2008年08月21日

神崎清明高校 -視線-

 箱根駅伝でその名を知られる、山梨学院大学陸上部の名将・上田監督が、こんなことを言っていた。
「人生においては何が起きるのかが問題ではなくて、起こったことをどう受け止めるかが大切だ」と。


 耳ざわりの良い胡弓の音色で始まる彼の演技は、柔らかな動きとキレの緩急が絶妙で、いつまでも見ていたいと思うような、心地よい演技だった。


 7月某日、京都は花園大学。演じるのは、合宿でこの地を訪れていた佐賀県神崎清明高校の、木原正憲。周囲を圧倒するのではなく、自然に空気を変えてしまうような演技に、見入った。

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 演技が終わると、花園大学のOBにつきっきりで教えを請う。一言、指摘を受けるごとにみるみる上達していく彼から、目が離せなくなった。以前の彼とは明らかに、何かが違っていた。

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 ふと、神埼清明の中山監督の「個人は勝ちたきゃ、勝手にやるから」という言葉が思い出された。神崎清明は個人に関しては、ほぼ選手に任せる形をとっている。その言葉通り、この変化が彼自身によって及ぼされたものだとするならば、それは――――それは、大したものだ。シャッターを切りながら、昨シーズンの彼に思いを馳せた。




 木原の第一印象は、真面目で繊細そうな子だな、ということだった。

 初めて彼に会ったのは07年の5月。線のきれいな、丁寧な演技をする彼の実際は、そのイメージと寸分も違わなかった。言葉を選びながら、慎重に、少し控えめに、でも聞かれたことに対しては的確に答えようと努めた。時折目が合うと、必ずツイと逸らされた。心なしか沈んで見えたのは、このとき彼が負っていた怪我のためだったかもしれない。


 彼は左ひざにジャンパー膝という、腱の炎症を抱え、団体メンバーから外れていた。しかし、中学から団体経験のある彼はチームには欠かせない存在であるし、何より神埼清明といえば全国大会での優勝格である。木原に関しても、インターハイまでには何とか仕上げてくるだろう、と思っていた。



 ――――が、間に合わなかった。07年のインターハイ直前、痛めていた膝に滑液包炎を併発。団体メンバーから外れることを余儀なくされた。彼の舞台は、秋の国体の場に持ち越された、はずだった。

 10月。秋田の国体会場に、木原は左足にギプスをはめて現れた。松葉杖をした彼は何度かこちらに気付いて目を向けたが、またすぐに目を背けた。膝の擦り傷にばい菌が入って化膿したのだという。膝の状態は、以前よりももっと悪かった。


 こうして2年の選抜以降を、彼は丸々棒に振った。そう、少なくとも傍目には、棒に振ったかのように思えた。


「人生においては何が起きるのかが問題ではなくて、起こったことをどう受け止めるかが大切だ」
 この言葉は、昨シーズンの彼を体現するものである。


 ほぼ1年間、団体から抜けていた木原は、ひとつ思ったことがあった。

「外から見た団体は、こんなだったのか」

 中学で新体操を始めてから、自分は常に“団体メンバー”の一員で、
怪我で抜けるまで、レギュラーから外れることなどなかった。思えば、こんな風に“外から”団体を見るのは、初めてじゃなかったか。

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 そんな風にして、彼は自分のいない団体演技から、新体操の新しい見方を知った。「新体操は、人に見せる競技なのだ」と、再認識した。以前から、聡いところのある選手だと思っていたが、この認識は彼の考えの根本に影響を与えることとなった。そしてそれは、彼自身の内にとどまらなかった。


 木原は団体メンバーのひとり、中学からのチームメイトで同じくチームの柱となる存在の田原丈嗣と、改まったミーティングを開いた。長い付き合いと、互いに実力を認め合った仲だったが、それだけに「言わなくても分かるだろう」という思いがあった。そしてその思いが緊密なコミュニケーションを邪魔していることに気が付いたのだ。

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 話し合い、「3年が声をだして、雰囲気を盛り上げて、ひっぱっていくチームをつくろう」と決めた。その内容よりも、話し合って決めたことが、大きな意味を持っていた。チームは改めて、ひとつになる。



 団体チームが通し練習をする前に、掲げる言葉がある。

「やるない、やろう!」

 佐賀弁のこの言葉には、「やるんだったら、一本で決めよう」という思いがこめられている。現在、チームのメンバーはそのほとんどが何らかの故障を抱えており、何本も通し練習をすればその分、体に負担がかかる。チームの状態を慮り、しかし勝つために妥協はしない、強い言葉である。

 満身創痍のチームには、鋼の心が宿る。

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 以前は、演技をこなすことで精一杯だった。その彼が今では「審判を越えて、客席まで伝わる演技がしたい」という。インターハイで、その思いは確かに伝わったはずだ。




 そしてそう話す木原は、今度は決して、視線を逸らさなかった。

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2007年06月25日

佐賀県立神埼清明高校(後)

5月上旬。訪れた神崎清明高校の練習を見ていてもっとも驚いたことは、その空気であった。


走りから始まって、柔軟、タンブリング練習と続く練習は、全52名が同じメニューを、同じ空気の下で行う。主将の岡原が声をかけると一斉に返ってくる選手達の返事には、迫力すらあった。



しかしそれが、団体練習に入ると一変する。



 団体演技の練習はレギュラー6名と、そのまわりで動く補欠の4名を中心に行われる。
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 この時は見せ場である組みの要、2年の久納が故障中で、完全な練習ができなかった。加えて、時期としても選抜大会が終わって、次の全国大会まではだいぶ間があいていた。


 しかしそれらを加味したとしても、レギュラーとその周りを含む10名と、それ以外の選手達の空気が、あまりに違いすぎる。





 団体と同じ動きをする選手もいれば、補強をする選手もいる。団体練習中、他の選手については「基本、自由」だという中山監督の言葉通り、正しく、「自由」なのである。
「レギュラーになりたいやつは、やれば良い」。言葉通りの、そんな雰囲気だった。
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 人数の多い部になると、レギュラーとその他のメンバーとの間の空気の違いが問題となる。どうしても乖離してしまうそれを、ひとつにまとめることが必要となる。他の選手はこののびのびとした空気の中で、ダレないのだろうか。それについて監督は一言、「ひっぱり方だね」。



 レギュラーは基本的に固定されているが、練習中にちょいちょい、選手を入れ替えるのだ。このときもレギュラーの木原が故障中だったこともあり、代わりに1年の亀川が練習に加わっていた。こうしたことを度々することで、周りの選手たちにも「自分にもチャンスがある」ということを示すことができ、士気が高まる。レギュラーにも危機感が生まれ、相乗効果が期待できる。

今回の木原の場合も、故障中ということと共に、彼の精神的な弱さの克服のため、競わせたという側面が強い。



 この空気の違いと、もうひとつ。驚いたことに、練習中、ほとんど中山監督の檄をきくことはなかった。




 かつては烈火のごとき檄が飛んでいたという。しかし今回の取材の間、私が監督の檄を聞いたのはたったの一度きりだった。

 なぜ、このような形にシフトしたのか。それについては「変えたのではなく、生徒が変わった」のだという。


 「生徒達の尻を叩いて叩いて練習させると、計算したとおりの結果がでる。しかしそうじゃなく生徒達自身でやらせると、計算外の、それ以上のものができる」
 昔は指示をして始めて動いた選手達が、そんな風に変わってきた。だから、「厳しくしなきゃいけないところで、あえて我慢」するのだという。




 生徒自身が理解してやる。「本当の、大学に近いような練習」。それがのびのびとした空気の本質であり、彼らが進化しようとしている、新しい神崎清明の姿だ。



 
 とはいえ空気に関して言えば、やはり大会前にはレギュラー中心の練習になり、他の選手がダレてしまうことがある。そういったときには「大会前に、みんなで話し合って」気持ちをひとつにするのだと、2年の田原(たばる)は語る。それもやはり、選手達が主体的に行っていることだ。

 着実に、その姿に近づいているようだ。




「ジャパン(全日本選手権)で高校生が大学生と勝負できるようにするのが理想」だと語る中山監督。かなり力強い言葉だが、結びの言葉は更にそれを感じさせる。


「徒手の違いはあるが、できると思ってる」


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 神埼の進化はもう、始まっている。その日がやってくるのも、そう遠くはないだろう。




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posted by reportage |22:08 | 佐賀県立神埼清明高校 | コメント(3) | トラックバック(0)
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2007年06月24日

佐賀県立神埼清明高校(中)

 指導者を志してから13年目、中山監督はようやく高校教員になる機会に恵まれた。しかし配属された佐賀工業はまたしても男子新体操部のない学校であった。そこでの3年の経験を経て、ようやく念願の神埼清明高校の監督に就任したときには、すでに15年の月日が経っていた。

 「恩師と交代するかたちで、(部に)入った」というその言葉に、月日の長さを感じずにはいられない。
 

 月日の長さと言えば、この16年目の神埼清明新体操部への配属、奇しくも教育委員会時代に開いた新体操教室の一期生、当時小学2年生だった生徒と、時を同じくしての入部であった。



 このことは、監督がそれまで地道に撒いてきた種が、ようやく芽吹こうとしていることを象徴しているかのようだった。






 当時部員わずか4名だった神埼清明の新体操部だったが、その新体操教室一期生の入部で、一気に11名となった。人数の面では、これに加えて中学教員時代の経験が役に立った。

 当時から、神埼に中学校から選手を送ることを精力的に行ってきた中山監督だが、その当時の横のつながりから、神埼清明への進学を勧めてもらうことができた。その影響は絶大で、部の人数が最多の28名だったときには、そのほとんどが高校はじめの素人だった。

 多くの部が抱える最大の懸念材料・人数の確保は、神埼ではこのときすでに問題ではなくなっていた。




 そうして部を率いるようになった中山監督がまず始めにとりかかったことは、演技構成を変えることだった。
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 神埼清明高校新体操部は、歴史が長い。しかしそれが逆に、マンネリ化という状況を生んでいることに、監督は気づいていた。構成を「新しい」ものに変えるとともに、その翌年には香川の坂出工業高校出身の、神埼とは何の所縁もなかった松岡コーチを呼び寄せた。とにかく、「新しい風を入れたかった」。


 
 それからはもう、毎日毎日、激しい檄が飛んだ。そして「怒るときは本当に、殺すくらいの勢いで」と語られる当時の中山監督の指導と、それに喰らいついてきた選手達の努力は、かなり早い段階で日の目を見ることとなった。



 中山監督就任のその年に国体10位。その翌年にはなんと、同大会で優勝を果たしたのである。





 一度機能し始めた神埼清明の強さは、そこから衰えを知らなかった。監督就任翌年から、神埼が表彰台から姿を消した年はなかった。

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 結果が出始めれば、他がついてくるのにさほど時間は要さなかった。

 もともと女子新体操がさかんであった佐賀県である。県立とは思えぬほどに立派な体育館は、実績を評した県の協力によって建てられた。新しいエバーマットやフロアも、県の援助によるものである。数年前から、体育協会に設立されたトレーナー部会から、病院に勤める医師がトレーナーとして派遣されるようになった。
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 傍目にみれば瞬く間の大躍進。しかしそこに至るまでに15年の月日が費やされていることを、多くの人は知らない。




 教育委員会時代につくった新体操教室、中学教員時代につくった横のつながり、野球部監督時代に培った経験―――長い年月をかけたそれらがようやく形になった。


 卒業生も大学で活躍をみせ始め、神崎清明は新体操の名門として不動の地位を獲得した。記念すべき新体操教室一期生、その最年少だった少年は、気づけば青森大学の主将を務めていた(2007年現在)。






 長い時間をかけてつくり上げた部は、時間をかけた分だけ、成熟した。

 

 そしてここにきて、神崎清明は更に新しい形に姿を変えようとしている。





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posted by reportage |23:20 | 佐賀県立神埼清明高校 | コメント(3) | トラックバック(0)
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2007年06月22日

佐賀県立神埼清明高校(前)

神埼清明高校を訪れたときの印象は、「整っているな」というものだった。

 県立とは思えぬほどに立派な専用体育館にはフロアが1面と半分ほど敷け、天井も十分に高い。そんなだだっ広い体育館の端に立って、めいっぱいカメラをひいてもファインダーに収まりきらない部員達は、小・中・高あわせて52名にもなる。
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 その周りには女子マネージャーが4名。掃除や飲み物の準備といった雑務から、倒立の回数などの練習の記録をとるなど、選手を支える。
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 加えて県のトレーナー部会から派遣されるトレーナーが、週に数回、、部活を訪れる。リハビリや柔軟の指導から、合宿時には食事メニューのアドバイスまで行われるというから、その環境は大学並みかそれ以上だ。
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 とにかく、すべてが整っている。そういう印象だった。







 中山監督について、少し話そう。というのはそれがすなわち、神埼清明がそこに至るまでの道程を示しているからである。





 多くの指導者がそうであるように、彼もまた神埼の監督に就任し、現在の部の形をつくるまでにはかなりの時間を要している。


 国士舘大学出身の中山監督は大学卒業後すぐに、指導者の道を志した。大学時代の自身を「練習嫌い」と言ってはばからない彼は、当時全日本選手権三連覇という偉業を成し遂げている。当時は本当に、「負ける気がしなかった」。

 それだけに、指導者を志してからの道のりは、臍を噛む思いだったに違いない。




 大学卒業後、指導者になるべく地元・佐賀県に戻った。しかし配属されたのは、男子新体操部のない中学校だった。


 そこで野球部をうけもつ傍らコーチとして神崎清明に通った。ただでさえ休みのない運動部を、ふたつも掛け持った状態。こうした生活が続いたのは数年の話ではない。実に12年間、この“二足のわらじ“の状態は続いた。

 しかしこの12年間、ただ神埼への異動を待ちながら過ごしていたわけではなかった。



 中学教員になって8年目の年、現場を離れて教育委員会に入ることとなった。そこにいる3年の間に、佐賀県に男子の新体操教室を開いた。最年少が小学2年生からなるそれは、近年でこそ各地に見られるようになった、男子新体操のジュニアチームの先駆けであった。

 自身がそうであるように、「男子は高校はじめ」が主流の新体操の中で、ジュニアから選手を育てようという考えは、当時としては先進的だった。




 また考え方も、この頃に大きな影響をうけた。
 野球部の監督に就任したが、自身の野球経験は中学校の3年間のみ。振り返るには遠すぎる。男子新体操の世界では「間違いなく、自信があった」中山監督だったが、そこでの実績がほとんど意味をなさない環境に長く身を置くこととなった。



「考え方の幅が広がった」「まっすぐに新体操に(指導者として)入っていたら、(今のように)勝ってない」




 全盛期には「ちょっとやって」勝てる自信があったし、実際にそれで結果を残してきた。新体操に関しては、確固たる自信があった。「負ける気がしなかった」といっていたほどの人である。その人にそこまで言わしめるこのときの経験は、当時の彼に幾ばくの影響を与えただろうか。



 新たな分野から得るものの多かった中学の8年間だったが、このとき監督は野球部を全国ベスト8に導いており、そこから甲子園出場選手も輩出している。大学での実績は意味を成さなくとも、そこで培ってきたことは間違いなく通用するものだった。多くの学びとともに、これまでの自身の指導に間違いはなかったのだと、確信した。



 そしてそれを立証するチャンスが、ようやく与えられようとしていた。



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posted by reportage |23:04 | 佐賀県立神埼清明高校 | コメント(0) | トラックバック(1)
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