2008年04月26日
◆ チャプマンズ計画
独裁者はスローガンで民衆を鼓舞した。 「危険に生きよ!」 … 中略 … チャーチルの … 中略 … 指導によって、ついにわれわれはあてにならない「安全第一」を捨て、 … 中略 … サッカーにおいて「安全第一」はこの先も優勢だった。 … 中略 … サッカーでの「安全第一」精神には、当初から私は反対をしてきた。 十年ばかり続いた始めの期間、それは明瞭に認識できるものでもなかった。なおも旧式流の見栄えをとどめていたからだ。オフサイド・ルール変更以前に育った選手が残っており、 … 中略 … 〜、それでも多様性や個性を見せることができて、システムは彼らの僕となった、主人ではなく。このスターたちが衰え、戦争を迎えて徐々に消えていき、その戦争が芽生えかけた次代のスターたちを … 中略 … そして三部のチームもすべてサード・バック・ゲームを模倣し … 中略 … チャプマンのスターたちを欠いているのに … 中略 … チャプマンがこのときに生きていたなら、彼は新たな戦術に、むしろ古いかもしれない戦術へ切り換えたことだろうと私は直感した。 不幸にも石膏模型だけが記憶に残り … 中略 … チャプマンならやっただろうことをする者がいない。
私がいくつかの論説で表してきたこの見解を、ゼールドライヤー氏が二年前に証明してくれた。彼はベルギーのスポーツ、サッカーの大立て者であり、これまでのFIFA副会長から、このたび会長に選ばれた人物だ。 … 中略 … 「フーゴはハーバートの脚をつついて言った。『理解できない、どうしてアーセナルにあれほどまでディフェンシブな、…おもしろくないアイデア』だとかね。 チャプマンは余裕で笑いを浮かべたもんだ。『わかれよ。あれはうまくいった、結果を呼び込んだのさ。われわれ英国人ていうのはのろまなんだ、まだあれは使える。で、待ってる。…みんながコピーするんだ、そうしたら新しいものを見せてやるつもりだ』」 チャプマンを知る者ならこんな言葉に納得してもおかしくはない。 追随者たちは基本のアイデアに飛びつきはしたが、多くの場合、その含意するものを取り逃した。チャプマンが収集したスターたちと、チームづくりに関する彼の眼識なしに、手法だけを盲目的に猿真似 … 後略 … — 「サッカー・レボリューション」(ウィリー・マイスル)— ● Live dangerously ! 危険に生きよ、これはきっと有名な言葉だろうと思いますが、どんな文脈で誰が言ったかわかりませんか? たぶんムッソリーニなのかななどと思いますが正しくはどなたでしょう? もとはニーチェやゲーテを典拠として引用していますか? ● 形骸 日本代表だった竹内さんやフーゴ・マイスルはアーセナルを否定していたみたいですね。しかしウィリー・マイスルにはそんな雰囲気があまりないようです。チャプマンのスターたちだとか宇宙を築き上げたなどとも書いていました。ま、これには時期のずれもあるでしょうが、そこらへんの探求は、なしです。 とりあえずは…、アーセナルにはシステムの主人として振る舞う選手がいたんですね。まあ、それを集めたわけですからね。 けがで引退を早められ、戦争中に亡くなってしまう“プリンス・オブ・ストッパー”ハービー・ロバーツは、代表キャップがわずかにひとつ、1931年のスコットランド戦だけでした。 しかしこれは、代表レベルからはちょっと落ちるというのでもなかったろうと想像します。ISCがあまりサード・バック・ゲームを好まない時期があったかもしれませんし、国際試合数も少ない。さらに、ほかのクラブにもいい選手がいたようでもあります。 ロバーツは、単に守備面で強力なだけではなかったとする話もあり、非常にパスの能力が高かったともいうようです。 有名なアウトサイドレフト、クリフ・バスティン、こちらはイングランド代表二十回で十二ゴールですね。インナーとしてもプレーした彼は、センタリング・マシーンではなかったでしょう。感覚としては二試合に一点を挙げる選手と見られていたのではないでしょうか。代表だと結果がそれ以上になってます。 単純に、アーセナルには優れた選手が揃っていたようです。 かたやアーセナルではない、そして相対的に劣った選手たちからなる集団だと、チャプマンの戦術を真似はしたものの、ほんとうに失点阻止に特化したように映るものだったかも。アーセナルが見せただろう逆襲のようにはつながらず、極端にいえば僥倖頼みで点が入るような… オフサイド規定が変わったおかげで守備陣の対応が固まりきらない間は、それでも失点するときはしただろうし、その裏面として、雑に蹴り合ってもいつかはゴールに達するようなムードもあったかもしれませんね。 竹内さんにしてみれば、1936-37シーズンはアーセナルですら拙速と見えたわけです。 ● 予期せぬ晩年を迎えていたナポレオンズ 引用文の中に出てくる挿話は1930年代前半、ウィーンのレストランにおける会話です。すでにその店はありませんが、英国皇太子がウィーンにいくと客人の応接に使うレストランだったそうです。シンプソン夫人と結婚するエドワード八世が皇太子だったときのことです。 そのシェーナーズという店のことをご存知の方、往時の写真などをご覧になった方はいらっしゃいませんか? このとき元気に将来を見据えていたふたりは、1934年と1937年に相次いで亡くなりました。ちなみにマイスルが執筆していた1954年にFIFA会長となったゼールドライヤーは、翌1955年には帰らぬ人となりました。 おそらくこの会話時点でのフーゴ・マイスルは、最強チームの呼び声も高かったオーストリア代表、通称驚異のチームでイタリア・ワールドカップ優勝を目指していた時期のはずです。結局は開催国イタリアに0−1で敗れ、ついでに三位決定戦でもドイツに負けてその大会は終ります。 そのチームにさらに手を入れて、1938年フランス・ワールドカップを狙いますが、前年に心臓発作で世を去ることになり、おまけにオーストリアはヒトラーに併合されてしまって、ワールドカップ出場を辞退します。 ハーバート・チャプマンはスター選手をそろえた逆襲型のアーセナルを完成させ、このころは、その後の展望を楽しく思い描いていたことでしょう。ほかのチームがコピーするのを待つといった対象は、例の名高いWMシステムのことですね。ご当人はそれを捨てて別種のサッカーをやろうとしていたかのようです。 マイスルはその新たなものの中身を「旧式」の攻撃サッカーだと考えていました。今となっては残念ながらどうなったものやら不明ですね… ● 寄り道、最強イングランド サッカー界のナポレオンふたりが、ともに55歳で急逝したころから第二次世界大戦中にかけて、イングランド代表チームは潜在的にきわめて強く、技術レベルもかなり高度なチームだったという伝説を見たことがあります。マイスルの書いてきたことと矛盾するような話です。 仮に戦争がなくて1942年だかのワールドカップというものがあり、そこに初出場していたとしたら、ひいき目では優勝で、負けるとしても、これも伝説のアルゼンチンが相手になったときだけだったろう、うんぬんとか。 このころリバープレートは得点機械だという噂があり、それを確かめた英国人もいたのか、ロンドンでも風評が流れていたらしい。 同じ時期にマイスルはロンドンにいて、一時従軍して離れたかもしれませんが、だいたいの重要な試合は目にしていたことと思います。どちらもまるっきりの嘘でないとすればどうなるのか。 多様性や個性を見せる旧式世代のベテラン・スターが残っていて、その人たちをピック・アップすると非常に見事なチームが結成できた、そういうことでしょうか。全体は低下しつつある中で、高水準な選手がまだ相当にいたのだ、と。 たしかに、ある地域ある世代に才能が集まることはあったわけで、一概に否定はできないでしょうね。
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この記事に対するコメント一覧
◆ チャプマンズ計画
この世に存在する上で、最大の充実感と喜びを得る秘訣は、危険に生きることである。―ニーチェ
posted by 匿名 | 2008-04-27 02:17
◆ チャプマンズ計画
「危険に生きよ!」
この世はいつも、危険と平和の天秤。
posted by aozora rui | 2008-04-27 09:54
返.◆ チャプマンズ計画
匿名 さんへ
どうもありがとうございます。
重ねて恐縮ですが、ムッソリーニがその句を引用した演説の一例、全体あるいは部分が掲載されたページや本はありませんか。
posted by コリバノフ | 2008-04-27 12:17
返.◆ チャプマンズ計画
aozora rui さんへ
このよはね、いつも危険と平和の天秤なんだよ
はあ、さすが、この代さんだ。ご隠居のお孫さんともなると、こりゃやっぱりはかるもんがぁ偉い。
うちの娘なんかねぇ、せいぜいが明日はジョージかケン坊かって
三さん、そりゃ両天秤かい?
だけどちと心配だよ。まだ十八だったろ、けいこちゃんは?
いやぁ、いいんです、そんくらいでね。
うちのはね、十五・十六・十七と暗かったもんで
posted by コリバノフ | 2008-04-27 12:20


