2007年06月24日

佐賀県立神埼清明高校(中)

 指導者を志してから13年目、中山監督はようやく高校教員になる機会に恵まれた。しかし配属された佐賀工業はまたしても男子新体操部のない学校であった。そこでの3年の経験を経て、ようやく念願の神埼清明高校の監督に就任したときには、すでに15年の月日が経っていた。

 「恩師と交代するかたちで、(部に)入った」というその言葉に、月日の長さを感じずにはいられない。
 

 月日の長さと言えば、この16年目の神埼清明新体操部への配属、奇しくも教育委員会時代に開いた新体操教室の一期生、当時小学2年生だった生徒と、時を同じくしての入部であった。



 このことは、監督がそれまで地道に撒いてきた種が、ようやく芽吹こうとしていることを象徴しているかのようだった。






 当時部員わずか4名だった神埼清明の新体操部だったが、その新体操教室一期生の入部で、一気に11名となった。人数の面では、これに加えて中学教員時代の経験が役に立った。

 当時から、神埼に中学校から選手を送ることを精力的に行ってきた中山監督だが、その当時の横のつながりから、神埼清明への進学を勧めてもらうことができた。その影響は絶大で、部の人数が最多の28名だったときには、そのほとんどが高校はじめの素人だった。

 多くの部が抱える最大の懸念材料・人数の確保は、神埼ではこのときすでに問題ではなくなっていた。




 そうして部を率いるようになった中山監督がまず始めにとりかかったことは、演技構成を変えることだった。
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 神埼清明高校新体操部は、歴史が長い。しかしそれが逆に、マンネリ化という状況を生んでいることに、監督は気づいていた。構成を「新しい」ものに変えるとともに、その翌年には香川の坂出工業高校出身の、神埼とは何の所縁もなかった松岡コーチを呼び寄せた。とにかく、「新しい風を入れたかった」。


 
 それからはもう、毎日毎日、激しい檄が飛んだ。そして「怒るときは本当に、殺すくらいの勢いで」と語られる当時の中山監督の指導と、それに喰らいついてきた選手達の努力は、かなり早い段階で日の目を見ることとなった。



 中山監督就任のその年に国体10位。その翌年にはなんと、同大会で優勝を果たしたのである。





 一度機能し始めた神埼清明の強さは、そこから衰えを知らなかった。監督就任翌年から、神埼が表彰台から姿を消した年はなかった。

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 結果が出始めれば、他がついてくるのにさほど時間は要さなかった。

 もともと女子新体操がさかんであった佐賀県である。県立とは思えぬほどに立派な体育館は、実績を評した県の協力によって建てられた。新しいエバーマットやフロアも、県の援助によるものである。数年前から、体育協会に設立されたトレーナー部会から、病院に勤める医師がトレーナーとして派遣されるようになった。
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 傍目にみれば瞬く間の大躍進。しかしそこに至るまでに15年の月日が費やされていることを、多くの人は知らない。




 教育委員会時代につくった新体操教室、中学教員時代につくった横のつながり、野球部監督時代に培った経験―――長い年月をかけたそれらがようやく形になった。


 卒業生も大学で活躍をみせ始め、神崎清明は新体操の名門として不動の地位を獲得した。記念すべき新体操教室一期生、その最年少だった少年は、気づけば青森大学の主将を務めていた(2007年現在)。






 長い時間をかけてつくり上げた部は、時間をかけた分だけ、成熟した。

 

 そしてここにきて、神崎清明は更に新しい形に姿を変えようとしている。





posted by reportage |23:20 | 佐賀県立神埼清明高校 | コメント(3) | トラックバック(0)
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