2008年05月30日
最初の世界大会というのは、百年前のロンドン・オリンピックなのかなと思う。
第二回近代オリンピック1900年パリ大会では、すでにサッカーが行われたという。しかしそれはクラブ・チームが代表として出場した公開競技にすぎず、ロンドンのアプトン・パークFCがルニオン・フランセーズを破って金メダルを得た。三回目の1904年のセントルイス五輪でも、米国の2チームとカナダからの1チームが公開競技としてサッカーを行ったようだが、失礼ながらとるにたりないものだったと噂される。
本格サッカー大会の端緒、1908年ロンドン五輪は、当初、ヨーロッパの八チームが参加するはずだった。そのことに関して大会公式レポートでは次のように表現されていたという。
「バルカンの政治紛争の影響で、ハンガリーとボヘミアには問題が生じた。かくして当初のエントリー八か国は六に減り…」
これはボスニア・ヘルツェゴビナをオーストリアが併合しようとしたことであり、六年後の第一次世界大戦につながっていく。
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2008年05月29日
「双方四人のフルバックが、センターラインから10ヤードの範囲内。ゴールキーパーを別にすれば、全員がスモール・スペースに閉じ込められた」
下の図は、発表時に勘違いで書いてしまったもので、上が正しい図です。申しわけない。(2009年7月16日訂正)
ノッツ・カウンティはこんな試合を、ニューカッスル・ユナイテッドと繰り広げていたらしい。それが1908年から、遅くとも1910年あたりまでのことかと思えます。三人オフサイドを活用したハーフコート・プレスは存在したのだと、またも確かめられたように感じます。
おそらくこれも間違いで、のちに「● 「プレス」を探って」と題し、1911-12シーズンの、ノッツのホーム・ゲームだろうと考え直しました。(2009年7月16日追記)
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2008年05月28日
プレッシング戦術こそがトータル・フットボールの根幹なのだとすれば(実際はトータル・フットボールの根幹ではなく、枝葉ですが)、二十世紀後半まで待たずに、今から百年くらい前の英国では、とっくにトータル・フットボールの原型が現れていたようです。
次の図とキャプションは、発表時に勘違いで書いてしまったものです。上が正しい図で、双方のフルバックがハーフウェイから10ヤードでした。(2009年7月16日訂正)
上図では中央の色が変わった部分、ほぼ10ヤード・プラス10ヤード、20ヤードの幅に二十人が収まって、…いや、少しはみ出していますけど、だいたいです。
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2008年05月27日
The Serect Seven。前回写真を掲載したシャープは、一時代を築いたと評価できるクラブを、セレクト・セブンとして選び出しました。
- 1882−92 コリンシャンズ
- 1885−90 プレストン・ノース・エンド
- 1891−95 サンダランド
- 1895−1900 アストン・ヴィラ
(以上四つは、実地に見ていないものと記憶不明瞭なもの)
- 1905−11 ニューカッスル・ユナイテッド
- 1924−30 ハダーズフィールド・タウン
- 1930−38 アーセナル
セレクトしたのが1952年で、すべてが第二次世界大戦よりも前のクラブです。
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2008年05月26日
無知な質問で恐縮です。
ニブリックという語を調べたら、9番アイアンを指す名詞だとのことでした。
飛んだボールを、このニブリックで形容した場合、球質や軌跡はだいたいイメージがわくものですか?
このクラブは、バンカーから出すとき専用といったおもむきのものでしょうか?
これで飛ばすボールは、強い逆回転がかかっていると思うのが一般的な受けとり方になりますか?
たいしてバック・スピンのないボールも打つのでしょうか?
サッカーで、おそらく二十メートルから三十メートル、niblick なパスを起点にした展開から得点が生まれ、そのパスほどに考えられた浮き球というのはちょっと見たことがない、そんな文でした。
どういうボールが飛んだのかを思い描きたいと存じます。
ふつうの辞書では、niblick の語源は不明とされていますが、想像がつけば、それもご教示お願いします。
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2008年05月26日
たぶん1950年代あたりまで、イングランド代表と海外国との初対戦は、ベルリンでのドイツとの試合、1899年11月23日だとされていたものと思います。
現在の公式記録では、今から百年前、1908年にオーストリア=ハンガリー帝国へ遠征したときだとされています。これはFA創立から四十五年ほど後のこと。それからさらに四十五年経つと、ハンガリーがロンドンへ行って地元無敗だったイングランドに初めて土をつける。
そのハンガリーがすばらしかったせいで、いっときイングランドでは「ハンガリーに学べ運動」のようなものが小さく栄えたとのことです。
0トップ的な、技巧派のセンターフォワードが下がってスペースをつくり、チャンスを演出し、また自ら決めるスタイルが、英国でも流行したわけです。そして一番ハンガリー代表チームに似ていたのが、1950年代なかば、センターフォワード、ドン・レビーによる「レビー・プラン」を見せたマンチェスター・シティだという噂。
そして後にマンチェスター・ユナイテッドでは、ボビー・チャールトンがシティのレビーのような役割をしていた時期があったと見られてもいます。
posted by ports |07:26 |
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