2010年11月18日

頂点の先 ―2.変わらないこと(後)―

“立っているだけで絵になる選手”
当時のジュニアチームの監督は、大舌恭平と出会った時の印象をこう語っている。
 この最高のほめ言葉は、良くも悪くも、その後の大舌について回ることになる。
 
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 1年で全日本選手権準優勝を果たして以来、大舌には頭をもたげる、ひとつの思いがあった。
「名前で、点数が出ている」
 後に大舌自身が、「自分は成績だけ見ると、高校時代の方がずっと良いんですよ」と話すように、高校時代の彼の実績は華々しいものだった。高校1年で個人で選抜大会優勝を勝ち取り、高校3年ではインターハイ優勝を果たしている。団体でも1年からレギュラー入りし、インターハイ優勝も経験した。当時のチームメイトには、谷本竜也がいる。高校時代、谷本がどうしても勝てなかった“同輩”は、大舌だった。


 しかしそうした成績以上に、大舌の計算尽くされたような美しい体操は、評判だった。「構成作りは苦しいけど好き」だと話すように、周囲をわかせるように趣向をこらされた演技は、派手さがあって見ごたえ十分だった。ジュニア時代から「立っているだけで絵になる」大舌恭平という選手は、その演技と実績で、ちょっと名前を知られた存在だった。



 
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 大舌がそうした演技ができるのは、体操に対して並々ならぬこだわりがあること。そして周囲をわかせる構成作りができるのは、自分の演技を客観視することができるからだ。そして大舌が自分自身を客観的に見たとき、全日本選手権で準優勝をした演技は、彼の理想とはかけ離れたものだった。だから思った。「名前で点数が出ている」と。


 そこからの彼の悩みは、成績が物語っていた。さすがに2ケタ順位はないものの、全国大会で、表彰台の高みは遠かった。自分の理想の演技ができず、順位は高校時代より落ちていた。自分のノーミスの演技よりも、ミスした他大学の選手に高得点出たりと、評価に対する不審に陥ったこともあった。
 さらに、2年の終わりにはそんな彼に追い討ちをかけるようなことが起こった。

 

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 2008年の12月、全日本選手権の最終種目、種目別クラブの演技でのことだった。
 映画「キル・ビル」の象徴的な曲で始まるその演技は、序盤に大きな見せ場がある。ダイビング前宙から、空中で体を開いて、伏臥の状態で着地する、ダイナミックな技だ。練習どおりに、勢いをつけて助走し、飛び上がり、両腕と膝とで着地した。すると一瞬の間があり、やがて大舌はゴロン、とフロアに倒れこんだ。客席から薄く、だが血の気の引くような女性客の悲鳴が上がった。大舌の腕が、本来曲がるほうとは逆に曲がっていた。


 すぐにフロアから運び出された大舌は、手当てを受けると、そのまま高速バスで帰ることになった。負傷した右ひじは脱臼しており、全治1ヶ月。以前の怪我に比べれば大したことはないが―――ただでさえ悩みが深くなっていたところに、重なった怪我だった。悔しくてたまらなかった。
<また、練習が思い通りに行かなくなるのか―――>

 
 大学1年の全日本選手権は、「名前で点数が出ていた」。そしてそれを変え、理想に近づくには、「自分の何かを変えなければならない」と大舌は考えていた。だが、その何かは3年になっても見つからなかった。


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 大舌は殊に新体操に関していえば、かなり頑固なほうだ。
 ある時、大舌は周囲からこんなことを言われる。
「お前がやろうとしてること、審判は理解しないと思うよ」
 それは、大舌の体操に対するこだわりがあまりに緻密で、繊細だったからだ。ジュニア時代の評価はもともと持っているものに依るのだろうが、少なくとも大学時代の体操の美しさは、彼の努力によるところが大きい。
 斜前屈のつま先の角度、胸後反の腕の位置、一歩踏み出す時の足の運び。そうした彼の体操に対するこだわりは、監督が舌を巻くほどだった。そしてそれらのこだわりは、どれも点数として評価することの難しいものだった。


 だが、大舌はそうしたことを変えるつもりはなかった。体操に関して言えば、審判がどう判断するかは、彼にとっては大した問題ではなかった。そうしたいから、そうする。もともと、大舌にはそういった頑なな部分があった。自分が納得しないことは、たとえ誰に何と言われても受け入れない。一見すると爽やかな好青年は、その心の中に絶対に譲らないものを持っていた。

 その彼が自分を変えなければならないとすれば、それには相応の、理屈が要る。自分自身でこれまで新体操を突き詰めてきた彼にとって、それを見つけることは容易ではなかった。
 そして、答えの見つからないまま、4年目を迎えた。


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 2010年、青森大で代替わりしてからの初めてのミーティング。大舌にとっては最終学年として迎えるミーティングだった。そこでは部員それぞれが今シーズンの目標を発表することなっていた。大舌は自分の番が回ってくると、きっぱりと言い放つ。
「自分は今年は、獲りにいきます」
 その表情、言葉はまさに、ふっ切れたという言葉が当てはまるものだった。

 「ふっ切れた」。4年になった大舌の言葉の変化は、まさにこの一言に尽きた。
 名前で点数が出ていたこと。ノーミスの自分より、他大のミスした選手の方が点数が出ること。自分の理想の演技ができないこと。それらのことに、こう思うことで決着をつけた。
「自分がやるしかない」
 周りに何も言われないよう、名前以上の演技ができるようにするには、それしかなかった。
 彼は、自分の何かを変えなければ、とずっと考えてきた。だが彼が納得するような変えるべき何かは、見つけることができなかった。だが代わりに、彼すらも納得せざるを、悟らざるを得ない変化がやって来た。「時間がない」ということだ。


 どんなに思い悩んでも、頑なになろうとも、タイムリミットにだけは抗うことができない。その悟らざるを得ない事実が、彼に「ハラをくくる」ような、一種の覚悟のようなものをもたせた。気づけば時間はなく、まさに考えている暇が惜しいほどに、「自分がやるしか」なかった。


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 変化はすぐに練習に、演技に、そして結果に表れた。
 中田監督は大舌の性格をよく理解していたから、これまで「自分に必要ないと思ったら(指摘されたことでも)捨てろ」と話していた。彼が自分のやりたいことを持っている選手で、体操に強いこだわりを持っているということを知っているからだ。
 だが、4年になってから、大舌は監督に指摘されたことは必ず、次までに処理、つまり習得してくるように努めた。そして実際、今シーズンに入ってから中田監督は大舌に二度、同じ指摘をすることはなかった。


 一方で大舌の根本にある、「理想の演技」は変わらなかった。それが表れたのが、今年のインカレだった。2010年、全日本インカレでの彼の演技は、まさに「誰にも何も言わせない」演技だった。


 ノーミスだとか、難度だとか、そういったことはもはや関係なかった。風を切る音がしそうなくらい、ダイナミックで大きな体操。情感たっぷりのしなやかな動き、かと思えば意表をつくようなダンスの動き。


 本来は体操の動きのひとつでしかない、斜前屈だけで会場が沸くのだ。ふっと力を抜き、一気に後ろに屈みこみ、胸から引き上げるように、体を持ち上げる。たったそれだけの動きが、考え尽くされた角度、勢い、タイミングと視線が合わさることで、見せ場のひとつになる。
「お前がやろうとしてること、審判は理解しないと思うよ」
 それすら受け入れて、その相手も魅了する。自分のやりたいことをやって、周囲を存分に沸かせる。彼の想いを全てかなえる、貪欲な演技だ。


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 大舌は2、3年での低迷が嘘のように、あっさりと表彰状の高みに立った。
 だが、あの低迷は嘘ではない。周りの評価に悩んだことも、自分の理想と戦ったことも、怪我を克服したことも、ひとつひとつ、彼が自分自身と向き合って、乗り越えてきたことだ。今度は名前や、過去の実績ではない。今の彼が評価された結果の、優勝だ。

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 全日本選手権に向けて、大舌は日が近づくにつれて気合が入っていくのを感じているという。
 だが、「気合は入っていくけど緊張はないです。やることは、変わらないので」と話す。
 そう、やることは変わらない。彼の理想の演技―――彼ほどこだわりのある人間に理想を尋ねれば、おそらく言葉に尽きないだろうが―――つまり言ってしまえば「周囲を沸かせる演技」、それに向けて、努力をしていくのみだ。


 思えば、アキレス腱を切った1ヵ月後に出場した東インカレで、最も会場を沸かせたのは、彼だった。点数などハナから分かりきっているのだから、演技をする必要などない。それでも、彼は演技をしてみせ、なおかつ会場を驚かせてみせた。あの頃から、彼の目指すところは点数よりも、周りを沸かせることにあった。
 「やることは、変わらないので」。それはあの頃から、ずっとだ。


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2010年11月17日

頂点の先 ―2.変わらないこと(前)―

 2010年の全日本インカレで、大舌恭平は大学に入って初めてのタイトルを手にした。高校時代の実績からすれば、それは期待されたものがようやく手に入った、というような印象を受ける。が、そこまでの道のりは、なかなかに、奥深い。


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 大舌恭平の大学時代は、怪我とともに始まった。2007年4月4日。進学を決めた青森大学の入学式の前日。タンブリングの練習の最中のことだった。助走をつけて、踏み切った瞬間。
<あっ―――>
 左足に何か違和感を覚え、そしてすぐにそれは激痛に変わった。次の瞬間にはもう、彼は立ち上がることができなくなっていた。その場で応急処置でダンボールで足を固定し、大舌はあわただしく中田監督の車で病院へと向かった。

 「左足アキレス腱の断絶。競技復帰に半年、完全に演技できるようになるのに1年かかる」
 それが医師の診断だった。それはつまり、1シーズンを丸々つぶすということだった。だがこの時、大舌はそうは考えていなっかった。
<逆に、絶対に早く治してやろう>
 そんな一種の、意地のようなものが生まれていた。


 それからが大変だった。大舌のリハビリや練習が、ということではない。周りがそれを止めるのが、大変だった。ろくに動けない状態で、大舌はとにかく練習をしたがった。膝下までギプスでガッチリと固定されたまま、何とか動く上半身の筋トレと、同じく上半身の動きの練習。文字にするとそれだけのことだが、それを大舌はとにかく怪我人と思えぬほどにやりこむのだ。


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 周囲、特に中田監督は、それを止めるのに腐心した。ギプスをしているということは、腱が再生するまでは動かさずにいる必要がある、ということで、さらにそれが本来故障している足首部分だけでなく、膝下までされている、ということは、それほどデリケートに扱わなければならない、ということでもある。少しの間違いで再断絶、ということもありえるのだ。


 だから監督は、指導に使う力を10割とすると、1割を指導に、そして残りの9割を大舌の練習を止めることに使わねばならなかった。それほどの、練習量だった。

 しかし幸いなことに、この年の最初の大会、東インカレは出場人数が少なかったため、出場さえすればふるいにかけられることなく、インカレに進むことができた。だから大舌に関して言えば、返事をしてフロアに入り、動作をひとつでもやってみせて、1点でも2点でも点数がもらえさえすれば、インカレに出ることができた。1種目それをやって、他を棄権したとしても、出場権は得られるのだ。


 だから、東インカレでは動けなくとも、インカレに間に合えば良いだろう、というのが大方の見方だった。だが、そんな思惑とは裏腹に、練習を重ねるうちに大舌は手応えを感じていた。
<これなら、東インカレで少しは演技できるかな>
 それから間もなく、彼は左足をかばうようにアレンジした演技を練習し始める。断絶からわずか1ヶ月ほどで、大舌は東インカレを迎えた。

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 大会当日、大舌は松葉杖をついて会場入りする。まだほとんど左足をついて歩くことができないのだ。相変わらずその部分はギプスでしっかりと固定されており、ジャージをはいていてもそれとわかる。ユニフォームを着ると、それはよりはっきりと分かった。
 松葉杖をアップゾーンの近くに置くと、大舌は危なげな足取りでフロアに向かい、返事をすると、演技を始めた。
 本来なら音楽もいらず、動作をひとつでも見せれば良いところを、曲に合わせて他の選手と同じように、1分半の演技を始めた。それは間違いなく、演技だった。


 縄跳びは片足で飛び、シェネは右足を軸に回った。斜前屈や胸後反では、極力左足に負担をかけないように、それでいてその中で極限まで美しい体操をするよう、苦心のあとが見て取れた。
 歩くことがままならないから、タンブリングはもちろん、移動すらほとんどない。それなのに、違和感こそあれ、窮屈さをまったく感じさせないのは、そこまで考えつくされた演技だからだ。片足にギプスをした状態で出場するというだけで異様なのに、それでここまでのクオリティの演技を見せ付けられるなど、誰もが予想していなかった。彼はこの調子で、4種目、全てをノーミスで通しきった。


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 しかし当然、タンブリングが入っていないから、どれも点数は5点に満たない。順位は22位。ただ、この大会で周囲をもっとも驚かせ、そしてある意味で沸かせたのは、間違いなく彼だった。
 インカレ出場権をつかみ、再度診断を受けると、「タンブリングを蹴ることができるようになるまで、8ヶ月かかる」ということだった。だが、表向きは素直にその診断に耳を傾けながら、やはり大舌はこう考えていた。
<3日に1回は、蹴れるかな>


 8月。3ヶ月前までは歩くことすらままならなかった男が、全日本インカレで5位入賞を果たした。そしてさらにその3ヶ月後、医師に言われたタンブリングの解禁までまだ2ヶ月ほど足りない状態で、大舌は1年にして全日本選手権で準優勝を果たした。




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 4年になった今、大舌は「自分は二十歳すぎてからは、大きな怪我はしてないんです」と話す。恐らく、この怪我から多くのことを学んだはずだ。怪我と戦うことはいかに労力を要するかを学び、その戦いは避けて通った方が賢いということを、身をもって学んだ。

 だが、怪我を克服した大舌には、もうひとつ、超えるべき問題があった。それはある意味、怪我よりもずっと厄介なものだった。


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2010年07月16日

価値ある気づき

 今年5月に行われた東日本新体操選手権。サブ会場では、数人の個人選手が軽く体を動かし、演技の確認をしていた。中には談笑していたり、寝転んでいたりする者もいたから、その場の空気は比較的リラックスしていた。その中に、福士祐介の姿を見つけることができた。



 手具を投げ上げ、受け取り、鏡の前で動きの確認をしたりする。その姿をよくよく見ると、ちょっとした変化に気づく。目元が、違う。まぶたのところに、目の輪郭を強調するような、グレーの影が入れられている。つまり、化粧をしているのだ。



 聞けば、本番直前になって、中田監督に「お前は目力(めぢから)がなくて表情がないから、化粧でもしてもらえ」と言われて、直美コーチにアイシャドウをしてもらったのだという。女子の新体操では化粧は一般的だが、男子でしている選手は皆無だ。が、福士のそれは案外としっくりきていた。



 もともと鋭い形の瞳は、隈取のように輪郭をとられることでさらに鋭さを増した。曲に合わせてキリリとこちらを見つめられると、まさに射抜かれるような視線から目が逸らせなくなった。



 多くの選手に見られる中、男子でたったひとり化粧をするなど、なかなか勇気のいることだ。実際、「お前もやれ」と中田監督に指示されていたもう一人の選手は、嫌がってこれをしなかった。なかなかの覚悟だ、と思った。



 だが今思えば、それは「覚悟」とか「決意」とか、そういった堅苦しいものではなかったのだ。福士にとっては、小さな「気づき」のひとつだったように思える。



 大きかったのは、それに「彼が」気づいたということだ。



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 福士が新体操を始めたのは小学校2年生の時。「体を動かしたかった」という漠然とした理由だったから、正直、種目にはこだわりはなく、たまたま縁があったのが新体操だった。それだけのことだった。


 しかしやってみると案外楽しくて、特に個人が好きになった。団体に混ざってみることもあったが、「やっぱり、個人のほうが楽しい」と、戻ってきてしまう。しかし小学校5年になると、その練習が楽しくなくなることもあったという。というのも、クラブが高校生と混ざって練習するようになったため、途端に厳しくなったのだ。それでも、やめなかった。


 中学校には新体操部はなかったが、小学校から続けていたクラブで練習を続けられるという。ここでも、なぜかこれを機にやめようとは、思わなかった。


 高校では、クラブで指導してくれた先生のいる弘前実業に進学。「ここまで続けたんだから」と、やっぱりここでも、新体操を続ける事にした。


 朴訥とした表情で語るせいか、あまりにも淡々とした、特別な事件や衝撃的な出会いもない、これまでの道のりだった。ただ、真面目でコツコツ、実直に努力を重ねる、そういった彼の性格だけは伺い知ることができた。こうした性格は、演技にも表れているように思える。


 高校時代の福士の演技を評するとき、必ず使われるのが「柴田(翔平)と逆のタイプ」という言葉だ。


 弘前実業と青森山田高校、同じ県内で同い年、そして同じ個人選手。柴田と福士は、県大会では必ず顔を合わせたし、周囲からは必ず比較される存在だった。そして互いに、インターハイに出場するためには超えなければならない壁だった。


 柴田の演技の魅力は、まさに会場をかき回すようなスピード感あふれる動きと、器用な手具操作からなる派手な動きだ。が、その代わりに調子に波のあるタイプで、フィジカル、メンタルのコンディションがいい状態で、演技に「ハマり」さえすれば、間違いなく高得点を叩きだせるが、そうでない場合との差が激しい。

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 一方で福士は、「ごちゃごちゃした曲は苦手で、シンプルな方が好き」だと話すように、これまで演技もそこまでつくこむことはしなかったという。代わりに、一度つくった演技はとことんやりこんだ。監督に言われたことは、とにかく「がむしゃらに」取り組んだという。


 彼のように根が真面目な人間の「がむしゃら」は、本当に価値がある。与えられた課題の達成に全精力を注ぎ込み、意識レベルではなく、体に感覚的に刷り込むような努力の仕方をする。


 いつしか福士には新体操で言う「通し力(りょく)」のある選手と言われるようになっていた。演技の成功率が格段に、高くなっていた。


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 波はあるが、ハマれば強い、柴田。派手さはないが、安定感に定評のある福士。こうしてふたりはまったく逆のタイプの選手になった。

 そんな彼らの高校3年間は、まさに「しのぎを削る」争いだった。

 高校1年時 選抜選手権 優勝 福士祐介
             4位 柴田翔平 
 
       インターハイ13位 福士祐介

 高校2年時 選抜選手権 優勝 柴田翔平
             4位 福士祐介
       
       インターハイ11位 柴田翔平

 高校3年時 インターハイ5位 柴田翔平


 インターハイは各県1名しか出場できないため、福士は2、3年は県大会で柴田に敗れ、出場を逃している。ただ、選抜大会での成績を見ると、それがいかにレベルの高い県大会だったかは想像に難くない。

 ひとつのことを実直に続ける性格の福士が、全国大会でここまでの成績を残せば、大学で新体操を続けない理由はなかった。



 しかし、これまで大きな事件もなく地道に積み重ねてきた彼の新体操に、ここにきて少し変化が訪れる。


 大学でも当然のように個人の道を選んだ福士だったが、その練習方法に戸惑った。とはいっても、青森大の練習方法は別段変わっことをするわけではない。というよりは、多くの大学でそうであるように、おおむね選手に任せられている。フロアを1時間半ずつ、個人と団体で使用時間を分けて、個人はその時間内に、流しや通し、タンブリングなど、個々でそれぞれ自分に必要な練習をする。それだけのことだった。



 それだけのことが、福士にとっては大きな変化だった。それまで監督の指示を仰いで、それにしたがってひたすらに努力してきた人間である。突然「考えてやれ」と言われても、どうすればいいか、分からない。「とりあえずは先輩の真似をして」と思いながら、持ち前の真面目さで練習に打ち込んだ。

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 そんな1年時のインカレでは12位と、柴田よりひとつ上の順位で全日本選手権出場を決め、さらにそこで6位入賞の大躍進を遂げた。

 しかし、人から学ぶことは大事だが、福士が真似た先輩には先輩の練習プランがあって、それにしたがって動いているのだ。福士は自分のそれを見つけなければならなかった。しかし2年目になっても、それは見つけられなかった。

 2年目のインカレでは、9位と順位の上では昨年のインカレを上回ったが、柴田はその上の8位。さらに、全日本選手権となると、12位と大きく順位を落としてしまった。この年、柴田は3位に入賞を果たしていた。

 そして、3年になった。いや、福士にとっては3年になってしまった、と言うべきだった。彼は今シーズンをこう思って迎えていた。

「もう、2年も経ってしまった」---。

 自分で考えて動き出す必要性を、彼はここにきて本当の意味で気づいた。

 今シーズン、福士は4種目にそれぞれテーマを決めてのぞんだ。今まで強いか、弱いかの2パターンしかなかった動きの表情も、増やすように努めている。考えながら「がむしゃらに」やる練習は、確実に彼の力になっていった。

 東インカレの会場でも、会場での時間の使い方に気を配った。監督に言われた「目力が弱いから、化粧してもらえ」という言葉も、考えて、必要だと感じたから、それに従った。

 そして、今年5月。東インカレ個人総合・準優勝。結果はついてきた。

 福士の迎えた変化は、決して衝撃的なものではなく、どちらかと言えば変化と言っていいのだろうか、というほどに控えめなものだ。

 彼は「自身で考えることの重要さ」と「時間が過ぎ去ってしまった」ということに気づいたに過ぎない。

 ただ、重要なのはそのことに気づいたのが福士祐介である、ということだ。

 実直で根気強く、本当の「がむしゃら」を知っている彼が気づいたことに、意味があるのだ。


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2009年10月14日

09年全日本選手権前うち 青森大学 

 先日MSN産経ニュース等々に掲載した記事の、長いものをアップします。字数の関係で割愛されたところも多かったので。。

   *   *  *  *  *  *  *  *  *  *



 8月15日~17日、栃木県立県南体育館で新体操の全日本学生選手権(全日本インカレ)が行われ、団体競技で青森大が優勝。しかし優勝した青森大のチームリーダー、佐藤聖は「気を引き締めていかないと、足元をすくわれるので」と厳しい表情で語った。完璧な演技だったにも関わらず“常勝軍団”が表情を曇らせるのは、昨年の大きな敗北の経験があるからだ。

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 青森大は創部9年目にして、全日本インカレは7連覇、国内最高峰の大会である全日本選手権も5連覇を果たす“常勝軍団”。だが、そんな彼らのフロアでの練習時間は1日わずか2時間程度だ。専用の練習場所がなく、高校の体育館を借りているため、それが限界なのだ。それでも彼らが結果を残し続けているのは、緻密な計算のなせる業だ。チームの目指すべき演技レベルを明確にし、そこまでの道のりを逆算し、練習計画をたてる。決して奇抜ではないこの方法を徹底することで、彼らは連覇を果たしてきた。その例に漏れたのが、昨年の全日本選手権だった。

 08年、青森大の最大の武器は、タンブリングを得意とする外崎成仁の存在だった。伸身後方二回宙返りは、男子新体操では今のところ彼にしかできない技だ。しかし彼は切り札であるとともに、弱点でもあった。
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 ある日の通し練習の最中、団体メンバーは外崎の掛け声を聞いた。タンブリングの最中で外崎が見えなかった選手たちは、演技終盤でのその声に「気合入ってるなあ」と思ったという。

 だが、そのとき外崎があげたのは「ファイトー!」でも「さぁ、しっかり!」でもなく、「クッソー!!」という叫び声だった。演技の中で、外崎を飛び越えて着地するはずの選手が、彼の右脚の上に落ちてきていた。もろに真上に着地され、脚は動かなくなった。その脚を動け、とばかり床に打ちつけ、自身を鼓舞するように上げた、叫び声だった。何とか立ち上がり、演技をやり遂げた外崎は、立つことができなくなっていた。

 膝の脱臼と、内側靭帯断絶。もともと危険な技が多い彼にとって、怪我は珍しいことではない。今までだって絶望的な故障をしても、大会までにはなんとか持ち直してきた。ただ、今回最悪だったのは、それが大会1週間前だったことだ。

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 その2日後の朝。寮でまだ眠っていた外崎は、「起きろ!」の声で目を覚ます。監督だった。「今から、行け」。そう言われると地図と住所が書かれた紙と旅費を渡された。寝起きの働かない頭で車に押し込まれ、そのままひとり新幹線に乗せられた。地図の住所は千葉県。監督が懇意にする診療所のある場所だった。

 外崎を送り出すまでに2日、間があいたのは、純粋に監督が迷っていたからだ。演技構成を外崎を抜いたものに作り変えるか、彼の治癒力に賭けて演技を変えずに勝負するか。中田監督は理詰めの人間だ。創部以来、「確実に勝てる」ように仕上げることをモットーとしてきた。そのために半年も前から構成づくりにはいるし、大会1ヶ月前になると、就寝時に毎日頭の中で大会をシュミレーションするほど、緻密な性質だ。だから、この不測の事態の決断に2日の時間を要した。現実主義者の彼が、この2日の間に何度も「時間が戻ってくれれば…」と願った。


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 その末に監督は、外崎を千葉に送ることに決めた。この年の全日本選手権の会場は千葉県であったから、大会ギリギリまで治療し、そのまま会場で合流し、様子を見て外崎の起用を決めることにした。だが、外崎の心はすでに決まっていた。「自分が、出場する」。

 残った5人のメンバーも、外崎のポジションを空けて練習を続けることにした。ひとりメンバーの少なくなったフロアはどこか不安げに見えた。それでも、外崎が戻ることを信じるより他なかった。



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 チームと合流するまでの間、外崎は監督に毎日、会話するように何通もメールを送っている。


 千葉に向かう新幹線の中では「自分のために、こんなにしてくれてありがとうございます」、「4年生を笑って卒業させましょう」。治療が始まったその日には「治療でこんなに痛いのは初めてです。でも、治るなら我慢しなきゃですよね」。その翌日には「みんなもがんばってるから、治るんならどんな痛みにも耐えます」。それは、彼の人柄を表すような前向きな内容がほとんどだった。
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 だが、開会式の前日、監督が「今、千葉に着いた」とメールすると「こっちに来られませんか」と返ってきた。大会直前にチームを離れ、見知らぬ土地で毎日10時間以上も絶えず激痛の走る治療を受ける生活。さすがに精神的に参っていた。

 しかし体の方は、回復を見せていた。全く曲げることのできなかった彼の膝は、本来の半分くらいまで折ることができるようになっていた。それでも、歩くたびに激痛が走った。その日の夜、外崎は「久しぶり」と、ごく普通にチームに合流した。「治ってきました」「全然、普通っす」と人懐っこい笑顔で軽口を叩いて見せ、その翌日の会場練習では「スワンドッペルやっていいですか」とまで言ってのけた。「やめとけ」と監督に制止されながらも、彼は難度を落としたタンブリングをやってみせた。



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 その日の予選で、外崎は怪我をして以来、初めて演技を通した。小さなミスはあったが、「いつ膝が爆発するか」と心配していたメンバーは、演技をやり遂げられたことに、ただ、ほっとした。一方で外崎は、ほぼぶつけ本番のような状態で通しきれたことの、喜びに打ち震えていた。「やれたってことが、とにかく嬉しくて」。大量のアドレナリンが彼に痛みを忘れさせ、驚くべきことに、決勝ではノーミスの演技を披露した。

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 外崎は自身の役割を果たすという意味では、十分な働きをした。が、それは勝つには足らなかった。僅か0.019点、国士館大に及ばなかったのだ。
 
 青森大学にとって、負けた理由は大した意味はもたない。意味は、彼らが再び挑戦者に戻った、というところにある。

 創部当時、青森大の選手はその誰もが「2番手の選手」だった。各高校のエース級は、有名強豪校に引き抜かれていったためだ。そんな彼らが、中田監督の「お前らを日本一にしてやる」という言葉を信じて、がむしゃらに強豪に戦いを挑んだ。本来青森大はそういう、チームだった。



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 ある日の練習中、普段は温厚な選手が、ミスをしたチームメイトに掴みかかる場面があった。ここ数年、見かけなかった光景だ。
 彼らは確かに、挑戦者の泥臭さを取り戻しつつある。



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2008年11月24日

青森大学-采配-(後)

 翌日の全日本インカレ、団体競技。試技は完璧な演技を披露した国士舘大学の後に行われた。

 繊細なピアノの音から始まる青森大学の演技は、バランスを寸分の乱れもなく合わせた後、最初の見せ場、第一タンブリングに入る。ピアノの主旋律に、低音の伴奏が荘厳さを加えたところで、助走してきた外崎がドッペル。着地で一歩、前に歩いたが、男子新体操史上初というそれは、周囲を沸かせながらあまりにもあっけなく成功した。いや、あっけなく見えた、というだけなのかもしれない。彼にとって本当に頭を悩ませた技が、この後に控えていることを知っていたために、そんな風に見えただけなのかもしれない。
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 そして迎える、問題の第二タンブリング。6人同時で始まるバック転から、外崎は半分ひねって踏み切ったところを、周囲の3人に支えられるようにして受け止められる。そのまま背中から押し上げられるように宙を舞った体は1回転。空中で足を軽く前後に開くと―――片方の膝を曲げた、座の状態で着地した。直前の葛藤を知らなければ、なんということもない、と思うほどにそれは自然だった。技を変更してからの1本通しは、これ初めてだった。

 本当の、最終的な決断を下したのは公式練習の直前。皆を集めて、改めて変更の旨を伝えてから、監督はこう続けた。
「0.3減点されるかもしれない、後ろめたい状態ではやりたくはない。(青大で創部してからの)7年間、俺は自分の決めた采配で失敗したことがない。今もこの決断は失敗だと思わない。お前たちなら出来ると信頼しているし、自分の采配にも自信がある。…どうだ?」

 実際5月に行われた東インカレで、その出発当日に団体の選手変更を行うという、無謀とも言える行動に出たが、演技はミスなく終えることができた。監督の指揮と自身の実力の確かさを、選手たちは実体験として知っている。たずねられて、うなずいた。


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 練習会場の公式練習で一度だけ、この変更部分の練習は行われた。実はこの時、技は失敗している。投げ上げられる前に組みは崩れたのだ。だがやり直しはさせなかった。
「それでいい。今の感覚で、こうきたら、こうなる、ということだけ感じておいてくれ。今の突き上げられてからの感覚さえ覚えておけば心配ない。」

 そこで何度も練習を繰り返せば、肉体的な負担はもちろんだが、その部分ばかり妙に意識して、余計に力んでしまう。たった数秒の技にウェートを置くことで、他がおろそかにならぬよう、との配慮のもとのアドバイスだった。伏臥よりも座を選んだのは、その方が外崎にとってわかりやすいだろうと考えたためだ。これもやはり、リスクは最低限に抑える彼の性分があらわれた。

 そして外崎は練習でのミスを、本番ではきっちり修正してきた。この演技で今年も、絶対王者は表彰台の高みに上った。


 創部8年目を迎えた青森大学。未だ、彼の采配にミスはない。


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2008年11月23日

青森大学-采配-(前)

 絶対王者・青森大学の今年最大の武器は、ふたつのタンブリングである。ひとつめは、何と言っても男子新体操史上初となる大技・伸身2回宙返り。別名スワンドッペルとも言われるこの技、文字通り体を抱え込まない“伸身”の状態で、体を空中で後方に2回転させる。成功させれば、その後も語られることになる。

 もうひとつは、終盤の組み技。土台となる二人の選手が一人を垂直に投げ上げる技である。宙を舞う選手は、たった二人の土台で、高校生5人が力いっぱい投げ上げたほどの高さまで飛び上がり、空中で1回、2回―――なんと、空中で後方に2回転と、4分の1。ギュンギュンと回転のかかった体は、勢いそのままに地面に突っ込んでくる。それを二人の選手が両腕で抱えて受け止め、勢いを殺し、今度はその両腕を支持してグン、と前に押し出す―――青森山田高校の得意技としておなじみの“ブランコ”へとつなげるのだ。(ブランコは坂出工業高校:現青森大監督中田監督が平成4年に始め、平成8年に現在の人間が一回転する技を発表した)

 まさに大技と呼ぶにふさわしい技。間近にすると、頭で理解する前に肌が迫力を感じとり、息が止まった。

 このふたつの技で、ドッペルをするのも、投げ上げられる役を請け負うのも、タンブリングに定評のある外崎成仁。青大には彼なくしてはなしえない技がいくつもある。そのどれもが、演技の中核となる技ばかりだった。―――が、今年のインカレで彼を悩ませたのはこのふたつの技のどちらでもない。そのことを知る者は、僅か。
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 新体操の監督というのは、繊細で緻密な人間が少なくはないが、中田吉光という人間ほど緻密な監督を私は知らない。彼は普段から布団に入ると、頭の中で大会の流れを、シュミレーションする。

 それは遠征ではお馴染みの青大のグリーンのバスで学校を出るところから始まる。練習場所を共にする青森山田の選手とともにバスに乗り込むと、全日本選手権であれば、途中、盛岡で停車する。旧知の仲である野呂一希監督の率いる、盛岡市立高校の面々をひろっていくのである。彼らはたいてい、全日本選手権の出場を決めてくるから、これもいつものことだ。

 長いバスの旅を経て、インカレ前から予約しておいた宿舎に―――これは予約の際に、ネットで見た外観写真と施設情報をもとに想像するのだが―――着くと、受付で手続きを済ませ、食事や翌日の出発時間をフロントと話し合う。それが決まれば部員とミーティング、食事、風呂、就寝。そして翌朝に起床、朝食。決められたスケジュールどおりにそれらをこなし、宿を出る。

 会場入りすると公式練習の時間から逆算してアップを開始、万全の体制で公式練習に臨む―――と、これらをすべてひとつひとつ、頭の中で映像化して、確かなものにしていく。それはもう、習慣ともいえるものになっていた。
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 それほどまでに緻密な人間が、致命的なミスに気がついたのは、団体競技予選のなんと前日のことだった。演技の中に、0.3もの減点要素があることが発覚した。0.025単位の点差が勝負を分かつ新体操において、それは勝負をひっくり返すのには十分すぎるほどの減点である。

 具体的に説明すると、こうである。男子の団体では1回半以上の回転を伴う空中技で、頭から着地するもの、つまり前転の状態で着地するものは1回しか入れてはいけない、という決まりがある。この前転で着地する技を“転系”の技、という風に表現する。この転系の技は危険度が高いために、転で1回半以上回転する技は、大学や社会人では1回、高校以下の試合では完全に禁止されている。

 タンブリングの中でも難易度が高いこの技は、入れる場合にはたいてい、まだ体力のある演技の序盤、“第一タンブリング”で行うことが多い。青大もその例にもれず、第一タンブリングに、この転系の技を入れてきている。この時点で、まだ減点はない。

 さて、問題の減点対象はふたつめのタンブリング、第二タンブリングにある。ここでも要になるのは、やはり外崎。フロアを斜めに使って、手前に向かってバック転してきた外崎は、床を手で突き飛ばすとそのまま中に舞い上がり、着地点に控える3人の土台に飛び込む。土台の3人がそれを再び宙高く投げ上げると、外崎は空中で一回転、頭から前転の形、つまり転で着地する。
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 演技の見せ場のひとつでもあるこの技、一見するルールには触れない。外崎は手で踏み切って、組みを経て宙で1回転し、頭から着地しているわけだから、空中での回転は1回。1回転の、転系の技である。これであれば規定にはひっかからないはずである。解釈としてもこのルールは、1回半宙返り転を想定し作成されたものだった。―――が、ひっかかっていた。団体予選の前日、行動をともにしていた盛岡市立の野呂監督の進言で調べてみたところ、厳密に言うとこうした技も、制限される転系の技に含まれているということがわかった。あそこまで入念に大会までの道程を考える人間にとっては、迂闊だった、としか言いようがない。

 監督はおろか、選手ですら、そして実は審判ですら、このことに気がついてはいなかった。というのは実は問題のこの技、東インカレの演技でも入れているのだ。が、減点にはなっていない。単純に、審判も分かっていなかった。彼らも規定にひっかかるものを、1回半の転と想定していたためだ。

 だから3年の高岩馨が「(このままやっても)バレないんじゃないか」と思っていたことや、同行していた青森山田の荒川監督や盛岡市立の野呂監督が「このまま押し通せますよ」と言ったのにも、一理ある。
 が、どうだろうか。東インカレの時のように知らずにやっていたならまだしも、減点の可能性があると知りながら、それをやって減点されたら。やはり、と自責するのだろうか。

 問題は、着地にある。要は頭から落ちるから転としてカウントされるのだ。例えば、胸と両手で体を支える、腕立て伏せのような状態になる“伏臥(ふくが)”で着地すれば、減点にはならない。或いは片膝立ちの状態の“座”で着地すれば、これも減点にはならない。
 普通で言えばこちらの着地の方が選手にとっては格段に安全である。だが今回のことは技の安全性云々ではなく、試合前日に構成を変えることの方にリスクがあった。今からだとフロアを使っての練習は、午後の11分ずつの公式練習、2回きり。
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 大会までの道のりは、監督にとって負ける要素を徹底的に廃す作業に取り組む期間、と言ってもいい。常に「万が一」をつぶすのが彼の監督としての仕事だった。リスクを減らすことが彼の最優先事項だった。しかし今回は技を入れるにせよ入れないにせよ、リスクは背負わなければならない。ならば…いや、しかし…。思考は二転三転した。
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 団体の試合を翌日に控えたこの日、会場では朝から個人競技の試合が始まる。午後からは団体の公式練習がもうけられていた。午前の間中、監督の思考は流転し続ける。団体選手の間でも変える、変えないの情報は交錯し、「あれ、変えるんだっけ?」と互いに確認するのは一度や二度では済まなかった。昼ごろになって、結局、伏臥で着地する、ということで話が落ち着いた。伏臥であれば確実に減点はされないし、迫力でいっても、転にそうひけはとらないはずだ。何より、転での着地よりこちらの方がはるかに安全なのである。この程度の、しかもマイナーチェンジであれば、タンブリングの名手である外崎にとっては何ということもないだろう、と誰もが思っていた。
…だからそれに気付いた者は、チームの中にもほとんどいない。
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 意外に知られていないことだが、青大の団体選手は大会での公式練習の前に、眠る。団体の公式練習や試合は、個人競技の後に行われる。個人演技は長丁場になる。たとえ見ているだけであっても、長時間座り続けていると体がだるくなる。だから、青大の個人選手の応援の合間に、適宜眠りに行くのだ。それが知られていないのは、彼らが使っていない通路やカーテンの裏など、人目につかないところを選んで、各自仮眠をとっているからだった。
 その、皆が休息をとっているはずのその時間に、中田監督は選手から声をかけられる。
「…先生、眠れません」―――外崎だった。

 たとえ難易度を落としていたとしても、この変更は、勝負強さで定評のある彼にも確実にプレッシャーを与えていた。それに、彼はもともと「人に投げられる」タンブリングが好きではなかった。自分の手で足で、踏み切るのならどんなものでも自信があったが、人を介して行うとなると、彼らしからぬ不安がよぎることがあった。そのタンブリングが、まさに試合直前の変更。練習時間はほとんどない。ほぼ、ぶっつけ近い状態。彼は眠れなかった。

 監督としても彼のこの行動は意外だったが、とりあえずは外崎を落ち着かせなければならなかった。
「わかった。タンブリングは変えない。そのまま行こう。だからお前は安心して寝ろ」
そう言って、彼に休むように促した。当然ながら、彼を安心させるための方便である。


 …さて、どうしたものか。一度はまとまりかけた思考が、彼の中で再び行きつ戻りつを始めた。


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2007年04月15日

青森大学 vol.1-ウサギとカメ(後)-

 練習ではアップから選手についている中田監督だが、ことに練習内容に関してはほとんど口をださない。練習メニューも選手達がつくったものを見て、二、三アドバイスする程度。構成作りも同様で、選手達がつくったものを監督に見てもらい、OKが出ればその構成で大会に臨む。

 
 だが、そう簡単に監督はうなずかない。いつも3~4回はつくり直しをするという。今つくっている構成も、3回目のものだ。




 しかし、11月に全日本選手権が終わって、通常ならオフに入り、正月休みを経てから年明け、構成作りに入る。新年度最初の大会、東インカレは5月。3月中は高校選抜や各種式典があることを考えると、十分な練習時間は確保できない。その中で、そう何度も構成を練り直せるものだろうか?

 それが可能なのは、単純につくり始める時期が早い、それも半端ではなく早いためである。










 11月、全日本選手権の決勝で、選手達をアップゾーンからフロアへ送り出す瞬間、監督の頭のなかに浮かぶのはひとつの思い。
「さて、来年はどうしようか」

 この2、3日後には新しい構成を作り始めるのだという。しかしそれにしても、まだ今年の結果が出ていないのに翌年のことを考えているとは、と驚く私を見て、監督は「まぁ、不謹慎かもしれないが」と付け足した。


 
 ここまで自信をもって選手を送り出せるのは、そこに十分な裏づけがあるからだ。
「ジャパン(全日本選手権)までの道のり、その年のことは全て計算してやってる。不安はあるが、負けるような練習はしていないから」

 ともすれば、傲慢ともとられそうな言葉。しかしそれが、結果を出し続けているからこそ言える言葉であることを、監督は知っている。そして言った以上は、結果を出し続けなければならないということも。


 2003年からの全日本選手権4連覇。そこには確かにプレッシャーというものが存在していた。しかしそれは、わたしが想像していたものと少し違ったものだった。



 主将の岡が「負けたくない、あっと言わせたい」と語るのは、ライバルの国士舘大学ではなく、他大学の誰でもなく、中田監督だ。「日本一になる意識というよりは、先生を見返したい」のだと言う。



 4年の沖田は「去年より良い演技で、一味違うと思わせたい。今年の青大はすごい、と言わせたい」と言う。そのためには「優勝は大前提」なのだ。



 練習の姿勢からも感じていたのだが、彼らの目標は他大学に勝つことや、日本一になることの更にその先にある。そして、敵は常に自分達の中にある。




 こうした高い意識が青大の強さの秘訣だとしたら、その意識はどうやってつくられたのだろうか。練習内容にはあまり口出ししない中田監督が強く指導するのがそこである。


 それは、創部時に一番始めに、監督が選手たちに教えたこと。
「体操人(と中田監督は表現する)の前に学生。学生としての本分を怠らない」こと。
下の世代から「ああいうチーム、ああいう人になりたい、と思われる選手を目指す」こと。


 それは、決して珍しい教えではない。ただ、それが選手達に十分に浸透している。それが意識の高さにつながっている。



 創部時、中田監督が最初にとりかかったのは部則をつくること。全20条以上に及ぶそれは、まず監督の手で草案がつくられ、それに選手達の意見を求めるというかたちでつくられた。

 その中で、選手達から「パチスロ禁止という項目を入れて欲しい」という要望があった。当時、部の中には何名かパチスロをする者がおり、熱中しすぎると部の風紀の乱れにつながる、と考えたのだろう。しかし中田監督はそれを「幼稚なもの」として退けた。「それは部で決めることではなく、自分のモラルで決めること」。

 自分達の目指すものは、そんな低いレベルのものではない。創部時から、中田監督の意識はすでに高いところにあった。










 怪我に泣かされ、一度は大会から姿を消すも、昨年(2006年)の全日本で見事返り咲きを果たした大原。コンスタントに上位入賞を続けてきた有沢。こうした結果を出してきた個人選手に関しても「(彼らは)それをおろそかにしなかった」と、結果以上に、そうした部分を評価しているようだった。
 そして更に、こう続ける。



「先頭を行くチームは間違ったことはできない。俺らが間違えたら、(体操界は)ガラッと変わってしまう。体操界全体を考えて行動しないと」

 ここまで聞いて、ようやく私は監督の言った「使命感」の本当の意味がわかった。

「(部活は)行きたくない日もあるけど、使命感があるから」

 それは一監督としてのものなどではなく、日本のトップとして、体操界を背負うものとしてのそれだった。そしてその使命感、覚悟を選手たちも共有している。あそこまでの高い意識は、そこから生み出されているのだ。




 練習で見せる集中力、上下関係のないフラットな練習風景、人としての模範的な姿を求める部則、監督を「見返したい」という選手の言葉-----それらのことが、ようやくひとつの線でつながった気がした。





 全ては体操界を担う、という使命感のため。だから彼らの目標は、常に優勝のその先にある。











 ウサギとカメという昔話があるだろう。2匹が競争をして、ウサギが昼寝をしている間に、カメがゴールインするという、あの話である。

この話でカメがウサギに勝てた理由はなんだろうか。


ウサギが昼寝をしてしまったから?カメが休まず進み続けたから?

おそらくそれもある。でも根本的な理由は、そんなことではない。


ウサギが負けたのは、カメを見ていたから。
カメが勝てたのは、ゴールを見ていたから。



 ウサギが負けたのは、競争相手のカメを見ており、それが遅いのをあなどって昼寝したため。

 カメはただ、ゴールだけを見ていた。他の競争相手ではなくただ、自分が決めたゴールを見つめて、そこにたどり着くことだけを考えていた。だから、勝つことができた。


 誰に勝つためではなく、ただ自分の決めた高い高い目標に向かって、懸命に歩んでいたから。



 私はその答えを、青森大学に見た気がした。

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2007年04月12日

青森大学 vol.1 -ウサギとカメ(中)-

 わずか1時間ほどのフロアでの練習が終わると、続いて場所を2Fにうつして団体演技の構成作りに入る。

 監督について2Fの練習場に上がると、私はまた驚かされた。そこは日本一の演技が生まれるには、明らかに劣悪と言っていい環境だった。

 


 床面積の半分をトレーニングマシンで占められたその場所は、団体メンバー6人が、フロアを想定して隊形をつくるには明らかに狭い。

 床はわずか1センチほどの厚さのウレタンマットの上に、じゅうたんを敷いただけのもの。それも体操用でもなんでもない、薄く、幅のせまいじゅうたんなので、何枚もならべて敷きつめなければならない。さらにじゅうたんの境目はめくれ上がっており、今にも足をひっかけてしまいそうなフロアである。

 動きをチェックするために欠かせない大きな鏡は一応あるが、それもその三分の一ほどが割れてしまっている。

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 こんなところであの壮大な演技は生まれていたのかと思うと、ただただ驚くばかりだったが、聞けばこの練習場も、ついこの2ヶ月前ほどにできたばかりだという。それまでただマシンが乱雑に置かれただけだったこの場所を、選手達が整理してあつらえた。それ以前は体育館の廊下や走りに使っていた2Fテラスを使用していたというから、更に驚きである。
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 床は固く、滑りやすい木やビニールだし、廊下などは少し動けば隣の選手にぶつかってしまうほどの幅しかない。鏡は、手洗い所の前のものを使用するが、その場所も手を伸ばせば壁に当たってしまうような広さである。そんな場所で20名以上の部員が練習する姿など、想像すらできない。

 

 しかしこうした、時間的・設備的に限られた環境は、中田監督の求める「突発的なものに対応する力」を養うには適していたようである。昨年12月20日~1月13日の間に行われた、ドイツ遠征でその成果は表れた。



 

 今回青森大学が参加したのは、ガーラという、様々なアクロバットのエキスパートが集まってヨーロッパ各地をショーをしてまわるというもの。アートに関心の深いヨーロッパでは、来年のチケットが昨年の9月に完売してしまっている、というほどの盛況にあるイベントで、10万人以上もの動員数を誇っている。

 

 しかし基本的にプロの集まるこの興行、そのスケジュールはかなりタイトであった。様々な種目の選手がいるため、練習時間はかなり限られた。10分から20分のアップで2時間後に本番、なんてこともあった。公演は多い日には1日2回、それが終わればすぐにバスで移動、車内で日付けが変わり、翌日にまた本番、という日程が続く。
 
 


 何ヶ月も前から、大会での本番1回のために練習してきたこれまでとは勝手が違いすぎる。にもかかわらず、選手の口から「そこまで辛くなかった」という言葉が出るのは、日頃の変則的な練習の賜物だろう。





 「(求める能力は)突発的なものに対応できる力。それがないと勝てない」というのが中田監督の持論。





 ドイツでの遠征中、青大の演技の後、会場はものすごい歓声と、それだけでは足りないとばかりの地団太で埋め尽くされた。ドイツからは「来年もぜひ来て欲しい」と来訪を熱望されており、オランダ、ロシアなどからもオファーを受けている。
 

 国内の実績にくわえて、初の海外遠征での高評価、そしてなにより変則的な練習について「毎回なにをしようか、楽しみ」と語る主将の岡の言葉。


 その力は、確かについているようである。











大会日程、用語解説などはこちら→http://reportage.web.fc2.com/


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posted by reportage |23:21 | 青森大学 | コメント(0) | トラックバック(0)
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2007年04月08日

青森大学 vol.1 -ウサギとカメ(前)-

 「ウサギとカメ」という昔話がある。

二匹が競争をして、ウサギが昼寝している間にカメがゴールする、というあの話だ。
この話で、カメがウサギに勝てた理由はなんだろうか。


ウサギが昼寝してしまったから?カメが休まず進み続けたから?



私はその答えを、青森大学の中に見つけた気がした。





 2002年、東インカレ(インカレの東日本予選)に突如として姿を現した青森大学は、まだ大学のジャージすら揃っていない状態だった。
しかし、それが初出場のインカレでいきなりの団体優勝。
翌年はインカレに続き、国内最高峰の大会、全日本選手権でも団体優勝。それまでの福岡大学VS国士舘大学の構図に割ってはいるどころか、いきなりそれを飛び越えてしまった。
 まさに「彗星のごとく」とか「青天の霹靂」という言葉がぴったりくるこの出来事は、男子新体操界に衝撃を与えた。そして2006年の全日本選手権まで、青大はその王座を守り続けている。

 これだけの実績を知れば、誰だって青大の強さの秘訣を知りたがるはずだ。
私ももちろんそのひとりであり、それを知るべく、3月上旬、取材に訪れた。




 青大の部活に関して、まず始めに驚かされたことがひとつ。青森大学には練習場がない。正確に言えば、大学に新体操部の練習場所が、ないのである。
そのため、練習は近くにある青森山田高校の練習場を借りて行われる。

 この日、青大の選手が体育館に姿を現したのは昼前ころ。高校生がまだフロアを使用しているので、その間、同体育館の2Fテラスで走り、柔軟を行う。
決して広いとは言えないスペースを何往復もし、体を温める。柔軟では、中田監督自らが選手の足上げを行う場面もあった。
 大学生ともなると、監督が練習から指導する、というのは珍しい。だいたい演技ができあがってから、「通し」練習を見てもらう程度だろう。そんな中、まだまだオフシーズンのこの時期に、アップから選手の傍らに立つ中田監督の姿は意外な光景だった。
アップ1


アップ2



 高校生の練習が終わった13時半頃、フロアに入ると早速タンブリング練習が始まる。と、私は思わずびくりとしてしまった。

 空気が、変わったのだ。

 これは本当に、大げさな表現ではなく本当に、青大の練習が始まった瞬間に、確かに空気が変わるのを感じたのだ。

 まず、練習中に出す「ファイトー!!」の掛け声が格段にデカイ。うるさいほどのその声で、タンブリング練習の間、山田の体育館からは掛け声以外の物音はまったく聞こえなくなる。

 しかしそんな表面的なことより何よりも、練習に取り組む姿勢が違う。
 倒立前転に始まり、飛びこみ前転、前宙、バック転。やっていることは高校生のそれと大差ないのだが、全員が一斉に行うそれは、美しさ、ダイナミックさ、どれをとっても格段で、圧巻である。
 しかしそれ以上に感じたのは、選手たちのそのひとつひとつに取り組む真剣さが、明らかに違うということ。選手ひとりひとりが、この練習の貴重さを知っている。そんな感じだった。20070408-02.JPG


 
 実際のところ、練習時間はかなり限られている。
 平日の練習であれば、授業が終わった選手から体育館に集まりだし、全員集合するのがだいたい17時。それから高校生の練習が終わるまで、体育館2Fのテラスでアップなどをして待つ。19時頃、高校生の練習が終わるとようやくフロアに入れるのだが、練習は21時か、遅くても22時には切り上げられる。個人、団体それぞれの練習があるから、各1時間ほどの練習しかできない。


 「ファイトーー!!」絶えず響く掛け声の中、一本一本ていねいに行われるタンブリング練習は、大会会場のような、ピリリとした適度な緊張感をはらんでいた。

 「みんな、スワンのときの手、気をつけていきましょう!」
 そんな中、皆に注意を呼びかける選手がいた。新4年生の誰かかと思えば、呼びかけをした佐藤聖(ひじり)は、まだ1年生であった。こういった場面は、青大ではよく見られる光景だ。

 「フロアに入ったら、学年は関係ないので。考える人は、多ければ多いほど良い」。同じく1年の高岩は語る。「先輩も嫌な顔はしない」そうだ。

 昨年、団体のチームキャプテンを務めた斉藤も「強いチームづくりには必要なこと。互いに指摘しあえないと、強いチームはつくれない」と語る。創部わずか6年目のこの部には、体育会的な悪い慣習はない。


 タンブリング練習の後は、鹿倒立で7カウント、静止するのを10本。倒立の状態で1分間キープを1本。倒立でフロアのまわりを1周。フロアでの練習は以上で、わずか1時間ばかりのことだった。そしてその間ずっと、傍らには中田監督の姿があった。20070408-03.JPG


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 訊けば、監督は会議などがある日以外はほぼ毎回、練習に顔を出すという。取材をしていてあらためて感じるのだが、選手に休みがないということは当然、監督にも休みがない、ということだ。青大の部活は毎週火曜が定休だが、その他のまとまった休みはお正月とインカレ後のお盆休みしかない。
 「部活は毎日同じことの繰り返しですけど、来るの嫌になったりしないんですか?」
 大学の監督がここまで練習に顔を出す、というのがどうしても珍しく感じてしまい、ついたずねてしまった。
 「行きたくない日もあるけど、使命感があるから」
 

 キッパリとした口調だった。私はこの言葉のもつ意味が、私が考えている以上に大きなものであることを、取材を通して知ることとなった。






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男子新体操 用語解説、大会日程など→http://reportage.web.fc2.com/


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