2007年09月29日
チームとなった秋田選抜が訪れた9月の青森山田高校。フロアに立つ彼らに、尾坂・荒川両監督から「他県の高校にここまでするのか」というほどに、細かい指導、厳しい檄が飛ぶ。
それは二人の監督の面倒見の良い性格のせいでもあるだろうが、それ以上に、秋田選抜がそうさせるものをもっていた。指導を受けるときに、本当に「教わることが嬉しくてたまらない」という顔をするのだ。目は「何一つ、見落とさぬよう」と瞬きすら惜しむように話し手をまっすぐに見つめる。「話になんねぇ!」と怒声を浴びせられたり、「弱ぇなぁ~!」とあきれられても、終始、勢いのある気持ちの良い返事で応えた。彼らは怒られることがどんなに貴重かを知っていた。
こうなると、指導する側も思わず熱が入る。
尾坂監督は秋田の個人選手の細かい動きを指導しながら、ふと思い出したように「そういや、お前らキツイよなぁ」とつぶやいた。この時彼らは団体でタンブリングを入れた部分練習を3本、演技を前半・後半に分けた通しを各1本ずつ、それから個人の通しを1本、直後にタンブリング抜きの徒手通しを1本。それを終えて、今度は一人ずつじっくり個人の指導を受けているところだった。
一日の練習量としてはかなりのもの。しかしそれを忘れさせるほど、彼らの練習に対する熱意は衰えなかった。
「合宿が残り少ないので、全部吸収して、取りこぼしのないように。喰らいついていくように」。
チームリーダーの小林の言葉通りの練習だった。
初めて秋田選抜を見たときに「見るべきものがないと感じた」が、それは違っていた。あの時彼らは、途中から始まった青森大学の練習をともにし、体格がひと回りも大きい大学生に囲まれながら、必死に同じメニューをこなそうとしていた。倒立でフロアを一周する練習では、手首を痛め、手の平を床につくことができなかったために拳で倒立をした。大学生も途中で足をつく場面があった中、その彼はフロアの四分の三まで、足をつかずに進んだ。
「見るべきもの」は確かにあったのだ。欠けていたのは、私の観察眼だった。彼らはあの頃から、今と少しも変わらずひたむきだった。
確かに、強いチームには強いタンブリングと、美しい徒手がある。しかしその根本に何があるかといえば「強くなりたい」という欲求だ。彼らにはゆるぎないそれがある。
その根本ともいえることをを思い出させてくれた秋田選抜だが、選抜チームは国体が終われば解散する。
「国体が終われば、3年生と大友先生が抜けます。今までもみんなで集まってやってたので、その形に戻るだけです」
こともなげに小林は語る。しかしこれだけ教わることに飢えた選手たちが指導者を失うことは、胸が痛む現実である。
これまで地元国体に向けて、強化のためにその地域が指導者を呼び寄せる、というのはよくあるケースだった。しかし2008年を最後に休止されることが決まっている今、指導者の定着はますます難しくなる。彼らのような選手たちが指導者を見つけることは、さらに難しくなるだろう。
秋田選抜は以前うけたTV取材の中で、国体にむけてこうしたコメントを残している。
「(国体では)大友先生を泣かせるような演技がしたいです」
強い劣等感、悔しさ、厳しい練習にチーム内での衝突。それらを経てようやく形作られたチーム。しかし国体を最後に解散しなければならなにことは、避けられないことである。彼らがチームでいられる時間はもう、本当にわずかしかない。
今はせめて彼らのその思いが遂げられることを、願うことしかできない。
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2007年09月28日
事実、忘れていたのだ。強いタンブリングと美しい徒手、それがあるのが強いチーム。どこかにそんな思いがあったことにすら、気づかなかったのだ。今回そのことを思い出させてくれたチームがある。
9月下旬、国体直前の三連休。青森山田高校の体育館に、いつものメンバーとは別に、見慣れない8人の選手がいた。今回の国体開催地・秋田の選抜チームが合宿に来ていたのである。青森山田くらいの強豪校になると、他校から合宿を申し込まれることも珍しいことではない。実際、私が秋田選抜の選手に会うのも、二度目のことである。
前回彼らに会ったのも、同じ青森山田の体育館で、同じく合宿に来ているときだった。まだ寒い3月上旬の、私が初めて取材に訪れた日でもあった。
このときは初めての取材ということもあって、今回は青森山田の取材のみにしよう、と決めていた。しかし今にして思えば、少なからず当時の彼らに見るべきものがないと感じていた、というのもあったのかもしれない。今年地元国体を控えていながら、チームの始動がこの前年であることに対して「遅すぎる」という念もあった。
しかし、秋田の男子新体操部の状況がことのほか厳しいということを、そのとき私は知らなかった。部は団体などおよそ組めそうにない程度の人数が、県内のいくつかの高校にポツリ、ポツリといる程度の規模。今回の秋田選抜チームも、秋田工業から2名、秋田商業から2名、明桜高校から補欠を含む4名、秋田工専から1名の、正真正銘の混成チームだった。行事やテストの時期が違うため、思うように人数が集まらない日も多い。ましてチームの始動時期など、選手たちがどうこうできる問題ではなかった。
もともと人数の少ない彼らは、選抜チームが組まれるより前から練習をともにしていた。そのため、「秋田選抜」と銘うってから変わったことは、練習場がそれまでより広い「三菱マテリアル」という企業のものを使えるようになったことと、不定期ではあるが、国士舘出身の大友監督が指導に入るようになったことだけだった。
そうしてつくられた混成・秋田選抜が初めて青森山田に訪れた日、当時まだ曲もついていない彼らの団体を見て、青森山田の尾坂総監督がこう言ったのを覚えている。「内容がない」。
私も同感であった。演技構成がどうの、というよりかは、彼らが何を伝えたいか、演技のどこを見せたいのか、そういうものが伝わってこなかった。
それから、半年。同じ場所、同じシチュエーションで見る、まったく違う彼らの姿に私は驚かされることとなった。
まず、団体は構成がガラリと変わっていた。よく新体操の団体で、団体演技の形としてなっているか否か、ということを「見える」「見えない」といった表現をすることがあるのだが、彼らの団体は「見える」ようになっていた。以前は分からなかった見せたい部分が、「見える」ようになっていたのだ。
秋田選抜の個人はこのとき初めて目にしたのだが、それぞれ課題は多いものの、どれも勢いと、周囲にアピールしようという気持ちの見える演技だった。多く残る課題も、青森山田の荒川・尾坂両監督と大友監督の指導をうけるうちに、みるみる良くなっていくのである。
本当にあの時と同じチームだろうかと思うほどに見違える変化。それは、彼らの過ごした半年間の濃さを物語っていた。
昨年から大友監督のもと、始動した秋田選抜であるが、監督は彼らとは別の学校で教えている。そのため、練習に来られないことも少なくはなく、忙しくなると2~3週間も顔を出せないこともある。それでも彼らは監督の存在を「有り難いです」と話す。強豪校やそうでないところでさえ、毎日のように監督がいて、練習を見てもらえることが当たり前である。しかし彼らにはその「当たり前」が、貴重だった。
初めての青森山田での合宿は、秋田選抜にとって最初の合宿だった。そしてこの最初の合宿で、彼らは彼らの中だけで、静かにその心境に変化を迎えていた。
全国でもトップに名を連ねる青森山田と練習をともにして、タンブリング、徒手、何もかも違う自分たちを「下手だ」と実感した。だがそれはやがてふつふつと悔しさに姿を変えた。「悔しい」「追いつきたい」「負けたくない」―――そして、ひとつの結論にたどり着く。「ここは、開き直るしかない」
もともと指導に対する欲求は、有り余るほどにあったチームである。それに加えてこの「開き直り」は、この後につづく盛岡市立、埼玉栄、岡山精研、国士舘大での合宿を、より実のあるものへ変えた。「ガラリと」変わったように見えた団体は、合宿で行く先々で手直ししてもらうことで出来上がった。
無論、チーム全体の意思がそこに至るまで、大きなケンカも何度かあった。殴りあったことも、辞める、辞めないの話にまでなったこともあったが、そのたびに根気強く話し合った。そうやって過ごした半年間は、彼らを少しずつ「チーム」にした。
posted by reportage |12:30 |
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