2011年11月15日
闘う準備は、できている。
11月9日。全日本選手権を目前に控えた花園大はそう思わせる勢いをもっていた。
もはや完璧に花大のカラーのひとつとなった奇抜な構成、その動きは確実に質を高め、インカレの時と比べてもより「伝わる」ものになっていた。
変わった構成というのは、本来相手に伝わりづらい。柔らかい表現、力強い表現、といった、何を伝えようとしているかがはっきりしている動きはわかりやすい。見る側を意識して伝わるように作り上げるからだ。しかし奇抜な動きというのは、相手を想定した上で、その予想を裏切るから「奇抜」なのだ。当然、高いクオリティと同一性がないと、なにがやりたかったのか分からないまま終わってしまう。
だが花大はその「伝える」レベルを確実に向上させていた。腕を組み、素早く回転させることでスピード感を。体をねじるように湾曲させることで、空間のゆがみを。そしてそれを組み合わせることで、奇妙で神秘的な緩急を。伝えようとしていることがわかった。
チームリーダーの桝平庸介は「今回はいけるんじゃないかと思います」と、彼特有の人好きのする笑顔で自信をのぞかせた。特にタンブリングについては「今までで1番まとまってるんじゃないかと思います」とまで話す。
確かにタンブリング練習中、宙を舞う彼らは迫力があった。空気をはらんで高く舞い上がる姿には勢いがあった。全員が難しい技を軽くこなすから、高難度の技さえも当たり前に見えた。
1年のときからレギュラー入りを果たす、3年の田原(たばる)丈嗣は言う。「3年間で、1番凝った構成ですね」。
構成は例年、野田監督の独特の感性で作られている。演技は始めは選手と監督とで考えるが、納得いかなければ監督が全て作り変えてしまうこともある。が、今年は選手の考えた要素が随所に盛り込まれているという。例えば、バック転の前の構成は田原が考えたものだし、平均すると少なくともひとり数秒は各選手のつくったパートが入っている。
この「各選手の」というのが、このチームの特質でもある。
「このチームはなんていうか、異質ですね」
桝平はやはり笑いながら、そう話す。では、何が異質なのか。
例えば、曲にあわせての分習。当然ながら空気は引き締まり、大会前であることを嫌でも意識させる。周囲からのレギュラーを鼓舞するような掛け声も、大会が近づいた分だけ強さを増した。
しかしその空気は、練習の最中だと言うのに、あまりにもあっけなく破られる。分習と分習のわずかな間、練習の途中で一瞬だけ気が緩んだとき、そんな本当にわずかな練習の隙間を縫うようにして、冗談が発せられたり、笑いが起こったりする。
それが異質に思えるのは、空気がひきしまり、緩み、またひきしまるということが、あまりにも短い間に何度もくり返されるからだ。もろく崩れ去った緊張感は、あっという間に取り戻される。練習の間、空気は何度も弛緩し、同じ回数だけ緊張した。
確かに、この感じは少なくともここ数年の花大には、いや他の大学にもなかった。異質、である。
チームのカラーというのは、すなわち4年生のカラーだ。今年のチームの4年は桝平ひとりだ。だとしたら、この異質さは、他ならぬ桝平によるものだ。
田原は話す。「例年だったら、もっとピリピリしてますね。笑いとか起こらないです」。
レギュラーで2年の遠藤竜馬は、桝平と同じ岡山精研高校だ。チームについて「学年の上下は関係なく、仲が良いから楽しい」という。「盛り上がるときは盛り上がって、しめると時にはしめられるチームですね」。
そのチームの空気の源について「4年生の人柄です」と話すのは3年の山口竜昇。「練習以外でも、まわりの選手を気にかけて世話をしてくれるので」。
長所は、同時に短所でもある。今年からコーチとなった北村将嗣は、このチームについて「少し、上下関係がなさすぎるかもしれない」と危惧するように話した。山口も桝平のことを「優しすぎるくらい優しい」と評す。
もしかしたら、高校時代を厳しいチームで育ってきた選手たちにとって、あるいはそれは少しだけ物足りなさを感じさせるものだったかもしれない。
ただ、こんなことがあった。実は意外なことだが、花大ではここ数年、団体メンバー皆が自ら集まって飲みに行くことがほとんどなかった。たまに行ったとしても、ついつい熱くなってしまいケンカ分かれのようになってしまっていた。それがこのチームになってから久々に全員で集まり、最後まで楽しく飲むことが出来た。
少なくとも選手たちがチームを居心地の良い場所と感じているのは、共通しているはずだ。そしてそれが桝平の人柄によるものだということも。
桝平は話す。「今のチームは冗談っぽく言っても、個々がちゃんと理解してくれるチームなので」。だから、練習中あれほど簡単に空気は緩み、そして引き締まる。それは強く言わなくても、理解を共有することができるためだ。皆が締めるべきタイミングを心得ているためだ。
そしてチームが共通認識している、もうひとつのことがある。
「今年は、いける」
桝平の口からは何度も、今年は特に「戦力のそろったチーム」であるといった旨の言葉が聞かれた。4年間レギュラーに入り続けた彼が言うこの言葉には価値がある。
同様に「今年は(良い)メンバーが揃ってるんで」と話すのは、桝平よりも少しだけ長い間チームを見つめてきた北村。そして何より、一番大きいのはこの人の発言だろう。
「今回は、狙ってるんで」。
短くそう言うのは野田監督だ。決して大口を叩くことをしない彼からは、勝算なくしてこの言葉は出ない。
「目標は、優勝です」。語る桝平は、やはり笑顔だ。気負いはない。代わりに手応えはある。それも誰もが、等しく。
心は揃った。戦いの準備は、できている。
■お知らせ■
オールジャパンのフリーペーパー的なものを、新体操研究所の椎名さんと一緒に作らせてもらいました!
当日配布方法がないため、セブンイレブンのネットプリントを利用しました。
セブンのコピー機からネットプリントを選んでもらって、下記IDを入力、お金を入れてもらえれば出力できます。ひとことずつ、全出場選手についての特徴なんかも書いてあるので、観戦の際に一緒に見てもらえるとありがたいです。
■ID
表面(社会人、大学生) PZHYTTKA
裏面(高校生、ジュニア、団体) RXTGEJ8N
ちなみに表面と、花大・社会人選手の特徴をお手伝いさせてもらい、他は全て椎名さんががんばってくれました!
よければぜひプリントアウトして、会場で併せて見てみてください。
(ちなみに複数枚プリントするときは、1枚ネットプリントで出して、あとは普通にコピーすると安くすみます!)
posted by reportage |23:21 |
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2011年09月28日
大会のアクシデントというものは、誰にでも起こりうる。花園大の野口勝弘のそれは、先の全日本インカレで訪れた。
個人の初日、種目はリング。情感たっぷりで、ミスする気がしないような迫力のある演技。その最中に、プツリと曲が途切れた。音響トラブルだった。
こうしたことは、大会で稀に起こることがある。野口自身も、これまでそうしたトラブルに見舞われる選手を目にしたことがあった。だが、しかし
<まさか、自分に起こるとは>
野口は音響トラブルに遭った選手たちがそうするように、静寂の中で演技を続けた。そして観客は、トラブルに遭った選手に対してそうするように、次第に野口に手拍子をおくった。彼がそれに合わせて演技を終えると、会場は健闘をたたえるあたたかな拍手に包まれた。ノーミス。野口は苦笑いを浮かべていた。
演技が終わった後、彼は野田監督から言われた。
「やり直しできるけど、どうする」
野口はしばし言葉につまった。
音響トラブルで演技の最中に曲が止まってしまった場合、救済措置として、選手にはその演技のやり直しが認められる場合がある。しかしそれは必ずしも、救済措置とは言い難い。何しろ、選手は渾身の力で演じる1本を、他の選手よりも1回多くこなすことになるのだ。もう一度同じだけの集中力を込め、気合いをいれ、体力を消耗して、演技を通さなければならない。
さらに野口に関して言えば、その日は大会初日だった。予選、決勝と戦い抜くことを考えると、すぐさま「もう1本、やります」と言える状況ではなかった。
彼は思案の末、やり直さずに次の種目にうつることに決めた。しかし結局、残りの3種目も、アクシデントの影響を全くうけず、というわけにはいかなかった。実はその後も試技順を間違われるなどの進行トラブルなどがあり、完全に切り替えることができた、とは言い切れなかった。野口自身の言葉を借りると「いつもと同じか、それより悪いくらい」の出来映えだった。
それでも、彼はインカレをこう振り返る。「楽しかったです」。清々しいまでの笑顔に、嘘はない。
はっきりとそう言えるのは恐らく、トラブル直後に彼と野田監督との間だけで交わされた、あのやりとりがあったからだ。
野口は高校から、個人選手として新体操を始めた。だが、高校時代の彼の演技を知る者は少ない。というのは当時、彼は県大会までの経験しかなかった。
それでも野口が大学で新体操を続けると決めたのは「新体操は、見るのもやるのも好きだから」という極わかりやすい理由からだった。そして進学後、自分の考えと現実のギャップに愕然とする。彼自身が後にそう話すように、彼はこの時、「新体操を十分に知っているとは言えない」選手だった。
個人選手として花園大学に入学した野口は、個人選手たちがリスクや投げタンだけの練習に時間を費やすことに驚いた。実は部員数の多かった高校時代、彼はリスクや投げタンだけにそこまで時間をかけて練習したことがなかった。
「4種目を2本ずつ通す」という、特に変わったことをするわけではない練習に、舌を巻いた。というのもそれまでは、限られた時間と場所に対して部員数が多すぎたため、そこまで通し練習をこなしたことがなかった。実を言うと彼は大学入学時点で手具のひとつであるロープを持っていなかった。高校ではやってこなかったので「大学入学のために買ったようなもの」だった。
そんな彼だから、大学に入ってからの苦労は想像に難くない。練習で「リスク連続10本キャッチ」という指示を出されても、野口だけがいつまでも終わらない。自然、ひとり居残りする日が続いた。そうすると、今度は次第にそれに先輩が付き合うようになった。先輩はリスク10本など軽くできてしまうから、完全に野口のための居残りだ。1年生の自分が、練習のために先輩を居残りさせてしまう状況に、とにかく恐縮しきりだった。
中でも一番悔しかったのは、リスクで「全員がキャッチするまで終われない」という練習。周囲の先輩、同級生がキャッチをする中、何度となく自分の番でリセットされる。疲労で集中力が途切れる。周囲の疲れも空気で伝わる。自分に苛立ち、悔しさで涙が出た。
さらに、野口はタンブリングも得意ではなかった。大学入学時、彼が唯一できるタンブリングは宙返りだった。そんな彼にとって、苦手なリスクとタンブリングが組み合わさった「投げタン」など、もはや恐怖といってもいいほど苦手だった。
だから、本当に信じられないことだが、彼は今でもリスクも投げタンも苦手だ。全国で上位争いを繰り広げ、あれだけ場慣れして見える野口は、その実、常に苦手意識と戦いながらフロアに立っていた。
大学1年は、とにかく練習についていくことに集中するうちに終わってしまった。だから大学2年にして全日本選手権出場を果たしたことは、その1年間の努力の賜物といって良いだろう。そして3年目になると、野口は大会での評価を確かなものにする。2年の全日本選手権18位から一気に躍進、3年の全日本インカレで入賞を果たした。そこでようやく、彼の中で余裕が生まれた。演技をこなすことから、別の視点に気付くようになった。「周りは、演技をどんな風に見ているのか」。
そのことを考え出すようになって、彼がもっとも気にするようになったのは、表情だった。例えば、今までやってきた演技のように、審判を強くにらむだけの演技だったら。自分が審判をしていたら、あまり印象に残らないんじゃないか。悲哀のある表情や、笑顔とか、人にはもっと多くの種類の表情、表現がある。それを出したほうが、印象に残るだろうし―――何より、そうした方がきっと、観ている人も楽しいんじゃないか。いつしか、そんな風に考えるようになった。
野口はそれから、曲に合わせて表情を変える練習も取り入れるようになる。曲の世界観を、動きと表情とを組み合わせて表現することに腐心する。練習中、彼からは誰よりも情感があふれるようになっていた。
8月4日、栃木県県南体育館、全日本インカレ。
音響トラブルに見舞われながら終えた、リングの演技の直後。野口がやり直すか否かを決めるまでに、監督とのわずかなやりとりがあった。
「やり直しできるけど、どうする」
野田監督の言葉に、野口は逡巡する。曲は止まったが、自分は精一杯に演技できた。次の種目からも、きっと切り替えができる。それに正直に言うと、体力的な面で、もう一度同じように演技を通す自信がない。大会での1本の消耗は、練習のそれとの比ではないのだ。
野口はやり直さずに次に行きたい、という気持ちが強かった。ただわずかに、後ろ髪をひかれる思いがあった。4年で最後のインカレだ。完全な演技をやりたい、という思いがあるのは当然だった。それはもはや、選手としての本能だ。ただそれが必ずしも賢い考えでないことも分かっていた。
彼はそのことを素直に監督に打ち明け、それから監督にたのんだ。
「自分がやり直すのをやめる、良いきっかけになる一言をくれませんか」
そして言われた野田監督の言葉で、野口はハラを決めた。
「今、会場中が味方になってくれたよ」
大学に入学して、リスク10本を目標にするところから始まった。次に投げタンもこなせるようになって、全日本選手権にも出られるようになった。余裕が出てくると、今度は表情と動きを研究して、審判と観客を楽しませたいと思うようになった。
その観客たちが今、味方になってくれているのだとしたら―――彼が演技をやり直す理由などなかった。
posted by reportage |20:18 |
花園大学 |
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2010年11月25日
当然のことだが、スポーツでは勝者を、大会では優勝者を大きく取り上げることが多い。だが、今回取り上げるのは準優勝のチームだ。このチームにとっては、それが「準優勝」という記録以上の価値があるからだ。
全日本選手権の個人では、多くの優勝者を輩出している花園大学。だが、同大会での団体での最高実績は3位だった。全日本インカレは準優勝も一度は経験してるが、今年はそのインカレでも3位。創部以来、表彰台の3段目は、花園大の定位置になってしまっていた。銅色のメダルは、もう何度となく手にしてきた。
もうかれこれ何年も、その上を目指しては、叶えられずにいた。この年の花園大の団体は、レギュラーである2人の4年生、主将の福田匠と同免木(どうめんき)亮介を中心としたチームだったのだが、彼らももちろん、その上を望んでやまなかった。
福田(奥)、同免木(手前)
2010年10月24日。インカレを終えて、多くの大学が11月下旬の全日本選手権に向けて、本格的な練習に入っているはずの時期だ。が、この時点での福田の考えるチームの目標は「とりあえず全通しをして、徒手(体操)のバラつきをなくすこと」だった。というのも、大会1ヶ月を切っていたこの時点で、花園大の団体は一度も演技を通していなかったのだ。
実は8月の全日本インカレを終えた直後に、彼らは構成を作り変えている。だが、彼らが懸命につくった演技は、野田監督に「全然ダメ」と一蹴されてしまう。
花園大の団体は、これまで他大学にない奇抜な構成で勝負をしてきた。青森大には完璧な同一性と組みなどの大きな見せ場が、国士舘にはタンブリングの強さがある。上位にいるそれらのチームに勝つために、花園大は構成力で勝負を挑み続け、それは花園大のカラーになっていた。だから、その部分で妥協するわけにはいかないのだ。
そういったわけで結局、1ヶ月ほどかけてつくった構成を、9月半ばからまたつくり直す羽目になった。そしてその結果、通しの時期は大幅に遅れることとなったのだ。
「このメンバーで新体操やれるのは最後なんで、やるからにはしっかりやりたい」と、語るのは同免木。だが、言葉尻にはやはり時間のなさへの焦りというか、もどかしさのようなものがにじんでいた。「あと1ヶ月で、最強のチームにしないと」。時間は決して多くはなかった。
それから間もなくして、全日本選手権での試技順が知らされた。聞かされた瞬間、同免木は「またか」と思った。福田は「ミスったら終わりだ」と思った。試技順は1番だった。
同免木がそう思ったのは、彼が大学に入ってからのここ数年、花園大が試技順1番をひくことが何度となくあったからだ。そして福田がそう思ったのは、試技順1番は全体の基準点になるため、点数が抑えられがちだからだった。だから「ミスしたら終わり」だ。
しかしそれは半分、現実のものとなった。
2010年11月20日、代々木第一体育館。全日本選手権の、団体予選。
試技順1番の緊張感あふれるフロアの中に、花園大学のメンバーが入っていく。それぞれが定位置につくと間もなく、曲がかかった。
花園大の演技は、序盤、選手たちの時間差の動きと、同時性とを巧みに組み合わせた構成から始まる。さらに4人がフロア中央で一列になると、それがサッと左右に分かれた、かと思うと奥から同免木が正面に向かってまっすぐに駆け出し、審判のまさに目の前でタンブリングを繰り出した。奥行きを生かした予想外の構成に、会場は沸き立つ。まず、見せ場は成功した。
が、中盤から少しずつ、調子が狂い始める。全体のバラつきはないものの、個々の選手の小さなミスが、ポロポロと出始めたのだ。主将の福田でさえ、実はタンブリングで背中を打たれて、スムーズな着地ができていなかった。そして決定的なことが、鹿倒立で起こる。
6人全員が同時に手をつき、脚を振り上げ倒立し、その片方を曲げた状態で、ピタリと止まる。
全員が頭の中で、カウントをする。
<イチ、ニィ…>
と、そこまで数えたところで、福田が隣の動きに気づいた。福田の真横の選手が、皆よりも1カウント早く、前転して降りたのが見えた。
<ああ…>
心の中で息を吐いた。絶望感が湧き上がった。
<終わった…>
隣にいたのは、同免木だった。
率直に言ってしまうと、この日の同免木は気負っていた。4年で、恐らく人生最後になる新体操の大会で、気合いが十分すぎるほどに入っていた。彼自身の言葉を借りるならば、「ビビって」いた。それが少しばかり、彼に狂いを生じさせたのだった。
しかし倒立を落ちてしまった次の瞬間には、とにかく「まだ演技は残っているから、今はミスは忘れよう」と切り替えることにした。そう言い聞かせて、何とか演技を続けた。
だが、ラストポーズを終えてフロアを出ると、気持ちが込みあがってきた。4年で、人生最後かもしれないこの大会で、ミスしてしまった自分が情けなくて、涙が出た。心の中では、彼自身も「終わった」と思った。
「お前、何やってんだよ」
試合後に言ったのは福田だった。
「本当、ダメだって」
険悪なムードすら漂う中での厳しい言葉は、同免木に追い討ちをかけるものだった。しかしレギュラーで4年が2人だけのこのチームで、彼に強く当たることができるのは福田しかいなかった。もっとも長い時間をチームでともに過ごし、同じだけの思い入れとプレッシャーを感じている彼でしかありえなかった。そして同時に、支えることができるのもまた、福田しかいなかった。
その日の夜の、花園大の宿泊先であるホテル。とことんまで落ち込んでいた同免木の部屋を、訪ねてきた人物がいた。演技直後に厳しい言葉を浴びせた、福田だった。
「ひとりじゃ寂しいだろうから、一緒にメシ食ってやるよ」
数年前、立場は逆だが、同じようなことがあった。
4年前、福田は団体選手として、同免木は個人選手として花園大学に入学した。同免木は2年から団体に転身し、自分でも「まさか、無理だろう」と思っていた中、その年のうちにレギュラー入りを果たす。福田もまた、2年の最初から団体レギュラー入りを果たしていた。
特に背が高く、ダイナミックなタンブリングが魅力の福田は、3年でもレギュラー入りは確実と思われていた。が、3年になって間もなく、福田は左足に痛みを覚える。西インカレにはだましだまし出場するも、その直後、左くるぶしの骨が欠けていることが分かった。治すには、3年のシーズンを丸々つぶさなければならなかった。
仕方なく、福田はそれからの期間をチームのアシストに費やすことにした。毎日、曲かけをしたり、練習の準備や後片付けをして過ごした。
「もともと、人をアシストとかするのは苦手なんで…大したことはしてないっすよ」
今になって話すように、それが本当にそうだったのか、謙遜なのかは分からない。だが当時、一生懸命に練習していたレギュラーメンバーには、十分な働きには映っていなかった。ある時、福田はメンバーのひとりからこんなことを言われる。
「お前、そんなことやってる場合じゃねぇだろ」
団体はチームだ。6人の選手がいるということは、6通りの考え方があるということだ。同じものを見ても、必ずしも同じようには感じない。そしてそのメンバーには、福田がサボっているように見えた。
次の日から、福田は練習に顔を出さなくなった。
練習に来なくなった福田の部屋に、同免木は何度も呼びに行った。直接「練習に来いよ」と言うことはなかったが、「おい、どうしたよ」と声をかけに何度も足を運んだ。
だが、福田が練習に来ることは一度もなかった。
そんなある日、県外の高校の監督が、練習を見に来てくれることがあった。その監督はもう何度も花園大を見に来ていたから、すぐに団体の変化に気づいた。
「おい、匠はどうした」。
ことのあらましを話すと、練習後に団体メンバーを食事に連れだした。それから、「アイツがいないと始まらんだろう。呼んで来い」と、福田を呼びに行かせた。練習には顔を出さなかったが、県外からわざわざ来てくれている監督に呼ばれたら、顔を出さざるを得ない。
部屋に呼びに行って事情を話すと、福田は食事の場にやってきた。食事を囲み、話をし、そして次の日からまた、練習に顔を出すようになった。要はきっかけが必要だったのだ。
このとき福田を呼びに行ったのも、同免木だった。
そして4年になり、主将になった福田が、今度はその立場に立っていた。「人をまとめるのは苦手なんで」「主将とか、向いてないっすね」。そう話しながら、福田はしっかりとその役割を果たしていた。その証に、決勝の日の朝を、同免木は完全に切り替えて迎えることができた。
<もう、何をしようがこれが最後の3分間だ>
そこにあったのは、予選での気負いとは違った種類の感情だった。
決勝の試技順は、予選の順位で決まる。そして花園大学の試技順は、ラストだった。つまり彼らが演技を終た時点で出た順位が、最終順位となる。
花園大学、とコールされ、福田が花園大学団体としての最後の返事をする。
「ハイッ」
位置につくと、流れ出すのはスピード感と緊張感のある曲。それに合わせた、花園大らしいシャープで一風変わった動き。それらが合わさることで、奇抜さと独自のセンスとが冴え渡った演技となる。
演技中、同免木は視野を極限まで広げて、メンバー5人の動きを捉えることに努めた。神経を研ぎ澄ませ、とにかく皆と動きを合わせることだけに集中した。すると途中から、観客席から聞こえていた声援が、だんだんと遠のいていくのがわかった。どこか離れた場所で応援の声が聞こえる。そんな感じだった。代わりに5人の呼吸だけが、異様に近くに感じた。だから彼は、それに合わせることだけにさらに意識を集中することができた。
見せ場である最初のタンブリングも、他にはないスピードある動きの組み合わせも、3つバックも、そして、鹿倒立も。ひとつひとつ確実に、成功を重ねた。集中状態を保ったままラストポーズをむかえ、演技は終わった。
フロアを出ると、皆で顔をつき合わせて口々に確認しあった。
「どうだった?」「ミスは?」「OKだった!」「OKやった!」
全員の「OK」をきいて、それからようやく、「ノーミスや!」となった。
緊張から解き放たれると同時に、急激に喜びが湧き上がって、メンバーで次々に抱き合った。と、今度は観客席から、どよめきとも、歓声ともつかない声があがった。点数が掲示されたのだ。電光掲示板は「28.625点」と表示した後、大きく最終順位を表示した。
『2th』
次の瞬間には、客席にいた花園大の部員が全員、フロアに駆け込んできた。もう誰が誰かもわからないくらいもみくちゃになりながら、でも全員が同じように喜び合って、抱き合った。
花園大学の、史上初の全日本選手権準優勝が確定した。
チームであるということは、時に楽しいが、面倒くさいものでもある。レギュラー争いもあるし、人間関係の齟齬だってある。練習など、その最たるものだ。
例えば、ある日の花園大での団体練習では、普段1時間で終わる練習を、4時間かけてやった。3分半の演技を、4つ程度のパート分割して行う「分習」、通常1パートあたり5~6本程度で終わらせるそれを、その日は1パートにつき最低20本やった。1パートあたり1時間はかかったというから、かける4で、4時間。肉体的にも、精神的にも激しく消耗するが、動きをあわせるには、それだけの労力が必要だ。
本番は本番で、同免木いわく「6人でやる分、責任も1人に6倍かかる」という。自分ひとりの失敗が、チームの点数に響く。大学での初めての大会では手が震えた。
だがそれでも大会に出たいのは、試合後の喜びがそれを遥かに凌駕するからだ。もう動きたくないほど疲れた次の日でも練習に向かってしまうのは、大会前日に一緒に銭湯に行くくらい、仲の良い仲間がいるからだ。そして何年も支えあってきた、同輩がいるからだ。
準優勝が決まった直後、同免木は話している。
「こいつが主将で良かった」
花園大学の創部以来初の、全日本選手権での準優勝。これは記録の上でももちろん、価値があることだ。だがきっとそれ以上に、彼らにとっては価値がある。
posted by reportage |03:12 |
花園大学 |
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2010年11月13日
花園大学には現在、1年時にタイトルを手にした選手が2人いる。そのうちのひとりが、谷本竜也だ。細身の体躯で、体の線を美しく見せる丁寧な体操。スピード感と高さのあるタンブリングと、同じく高いジャンプでその身体能力を見せ付ける。演技に対する集中力が、審判を見つめる強い視線が、独特の雰囲気をかもし出す。
谷本はそうした魅力を強みに、大学1年、入学してわずか4ヶ月ほどで迎えた全日本インカレで、優勝をさらった。だが、その裏には、彼が「4年になった今でも忘れられないほどに、悔しい」と語る大会があった。
それは高校3年のインターハイの、県予選だった。
岡山県出身の谷本は中学時代、地元にあった男子新体操のジュニアチーム・井原ジュニアで新体操を始めた。当時から身体能力の高かった谷本は、何人かいた同級生の中でも特に優秀な選手で、ジュニアチームでは同輩に負けたことがなかった。が、高校に入ると一転、同級生がメキメキと力をつけ始め、気づくと高校2年のインターハイ、その個人での出場権は、ジュニア時代に常に負かしていた同輩が手にしていた。
ジュニアの時代からのチームメイトだから、同じ練習を、同じだけこなしているはずだった。谷本の身体能力は変わらず高かったし、タンブリングも得意で、体操だって負けているとは思えなかった。だが、谷本は自分が負けるようになった理由を知っていた。「構成力」だ。
ジュニア時代は監督に与えられた演技をこなすだけで良かった。だが、高校では自ら演技を作らなければならない。その、演技を作りこむことが、谷本はひどく苦手だった。そしてそれは、その名の通り「個」の表現力を発揮する場である個人においては、致命的とも言える弱点だった。
4年間、大学で個人選手として活躍していながら、谷本は「自分は手具操作が苦手で」「演技もつくれないし…」「本当は自分は団体向きなんですよね」などと、はにかみながら話す。確かに、個人選手は手具を操って見せるのが得意だったり、自分で表現したいものがあることが大前提にある。ならなぜ、谷本は大学で個人選手の道を選んだのか。
高校2年の夏。谷本は県予選でチームメイトに敗れて、インターハイ出場権を逃した。確かに、インターハイ出場を決めた同輩に比べると、自分の演技はつまらないものに思えた。彼の演技は素晴らく、常に自分や周りの高校生たちの、ひとつ先をいっているように思えた。そのよく作りこまれた演技と大きな体操は、すでに大学生のレベルに達しているようにすら見えた。
谷本は、毎日練習をともにすることで自分はその点では及ばないことを実感させられた。なら、どうするか。結論はひとつしかなかった。最後のインターハイ出場に向けて、谷本はかねがね評価されていた「身体能力」で勝負することにした。人よりも高いジャンプ力と、タンブリング能力を存分に見せつける。「とにかく動いて、動いて」、その一点をアピールすることを突き詰めた。
そして迎えた高校3年の初夏。谷本は県予選で高得点をたたき出し―――谷本と、去年インハイ出場を決めた同輩との同点優勝となった。
しかし、インターハイに出場できる個人選手は各県1名。同点優勝の場合は「種目別で最高得点を出した選手に」出場権は与えられることになっていた。
そしてそれは、谷本ではなかった。
県大会後、谷本は監督に声をかけられた。「お前、絶対大学でも新体操続けろよ」。
演技を作りこむことが、谷本はひどく苦手だった。そしてそれは個人選手にとっては致命的とも言える弱点だった。だがこの時、谷本は大学で個人を続けることを決めた。
その翌年の2007年。花園大学に入学した谷本は、多くの大学1年生が新しい練習に環境に戸惑う中、一人練習に没頭していた。彼自身、勝ちを意識したことはなかったが、高校時代のように「動いて、動いて」アピールする新体操に磨きをかけ続けた。結果、その年の全日本インカレで、同級生はおろか、上級生も押しのけて、1年にして優勝を果たした。
普段、花園大の体育館での谷本には、奔放というか、天真爛漫というか、純粋というか、そんな言葉が当てはまる。後輩にいたずらを仕掛けてみたり、突然デジカメを取り出して人を撮ってみたりする。真面目に大会の話をしたかと思えば、「ここ、見てください」と肘を見せて「こないだ洗濯してて、振り返ったらガーン!って洗濯機に肘ぶつけて…めっちゃくちゃ痛かったんです」なんてことまで真面目に話したりする。誰に対しても、何に対しても変わらず、自然だ。
そしてそれは新体操に対しても同じだ。
「楽天的な性格なので、(大会や練習も)みんなでワイワイ楽しんで。大会でも、自分の納得いく演技で終われればと思ってます」
大会ではいつも「心臓が飛び出るかと思う」ほどに緊張する。大会当日の朝など、おにぎり一口で吐き気をもよおすほどだ。
怪我で思うように練習ができなくなることも、やる気が出なくなることもある。そんな時は大会のDVDを見ることにしている。画面上を動き回る、様々な選手の、個性的な演技を見ていくうちに―――ああ、やっぱり自分は新体操が好きなんだなぁと思う。
構成づくりが苦手な谷本が大学で個人の道を選んだのは、高校時代の悔しさから。そして 「やっぱり、新体操が好きだ」から、だ。
大学3年頃から、谷本の演技には深みが出てきた。1、2年の頃のようなスピード感と勢いでかき回すような演技ではなく、体操ひとつひとつが成熟され、それだけで見せられるような選手になっていた。美しい体の線だけで、周囲を圧することができるようになっていた。
演技中、審判の真正面で手具を投げ上げ、技を入れてからキャッチするシーンがある。そのキャッチの瞬間、彼の目は手具を見ていない。審判をまっすぐに見据えたまま、「どうだ」とばかりに、強さと余裕をみせてキャッチするのだ。そのアピール力に、気圧される。それらはもう、テクニックのレベルではない。彼がジュニア時代から変わらず続けてきた基礎体操の練習や悔しかった経験、そして新体操が変わらず好きであること。そういったものによって作り上げられたものだ。
谷本は1年でインカレを制して以来、タイトルを手にしていない。「最後の全日本選手権での目標は?」という定型文の質問への回答は、決まり切っていると思っていた。
だから、彼の答えには面食らってしまった。
「最後の大会なので、自分が新体操が好きだってことを、みんなに伝えたいです」
それはなんとも、彼らしいものだった。
やはり彼は、奔放というか、天真爛漫というか―――いや、純粋なのだ。
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花園大学 |
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2009年08月23日
花園大学に入学した1年目の目標は「とにかくジャパン(全日本選手権)に出ること」。シーズン最後に控えた最高峰の大会は、「自分を試す」には最高の舞台だった。
しかし、インターハイレベルならばまだしも、ビデオで見ているだけの存在だった、全日本選手権の選手と自分にはどのくらいの差があるのか、皆目見当がつかなかった。
どこまでやれば追いつけるのか分からなかったから、彼はとにかく、毎日練習の本数をこなすことにした。「“ビデオの人たち”は上手いから」と、これまでにないほどに演技をやりこんだ。
するとある日、先輩から声をかけられる。「お前、こけたろ」。痩せて頬がこけている、というのだ。毎日人並みか、それ以上に食事は摂っていたし、甘いものも大好きだったが、それでも、食べても食べても体重は減った。食事が運動量に追いつかなかったのだ。
そこまでの努力の甲斐あって、目標だった1年での全日本選手権出場は果たした。団体に比べ、個人では全国の経験が極端に乏しかったが、初めて経験する最高峰の大会は「楽しかった」のひと言に尽きた。もともと冷静な性格に加えて、自分が試される場面や、プレッシャーのかかる状況を楽しめる性質だ。大きな場所で、様々な人が自分を評価してくれる場所は、たまらなく面白かった。
そこから大会に向けての調整の仕方をつかんでいった彼は、翌年も掲げた目標を達成。さらに3年になると早々に構成づくりをすすめ、シーズン序盤でかなり演技を作りこんだ。就職活動が始まることを考え、4年では演技づくりに時間をかけられないと考えてのことだった。
この、つくりこまれた演技は高い評価を得る。それまで二桁順位だった彼が、全日本インカレ4位、全日本選手権で準優勝と大躍進を遂げた。いつしか、春日とも肩を並べていた。
4年になった今年は、彼にとって最後の年になる。だが、大学入学当初、初めての全国の舞台が「楽しくて仕方なかった」彼である。大きな舞台とプレッシャーは、あの頃のまま、楽しみ以外の何物でもない。全日本選手権の会場・代々木体育館という大きな舞台には瞳を輝かせ、「できればトリがいい」とまで言ってのける。
頭の回転が速く、一度、話の糸口を見つけると、饒舌なまでに話をしてくれる。しかし、そんな彼が先のこととなると、途端に言葉をにごす。何度かした「今後の大会での目標は」という質問も、最後まではぐらかされてしまった。聞けば「目標は言ったところでどうなるんだ、と思うので。そういうのは、うちに秘めて、行動で示せば良い」のだと言う。
不言実行。なるほど、彼の実践してきたことそのものである。
ただ、先の目標を言葉にしない彼が、以前、話してくれたことがあった。花園大での彼の先輩にあたる、柳川祐輔に話が及んだときのことである。高校時代、個人選手としては無名だった柳川が、全日本選手権で準優勝する選手にまで登りつめた。その姿に多大に影響を受けたということ。そして「無名で大学に入っても、活躍できるんだってことを、自分も後輩に教えたい」ということ。
確かに、目標は言葉にする必要などないのかもしれない。彼の行動と実績は、十分にそれを伝えている。
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花園大学 |
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2009年08月20日
試合で彼がミスする姿を見て、他大学の監督がこんなことを言っていた。
「お前でもミスするんだな。なんだかお前も人間だったんだって、ホッとしたよ」。
彼、鈴木一世のイメージを象徴するようなセリフだと思った。
昨年の全日本インカレでも、こんなことがあった。大会への出発前日、彼は練習中にスティックをぶつけて手の平を負傷。4針縫う大怪我だったが、治療後すぐに大会に向かった。しかしあろうことか、それが本番の演技の最中に2針、とれてしまった。それでも、4種目をノーミスで通しきり、順位は堂々の4位。
鈴木はミスの少ない選手ではあるが、当然ながら全くミスをしないわけではない。しかし、その後の様子が、人と少し違っている。
例えば手具を取り落としても、その後の演技にひびくことがまずない。それを、多くの場合は「気持ちの切り替えが早い」と評価するが、彼の場合は少し違う。
気持ちの切り替えが早い、ということは、ミスによって落ち込んだ気持ちをすっぱり忘れられる、ということである。が、彼はまずミスをした時に、気持ちが落ちているように見えないのだ。むしろ直後には、ふっと空気が緩むようにすら思えることがある。諦めている、とうわけではない。そのミスを、ひとつの独立した事実とし受け取めている、という風に見える。起こったことは起こったこととして受け止めるが、それ以上でも、以下でもない。だから、その後に影響を及ぼすことがないのだ。
根本的に気落ちすることがないわけだから、切り替える必要などない。彼は起こったことを冷静に受け止めて、その後、なすべきことを為しているだけなのだ。だから、冒頭のような言葉もかけられるし、たとえ4針縫う大怪我をしていたとしても、それは彼にとってもひとつの出来事にすぎない。ミスや怪我は、彼にとって心理的に、プレッシャーを与えるものにはならないのだ。
人と話すときには、明瞭で率直な語り口をする。内容も合理的で、筋が通っている。自分の決めたことは、周囲に影響を受けることなく、淡々と行う。彼のこれまでの実績も、その性格を象徴するようなものだった。
大学1年での目標が「ジャパン(全日本選手権)に出ること」、2年でのそれが「ジャパンで決勝に残ること」、そして3年では「6位入賞」。そのどれもが、果たされている。苦労話をあまり語らない彼の口から聞くと、それは淡々と達成されたように思われるのだが、そこには確かに、努力の跡がある。
「高校時代はリザーバーだったんで」という言葉通り、高校時代の彼は常に2番手の選手だった。出身は北海道恵庭南高等学校。その同学年に、現在は青森大の春日克之がいる。去年の全日本選手権覇者だ。そのため高校時代、鈴木には個人での全国大会出場経験がない。高校1、2年時はもちろん、「気分屋でやる気にむらがあった」という彼が、体育館にひとり居残って「極秘練習」をして臨んだ高校最後の道内大会でさえも、0.025点差で春日に敗れている。
団体で出場することになったインターハイの会場で、「何で俺が出られないんだろうか」と、個人の試合を見ていた。決して、そこから大きく後れをとっているとは思えなかった。全国の場で自分を試したいという思いは、強くなった。
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花園大学 |
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2008年12月02日
しかし、である。実施に重きをおいた演技というのは、正直なところ面白くない。技の精度を高めることが最優先になるから、同じ難度でもより確実な、言ってしまえば派手さのない技を入れる。動きにしたって、シンプルであればあるほど、実施点は取りやすいのだ。
まず初めに基礎を固めて実施点をあげる、というのは、よくよく考えれば当然のことで、決して奇をてらった方法ではない。だから感心したのは方法そのものではなく、彼がそれをストイックに行ったということの方だった。
彼はそもそも、能力が低い選手ではない。高校時代に目立った成績を残していないとはいえ、地元では「アイツは、本当にすげえ」と上級生から噂されるほどだった。
そもそも男子新体操、とりわけ個人は、自分を表現してナンボの競技である。演じるのは自分ひとりだから、自分の考えを動きで表現し、評価を得ることが醍醐味の競技。選手にも、新しいことや自分の個性で周囲をあっと言わせることに、達成感を覚える気質が多い。
彼はすでにある程度、自分のしたいことを表現できる能力を持っていた。それでも、シンプルな演技で実施点を上げることに努めた。
自己表現とは正反対に当たる、決められた演技を確実にこなすことは、個人選手にとっては競技から魅力そのものを奪うようなものである。
それでも、あえてその道を選んだのは、彼にとってそれが「勝つ」方法としては確かなものではなかったからだ。それは何よりも高校時の実績が示している。
だから、地道な、それでも自身が確実に結果が出ると信じたプランを選んだ。
彼はそれを大学に入ってから自身が納得するまで続けた。個人選手がもっとも自分を表現できるはずの構成づくりでも、決してつくりこむことはせずに、一度つくったものを多少手直しする程度にとどめた。
それよりもひとつの演技を徹底的にやり込むことに集中した。彼はこともなげにこのことを語ったが、いつ結果が出るか分からないことのために、自身が本来望まないことを続けるということは、恐ろしく胆力のいる作業である。それはまるでゴールの見えないマラソンを走るようなものだった。
ただ、彼はこのマラソンの中にも少しずつ、喜びを見出していった。成績では1年時に比べて2年の方が劣っているが、着実に延びる実施点に、やりがいを感じていった。構成でみせる選手を順位で上回ったときには、ひとり喜びを噛みしめた。そして2年の秋に行われた、関東圏の大学の集う交流戦で、彼は確信を得た。実施で、9.4の高得点をたたき出したのだ。機は、熟した。
その翌年、つまり今年の春からつくった棒とリングの演技は、5~6回も作り直しをし、自分の納得した作品をつくり上げた。それまで決して行わなかった、つくりこんだ構成は、周囲からも以前より良くなったと評価された。
さらに身体的な特徴を生かした表現も加えられた。彼の左腕は、過去に骨折している。そのため手の平を上にして両腕を左右に伸ばすと、左腕だけが肘からしなるようにして反り返る。奇妙な傾斜がつくのだ。両腕を上にあげたり、左右に伸ばしたりといった基礎的な体操をするときには、これを目立たなくするために左肘を少し曲げるようにして調節して動かしていたが、柔らかな表現ではこのしなった腕も魅力になると気付いた。
彼は柔軟な動きを表すときには、必ず左手を用いるようになった。その、本来人にあるはずのないラインは、彼だけの持ち味になった。
基礎と演技の精度を高めることを、1年以上に渡って積み重ねてきた彼が、本来持っている構成能力を開花させれば、結果は火を見るより明らかだった。彼は突然、上達したわけではなかった。ただ待っていたのだ。彼のプランに合わせた、タイミングを。
今年の全日本選手権に、木村は高校3年以来、出場を果たす。もう、あの頃のように「旅行気分」ではない。
今回の話を聞いて、彼のストイックな姿勢に正直なところ驚かされた。冷静で、どこか淡白な印象のある選手だと思っていたからだ。ただ、恐らく彼にとってこれは、「しんどいことをがんばり続けて、やりとげた」という、情熱溢れるストーリーではないのだろう、とは思った。彼はただ、自身の思う最適なプランを選んだだけなのだ。
木村はフロアを歩くときに、まるで氷を踏むような、慎重な動作をみせることがある。走るときも、足を極力浮かさず、地面をするようにして走る。それは、長年抱えている故障のためだった。
高校時代から、彼は両足首を痛めていた。慢性化していたその痛みを、自身ではねんざ程度にしか考えておらず、病院にいくことはしなかった。
それが、大学に入ってから監督のすすめで診察をうけたところ、両足のじん帯が断絶していたことが分かった。片足に2本ずつある大きなじん帯の、それぞれ外側のものが完全に断ち切れていた。痛みを押してもなお動き続けられたのは、すでにその部分の筋肉が、じん帯の代わりを務められるほどに発達していたためだった。
故障に負けない、素晴らしい選手の話をしたいわけではない。このことが、彼の性格と微妙にリンクするように思えたのだ。
じん帯を断絶すると、場合にもよるが、それを縫い合わせる手術が必要になる。手術すれば最低1週間程度は入院が必要、歩けるようになるまで1月程度かかり、ギプスが外れるようになるまでさらに1月かかる。2ヶ月の間、まったく動けない期間をもつということは、スポーツをする者にとっては脅威だ。
大きく損傷したじん帯をカバーするだけの筋肉を養うためにかかる期間は個人によってことなるが、鍛えれば筋肉は必ず育つ。痛みは伴うし、時間もどれほどかかるか分からないが、その間、体を動かし続けることはできる。足首は悲鳴を上げる代わりに、耐えながらただ黙々と、その代用になる筋肉を鍛えた。
痛みを伴うし、先は見えないが、確実な方法―――彼が選んだプランと、似てはいないだろうか。
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花園大学 |
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2008年11月28日
06年 大学1年生 全日本インカレ 17位(全日本選手権出場ならず)
07年 大学2年生 全日本インカレ 20位(全日本選手権出場ならず)
08年 大学3年生 全日本インカレ 準優勝
彼の実績を調べると、思わず感嘆の声が漏れた。これほどの短期間に、これだけ順位を上げた選手が近年でいただろうか。
そしてさらに嘆息を誘ったのは、これが全て、彼のプラン通りに進んだ結果であるという事実である。
今年8月の全日本インカレ。しっとりとした曲と、その演技にあわせてあつらえたような、長い手足が織り成すしなやかな動き。柔らかな手先の表現、絶妙な間。その全てに、空気を染め上げるような雰囲気があった。ライバルであるはずの青森大の選手から「アイツが優勝でも良いと思った」とまで言わしめたこの演技で、全日本インカレ準優勝。これまでの自己最高順位を記録した。
木村功という名前でピンと来る人がいたら、そこそこに男子新体操に詳しいか、東北出身の人間に限られるかもしれない。先にあげたこれまでの大会結果、高校時代の成績、そして彼自身が「全国で無名の選手」と自分を評するように、全国レベルでは決して目立った選手ではなかったからだ。
高校は福島県立葵高等学校。馴染みのない名前はそのはずで、福島県で男子新体操といえば会津工業の名前がまず出てくる。県大会でそこを勝ち抜いたところで、東北には青森山田、盛岡市立のふたつの雄が待ち構える。県とブロック大会を勝ちあがって全国に出場するだけでも、簡単なことではない。高校時代の記録は、2年時の選抜大会9位、3年でのインターハイ8位。この年はインターハイ8位までは全日本選手権への出場権が与えられたから、それにも出場している。
こうした背景を知れば或いは、たいしたものだ、と思えるかもしれない。しかし順位表を見ただけでは決して取り立てたものではない。当の本人も、全国大会への出場を決めたところで「旅行に行けるなぁ」と思った程度で、そこで勝ち抜こうなどという気はさらさらなかった。
そんな彼が、全日本インカレで準優勝。…仕掛けなしには、考えられない。
きっかけは、花園大学への入学だった。とにかく個人競技に定評のある花園大学、その層の厚さは他大学の比ではない。インカレの予選である西インカレでは、例年同じ大学同士でしのぎを削り、多くの選手が振り落とされた。人数は多いが、練習場のフロアは1面しかないし、団体もあるので時間も限られている。
自由な気風で、学年関係なくフラットなイメージのある花園大だが、その実、誰もが互いにライバルであることを忘れてはいない。他の選手を出し抜くために、人目につかない場所で練習する選手もいた。誰もが闘志をもち、それを内に秘めていた。そんな環境にいれば自然、勝ちに対する意識は芽生える。では、勝つためにどうするか。
このとき彼は、具体的な方法も提示されている。主将からこんなことを言われた。
「好きな演技をやりたければ、1、2年のうちに実施で点を出せるようにならなること。実施で基礎的な能力があることを周囲に認知させてから、好きな演技をすれば、点数がついてくる」
新体操は、実施点と構成点というふたつ側面から採点される。構成はその名の通り演技の構成、入っている技や動きについてつけられる点数で、実施は演技の完成度についてつけられる。例えば、投げ上げた手具を、歩かずにその場で受け取ったり、タンブリングの着地でピタリと止まったり、という具合に、演技の熟練度合いを測る。
さらに平たく言うなら、おもしろい演技では構成点が、ミスのない演技では実施点がつく。個人ではこのふたつを10点満点で採点し、その2分の一ずつを足した合計が点数となる。
複雑で面白みのある演技をすれば構成点は伸びやすいが、難しい構成はその分リスクがある。ミスが出れば実施点を引かれるから、このふたつは反比例関係にあるといってもいい。
そんな中で、先輩は彼に「1、2年のうちは実施で点が取れる演技をしろ」と説いた。ひとつには、ミスなく演技をこなせる基礎がなければ、難しい構成などこなせるはずがないからだ。そしてもうひとつは、無名な選手が、自分のやりたいような演技で点数をとるためには、まず周囲に実力があることを認めさせなければならないからだ。
実施で高得点を出せば、基礎的な能力があることを示せる。基礎が未熟なうちに、或いは名前も通らないうちに変わった演技をしたところで、高得点は望めなかった。何より、彼自身が「点数の出ない、個性的な演技」をすることに意味を見出せなかった。
勝つという目的に、手段が加わった。あとは実行に移すのみ。…しかし。
posted by reportage |23:51 |
花園大学 |
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2008年05月17日
花大に訪れた2日間はちょうど、選抜大会を控えた岡山精研高校が、合宿に来る時期と重なっていた。大学生は精研の長田監督に演技を見てもらい、高校生は大学生から刺激を受ける。お互いのために、自然にできあがった構図だと、長田監督は話す。
そうして花大の構成づくりをみている最中、ふと長田監督が団体メンバーを呼び寄せた。全員がフロアをおりて、長田監督、昨年から花大を率いることとなった野田監督を中心に、車座になる。フロアは、がら空きになる。
ちょっとした指示でもあるのかと思えば、その話は1時間以上に及んだ。個人と団体の両方のある部、とりわけ個人の多い花大では、フロアを使える時間というのは限られている。そんな中、彼らは1時間以上もフロアを空け、監督を囲んで、身を乗り出さんばかりにその話に聞き入った。
音楽が鳴り響く体育館の中、決して大きくはない声で行われた話し合いで何とか拾うことが出来たのは、「日本一」の言葉だった――――
花大が岡山精研高校と度々練習をともにするようになったのは、07年の夏、当時からあった長田監督と野田監督のつながりをきっかけに始まったことだった。
「絶対、優勝したい」と常々語っていた当時の4年生は、最後の年となるこの年に思い切った行動に出る。知る限りではそれまで例のないことだったが、大学生の方から高校に足を運び、合宿を行ったのである。これまで、大会前に高校生が大学に練習に行く、というのはよく見られることだったが、逆は非常に稀、私の知る限りでは初めてのことだった。高校生を牽引する立場であるというプライドが、それを許さなかったからだ。「あんまり(高校に練習に行っていると)言いたくないですね」とその心情を語る古河の言葉からも、それは伺えた。
そんな思いをふりきってまで、当時の4年生が合宿を敢行したのは、ごく純粋な「勝ちたい」という思いのためだ。そして「自分たちは、その土台づくりをしたい」という、力強く潔く、そしてどこか切なさを感じさせる決意のためである。
高校での合宿は岡山の精研高校に始まり、鳥取の智頭農林、佐賀の神埼清明、香川の坂出工業と、4年生の母校を中心にまわった。
花大はもともと上下関係が薄く自由な気風のためか、新しいことに取り組むに当たり、柔軟性や吸収力に優れている。合宿を通じて多様な環境で演技することは、あらゆる意味での対応力を養うことになり、その特長に磨きをかけた。高校の監督からの様々な講評からは多くを学ぶことができた。しかし何より、勝つためにプライドを投げ打っての行動に出た、彼らの心の変化こそが最も大きな意味をもっていた。
全日本選手権で高い評価を得たあの演技は、そうした背景の下、岡山での合宿の中で生まれた。インカレを終えて、「どうやったら勝てるか」を真剣に考えて臨んだ合宿だったが、当初、構成をそこまで変える予定はなかった。しかし、演技をつめていく過程で、どうしてもつじつまが合わないところが出てきてしまい、先に進むことができなくなった。散々悩んだ結果、思いきり変えてしまおう、ということになり、急遽構成の半分をつくり変えることを決めた。突然の、それも大幅な変更である。
当然ながら練習は長時間に及んだ。集中力が切れてくると、互いに声をかけ合った。「モチベーションを上げてくれる」という長田監督の話は、このときも彼らの力になった。
難航を極めながらも第2タンブリング、演技の中盤までをなんとか仕上げることがでした。午前11時からはじまった練習、気がつけば時計の針は午前5時を指していた。
そうまでしてつくった演技だったが、大学に持ち帰ってからも、後半部分の制作には苦心、一時は「インカレのときの演技に戻すか」という話まで出た。
さらなる試行錯誤の末に新しい演技が出来たのは、大会一ヶ月前のことだった。
――――車座での話し合いが終わると、選手たちはまた鏡に向かって動きの研究を始める。ビデオにおさめては、新しい演技を模索する。
「絶対に、優勝」して「日本一」になるために間違いなく壁となるのは、現在全日本選手権を5連覇中の青森大学の存在である。彼らを超えることは容易ではないが、花大には飛びぬけた柔軟性と吸収力からくる、「豊富な発想力」がある。
高校に合宿に行くことに抵抗はなかったか、とたずねたとき、古河は「でも、勝ってないチームがプライドもっても仕方ないんで」とこともなさげに話した。
負けじ魂と同居するのは、潔さと転じることを恐れない強さ。絶えず変化し続ける挑戦者の姿は見ていて楽しく、そしてどうしようもなく、わくわくするものである。
06年に花園大学を卒業、その翌年に同大学の監督となった若き指導者・野田光太郎。彼は現在部員の確保、とりわけ団体メンバーの獲得に奔走している。
高校生の大会では、スカウトに訪れるスーツ姿の彼に何度となく出会った。スター選手の彼が声をかければ高校生はイチコロなのでは、と思ったが、団体となると話は別らしい。 今の部の課題は、とたずねると「とにかく団体に人を入れることです」と話す。どうやらこれが目下のところの野田監督の悩みらしい。
しかし07年11月、全日本選手権で花大の演技を見た「あまり新体操が好きじゃなかった」高校生は、この春、花園大学の門を叩いた。「今までにない構成で、ここに入ってやりたいと思った」。そう語る山中は、今年、埼玉栄高校から花園大学に進学、団体レギュラー入りを目指す。
若き監督の悩みも、もうじきなくなるかもしれない。
posted by reportage |23:04 |
花園大学 |
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2008年05月07日
男子新体操・団体の構成づくりは見ていて楽しい。
常に新しいことを求め、手探りの状態で色々な動きを試す様子は、どこか練習後の遊びのような雰囲気がある。いつもの練習よりも柔らかな空気の中だから、自然、笑顔も多くなる。普段練習に真摯にむかう選手たちの違った一面が見られることを、楽しいと感じる。
ただ、ここではそれとはまったく別の理由で構成づくりが楽しかった。
「構成づくりとはこんなにわくわくするものだったか」と改めて感じさせられ、どうしようもなく胸が躍った。そんな練習をするのが、花園大学だった。
07年の全日本選手権、そのサブ会場で彼らの流し練習を見ていて、今年の出場校の中で一番面白い構成だと思った。「今年の花大の構成は良い」という評判は、その日の予選競技の後、方々で聞かれた。“個人の花大”の、何かが変わったのだと感じた。
人の心を動かすものの裏側には、それ相応の物語がある。花園大学も、その例に漏れない。
花園大学の歴史は、たったひとりの選手の偉業から始まる。まったくの無名、部員は監督一人に選手一人、練習場所は体育館の外という環境から出発した杉本清志が、01年の全日本インカレで優勝をかっさらった。ドラマチックとしか言いようのない出来事だった。
さらに杉本が卒業した翌年、彼に勝るとも劣らない存在感を放つこととなる、野田光太郎が入部。翌年、杉本と同じ表彰台の高みに上った。彼の今まで誰も知らなかった“新”体操は、その後の多くの個人選手に影響を与えた。そういう意味では、彼は優勝以上のことを成し遂げたと言える。
ふたりのスターの存在に多くの高校生は憧れ、次々に花園大学の門を叩いた。部員1名から始まった花大男子新体操部は、いつしか西インカレでその多くがふるいにかけられるほどに部員を増やした。
そうした中で生まれたのが、花大の団体だった。だから、“個人の花大”と言ってはばからないのも、仕方のない話ではあった。事実07年のインカレ、全日本選手権の個人競技を制したのは、どちらも花大の、それも1年生だった。
花大の構成づくりの面白さは、「発想の豊かさ」ということに尽きる。
補欠を含めた8人の選手が、それぞれ思いつくままに動きをつくる。何かピンとくるものがあれば、「あ、良いんじゃない」と拾って、皆で煮つめてみる。が、結局うまくいかず、またやり直し。その、繰り返しだ。
驚かされるのはそのペースの速さと、幅の広い発想だ。わずか数分の間に、いくつもの新しい動きが生まれては消えた。さらに、その動きが使えないと分かると、さっきまでの練習はいったい何だったんだと思うほど、まったく違う動きを始める。構成を考えていると、どうしても似たような動きに固執してしまいがちだが、ここではそんなことはまったく無い。皆が皆そうだから、このチームはおよそアイディアにつまる、ということを知らない。
団体チームリーダーの古河孝章は、その最たるものだった。2人組でストレッチをしているときですら、「こっから何かできねぇかな」とひとりごちた。
さらにフロアを片付け、もう帰ろうかという頃。花大の体育館は20時半に閉まるのだが、古河が「あ、去年つくったやつがあった」と鏡に向かいだしたのは20時20分。結局彼は、見回りの守衛が来る間際まで、構成づくりに没頭していた。
そんな一方で、3年の田中芳直が構成づくりの最中、「何かアイディアない?オレ、ありきたりなのしか思いつかないから」と意見を求めたのは、1年の、それも個人選手の谷本竜也だった。花大の構成は、学年や、個人・団体の垣根すら越えて生まれる。
posted by reportage |00:03 |
花園大学 |
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