2007年06月25日

佐賀県立神埼清明高校(後)

5月上旬。訪れた神崎清明高校の練習を見ていてもっとも驚いたことは、その空気であった。


走りから始まって、柔軟、タンブリング練習と続く練習は、全52名が同じメニューを、同じ空気の下で行う。主将の岡原が声をかけると一斉に返ってくる選手達の返事には、迫力すらあった。



しかしそれが、団体練習に入ると一変する。



 団体演技の練習はレギュラー6名と、そのまわりで動く補欠の4名を中心に行われる。
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 この時は見せ場である組みの要、2年の久納が故障中で、完全な練習ができなかった。加えて、時期としても選抜大会が終わって、次の全国大会まではだいぶ間があいていた。


 しかしそれらを加味したとしても、レギュラーとその周りを含む10名と、それ以外の選手達の空気が、あまりに違いすぎる。





 団体と同じ動きをする選手もいれば、補強をする選手もいる。団体練習中、他の選手については「基本、自由」だという中山監督の言葉通り、正しく、「自由」なのである。
「レギュラーになりたいやつは、やれば良い」。言葉通りの、そんな雰囲気だった。
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 人数の多い部になると、レギュラーとその他のメンバーとの間の空気の違いが問題となる。どうしても乖離してしまうそれを、ひとつにまとめることが必要となる。他の選手はこののびのびとした空気の中で、ダレないのだろうか。それについて監督は一言、「ひっぱり方だね」。



 レギュラーは基本的に固定されているが、練習中にちょいちょい、選手を入れ替えるのだ。このときもレギュラーの木原が故障中だったこともあり、代わりに1年の亀川が練習に加わっていた。こうしたことを度々することで、周りの選手たちにも「自分にもチャンスがある」ということを示すことができ、士気が高まる。レギュラーにも危機感が生まれ、相乗効果が期待できる。

今回の木原の場合も、故障中ということと共に、彼の精神的な弱さの克服のため、競わせたという側面が強い。



 この空気の違いと、もうひとつ。驚いたことに、練習中、ほとんど中山監督の檄をきくことはなかった。




 かつては烈火のごとき檄が飛んでいたという。しかし今回の取材の間、私が監督の檄を聞いたのはたったの一度きりだった。

 なぜ、このような形にシフトしたのか。それについては「変えたのではなく、生徒が変わった」のだという。


 「生徒達の尻を叩いて叩いて練習させると、計算したとおりの結果がでる。しかしそうじゃなく生徒達自身でやらせると、計算外の、それ以上のものができる」
 昔は指示をして始めて動いた選手達が、そんな風に変わってきた。だから、「厳しくしなきゃいけないところで、あえて我慢」するのだという。




 生徒自身が理解してやる。「本当の、大学に近いような練習」。それがのびのびとした空気の本質であり、彼らが進化しようとしている、新しい神崎清明の姿だ。



 
 とはいえ空気に関して言えば、やはり大会前にはレギュラー中心の練習になり、他の選手がダレてしまうことがある。そういったときには「大会前に、みんなで話し合って」気持ちをひとつにするのだと、2年の田原(たばる)は語る。それもやはり、選手達が主体的に行っていることだ。

 着実に、その姿に近づいているようだ。




「ジャパン(全日本選手権)で高校生が大学生と勝負できるようにするのが理想」だと語る中山監督。かなり力強い言葉だが、結びの言葉は更にそれを感じさせる。


「徒手の違いはあるが、できると思ってる」


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 神埼の進化はもう、始まっている。その日がやってくるのも、そう遠くはないだろう。




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2007年06月24日

佐賀県立神埼清明高校(中)

 指導者を志してから13年目、中山監督はようやく高校教員になる機会に恵まれた。しかし配属された佐賀工業はまたしても男子新体操部のない学校であった。そこでの3年の経験を経て、ようやく念願の神埼清明高校の監督に就任したときには、すでに15年の月日が経っていた。

 「恩師と交代するかたちで、(部に)入った」というその言葉に、月日の長さを感じずにはいられない。
 

 月日の長さと言えば、この16年目の神埼清明新体操部への配属、奇しくも教育委員会時代に開いた新体操教室の一期生、当時小学2年生だった生徒と、時を同じくしての入部であった。



 このことは、監督がそれまで地道に撒いてきた種が、ようやく芽吹こうとしていることを象徴しているかのようだった。






 当時部員わずか4名だった神埼清明の新体操部だったが、その新体操教室一期生の入部で、一気に11名となった。人数の面では、これに加えて中学教員時代の経験が役に立った。

 当時から、神埼に中学校から選手を送ることを精力的に行ってきた中山監督だが、その当時の横のつながりから、神埼清明への進学を勧めてもらうことができた。その影響は絶大で、部の人数が最多の28名だったときには、そのほとんどが高校はじめの素人だった。

 多くの部が抱える最大の懸念材料・人数の確保は、神埼ではこのときすでに問題ではなくなっていた。




 そうして部を率いるようになった中山監督がまず始めにとりかかったことは、演技構成を変えることだった。
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 神埼清明高校新体操部は、歴史が長い。しかしそれが逆に、マンネリ化という状況を生んでいることに、監督は気づいていた。構成を「新しい」ものに変えるとともに、その翌年には香川の坂出工業高校出身の、神埼とは何の所縁もなかった松岡コーチを呼び寄せた。とにかく、「新しい風を入れたかった」。


 
 それからはもう、毎日毎日、激しい檄が飛んだ。そして「怒るときは本当に、殺すくらいの勢いで」と語られる当時の中山監督の指導と、それに喰らいついてきた選手達の努力は、かなり早い段階で日の目を見ることとなった。



 中山監督就任のその年に国体10位。その翌年にはなんと、同大会で優勝を果たしたのである。





 一度機能し始めた神埼清明の強さは、そこから衰えを知らなかった。監督就任翌年から、神埼が表彰台から姿を消した年はなかった。

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 結果が出始めれば、他がついてくるのにさほど時間は要さなかった。

 もともと女子新体操がさかんであった佐賀県である。県立とは思えぬほどに立派な体育館は、実績を評した県の協力によって建てられた。新しいエバーマットやフロアも、県の援助によるものである。数年前から、体育協会に設立されたトレーナー部会から、病院に勤める医師がトレーナーとして派遣されるようになった。
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 傍目にみれば瞬く間の大躍進。しかしそこに至るまでに15年の月日が費やされていることを、多くの人は知らない。




 教育委員会時代につくった新体操教室、中学教員時代につくった横のつながり、野球部監督時代に培った経験―――長い年月をかけたそれらがようやく形になった。


 卒業生も大学で活躍をみせ始め、神崎清明は新体操の名門として不動の地位を獲得した。記念すべき新体操教室一期生、その最年少だった少年は、気づけば青森大学の主将を務めていた(2007年現在)。






 長い時間をかけてつくり上げた部は、時間をかけた分だけ、成熟した。

 

 そしてここにきて、神崎清明は更に新しい形に姿を変えようとしている。





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2007年06月22日

佐賀県立神埼清明高校(前)

神埼清明高校を訪れたときの印象は、「整っているな」というものだった。

 県立とは思えぬほどに立派な専用体育館にはフロアが1面と半分ほど敷け、天井も十分に高い。そんなだだっ広い体育館の端に立って、めいっぱいカメラをひいてもファインダーに収まりきらない部員達は、小・中・高あわせて52名にもなる。
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 その周りには女子マネージャーが4名。掃除や飲み物の準備といった雑務から、倒立の回数などの練習の記録をとるなど、選手を支える。
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 加えて県のトレーナー部会から派遣されるトレーナーが、週に数回、、部活を訪れる。リハビリや柔軟の指導から、合宿時には食事メニューのアドバイスまで行われるというから、その環境は大学並みかそれ以上だ。
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 とにかく、すべてが整っている。そういう印象だった。







 中山監督について、少し話そう。というのはそれがすなわち、神埼清明がそこに至るまでの道程を示しているからである。





 多くの指導者がそうであるように、彼もまた神埼の監督に就任し、現在の部の形をつくるまでにはかなりの時間を要している。


 国士舘大学出身の中山監督は大学卒業後すぐに、指導者の道を志した。大学時代の自身を「練習嫌い」と言ってはばからない彼は、当時全日本選手権三連覇という偉業を成し遂げている。当時は本当に、「負ける気がしなかった」。

 それだけに、指導者を志してからの道のりは、臍を噛む思いだったに違いない。




 大学卒業後、指導者になるべく地元・佐賀県に戻った。しかし配属されたのは、男子新体操部のない中学校だった。


 そこで野球部をうけもつ傍らコーチとして神崎清明に通った。ただでさえ休みのない運動部を、ふたつも掛け持った状態。こうした生活が続いたのは数年の話ではない。実に12年間、この“二足のわらじ“の状態は続いた。

 しかしこの12年間、ただ神埼への異動を待ちながら過ごしていたわけではなかった。



 中学教員になって8年目の年、現場を離れて教育委員会に入ることとなった。そこにいる3年の間に、佐賀県に男子の新体操教室を開いた。最年少が小学2年生からなるそれは、近年でこそ各地に見られるようになった、男子新体操のジュニアチームの先駆けであった。

 自身がそうであるように、「男子は高校はじめ」が主流の新体操の中で、ジュニアから選手を育てようという考えは、当時としては先進的だった。




 また考え方も、この頃に大きな影響をうけた。
 野球部の監督に就任したが、自身の野球経験は中学校の3年間のみ。振り返るには遠すぎる。男子新体操の世界では「間違いなく、自信があった」中山監督だったが、そこでの実績がほとんど意味をなさない環境に長く身を置くこととなった。



「考え方の幅が広がった」「まっすぐに新体操に(指導者として)入っていたら、(今のように)勝ってない」




 全盛期には「ちょっとやって」勝てる自信があったし、実際にそれで結果を残してきた。新体操に関しては、確固たる自信があった。「負ける気がしなかった」といっていたほどの人である。その人にそこまで言わしめるこのときの経験は、当時の彼に幾ばくの影響を与えただろうか。



 新たな分野から得るものの多かった中学の8年間だったが、このとき監督は野球部を全国ベスト8に導いており、そこから甲子園出場選手も輩出している。大学での実績は意味を成さなくとも、そこで培ってきたことは間違いなく通用するものだった。多くの学びとともに、これまでの自身の指導に間違いはなかったのだと、確信した。



 そしてそれを立証するチャンスが、ようやく与えられようとしていた。



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2007年06月08日

小林工業vol.1-背負うもの(後)-

 これだけの想いがある。どうしても、他県に勝ちたい事情もある。そうした中で迎えた選抜大会。
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 会場入りしての公式練習中、本番を目前にしていやおうなく高まる気持ちとは裏腹に、時任は自身の鎖骨に激痛が走るのを感じていた。

 本番までは本当に、時間がなかった。





「全国大会でこの痛みのある状態で、自分の中でかなり追い詰められていた」



 絶対に勝ちたい事情がある。多くの人からの期待は、痛いほどに感じている。
 後にそう語る時任の心境は、察するにはあまりあるものだった。
 心身ともに追い詰められたこの状況で、彼は本番を迎える。








 それから一月。今にして思えば、と時任は話す。

「ラインオーバーは方向を確認していれば出なかった。倒立も、いま思えばビビッてやってた。思い切りやってれば、できたんじゃないかと思う」
 



 確かに、大会会場での彼は冷静さに欠けていたかもしれない。だからこれはミスの原因や言い訳としてではなく、ひとつの事実として知っておいてもらいたい。大会後になって初めて分かったことなのだが、この時、彼の鎖骨は折れていた。








 走りから始まった練習は、基本徒手、バランス・倒立、タンブリング練習、簡単な団体分習と続いた後、構成作りにはいる。その間、彼らは常に声を出し続ける――――いや、その姿は叫ぶ、と言ったほうが正しいかもしれない。
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 小林工業の卒業生で、一昨年まで青森大学の主将として活躍していた日高コーチは、選抜の結果についてこう語る。
「(団体)2位には納得いかない。でも逆に、勝たなくて良かったのかもしれない。そこで慢心しないために」



 練習中、ひときわ激しく、何度も何度も叫ぶのは主将の上畠。
 その姿は、3年間の想いと選抜での悔しさを決して忘れまいと、自身と周囲に言い聞かせているようだった。
 

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 この負けは確かに、彼らをまた強くした。









 構成作りでは「組み」と呼ばれる、接触を伴う大技を中心に構成を組み立てていく。

 その中で持ち上げられる役を引き受けるのは、チームの中で比較的体格の小さい、2年の有村だ。何度も何度も持ち上げられたり、逆さになったりを繰り返すため、その顔は血が上って真っ赤になる。
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 マットをくみ上げて、その上で組みの補助をするのは時任。

 積み上げたマットの高さは、2メートル以上になる。その上に立つとちょうど、体育館に高く掲げられた部旗を背負う形になる。
 






 毎日、練習の始めと終わりに挨拶をする部旗。

 彼が背負っているその二文字は、彼ら選手達と、そして監督がこれまで自身に課してきた言葉に、他ならない。

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posted by reportage |20:28 | 小林工業高校 | コメント(0) | トラックバック(0)
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2007年06月03日

小林工業vol.1-背負うもの(中)-

 宮崎県には男子新体操部のある中学校が3つある。高校でも「珍しい」と形容される男子新体操部は、中学になれば更に希少になる。そんな中で、一県に三校もの中学があることは、九州勢を「古豪」たらしめている所以である。なぜあえて「九州勢」という言い方をするかというと、それが必ずしも宮崎に、小林工業に安定した戦力をもたらす要因とはならないからである。



 数少ない中学での男子新体操経験者である。他県の高校、とりわけ私学などは黙っていない。全日本ジュニアなどで好成績をおさめた選手は全国からオファーをうけるし、彼らもまた、県外に出る気持ちが強くなる。結果、現在の小林工業の3年生は、地元中学から進学した4名のみとなった。
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 小林工業はここしばらく優勝から遠ざかっている。今年の3年生は、中学まで同じ地元で新体操をしていた同輩達が他県に行って優勝しているのを、何度となく見てきた。その姿を見た周囲の人間からの、「あのメンバーがみんな小林に入っていれば…」という言葉も耳にしてきた。
 その先に続く言葉は、彼らにはあまりに辛辣だ。


「大会で会うと、ライバル心がわく」と、3年の坂元は同輩について語った。
副主将の時任は「(同輩が)他県にいったことを考えると、絶対に負けたくない。自分達は地元でやっている仲間たちと、強い弱い関係なく、勝つんだ、という気持ちで」と、その心情を素直に語った。その言葉からは、悔しさと切なさとがない交ぜになったような、複雑な想いを感じた。そしてその想いは、部の総意でもあった。
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 小林工業では学年ごとに部誌を書くことになっている。その日の練習メニューと、感じたことなどを、選手達が毎日持ち回りで書くのだ。そこに「優勝」の二文字がおどるのを、何度も目にした。
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 その中で、選抜後におこなわれた祝賀会についてはこのように書いている。



「自分達の祝賀会には保護者や先生方、OBや地域の方々など100人近く来てくださって、とてもうれしかったです。
また、多くの方に応援の言葉をいただき、自分達がどれほど期待されているかが分かりました。
これからはその応援を一身に背負い、気を引きしめてがんばっていきたいです。」





 「今年の九州は強い」という言葉を取材で行く先々で聞いていた。それによるプレッシャーはあるか、とたずねると、2年の岩下はそれよりも「祝賀会で保護者やOBから応援の言葉をもらったことによるプレッシャーが大きい」と答えた。

 主将の上畠は「応援してくれる人の期待に、今年は絶対に、応えたい」と話した。“絶対”という言葉の力強さを改めて感じさせるような、そんな言い方だった。




 そんな多くの人の期待を背負う中で、彼らが誰よりもその期待に応えたいと感じている相手は、唯ひとりだろう。
「優勝して、必ず喜ばせたい」。3年の水久保がその言葉を向けるのは、永野監督に他ならない。
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 監督について選手達に尋ねると、その第一声は必ず「厳しい」といった類のものだった。そしてその後に必ず「けど、」と付け足してから、言葉がつづく。



「けど、自分達を勝たせるために一生懸命」
「けど、自分達を育ててくれる」
「けど、自分達を勝たせるために、がんばってくれてる」

 


 永野監督が小林工業に、単独で監督として就任したのは昨年のことだ。“単独で”というのは、それ以前は年長の監督とともにふたりで指導していたためである。

 
 正監督としての経験はわずか一年だが、常勤講師の時代を入れると9年、永野監督は小林工業の卒業生であるから、現役の頃を入れるともう12年、小林工業にいることになる。誰よりも小林工業を知っているし、思い入れはまた、強い。


 最近、監督は自腹でマイクロバスを購入した。遠方から来ている選手は、20時を過ぎると終電がなくなる。そうなったときに、選手を自宅に送り届けるために使われるのだ。
 

 OBから、「先生、もっと遊んでくださいよ」と言われるほどに部活一筋。「自分のために、金、使ってないんじゃないですかね」との声があるほどだ。「あんなにしてくれる人、なかなかいないですよ」。
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 選手の勝ちへのモチベーションが高い小林工業だが、それを維持するには指導者の更に高いモチベーションが必要になる。一日の間に監督は「絶対に、勝ちます」という言葉を何度口にしただろうか。そのモチベーションの源は何かと尋ねると、「選手の将来のため」と答えた。


 「勝てば生きていく上での自信になるし、たとえ負けたとしてもその努力は絶対に無駄にならない」。


 言ってまた、その日何度目かになる「絶対に、勝ちます」を口にした。



posted by reportage |20:22 | 小林工業高校 | コメント(3) | トラックバック(1)
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