのレベルではない。彼がジュニア時代から変わらず続けてきた基礎体操の練習や悔しかった経験、そして新体操が変わらず好きであること。そういったものによって作り上げられたものだ。
谷本は1年でインカレを制して以来、タイトルを手にしていない。「最後の全日本選手権での目標は?」という定型文の質問への回答は、決まり切っていると思っていた。
だから、彼の答えには面食らってしまった。
「最後の大会なので、自分が新体操が好きだってことを、みんなに伝えたいです」
それはなんとも、彼らしいものだった。
やはり彼は、奔放というか、天真爛漫というか―――いや、純粋なのだ。
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