2007年06月22日
佐賀県立神埼清明高校(前)
神埼清明高校を訪れたときの印象は、「整っているな」というものだった。 県立とは思えぬほどに立派な専用体育館にはフロアが1面と半分ほど敷け、天井も十分に高い。そんなだだっ広い体育館の端に立って、めいっぱいカメラをひいてもファインダーに収まりきらない部員達は、小・中・高あわせて52名にもなる。![]()
その周りには女子マネージャーが4名。掃除や飲み物の準備といった雑務から、倒立の回数などの練習の記録をとるなど、選手を支える。![]()
加えて県のトレーナー部会から派遣されるトレーナーが、週に数回、、部活を訪れる。リハビリや柔軟の指導から、合宿時には食事メニューのアドバイスまで行われるというから、その環境は大学並みかそれ以上だ。![]()
とにかく、すべてが整っている。そういう印象だった。 中山監督について、少し話そう。というのはそれがすなわち、神埼清明がそこに至るまでの道程を示しているからである。 多くの指導者がそうであるように、彼もまた神埼の監督に就任し、現在の部の形をつくるまでにはかなりの時間を要している。 国士舘大学出身の中山監督は大学卒業後すぐに、指導者の道を志した。大学時代の自身を「練習嫌い」と言ってはばからない彼は、当時全日本選手権三連覇という偉業を成し遂げている。当時は本当に、「負ける気がしなかった」。 それだけに、指導者を志してからの道のりは、臍を噛む思いだったに違いない。 大学卒業後、指導者になるべく地元・佐賀県に戻った。しかし配属されたのは、男子新体操部のない中学校だった。 そこで野球部をうけもつ傍らコーチとして神崎清明に通った。ただでさえ休みのない運動部を、ふたつも掛け持った状態。こうした生活が続いたのは数年の話ではない。実に12年間、この“二足のわらじ“の状態は続いた。 しかしこの12年間、ただ神埼への異動を待ちながら過ごしていたわけではなかった。 中学教員になって8年目の年、現場を離れて教育委員会に入ることとなった。そこにいる3年の間に、佐賀県に男子の新体操教室を開いた。最年少が小学2年生からなるそれは、近年でこそ各地に見られるようになった、男子新体操のジュニアチームの先駆けであった。 自身がそうであるように、「男子は高校はじめ」が主流の新体操の中で、ジュニアから選手を育てようという考えは、当時としては先進的だった。 また考え方も、この頃に大きな影響をうけた。 野球部の監督に就任したが、自身の野球経験は中学校の3年間のみ。振り返るには遠すぎる。男子新体操の世界では「間違いなく、自信があった」中山監督だったが、そこでの実績がほとんど意味をなさない環境に長く身を置くこととなった。 「考え方の幅が広がった」「まっすぐに新体操に(指導者として)入っていたら、(今のように)勝ってない」 全盛期には「ちょっとやって」勝てる自信があったし、実際にそれで結果を残してきた。新体操に関しては、確固たる自信があった。「負ける気がしなかった」といっていたほどの人である。その人にそこまで言わしめるこのときの経験は、当時の彼に幾ばくの影響を与えただろうか。 新たな分野から得るものの多かった中学の8年間だったが、このとき監督は野球部を全国ベスト8に導いており、そこから甲子園出場選手も輩出している。大学での実績は意味を成さなくとも、そこで培ってきたことは間違いなく通用するものだった。多くの学びとともに、これまでの自身の指導に間違いはなかったのだと、確信した。 そしてそれを立証するチャンスが、ようやく与えられようとしていた。
posted by reportage |23:04 |
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