2007年12月09日

青森山田高校 vol.5 -涙-(後)

 11月24日、東京体育館。

 国内最大にして年内最後の大会の、団体予選。あれだけの不運に見舞われ、苦境を乗り越えてきた青森山田だったが、ここでも運命はその手を緩めなかった。

 直美さんから、都内に良い針治療の病院はないかと連絡がきたのは、11月21日のことだった。全日本選手権に団体・個人での出場が決まっている、柴田が腰の痛みをうったえたのだという。会場の練習フロアでうつぶせになり、その苦痛に顔をゆがめる柴田の姿は、どんな会場でも人懐っこい笑顔を浮かべていた彼からは、あまりにもかけ離れていた。

 個人4種目を通すことすらギリギリの状態の彼に代わって、団体には急遽、3年の祝大地の弟、1年の祝陽平が入ることとなった。

 波乱含みの団体競技、その予選の幕が開いた。

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市船VS流経大柏



 結果からいえば、祝陽平は彼の責務を十分に果たしたといえる。急遽入ったにも関わらず、徒手の雰囲気はまったく衰えなかったし、全員での3つバックも遜色なかった。しかし、予選5位という決して悪くない結果は、大きな問題をはらんでいた。

「ジャパン(全日本選手権)では、国士館に勝ちたい」
この言葉は国体後、3年生から口々に聞かれた言葉だった。もしそれが実現すれば、大会史上初の快挙となる。

 団体予選を終えた時点での順位は1位青森大学、次いで国士館大、花園大学、中京大学と続いて、青森山田高校が第5位。目標とする国士館大学との差は0.287。4位中京大学との差は、わずか0.025だった。しかしわずかな点差とは裏腹に、荒川監督が表情を曇らせるのは、その順位のためだった。

 決勝の試技順は、予選の順位によって決定する。予選1位は決勝での試技順7番、2位は2番、という風に割り振られ、5位は試技順1番になることが決まっている。
 一番目の試技はそれ以降の演技の基準点となるため、どうしても点数が伸びない。加えて、祝陽平がよくやっているとはいえベストメンバーではない状態。インターハイで日の目を見なかった、あのユニフォームを着た場合、「ユニフォームの破損」と見なされ、ひとりにつき0.2点、6人で合計1.2の減点がされる。ユニフォームを着なければ或いは、大学生に勝てるかもしれない。

「史上初、国士館に勝つこと」

「史上初の、ユニフォームで演技に臨むこと」

どちらかを、選ばなければならなかった。


 予選の直後。事情を知る人が「決勝では着ますか?」と荒川監督にたずねると、「今夜、ゆっくり考えます」とだけ答えた。インターハイから、もう数ヶ月考えて続けてきた問題に、監督はこの一晩で答えを出さなければならなかった。

 実のところ、全日本であのユニフォームを着るか否かについては、かなり前から選手と監督の間で練習ノートを介して意見交換がなされていた。
「高校最後だから、国士館と勝負したい」
「いや、減点されても、あのユニフォームを着たい」
 現実的に考えて、1.2減点された状態で国士館と勝負することは難しい。論点は、どうしても「どちらを優先するか」に絞られた。

 前者の、あのユニフォームを着ずに、勝負すべきという意見の持ち主の筆頭が、山田と練習場を共にする青森大学の中田監督だった。そしてそれは4位と僅差で迎えた決勝前日も、変わらなかった。
「お前ら(大学生に)勝てるから、着ないで出ろ」

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 選手の間でも、決勝前日にも関わらず意見は割れた。私もこの晩、彼らがどのような決断を下したかは知らなかった。その結論は、多くの観客と同じように試合会場で知ることとなった。


 翌日、本番フロアに併設されたアップゾーンに、紫色のジャージの面々が姿を現す。
 普通、例の長パンの上に青森山田の比較的細身のジャージをはくと、ジャージの下から広がった裾が見えてしまう。アップ場での彼らのジャージからはそんなものは見えていなかった。だから私は荒川監督の言葉で初めて、その決断を知った。
「俺の“異端児”が完結する時がきたよ」


 青森山田は1.2の減点と引き換えに、男子新体操に新風を吹き込むことを選んだ。

 直前まで「脱ぐなよ」と荒川監督に念を押されていたジャージを脱ぐと、そこにはすらりと裾の広がった、ブーツカットの長パンがあった。
インターハイで日の目をみなかった、あのシャープで、上品な裁ち上がりのユニフォーム。フロアに立つと、周囲が少しざわめいた。
「アレ、良いの?」「いや、減点でしょう」
―――それでも、彼らはそれを選んだ。

市船VS流経大柏


 決勝前夜、ホテルでの話し合い。
 中田監督とともに、あのユニフォームを着ずに大学生と勝負することを主張したのは、3年の柴田だった。「あいつは客観的に判断するから」という荒川監督の言葉通り、予選の点差であれば大学生に勝てる、と見込んでの冷静な判断だった。しかし、他の6人の団体メンバーはユニフォームを着ることを選んだ。

 国士館に勝つこと、あのユニフォームを着て出場すること、どちらも十分な偉業である。どちらが凄い、どちらを優先すべき、という問題ではない。ただ強いていうならば、彼らは先を見越して、このユニフォームが主流になることを信じて、その先駆者になることを選んだのだ。


 決勝の演技は、文句なしのノーミスに、減点1.2点。曲・演技・ユニフォームがようやくそろった雰囲気たっぷりの演技は、事情を知らない観客から「なんで1.2も減点?」と不満の声が聞こえるほどの出来だった。

市船VS流経大柏


20071208 グラウベの一太刀、届かず


 試技終了後、そんな減点とは無関係に、青森山田の選手は誰もが晴れやかな表情だった。この決断は男子新体操と彼らにとって、マイナスされた1.2よりもはるかに価値のあるものとなった。

 選抜大会での柴田の団体起用に始まり、インターハイでのユニフォームの問題、国体直前の椎野の怪我、全日本直前になってのメンバーチェンジ―――あまりにも波乱に見舞われ続けた青森山田の今シーズンは、最後まで周囲をハラハラさせながら、それでもようやく、大団円を迎えた。


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 監督、選手、それぞれに得るものの多かった、それぞれに内容の濃い1年だった。

 ただ、流した涙の分だけ、彼らは周りより少しだけ、多くのものを手にしたのかもしれない。


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posted by reportage |16:37 | 青森山田高校 | コメント(2) | トラックバック(0)
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2007年12月08日

青森山田高校 vol.5 -涙-(中)

「直美さんの涙を無駄にしたくない」のだと、主将の柳は語る。


 事前に審判の承諾を得て、演技・曲・ユニフォームで勝負に臨んだ、臨もうとしたインターハイ。会場入りして、本番のまさに直前に出された審判からのNG。当事者でないものが意見をのべることははばかられるが、競技を束ねるものが十分な説明をせずにその態度を急変させたのだとしたら、それは競技のレベルを落とす、嘆かわしい行為だ。


 物別れに終わった話し合いの最後、審判が放った言葉。
「見た目じゃなく、中身で勝負してくれ」
 その言葉に、笑顔が印象的な直美さんが初めて涙を流すのを目にした。

 美しいフォルムだけではなく、選手への安全性の細部にまで気をくばったあのユニフォーム。青森山田の演技とともに、「男子新体操に新風を」という想いの下、多忙を極める合間をぬって彼女が考案したものだった。
 
 荒川監督が青森山田に就任してから、いや、尾坂監督が率いていた時代から、山田が一度だって「見た目で」勝ったことがあっただろうか。

 国体の優勝を決めたあの日。インターハイでの雪辱を晴らすかのような勝利の直後。その興奮に顔を上気させた荒川監督と握手を交わした。
 少し潤んだように見えた瞳でしっかりとこちらを見据えると、何よりも先にそれを言った。

「ジャパンでは、着るから。予選がんばって、決勝残って、減点されても良いから、着るから」

 熱い掌とその力強さが、決意を物語った。

 10月中旬、青森山田の体育館。
 椎野の怪我に関して言えば、正直なところ無理なんじゃないかと思っていた。怪我をしたのが9月半ば。全日本選手権は11月23日。動かさない筋肉は硬くなるからそのリハビリと、もちろん団体の練習期間を加味すると、1ヶ月半ほどで治さなければならない。医師に言われた期間の、半分である。

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 ところが、である。10月半ば、手術から2週間ほどでギプスはとれ、それから10日ほどたつと、すでに彼はタンブリング練習を始めていた。その回復のスピードは私や、恐らく周囲の予想をはるかに上回るものだった。

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 10月末日には医師に「もう本格的にやっても良いか」をたずねるつもりで、病院を訪れた。しかし医師からの「腕立て10回から初めてください」の言葉に、思わずその言葉を飲み込んだ。
 彼の強靭な意志に支えられた治癒力は、それほど驚異的だったのだ。


 “超回復”という言葉がある。筋肉の組織が激しい運動などによって破壊されると、次に回復するときにはそれ以前より強くなっている、というアレである。彼の場合、いかんせん本番まで期日が迫っていたため、回復がそのレベルまで達していたか定かではないが、精神は確実に“超回復”を遂げていた。
 
 国体直前、急遽メンバーチェンジを余儀なくされたことについて、柳は「(チームの状況は)苦しくなった」と語った後、「でも一番苦しいのは(椎野)健人なんで」と続けた。

 椎野が怪我をしたあの組みの練習で、土台をしていた柴田は「自分が土台だったんで、土台に責任があったのかと」と話した。しかし彼がそこまで気に病む風ではないのは「(椎野が)ああやって明るくふるまってくれて、その分こっちに力が出てくる」からなのだろう。

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 また怪我は、最終学年としての彼にも影響を与えた。それまでのように遠征についていくことができなくなった椎野は、必然的に「留守番組」として監督・レギュラー不在の部をまとめる存在となった。留守番組は、毎日監督にその日の報告の電話を入れるのだが、そのときの椎野は監督が驚くほどに、しっかりとした受け答えをするようになっていた。


 さらに、こんなことがあった。ある日、監督はこんな話を耳にする。椎野が、下級生を殴ったのだという。
 事情を聞くと、こうだった。2年生が、1年生に対して「レンタルビデオを返して来い」と使い走りにしようとしていた。それを見た椎野は2年生に意見した。それは違うだろう、と。1年生が出かけるついでなら良いが、そうでないなら、自分で借りたものは自分で返しに行くのが筋だろう、と。だが、2年生は不満の色を露にした。それで手が出た、というわけだった。
「だから、俺は怒んなかったよ。」と、荒川監督は振り返り、改めて「驚いた」と語った。


 椎野自身も怪我を経て「今まで自分に甘えがあったなと(気づいた)。辛いときでも踏ん張れるようになった」とその変化を実感しているようだった。

 怪我はまもなく団体に入ってもまったく遜色がないほどに回復した。

 11月24日、彼はリハビリ中に思い描いていた通りに、全日本のフロアに立っていた。


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2007年12月04日

青森山田高校vol.5 -涙-(前)

 今思えば、あのふたつの涙はこの日のために流されたのかもしれない。

 国体という高校の三大大会の締めくくりで、今年初めての優勝の二文字を獲得した青森山田高校。相次ぐ故障、不測の事態の連続に辛酸をなめつづけた今シーズン、ついに手に入れた栄冠。青森山田のメンバーは歓喜に沸き、閉会式でもその熱は冷めやらなかった。

 そんな中、式で整列するメンバーの姿を見ながら、彼はひとり、涙を流していた。

「どうして、自分はあの列に並んでいないのだろうか」―――。

 団体メンバー3年の椎野は、同じく3年の柳、祝(いわい)大地とともに、3月の選抜大会からレギュラーの座を守り続けていた。他の二人のようにチームを引っ張るタイプではなかったが、監督から「表には出さないけど、熱いものをもってる」と評されるように、静かに、それでも確かにチームを支え続けた存在だった。

 そんな彼が戦線を離れたのは今年9月中旬。組の練習中に、肘に強い痛みを覚えた。すぐさま病院にいくと、肘の肉が骨から剥がれていた。高校最後の国体を2週間後に控えた彼に下されたのは、全治3ヶ月の診断だった。

 チームメイトから「監督の前では静かで、冷静」と言われる彼が、その監督や看護師の目をはばからずにボロボロと涙をこぼした。
彼にとって最後となる国体出場の道は、完全に絶たれた。

 だが、これを単なるお涙頂戴の物語にはしないのが、彼の強さだった。絶望的な診断をうけ、寮への帰途につく彼の頭には、すでに別のビジョンがあった。


「自分はジャパン(全日本選手権)を目指そう。大学でも続けるから、これで終わったわけじゃない」
 ―――あの涙から、わずか1時間足らずの決意だった。

 国体直前の9月23日。フロアで目にしたのは左手に痛々しいギプスをした椎野と、彼に代わって急遽団体メンバー入りを果たした、1年の小林の姿だった。そこでの彼には、今まで感じたことのない存在感があった。

 自分のポジションをつとめる小林に積極的にアドバイスするのはもちろんのこと、最近動き出したという、1、2年の補欠組で構成された団体Bチームを、彼が率いていた。

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 もちろん、自身のリハビリにも精を出した。走りこみ、スクワットなど、自ら下半身強化のメニューを組んで実行した。国体を目指すチームメイトたちが練習する、そのフロアの片隅で、自分だけはひとつ先の全日本を目指して筋トレを続けた。荒川監督の勧めで、直美さんのダンスレッスンにも通い始めた。「基本のトコトン」を叩き込まれたそのレッスンは、決して激しい動きをるすわけではないのに、終わる頃には汗だくになった。
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 取材に訪れた日の2日後に、彼は剥がれた筋肉を骨につける手術を行うことになっていた。手術後は少なくとも2~3日入院しなければならないが、青森山田が国体に出発するのは、手術の翌日だった。

「国体は見たいってのはあったけど、逆に(小林)翔が“一生懸命やんなきゃ”って変に力入るのも嫌なんで」

 手術前は冷静にそう語っていたが、国体が近づくにつれてその冷静な判断とは別のところにある「熱いもの」がうずいた。


 ―――結局、秋田の国体会場には、術後間もない彼の姿があった。













 余談ではあるがそんな椎野のことともうひとつ、強烈に印象的だったのが、1年にして団体に入った小林がひとり、尋常ではないほどの汗をかいていたこと。彼は1年とはいえ、中学時代は全日本ジュニアで優勝を果たした、団体チームのキャプテンを務めた選手である。その彼が、ついていくのも精一杯の演技とは―――青森山田の演技がそれほどのレベルにあることを、改めて思い知らされた。

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posted by reportage |04:25 | 青森山田高校 | コメント(4) | トラックバック(0)
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