2008年05月07日
男子新体操・団体の構成づくりは見ていて楽しい。
常に新しいことを求め、手探りの状態で色々な動きを試す様子は、どこか練習後の遊びのような雰囲気がある。いつもの練習よりも柔らかな空気の中だから、自然、笑顔も多くなる。普段練習に真摯にむかう選手たちの違った一面が見られることを、楽しいと感じる。
ただ、ここではそれとはまったく別の理由で構成づくりが楽しかった。
「構成づくりとはこんなにわくわくするものだったか」と改めて感じさせられ、どうしようもなく胸が躍った。そんな練習をするのが、花園大学だった。
07年の全日本選手権、そのサブ会場で彼らの流し練習を見ていて、今年の出場校の中で一番面白い構成だと思った。「今年の花大の構成は良い」という評判は、その日の予選競技の後、方々で聞かれた。“個人の花大”の、何かが変わったのだと感じた。
人の心を動かすものの裏側には、それ相応の物語がある。花園大学も、その例に漏れない。
花園大学の歴史は、たったひとりの選手の偉業から始まる。まったくの無名、部員は監督一人に選手一人、練習場所は体育館の外という環境から出発した杉本清志が、01年の全日本インカレで優勝をかっさらった。ドラマチックとしか言いようのない出来事だった。
さらに杉本が卒業した翌年、彼に勝るとも劣らない存在感を放つこととなる、野田光太郎が入部。翌年、杉本と同じ表彰台の高みに上った。彼の今まで誰も知らなかった“新”体操は、その後の多くの個人選手に影響を与えた。そういう意味では、彼は優勝以上のことを成し遂げたと言える。
ふたりのスターの存在に多くの高校生は憧れ、次々に花園大学の門を叩いた。部員1名から始まった花大男子新体操部は、いつしか西インカレでその多くがふるいにかけられるほどに部員を増やした。
そうした中で生まれたのが、花大の団体だった。だから、“個人の花大”と言ってはばからないのも、仕方のない話ではあった。事実07年のインカレ、全日本選手権の個人競技を制したのは、どちらも花大の、それも1年生だった。
花大の構成づくりの面白さは、「発想の豊かさ」ということに尽きる。
補欠を含めた8人の選手が、それぞれ思いつくままに動きをつくる。何かピンとくるものがあれば、「あ、良いんじゃない」と拾って、皆で煮つめてみる。が、結局うまくいかず、またやり直し。その、繰り返しだ。
驚かされるのはそのペースの速さと、幅の広い発想だ。わずか数分の間に、いくつもの新しい動きが生まれては消えた。さらに、その動きが使えないと分かると、さっきまでの練習はいったい何だったんだと思うほど、まったく違う動きを始める。構成を考えていると、どうしても似たような動きに固執してしまいがちだが、ここではそんなことはまったく無い。皆が皆そうだから、このチームはおよそアイディアにつまる、ということを知らない。
団体チームリーダーの古河孝章は、その最たるものだった。2人組でストレッチをしているときですら、「こっから何かできねぇかな」とひとりごちた。
さらにフロアを片付け、もう帰ろうかという頃。花大の体育館は20時半に閉まるのだが、古河が「あ、去年つくったやつがあった」と鏡に向かいだしたのは20時20分。結局彼は、見回りの守衛が来る間際まで、構成づくりに没頭していた。
そんな一方で、3年の田中芳直が構成づくりの最中、「何かアイディアない?オレ、ありきたりなのしか思いつかないから」と意見を求めたのは、1年の、それも個人選手の谷本竜也だった。花大の構成は、学年や、個人・団体の垣根すら越えて生まれる。
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2008年04月21日
精研の選手の保護者は、目を細めながらこう語る。
「自分の子どもの動きが、どんどんキレイになっていくのを見るのが楽しくって」
もともとは恐らく、単純に自身の子どもの練習や演技を見ていただけなのだろう。新体操を見ていたというよりは、多くの親がそうであるように、子どもの変化を目で追っていただけに違いない。
しかしそれはごく自然な形で、いつしか新体操の細やかな徒手の変化までも見て取れるほどの観察眼を養った。
男子新体操の団体で、多くの人が魅力だとかんじるのはやはり、ダイナミックなタンブリングや組みである。しかしだからこそ、それ以外の徒手の違い、良し悪しが分かると、新体操の面白さ・興味はより深いものになる。それを知ってしまったら、彼らは熱烈な岡山精研のファンになるより他なかった。なぜなら精研の徒手は、確かに美しかったからだ。
徒手の徹底は、期せずして保護者をどこよりも見る目のある、熱心な新体操ファンにすることとなった。
さらに、保護者の熱意は応援だけにはとどまらなかった。
昨年12月15日、岡山で3回目となる「岡山新体操フェスティバル」が開催された。基本的に岡山精研を筆頭とする地元のチームと、招待選手の演技が中心となる演技会なのだが、その内容は「演技会」というにはあまりにも豪華だ。
圧倒的な存在感で過去にインカレ、全日本選手権を制し、昨年の全日本選手権では花園大学の監督をつとめながら、4位入賞まで果たした野田光太郎。彼による、他では決して見られない男女新体操のペアの演技。
全日本選手権覇者、花園大学・北村将嗣による演技。インカレチャンピオン・谷本竜也による、おそらく男子では初となる「リボン」の演技。
ただ、そうした演目はもちろんなのだが、その一方で印象的だったのが、保護者たちの姿だった。フェスティバルの運営はほぼ全て、保護者の手によって行われる。それはフロアをしくところから始まるのだが、一度や二度やった程度では慣れないフロアの準備を、20名ほどにもなる保護者たちが皆、実に手際よく行っていく。通常、1時間程度をみるフロアの準備を、彼らはたったの30分程度で終わらせてしまう。
さらに練習中の、膨大な量の差し入れはもちろんのこと、招待選手は皆、保護者の家に泊まるよう、準備を整えてある。その日の夕食は大きな長机に乗り切らないほど、保護者たちのもちよりでいっぱいになった。
フェスティバルでは観客の誘導から、アナウンスまでを保護者が行う。「いつも、こちらがやって欲しいと思う以上のことを、何も言わなくてもやってくれる」という、長田監督の言葉通りの光景だった。
そしてフェスティバルのそうそうたる演目の中で、何よりも目を引いたのは、保護者による演目が入っていたことだ。「大人の新体操」と題されたそれは、長田監督、井上監督ら指導陣も加わって、基礎的な体操を音楽に合わせて行う。
ここまでくるともはや熱心、という言葉では片付けられないし、献身的、とも少し違う。彼らは岡山精研の美しい徒手に、いや、今となっては男子新体操そのものに、心酔しているのだ。
美しい徒手、流れのある独創的な構成、保護者との強い結びつき。それらは決して「隠された本質」になど起因してはいなかった。大会会場でみせる、場の空気を変えてしまうような美しい演技。それが、全てだ。
とはいえ、まだ岡山精研に関しては知りたいことが山ほどある。大会前には深夜にまで及ぶという練習の内容、そうした長時間の練習にも耐えうる選手たちのメンタル、あの構成のつくられる過程―――そういったものも、その「全て」によるものなのか、よく観察しなければ―――
などというのは口実で、実は単純に、あの美しい徒手と、それを見守るどこよりも熱い新体操ファンに、もう一度会いたいだけなのかもしれない。
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2008年04月20日
「徒手をしっかりやることは、遠回りに見えて一番の近道」
長田監督のこの言葉は、自身の経験と結果に裏付けられたものである。
男子新体操の大きな見せ場といえば、ダイナミックなタンブリングや、組みなどの大技が代表的である。だから、それ以外の動きである徒手を徹底するということは、一見すると遠回りに見える。
実際のところ、周囲の目にも部活を始めた当初はそう映ったかもしれない。
1999年、「岡山国体優勝を目指して」招聘された長田監督だったが、突きつけられたのは部員0名という現実。なんとか7、8名の部員を集めて同好会から始めるも、集まったのはこれまで部活をまじめにやってきたことのない生徒たちである。時間になっても集まらない、挨拶はしない、着替えない、休日は部活に来ない。
マット運動をやらせれば、自分の番がくるまで床に座って待っている、といった有様だった。初心者を教えるときは「まずは前転、後転から」なんて話をするが、岡山精研はそれよりもさらに手前からスタートしなければならなかった。「練習以上に、中身を変えなければ」―――。
そう考えた長田監督はあるとき、練習後にステージから、体育館端に立つ監督にむかってその日の反省を叫ぶように、と指示をした。「新体操は自分の気持ちを人に見せるものだから、それをさせたかった」という思いの下の指導だった。
徒手の徹底という地道な練習に嫌気がさし、「辞めたい」という部員も少なくはなかったが、そうした部員にも根気よく説得を続けた。「諦めるのはいつでもできるが、自分で人生を切り開いていくためには、これは大きく変われるチャンス」なのだと、言い聞かせてきた。
大学時代の演技や周囲からの評判から、長田監督にはなんとなく「論理の人」というイメージがあった。だからこうした「熱い」側面があることに、多少なりとも驚いた。青森山田の荒川監督とともに一時代を築いた大学個人選手時代、彼の演技は「いかに周囲を驚かせるか」という緻密な創意工夫のこもった、どこかクレバーさを感じさせるものだったからだ。
説得の結果「辞める」といっていた部員たちも「なんだかんだで、続ける」のは、彼のそうした意外性のある「熱い」部分に、少なからず心を動かされたためなのだろう。
同時期につくり始めていたジュニアチームも、週1回の練習から初めて、徐々に練習時間を増やしていった。そこでも一貫して行われた「徒手の徹底」は、徐々に日の目を見るようになる。
・1999年 4月 同好会から、部の設立。
6月 県総体。しかし試合には間に合わず、出場を見送る。
11月 初めての大会・新人戦に出場。結果は奮わず。
・2000年 4月 井上監督にジュニアの指導を任せ、高校生の指導に専念。
6月 中国ブロック大会に出場、3校中3位。
・2001年 ジュニアの練習を週6日、行うようになる。
・2002年 8月 インターハイ出場権を勝ち取り、出場。19位
・2003年 8月 インターハイ、6位。
10月 国体、10位。
・2004年 ジュニアチームの下に、さらに年少のキッズの教室を設立。
8月 インターハイ、5位。
10月 国体、4位。
「徒手の徹底」は年を追うごとにその成果が目に見える形で表れるようになった。見せ場のタンブリングや組みをするにしても、その基礎となる徒手を井上監督とともにジュニアで叩き込んだ事で、より美しく、完成度の高いものが仕上がった。
「(構成づくりは)自分への挑戦。自分のセンスが、どこまで通用するか」の言葉通り、構成は長田監督がすべてつくり上げる。だが、せっかくのセンスある構成も、それを実現できるだけの選手たちがいなければ意味がない。
長田監督の独創的な演技構成と、そしてそれを実現できるだけの実力を、徹底した徒手練習でコツコツと積み重ねてきた選手たち。どちらかが欠けてもいけなかった。6年の年月をかけてこの両方を揃えたことが、岡山精研にとって大きな意味をもっていた。そしてそれは同時に、表彰台の高みを確約するものとなった。
・2005年 8月 インターハイ、優勝
10月 岡山国体、優勝
さらに、この徒手の徹底はうれしい誤算を生んだ。そしてこの誤算こそが、地元国体後も、決して衰えない岡山精研の力の源となった。
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2008年04月19日
物事の見かけにとらわれてはならない。その奥に隠された本質というものがあり、それを見つけるために、注意深く観察する必要がある。
大会会場のその客席で、選手の一挙手一投足に息を呑む。
団体の組では祈るように手を組みあわせ、個人で手具を投げ上げれば「キャッチ、キャッチ、キャッチ…!」と何度も唱えた。
九州は佐賀県でのインターハイ、東北は秋田での国体。どんな遠方の大会であっても、黒いポロシャツの応援団を見ないことはなかった。その視線の先には、空気を変えてしまうほどに美しい演技をする選手たち。岡山県立精研高校である―――。
2005年の岡山国体をきっかけに強化されたこのチームは、国体後もコンスタントに結果を残し続けている。昨年のインターハイでは「タンブリングに難を抱えている」との前評判から、今年は優勝争いには絡んでこないのでは、との噂もある中で、他を圧倒する演技をみせつけ、優勝格の筆頭とも言える小林工業と同率準優勝。国体ではメンバーをひとり欠いて5人での出場ながら、「5人でもありかな、と思わせる演技をしたい」との長田(おさだ)監督の言葉通りに、十分に会場を沸かせた。
現在は中学・小学生を中心としたジュニアチームの活躍も目覚しく、昨年10月に行われた全日本ジュニア選手権では団体で3位入賞を果たしている。
―――だから、かねてより打診していた岡山精研高校の取材がかなった日も、こう思った。抜群に美しい徒手と、他のどことも違う独創的な流れのある構成、どんな遠方の大会であっても、選手を応援しつづける保護者との強い結びつき。その奥にあるものを、見つけ出さなければならない、と。
岡山精研の美しい徒手のルーツは、高校生と練習をともにするジュニアチームを見れば察しがつく。
現在小学4年~中学2年生までの選手で井原ジュニア新体操クラブは、選手のほとんどが成長期の前後にある。そのために体格は選手によって大きく違うのだが、ひとつ共通して言えることは、どの選手もひとつひとつの姿勢が実に美しいということだ。
徒手の形、手足のポジション、全てに間違いがない。両手を挙げただけの姿を見て「これが小学生の上挙か」と思わず首をひねったのは、一度や二度ではない。さらに興味深いのは、その体格差を感じさせない演技の統一感である。
井原ジュニアにはAチームとBチームがあり、Aチームは最年長の中学2年生と最年少の小学4年生が同じチームに所属する。その身長差は40センチにもなり、同時性を求める新体操においてはかなりのマイナス要因となる。手を一回まわすことにすら、時差が生じるのだ。
だが、決してそれを感じさせないどころか、こちらをうならせる演技に仕上げたのは、ひとえに演技構成のうまさ、というところに尽きる。体格差ゆえに同時性をみせられないが、代わりにそれを利用して、今回の演技には三回にもおよぶ組みからの投げ上げを入れている。体格差を逆に利用して、見せ場をつくる。長田監督が「ああいう指導者になりたい」とまで語る、井上監督の手腕である。
井原ジュニアは1999年に、2005年の岡山国体を視野に入れて長田監督が立ち上げた。翌年からは中京大学出身の井上監督に指導を任せ、自身は高校の指導に集中した。昨年、大学1年ながらインカレ個人覇者となった谷本竜也、彼としのぎを削った、同じく1年の大舌恭平らは、岡山国体時の優勝メンバーであり、井原ジュニアの第一期生でもある。
国体で優勝を果たして三年がたった今では、井原ジュニアは全日本ジュニアで上位に名を連ね、さらにその下には小学校低学年以下による「キッズ」が、20名ほど控えている。この完成された組織が、毎年息を呑むような美しい演技の基盤となる。
高校生、その下に井原ジュニア、さらに下にキッズ。これらの教室に、創設時から共通して行ってきたのは、極シンプルなたったひとつのこと。「徒手の徹底」である。
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2008年03月08日
事実、チームづくりは簡単ではなかった。現在鍋島コーチとともにチームを指導する杉江監督は、半田中男子新体操部の創設者でもある。しかし半田中に来るまでに8年の期間を要し、ようやく創部にいたったかと思えば、途中で新体操部のない学校に4年も勤めることになったりと、なかなか腰をすえての指導にたどり着けなかった。
創部当時は多くの部でもそうであるように、人が集まらずに全国大会の出場を見送った。2年目にしてようやく全日本ジュニアに出場、そして3年目、早々にして半田中に転機が訪れる。二回目の出場となった全日本ジュニアでの惨敗である。
人を動かすのは「負」の体験であることも多い。試合後に号泣した彼らもまた、その負の経験に衝き動かされた。実際のところ、この惨敗に終わった全日本ジュニアの前、彼らの練習に取り組む姿勢は決して「真摯」とは言えなかった。思い当たる節があっただけに、そこを克服さえすれば、結果を出せるというビジョンが見えたのかもしれない―――いや、それよりも単純に「悔しい」気持ちが、彼らの練習への姿勢を変えたのかもしれない。どちらにせよ、そのことは結果に表れた。翌年の全日本ジュニア、半田中はまさに前年の無念を晴らすかのような大躍進、一挙優勝に躍り出た。
この影響で、競技の認知すら薄かった男子新体操部に、翌年には10名以上もの入部希望者が訪れた。しかし、今となっては30名以上の部員を抱え、どこよりも異彩を放つ演技からは、そうした泥臭い過去は感じられない。大敗を喫した時期を知る、30名の中のわずか4名の3年生だけが、かすかにその頃の名残を感じさせるのみである。
練習の合間、「面白いものを見せてあげるから」と杉江監督が立ち上がったのは、Bチームが団体練習に入る頃だった。一人、選手を呼び寄せると、開脚するように指示する。選手は左右に脚を開くのだが、新体操選手としては明らかに硬い。「こんなに硬いでしょう」と言うと、杉江監督はおもむろに選手にストレッチを施す。脚をまわしたり、背中を押したり、間接を曲げ伸ばししたり。時間にするとわずか3分ばかりのことだっただろうか。
再び開脚を指示されると彼の体は、今度は開脚の状態でぴたりと胸を床につけられるほど、柔らかくなっていた。最近、これを試合前に行うのだという。そして私に「コレ、誰にも教えてないんだけどね」と笑ってみせた。
これだけの変化が実感できれば、選手としてはかなりのモチベーションアップにつながるだろう。それに何より、選手が皆これをできるようになったらと思うと、演技に対する期待はどうしても高まる。
しかし、こうした選手にみるように、中学生となるとほぼ全員が体操未経験者である。派手なタンブリングなどもちろん初めからできるはずもなく、地味な前転、後転にはじまり、全員で行う基本徒手は長時間に及ぶ。決して「楽しそう」には思えない練習についてこさせるには、宥めたりすかしたりしながら、うまく付き合っていかなければならない。そうした中で、昨年の全日本ジュニアでは4位。現在青森山田高校の一年生で、半田中出身の小林翔などは、二年の途中で入部、その半年ほど後には主将になっている。昨年の全日本ジュニアでは個人で2位に食い込み、大学生らの出場する全日本選手権にも出場を果たした。
先にも述べたが、中学生はほぼ素人の集まり、ということになる。それも、めまぐるしい変化の時期を迎える、素人だ。だとするならば結果は、監督の手腕によるところが大きい。変化に対応するためにさまざまな工夫を凝らしているが、その中でも最も重要なこと、極意とも言えることがあるとすれば、何か?
「新体操を好きにさせることが、一番大事ですね」
―――なるほど、それは極意に違いない。
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14:01
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2008年03月02日
兎角、変化というものは恐ろしい。
スポーツの指導に関して言えば、中学生の指導というのは競技以外の要素の比重がとても大きい。何しろ、選手は成長期の真っ只中にあるのだ。一月で見違えるほどに身長が伸びたかと思えば、昨日まで懸命に練習に取り組んでいた選手が、途端にやる気を失ったりする。
「そういう時期」と言ってしまえばそれまでだが、ひとつの演技の完成に向け、1年間の計画をたてる者にとって、この変化はあまりに恐ろしい。恐ろしいから、彼らは工夫を凝らす。
愛知県は半田中学校の鍋島コーチの指導を見ていて感じたことは、その注意のポイントが非常に細かいということだ。つま先、体の引き上げ、姿勢。それは女子の細やかな演技指導に勝るとも劣らないものだった。しかし、コーチがこんな風に「手とり足とり」教えるのは、週に1~2回程度だという。それはただでさえ敏感で、周囲からの圧力にはある種本能的な反発さえしてしまうこの時期の選手たちの、やる気を削がないための配慮である。
細かい指導の中には、さらに繊細な心遣いがある。どうすれば毎回おなじところを注意しなくてすむか、どう叱り、どうほめれば向上心を高められるか。そのために全国大会のビデオを見せたり、コーチ自身が社会人大会に出場しているのも、そうした取り組みのひとつである。今年は団体で社会人大会に出場し、全日本選手権にも出場を果たした。全日本の会場で、半田中のOBにあたる青森山田高校の榊原が「あれ、自分らのコーチなんスよ」と嬉々として話すのをみていると、その影響のほどはうかがえた。
半田中の男子新体操部は現在32名の部員をかかえる。男子新体操部としては、中学ではもちろん、高校でも稀な大きな規模である。練習はその32名が、体育館の四分の一ほどのスペースで行う。団体演技の練習とタンブリング練習は二手に分かれて行われるが、それ以外の基本的な徒手練習は全員が一斉に行う。これだけの人数がそろってやると、単なる飛び込み前転にすらハッとさせられる。
先の鍋島コーチの細やかな注意は、普通であれば個人個人に指導するような内容である。それが、ここでは三十余名全員にむけて行われる。「徒手練習に2時間かけることもある」と話に聞いていたが、この指導ならそれもうなずける。そして改めて特異だと感じる。
そうした徒手練習を終えると、今度は団体演技を練習する者とタンブリング練習に入る者とに分かれる。半田中はA、B、Cの3つの団体チームを擁する。それが入れ替わ立ち代り、フロアに入る。
このときAチームは新しく演技をつくり始める時期だった。昨年の演技をアップ程度に流しで動いてから、練習に入る。単なる流しなのに目を離せなくなったのは、それが昨年の全日本ジュニア選手権で、初めて彼らの演技を見たときの感覚を呼び起こしたからだ。
2007年10月、代々木体育館で開催された全日本ジュニア選手権に足を運んだ私は、正直なところさほど大きな期待はしていなかった。演技を見にというよりは、その中に面白い選手を見つけられれば、という思いで臨んでいた。だから、半田中のような演技が見られるとは考えていなかった。衝撃は、大きかった。
半田中の演技の魅力は、2年の平岡の言葉に集約されている。「徒手の深さ」。アイリッシュ民族風の曲に合わせた徒手は、他のどことも似ておらず、とにかく見ていて楽しい。リズミカルで、時折その意表をついた動きにハッとさせられる。「こういう徒手もあったのか」と、3分の間、瞬きを忘れた。
このときの順位は、小さなミスが続いたことから4位。昨年の優勝校としては不満の残る順位かもわからないが、しかしそんなことは大した問題ではないように思えた。中学とか高校とか大学とか、そんなくくりを超えた新しいジャンルを、確かに彼らは確立していたからだ。その発見に、心が打ち震えるのを感じた。
―――無論、フロアで流しをしていた選手たちは新チームのメンバーであるから、そのときの面々ではない。ただその動きはそれを思い起こさせ、否が応でも期待を膨らませてしまう。ただ、その中で気になったことがひとつ。
「新チーム、身長が低い子が多いですね」。それも、大きなメンバーとの差が遠目にも見て取れるほどに。その問いに鍋島コーチは「ええ、伸びるのを期待してるんですけどね」と笑って答えた。まさに「成長期」、演技を仕上げるためにはそこまでを計算に入れなければならない。当然といえば当然のことなのだが、高校、大学チームでは思いもかけないことだけに、改めてこの年代のチームづくりの難しさを感じた。
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15:27
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2007年12月09日
11月24日、東京体育館。
国内最大にして年内最後の大会の、団体予選。あれだけの不運に見舞われ、苦境を乗り越えてきた青森山田だったが、ここでも運命はその手を緩めなかった。
直美さんから、都内に良い針治療の病院はないかと連絡がきたのは、11月21日のことだった。全日本選手権に団体・個人での出場が決まっている、柴田が腰の痛みをうったえたのだという。会場の練習フロアでうつぶせになり、その苦痛に顔をゆがめる柴田の姿は、どんな会場でも人懐っこい笑顔を浮かべていた彼からは、あまりにもかけ離れていた。
個人4種目を通すことすらギリギリの状態の彼に代わって、団体には急遽、3年の祝大地の弟、1年の祝陽平が入ることとなった。
波乱含みの団体競技、その予選の幕が開いた。
結果からいえば、祝陽平は彼の責務を十分に果たしたといえる。急遽入ったにも関わらず、徒手の雰囲気はまったく衰えなかったし、全員での3つバックも遜色なかった。しかし、予選5位という決して悪くない結果は、大きな問題をはらんでいた。
「ジャパンでは、国士館に勝ちたい」
この言葉は国体後、3年生から口々に聞かれた言葉だった。もしそれが実現すれば、大会史上初の快挙となる。
団体予選を終えた時点での順位は1位青森大学、次いで国士館大、花園大学、中京大学と続いて、青森山田高校が第5位。目標とする国士館大学との差は0.287。4位中京大学との差は、わずか0.025だった。しかしわずかな点差とは裏腹に、荒川監督が表情を曇らせるのは、その順位のためだった。
決勝の試技順は、予選の順位によって決定する。予選1位は決勝での試技順7番、2位は2番、という風に割り振られ、5位は試技順1番になることが決まっている。
一番目の試技はそれ以降の演技の基準点となるため、どうしても点数が伸びない。加えて、祝陽平がよくやっているとはいえベストメンバーではない状態。インターハイで日の目を見なかった、あのユニフォームを着た場合、「ユニフォームの破損」と見なされ、ひとりにつき0.2点、6人で合計1.2の減点がされる。ユニフォームを着なければ或いは、大学生に勝てるかもしれない。
「史上初、国士館に勝つこと」
「史上初の、ユニフォームで演技に臨むこと」
どちらかを、選ばなければならなかった。
予選の直後。事情を知る人が「決勝では着ますか?」と荒川監督にたずねると、「今夜、ゆっくり考えます」とだけ答えた。インターハイから、もう数ヶ月考えて続けてきた問題に、監督はこの一晩で答えを出さなければならなかった。
実のところ、全日本であのユニフォームを着るか否かについては、かなり前から選手と監督の間で練習ノートを介して意見交換がなされていた。
「高校最後だから、国士館と勝負したい」
「いや、減点されても、あのユニフォームを着たい」
現実的に考えて、1.2減点された状態で国士館と勝負することは難しい。論点は、どうしても「どちらを優先するか」に絞られた。
前者の、あのユニフォームを着ずに、勝負すべきという意見の持ち主の筆頭が、山田と練習場を共にする青森大学の中田監督だった。そしてそれは4位と僅差で迎えた決勝前日も、変わらなかった。
「お前ら(大学生に)勝てるから、着ないで出ろ」
選手の間でも、決勝前日にも関わらず意見は割れた。私もこの晩、彼らがどのような決断を下したかは知らなかった。その結論は、多くの観客と同じように試合会場で知ることとなった。
翌日、本番フロアに併設されたアップゾーンに、紫色のジャージの面々が姿を現す。
普通、例の長パンの上に青森山田の比較的細身のジャージをはくと、ジャージの下から広がった裾が見えてしまう。アップ場での彼らのジャージからはそんなものは見えていなかった。だから私は荒川監督の言葉で初めて、その決断を知った。
「俺の“異端児”が完結する時がきたよ」
青森山田は1.2の減点と引き換えに、男子新体操に新風を吹き込むことを選んだ。
直前まで「脱ぐなよ」と荒川監督に念を押されていたジャージを脱ぐと、そこにはすらりと裾の広がった、ブーツカットの長パンがあった。
インターハイで日の目をみなかった、あのシャープで、上品な裁ち上がりのユニフォーム。フロアに立つと、周囲が少しざわめいた。
「アレ、良いの?」「いや、減点でしょう」
―――それでも、彼らはそれを選んだ。
決勝前夜、ホテルでの話し合い。
中田監督とともに、あのユニフォームを着ずに大学生と勝負することを主張したのは、3年の柴田だった。「あいつは客観的に判断するから」という荒川監督の言葉通り、予選の点差であれば大学生に勝てる、と見込んでの冷静な判断だった。しかし、他の6人の団体メンバーはユニフォームを着ることを選んだ。
国士館に勝つこと、あのユニフォームを着て出場すること、どちらも十分な偉業である。どちらが凄い、どちらを優先すべき、という問題ではない。ただ強いていうならば、彼らは先を見越して、このユニフォームが主流になることを信じて、その先駆者になることを選んだのだ。
決勝の演技は、文句なしのノーミスに、減点1.2点。曲・演技・ユニフォームがようやくそろった雰囲気たっぷりの演技は、事情を知らない観客から「なんで1.2も減点?」と不満の声が聞こえるほどの出来だった。
試技終了後、そんな減点とは無関係に、青森山田の選手は誰もが晴れやかな表情だった。この決断は男子新体操と彼らにとって、マイナスされた1.2よりもはるかに価値のあるものとなった。
選抜大会での柴田の団体起用に始まり、インターハイでのユニフォームの問題、国体直前の椎野の怪我、全日本直前になってのメンバーチェンジ―――あまりにも波乱に見舞われ続けた青森山田の今シーズンは、最後まで周囲をハラハラさせながら、それでもようやく、大団円を迎えた。
監督、選手、それぞれに得るものの多かった、それぞれに内容の濃い1年だった。
ただ、流した涙の分だけ、彼らは周りより少しだけ、多くのものを手にしたのかもしれない。
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2007年12月08日
「直美さんの涙を無駄にしたくない」のだと、主将の柳は語る。
事前に審判の承諾を得て、演技・曲・ユニフォームで勝負に臨んだ、臨もうとしたインターハイ。会場入りして、本番のまさに直前に出された審判からのNG。当事者でないものが意見をのべることははばかられるが、競技を束ねるものが十分な説明をせずにその態度を急変させたのだとしたら、それは競技のレベルを落とす、嘆かわしい行為だ。
物別れに終わった話し合いの最後、審判が放った言葉。
「見た目じゃなく、中身で勝負してくれ」
その言葉に、笑顔が印象的な直美さんが初めて涙を流すのを目にした。
美しいフォルムだけではなく、選手への安全性の細部にまで気をくばったあのユニフォーム。青森山田の演技とともに、「男子新体操に新風を」という想いの下、多忙を極める合間をぬって彼女が考案したものだった。
荒川監督が青森山田に就任してから、いや、尾坂監督が率いていた時代から、山田が一度だって「見た目で」勝ったことがあっただろうか。
国体の優勝を決めたあの日。インターハイでの雪辱を晴らすかのような勝利の直後。その興奮に顔を上気させた荒川監督と握手を交わした。
少し潤んだように見えた瞳でしっかりとこちらを見据えると、何よりも先にそれを言った。
「ジャパンでは、着るから。予選がんばって、決勝残って、減点されても良いから、着るから」
熱い掌とその力強さが、決意を物語った。
10月中旬、青森山田の体育館。
椎野の怪我に関して言えば、正直なところ無理なんじゃないかと思っていた。怪我をしたのが9月半ば。全日本選手権は11月23日。動かさない筋肉は硬くなるからそのリハビリと、もちろん団体の練習期間を加味すると、1ヶ月半ほどで治さなければならない。医師に言われた期間の、半分である。
ところが、である。10月半ば、手術から2週間ほどでギプスはとれ、それから10日ほどたつと、すでに彼はタンブリング練習を始めていた。その回復のスピードは私や、恐らく周囲の予想をはるかに上回るものだった。
10月末日には医師に「もう本格的にやっても良いか」をたずねるつもりで、病院を訪れた。しかし医師からの「腕立て10回から初めてください」の言葉に、思わずその言葉を飲み込んだ。
彼の強靭な意志に支えられた治癒力は、それほど驚異的だったのだ。
“超回復”という言葉がある。筋肉の組織が激しい運動などによって破壊されると、次に回復するときにはそれ以前より強くなっている、というアレである。彼の場合、いかんせん本番まで期日が迫っていたため、回復がそのレベルまで達していたか定かではないが、精神は確実に“超回復”を遂げていた。
国体直前、急遽メンバーチェンジを余儀なくされたことについて、柳は「(チームの状況は)苦しくなった」と語った後、「でも一番苦しいのは(椎野)健人なんで」と続けた。
椎野が怪我をしたあの組みの練習で、土台をしていた柴田は「自分が土台だったんで、土台に責任があったのかと」と話した。しかし彼がそこまで気に病む風ではないのは「(椎野が)ああやって明るくふるまってくれて、その分こっちに力が出てくる」からなのだろう。
また怪我は、最終学年としての彼にも影響を与えた。それまでのように遠征についていくことができなくなった椎野は、必然的に「留守番組」として監督・レギュラー不在の部をまとめる存在となった。留守番組は、毎日監督にその日の報告の電話を入れるのだが、そのときの椎野は監督が驚くほどに、しっかりとした受け答えをするようになっていた。
さらに、こんなことがあった。ある日、監督はこんな話を耳にする。椎野が、下級生を殴ったのだという。
事情を聞くと、こうだった。2年生が、1年生に対して「レンタルビデオを返して来い」と使い走りにしようとしていた。それを見た椎野は2年生に意見した。それは違うだろう、と。1年生が出かけるついでなら良いが、そうでないなら、自分で借りたものは自分で返しに行くのが筋だろう、と。だが、2年生は不満の色を露にした。それで手が出た、というわけだった。
「だから、俺は怒んなかったよ。」と、荒川監督は振り返り、改めて「驚いた」と語った。
椎野自身も怪我を経て「今まで自分に甘えがあったなと(気づいた)。辛いときでも踏ん張れるようになった」とその変化を実感しているようだった。
怪我はまもなく団体に入ってもまったく遜色がないほどに回復した。
11月24日、彼はリハビリ中に思い描いていた通りに、全日本のフロアに立っていた。
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2007年12月04日
今思えば、あのふたつの涙はこの日のために流されたのかもしれない。
国体という高校の三大大会の締めくくりで、今年初めての優勝の二文字を獲得した青森山田高校。相次ぐ故障、不測の事態の連続に辛酸をなめつづけた今シーズン、ついに手に入れた栄冠。青森山田のメンバーは歓喜に沸き、閉会式でもその熱は冷めやらなかった。
そんな中、式で整列するメンバーの姿を見ながら、彼はひとり、涙を流していた。
「どうして、自分はあの列に並んでいないのだろうか」―――。
団体メンバー3年の椎野は、同じく3年の柳、祝(いわい)大地とともに、3月の選抜大会からレギュラーの座を守り続けていた。他の二人のようにチームを引っ張るタイプではなかったが、監督から「表には出さないけど、熱いものをもってる」と評されるように、静かに、それでも確かにチームを支え続けた存在だった。
そんな彼が戦線を離れたのは今年9月中旬。組の練習中に、肘に強い痛みを覚えた。すぐさま病院にいくと、肘の肉が骨から剥がれていた。高校最後の国体を2週間後に控えた彼に下されたのは、全治3ヶ月の診断だった。
チームメイトから「監督の前では静かで、冷静」と言われる彼が、その監督や看護師の目をはばからずにボロボロと涙をこぼした。
彼にとって最後となる国体出場の道は、完全に絶たれた。
だが、これを単なるお涙頂戴の物語にはしないのが、彼の強さだった。絶望的な診断をうけ、寮への帰途につく彼の頭には、すでに別のビジョンがあった。
「自分はジャパン(全日本選手権)を目指そう。大学でも続けるから、これで終わったわけじゃない」
―――あの涙から、わずか1時間足らずの決意だった。
国体直前の9月23日。フロアで目にしたのは左手に痛々しいギプスをした椎野と、彼に代わって急遽団体メンバー入りを果たした、1年の小林の姿だった。そこでの彼には、今まで感じたことのない存在感があった。
自分のポジションをつとめる小林に積極的にアドバイスするのはもちろんのこと、最近動き出したという、1、2年の補欠組で構成された団体Bチームを、彼が率いていた。
もちろん、自身のリハビリにも精を出した。走りこみ、スクワットなど、自ら下半身強化のメニューを組んで実行した。国体を目指すチームメイトたちが練習する、そのフロアの片隅で、自分だけはひとつ先の全日本を目指して筋トレを続けた。荒川監督の勧めで、直美さんのダンスレッスンにも通い始めた。「基本のトコトン」を叩き込まれたそのレッスンは、決して激しい動きをるすわけではないのに、終わる頃には汗だくになった。
取材に訪れた日の2日後に、彼は剥がれた筋肉を骨につける手術を行うことになっていた。手術後は少なくとも2~3日入院しなければならないが、青森山田が国体に出発するのは、手術の翌日だった。
「国体は見たいってのはあったけど、逆に(小林)翔が“一生懸命やんなきゃ”って変に力入るのも嫌なんで」
手術前は冷静にそう語っていたが、国体が近づくにつれてその冷静な判断とは別のところにある「熱いもの」がうずいた。
―――結局、秋田の国体会場には、術後間もない彼の姿があった。
余談ではあるがそんな椎野のことともうひとつ、強烈に印象的だったのが、1年にして団体に入った小林がひとり、尋常ではないほどの汗をかいていたこと。彼は1年とはいえ、中学時代は全日本ジュニアで優勝を果たした、団体チームのキャプテンを務めた選手である。その彼が、ついていくのも精一杯の演技とは―――青森山田の演技がそれほどのレベルにあることを、改めて思い知らされた。
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2007年10月23日
練習を見ていて気づいたことがもうひとつ。1年生と上級生の実力の差である。
練習前のストレッチひとつをとってみても、1年生は「知っているな」という印象をうける。手首、ひざ、足首。新体操で使う部分、ほぐさねばならない部分が自然に身についている、そういった感じだった。細かいところを念入りに、ひとつひとつほぐしていく姿に、彼らの新体操のキャリアを感じた。
タンブリング、リスク、徒手。新体操のジュニアチームが増え始め、昔のように一口に「競技年数=実力」という構図が成立しなくなった昨今にあっても、初心者と経験者となれば話は別である。やはり、力に差が生じるのは、避けられないことである。
2、3年生よりも1年生の方が競技経験が長い、というねじれの中にあって、部の機能に支障はないのだろうか。
1年生が入ってきた当初のことを、2年の天野は「1年生だけど自分たちより先輩に見えてしまう時があって、きまずかった」と振り返り、付け加える。「今はそんなないっす。慣れですね」
気を遣っていたのは2年だけではなかった。「言って良いのかな」と前置きしてから、1年の菅は「最初は先輩たちに気を遣っていた」と話した。そして同様に「でも話していくうちに、しっかり溶け込んで」と結ぶ。
主将の栗原は、国体ブロック大会の、自身の出ていない個人種目について「見ててうれしかった。個人いけるな、と」と嬉しそうに語った。どうやら私の勘繰りすぎだったようだ。これだけ楽しそうに練習する部には、もはや壁など存在しようもなかった。
それよりもその後につづいた菅の言葉が、気になった。
「中学からあがってきたとき、学校の部活がすごく楽しみで。毎日先生に教えてもらえるっていうのが初めてで、自分はものすごくうれしかった」
強化指定をうけている3名は、小5から新体操を地元のクラブで始めている。しかし、練習場所である別府の公民館はマットがなく、平日は自分たちでメニューを決めて練習をした。「強化指定」とは言うものの、練習環境はその名に見合うものではなかった。しかしその分、土日に行われる日出暘谷での合同練習には「本気で」取り組んだという。同じく1年の古田は「部活、ずっと上手くなりたいって気持ちでやってたんで」と話す。この時代が、彼らの今の部活に取り組む姿勢を形作った。
そうした思いが、そのまま形になったのが今年のインターハイの団体演技だった。メンバーでそれぞれ動きを考え、それを組み合わせた。ここではやはり経験の長い1年生が中心となった。見せ方や移動、隊形などは監督から指示を仰いだが、「だいたい、自分たちで」つくり上げた。
団体演技の構成をつくっている最中、こんなことがあった。「ここ、こうした方が良いんじゃないか」と監督らから動きの指摘があった。すると選手たちは「いや、ここはこう見せたいんです」とそれを撥ねのけたのだという。
「なんか、こだわりがあるんです」と、目を細めてそれを語る小園コーチ。彼らの思いを象徴するエピソードである。
取材前には、「演技構成」としか結論づけることができなかった彼らの演技の魅力だが、この「思い」こそ、その源なのだろう。彼らは楽しみながら、自分たちのやりたい新体操をやっている。その自然で、新体操の根本とも言える思いが、私を大分まで連れてきたのだ。
彼らの姿を見てふと、インターハイ優勝校、佐賀県は神埼清明高校の中山監督の言葉が思い出された。
「生徒達の尻を叩いて叩いて練習させると、計算したとおりの結果がでる。しかしそうじゃなく生徒達自身でやらせると、計算外の、それ以上のものができる」
日出暘谷は後者のタイプ。そしてその言葉通り、彼らのそうした姿勢は結果をもたらし始めていた。
1年の塩月が「迫力が、すさまじかった」と振り返るインターハイの、そのわずか6日後に行われた国体予選・九州ブロック大会。その出来についてたずねると、誰もが「会心の出来」だと語った。古田にいたっては「今まで新体操をやってきた中で、一番良かった」とまで話す。ブロック大会の会場は地元・大分だった。
「インハイのときは会場が“佐賀のもの”って感じで。ブロック大会は地元で、やってて楽しかった。会場が“大分のもの”みたいな感じで」
国体予選は2位小林工業と僅差で3位だったという。国体出場権は逃したが、半分が初心者のチームが全国で常に優勝を争う小林工業と競ったことは、それだけで賞賛に値する。
この結果について「地元だったことが大きい」と選手たちは語った。もともと、雰囲気で盛り上げるタイプのチームであるから、その要素も大きいだろう。しかし個人種目を終えた時点で小林工業に勝っていたという驚くべき事実は、それだけを要因とするには大きすぎるものだ。部活を楽しみ、自分たちの新体操をすることに喜びを見出して活動してきたチームは、ここにきて実力を伴い始めている。
今後の彼らがどんな風に変化するのか、予想することは難しい。しかし彼らは確かに、何かを予感させてくれる。
取材初日の部活が始まる前に、古田が「自分らがこんなだから、部活辞めてーって言うやつがいない」と何気なく話しているのを聞いた。「こんな」とはどんなだろうか、と思ったが、練習を見てすぐになるほど、と思った。
部活についてたずねた小谷の第一声は「楽しいです」というもの。即答だった。「練習中、笑いが絶えなくて」。そしてそう話す間も、後ろからは絶えず笑い声が聞こえていた。
菅が語った印象的な言葉は、このチームを象徴した、恐らく他では聞くことのないもの。
「新体操はどうかわかんないすけど、新体操部はみんな、好きだと思いますよ」
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23:20
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