2008年05月01日
● 史上最大の変更
十九世紀末にサッカーが成立して以来、ルール変更は意外に少なかった感じです。が、それは他競技となんとなく印象で較べただけで、実は1863年にFAルールが定められた後も、細かい変遷というのをそれなりに経てきているようです。 - 1873年;コーナーキックを追加 - 1875年;ゴールの上辺がテープでなくクロス・バーに - 1882年;片手投入だったスローインが両手に 上記はほんの一例で、ほかに審判制度なども違っていたそうです。 「副審とかいなかったみたいですけど、それどころかちゃんとしたレフェリーもいなかったみたいです お互いのクラブからひとりずつアンパイアっての選んでたとか、抗議はキャプテンがするとか決まりあったそうです で、観客の中からレフェリーえらんだりしてジャッジしてもらってたらしいです」 — fujiko さんのご調査によるコメント — どうもありがとうございました(はあと) 試合の当事者同士が合意して選任するのがアンパイアで、それは極端にいえば誰でもよかった、それに対して外部の中立な派遣(?)審判のことがレフェリー、なんですかね。で、どっちでも認められていた? その後1891年にいたってアンパイアがラインズマンに継承され、フィールドの中で判定するレフェリーと組み合わせた三名審判制になったのかな。ということは、かなり長い間、外から判定していたわけですね。
追記(5月2日) まず、審判のことで追記します。 なんでも1863年にルールつくったときは審判員って必要なかったそうです なにか問題が起きたら両方のキャプテンがいちいち話し合ってたんだそうですよ でもそれじゃ時間もかかるし、解決しない場合が多くなってきたからっていうんで中立な人をつくったんだそうですよ レフェリーってのは競技規則に照らし合わせて(refer)判断する人(referee)って意味なんだそうです で、最初はレフェリーを2人選んで、どっちかのチームからアピールがあったときだけピッチの中で判断してたんだそうです でも2人のレフェリーで解決できないときにピッチの外にいて遠めから試合を見てるひとりのレフェリーが最終判断を下してたんだそうです そのひとりのレフェリーがピッチに入っていまの主審になって、中にいた2人のレフェリーはいまの副審になったんだそうです 以上、fujiko さんからのご提供でした、ありがとうございます。 さらに、ルール成立についても一言つけ加えます、すいません。 下記にシェフィールド・ルールズが最古のサッカー原型のように記しましたが、それは正規には1855年に当該ルールのクラブが創立されました。一方、もっと現行のサッカーに近いと思われるケンブリッジ・ルールは、1848年に成立したものとするそうで、後者の方こそが元祖にふさわしいと訂正します。 最後に、1891年採用のペナルティ・キックに関する誤記、取消し線を引きます。 以上、申しわけないです。
FAルールでない別のサッカー的フットボールもありました。まあ残った主要なものはひとつ、シェフィールド・ルールのフットボールだけでしょうか。これはFA設立時に競技規則作成の参考にもした、サッカー以上に古い、元祖サッカーといえなくもないものですね。FAと完全一致を見る1877年までは、独自ルールで組織的に大会をしていたそうです。 ほかにも、ゴールキーパーに関する規定を追記するとか、もっともっとありますね。 そもそもオフサイドにしても、ゴールラインとの間に「三名」の相手がいればオンサイドだと正式に決められたのは、FA創立よりも少し後の1866年から翌年にかけてだったようです。 もとから三人オフサイドが有力案だったらしいのを、1863年時点では採用しなかったとのこと。 この人数限定オフサイド確定が史上最大の変更でしょうね。フォワード・パスが可能になって、初めて現行サッカーができたのだという感じがします。 また1925年のオフサイド改定のあとも、さまざまな細かい変更は続いてます。ペナルティ・キックを設けるなど、大きめの変更もありました。 しかし1867年から今までのところでは、三人オフサイドを二名いればよいと変えたことが最大のルール改定に違いないと思います。 ● IB、今昔 当時も二十一世紀も、ルールを決定するのはFIFAではなく、独立した会議体・管理機関であるインターナショナル・ボード(IB=国際サッカー評議会)。 ウィリー・マイスルの書くところによれば、IBは英国四協会だけで1886年にスタートしたが、実質的には1882年の発足だとしています。82年はジミー・ホーガンが生まれた年で、柔道の誕生というのか、講道館創設の明治15年でもありますね。 IBの始まりが1882年だというのは、この年末に英国四協会代表者の会議が開かれ、ほかの協会との試合も考慮して、ルールを一種類に統一すると合意したのを指していますね。 イングランドでは1863年にFAが設立されましたが、連合王国イギリスには無論ほかの国があり、スコットランドが1873年(SFA)、ウェールズが1876年(FAW)、アイルランドが1880年(IFA)に自国のサッカー協会を創設しています。 【アイルランド独立運動の中、1921年にFAIが創設されました。FAIにはIBの議席がないようです。IFAの方は議決権を保持したまま、後に北アイルランド・サッカー協会と通称されるようになりました】 FAの競技規則を標準形として、イギリス全土が大筋で近いルールを使ってはいても、真の共通ルールはなかったんですね。この1882年の会議に類するものを継続しようという機運になり、1885年に調整合意に達して、1886年からIBとして合議の場が運営されることになったようです。 その後1904年にFIFAが発足しましたが、しかしすぐにはIBへの関与はできず、参加を認められたのは1913年になってから。これは黒いダイヤモンド、レオニダスが生まれた年でもあり、名高い評論家の吉田秀和氏の生年とも同じ! そして翌年からは第一次世界大戦ですね。 FIFA代表には表決の権利が二つ与えられ、しかし四協会は各々が二つずつ。英国系全体と他国すべて、つまりFIFAをくらべると8対2でした。 このIBが大きく変わるのは1958年で、英国四協会が各一に対してFIFA側が四ということで4対4の均衡状態になります。それでも英国勢のどこかが賛成しなければだめで、それも二か国。過半数ではなく四分の三が必要だそうです。 IBは、後にIFABという長い略称が一般化しました。単にインターナショナル・ボードだと、ラグビーのIRBとか、ほかのボードと混同するのかもしれないですね。 そういえば、ワールドカップをFIFAワールドカップと呼ばせるようになり、コカ・コーラ・カップ世界ユース選手権も、FIFAアンダー○○ワールドカップにとか、名称はだんだんとザ・デストロイヤーの本芸名みたいに発展していきます。 将来は協賛や提供も拡大していき、△△プレゼンツ・××サプライズ・##ビックリデス・FIFAオーガナイジズ…割賦 インター・コンチネンタル・カップを日本開催に誘致したとき、ヨーロッパ・サウス・アメリカ・カップなる呼称を押し出したのは、短い冠カップ名を通用させたかったからだとも言われましたね。 ● オフサイド改定 ふたりオフサイドへの変更を提議したのはスコットランド協会の代表。FIFAが反対したのか、ほかの英国系はどうだったのか、それはわかりません。そもそも他国が猛反対していたという記録も探せていないですけどね。 このころは四分の三ではなく過半数でよかったんでしょうか。とりあえずたぶん、IB内では改定派が圧倒的に優勢だったことと想像しておきましょう。 古いうわぎよ さようなら さみしい夢よ さようなら — 「青い山脈」(西條八十) —
posted by ports |07:24 |
コメント(4) |
トラックバック(0)
トラックバックURL
このエントリーのトラックバックURL:
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/ports/tb_ping/50
この記事に対するコメント一覧
(事務局では、サービス全体の雰囲気醸成の為、全コメントをフィルター/目視チェックし、削除等しております。見逃し等も有りますので、ご不快な思いをされた場合は、事務局宛 support@plus-blog.sportsnavi.com にご意見頂けると幸いです。)
● 史上最大の変更
代表戦のスコア見るかぎりでは英国内はかなり拮抗してたんですね。イングランドがかなり強いのかと思ってましたが・・・。
オフサイドの改正、イングランドでなくスコットランド協会の代表が提議したというのが興味深いですね。
この当時、英国、特にイングランドが他国の脅威を感じていたのかいなかったのか?ちょっとそこに興味を持ってたんですが、代表戦だけ見ると恐怖を感じていなかったような・・・。
単に得点の少なさだけ考えてたような気がしてきました(笑)スタイルの変化をあまり想像せずに。
ルールの変遷は頭がごちゃごちゃになってるので時間があったらゆっくり整理してみようかなあ。スキルの発展とどうつながってるのか考えながら・・・。
posted by ブランク | 2008-05-02 15:03
返.● 史上最大の変更
ブランク さんへ
ありがとうございます。
> 代表戦のスコア見るかぎりでは英国内はかなり拮抗
特に、イングランドはスコットランドに勝てなかったみたいです。代表戦の出だしはスコットランド黄金時代で、でもその後イングランドが上がっていくイメージでしたが…
適当に思い込んでいたもんで、実態が違うことに勝手におどろいてしまいます。
1910年代も分は悪いし、1920年に5−4で勝ったあとは毎年負けか引き分けが続きますね。1927年にグラスゴーでようやく勝つけれど、翌年にはウェンブリーで1−5の大敗ですから。
ま、その二年後にはイングランドが5−2で雪辱してますが、すでに1930年です。
> イングランドでなくスコットランド協会の代表が提議したというのが興味深い
同種のオフサイド騒ぎがあったか、と。
> 単に得点の少なさだけ考えてたような
変更した狙いはタイムズなどから再度まとめておきます。
> ルールの変遷は頭がごちゃごちゃに
ほんとに一覧年表をつくらないと間違えます。
そういえばすでに間違ったウェブ上の情報でPKを勘違いしました。訂正を書いておきます。
ぜひ整理して、スキルの発展とつなげて公開をお願いいたします。ぜひ。
よろしくお願いします。
posted by コリバノフ | 2008-05-02 18:05
● 史上最大の変更
引用してもらってありがとうございます^^
名前まで書いてもらっちゃっててれる(はあと)
なんでも1863年にルールつくったときは審判員って必要なかったそうです
なにか問題が起きたら両方のキャプテンがいちいち話し合ってたんだそうですよ
でもそれじゃ時間もかかるし、解決しない場合が多くなってきたからっていうんで中立な人をつくったんだそうですよ
レフェリーってのは競技規則に照らし合わせて(refer)判断する人(referee)って意味なんだそうです
で、最初はレフェリーを2人選んで、どっちかのチームからアピールがあったときだけピッチの中で判断してたんだそうです
でも2人のレフェリーで解決できないときにピッチの外にいて遠めから試合を見てるひとりのレフェリーが最終判断を下してたんだそうです
そのひとりのレフェリーがピッチに入っていまの主審になって、中にいた2人のレフェリーはいまの副審になったんだそうです
posted by fujiko | 2008-05-02 20:10
返.● 史上最大の変更
fujiko さんへ
ありがとうございます!
まさにペレのような嗅覚とトスタン以上かという手際よさに、スタンディング拍手をしたらついお茶をこぼしました。
本文に追加して訂正といたしますよ。
よろしくご了承お願いします(はあと)
こうなりますとね、ベッカムを十九歳にしたかのような麗しさと、ファルカンもびっくりのオールラウンドな「個」を、Jリーグのためのみならず広く世界にもご貢献いただきたく、と、まあ、そう思うのは人情ですよね。
ご興趣にまかせ、50年代とその前後十数年あたりで、ユーゴスラビアやオーストリア、ハンガリー、チェコスロバキアを、ぜひにご探索たまわりますよう伏してお願いします!
うつくしいさざなみも、きっとにぎやかに出迎えるでしょう?
そして必ずやJリーグの発展にも貢献することになりますよ?
だって伝えなきゃ下の世代はわかりませんからね。Jリーグないころは日本も外国もないようじゃ、それはさびしいサッカーの伝統ですもんね。
重ねて魅惑の流域散策、インテリジェント・インフォメーションご収集をお願いします。ありがとうございました。
posted by コリバノフ | 2008-05-02 21:20


