2008年04月21日

◆ ナポレオンズ

「アーセナル ストッパーを発明。つねに模倣され しかし追いつかれることはない」
		— アーセナルが掲示した1930年代のポスター(?) —


天才を真似ることは火遊びのように危うい。「安全第一」プレーの四半世紀に分け入ってみよう

 … 中略 …
 チャプマンの大いなる盛名は今なお生きている。偉大な将軍が死んでから二十年以上経っても、アーセナルは — いまだ彼の名とともに語られ — 傑出した栄誉を賞され続けている。
 … 中略 …
 ハーバート・チャプマンが早世しなければ、イングランドのサッカーが斜面を滑り落ちることなどなかったに違いないと感じる。彼は危険信号を最初に気に留め、そして守備的傾向を支配した人物だろう。
 だが実態としては、われわれのサッカーを懐旧的なものにしてしまい、ことをこれほど悪化させたもの、それがハーバート・チャプマンの才能だという点を認めねばなるまい。逆説的で、しかし真実ではある。
 … 中略 …
 外見はともかく内実として、兄とハーバートはサッカーにおけるナポレオンだった。
 … 中略 …

 【兄と、】ふたりの人物が近接したレベルで競いあっていた。ハーバート・チャプマンとビットリオ・ポッツォである。三人とも友人同士だった。
 … 中略 …
 〜、必要なものと人、そしてそれをいつ手に入れるべきなのか、チャプマンは正しく理解していた。そして山のように獲得した。
 … 中略 …
 〜、なによりも指導者たるものすべてに通ずる稀な資質、つまり人間の潜在力を悟り得るという天与を備えていた。

 その特異な感覚で、ジョー・ショーとトム・ウィタカーをアシスタントに抜擢し、さらにプレストンのゴールゲッター、アレックス・ジェイムズを獲得、ハイベリーにあっては相当に異なった役割を果たすように仕向けた。ほかの選手のための組み立て役、創造者にしたのだ。
 攻撃のスピアヘッドからチーム組織の頭脳へ、心臓へと役割を変えさせられたジェイムズ自身は、チャプマンのプランを咀嚼しきれているかどうか疑問を感じていた。しかし「ボス」の方には疑念など微塵もなかった。何にせよ結局のところ、彼はジェイムズに信頼感を抱かせることに成功した。これと並行してインサイドレフトだったクリフ・バスティンを当代のベスト・ウィンガーに仕立て上げ
 … 後略 …

	— 「サッカー・レボリューション」(ウィリー・マイスル)—

————以上、引用終わり————
 
● アーセナルのナポレオン ハーバート・チャプマン

 ハーバート・チャプマンは、ウィリー・マイスルがロンドンに移住する年、1934年の始めに亡くなってしまいます。マイスルが行く前でしょう。56歳に届くまでにあと幾日かのときですから、たしかに残念な早死にですね。
 誕生したのは大久保利通が殺された1878年、明治11年で、その翌年にはアインシュタインが生まれます。そしてフーゴ・マイスルが1881年、ジミー・ホーガンは1882年誕生でした。
 チャプマンの評伝書は多いでしょうから、古いものをどなたか訳していただきたいです。

 選手時代はインサイドフォワード、後にセンターフォワードもやっていたようです。アマチュア、セミ・プロくらいのクラブをたくさん渡り歩き、プロ契約をしたこともあり、トッテナムでもプレーをしたことがありますかね。

 監督になってから大きく上昇。当初からさまざまな工夫を凝らす人だったらしく、下位リーグのクラブでも種々の革新策を展開したと伝わります。
 また、親善試合の報酬を相手主催者と交渉したり、ファーム・チームの試合にもかけつけたり、ユニフォーム・デザインを提言したり背番号をつけさせるとか、ほかにも試合場の照明設備やら、あらゆることに口を出したみたいです。アーセナルでも全面的「改良工事」に携わった感じです。
 が、やはりサッカーの中身に一番造詣が深かったようです。

 マイスル兄(オーストリア)、ポッツォ(イタリア)と仲がよかったのですが、当時は少々異例なことだったかもしれません。イングランドの指導者たちはあまり大陸へ目を向けないのが普通だったようですからね。しかしチャプマンはハダーズフィールドやアーセナルを他国へ何度も遠征させており、外国人との交友がありました。
 フーゴ・マイスルが提唱して実現した国際大会ミトローパ・カップを高く評価していたようで、イングランドも含めた国際クラブ選手権を画策したりもしたらしいです。

● 栄光の十数年

 1921年からハダーズフィールド・タウンを指導することになり、FAカップで優勝。それから一部リーグでの順位を上げ、1923-24シーズンに優勝。最終成績はカーディフ・シティと同勝ち点で、ゴール・ディファレンスも同じ、ゴール・アベレージによる優勝でした。
 翌期はWBAに二勝ち点差をつけて連覇。ハダーズフィールドはさらにその次も勝ってイングランド史上初の三期連続優勝を達成します。が、三つ目はチャプマンがアーセナルに行ったあと。初めの二つがチャプマン監督によるものでした。

 オフサイド改定が決まった1925年のシーズン・オフにチャプマンはアーセナルへ移ります。マイスルによればこうでした。

「ハイベリーの前任者たちが比喩的な死に至ることになった主要な障害、それはアーセナル会長のサー・ヘンリー・ノリスだった。サー・ヘンリーは趣味に財産をつぎ込んだが、それと知らずに手綱を締めつけすぎてしまい、アーセナルの進歩を妨てきた。しかしチャプマンの人間性とその大胆な企てに説き伏せられる。なんと効き目のある魅力だったことか! その効果が会長をして小切手帳をめくらせ、」

 1930-31シーズンから優勝、二位、三年連続優勝と続いていくアーセナル常勝化に成功、しかし収穫のさなか、三連覇の二つ目シーズン中に肺炎で急死。イングランド史上最初と二度目の三連覇を指揮しながら、またもやチャプマン本人は三つ続けてを体験できませんでした。アーセナルでは三連覇の最初のひとつだけですね。
 イングランドで三連覇というと、ほかにはリバプールとマンチェスター・ユナイテッドが一度ずつしかありません。

 彼は、当時でいえば高額な選手をかなり獲得したようで、彼らはある程度まで放っておいてもけっこう勝てる選手たちだったのでしょう。しかしチャプマンはそのポジションを変えさせ、守備を強化した新たな戦い方を構築しました。それは新ルール、ふたりオフサイドを最大限に意識したやり方。

 下記もご参考に。チャプマンについてです。
http://www.soccerdays.com/reading/football_columns/2005/0804.html

● ウィーンのナポレオン  フーゴ・マイスル (明治14, 1881-1937)

 昨年2007年が没後七十年、ドイツ語の世界では評伝が発刊されたみたいです。ほかに二十一世紀に入ってからもうひとつ出てるようです。どなたか翻訳なさいませんか?

 ウィリー・マイスルより十四歳年長の兄で、チャプマンの生年からは三年あとの誕生。サッカーのコーチ、国際審判員、運営当局者として非常に名高い人です。
 生まれはボヘミアのマレシャウ(当時はオーストリア=ハンガリー帝国内、2008年時点ではチェコ領マレショフ)。ジミー・ホーガンのひとつ前の年に誕生していて、魯迅、ピカソなどと一緒です。

 ナチス・ドイツのオーストリア併合に先立ち、心臓発作でウィーンにて亡くなる、55歳。つまりこの世代の仲がよかったナポレオンズは、同じころ同じ年齢で戦前に急逝なんですね。
 マイスル亡きあと、1938年フランス・ワールドカップ出場を決めたオーストリア代表は、国がドイツの一部になったことから大会を辞退します。

● ついでにもう少しフーゴ・マイスル

 ウィーンの通称クリケッターズでフォワードだったそうです。このVCFC(ヴィエンナ・クリケット& FC)はヴィーナー・アマテウアーSV(WAS)に変わり、その時代には弟のウィリー・マイスルがプレーしています。プロ化後はFKアウストリアとなって今へ続きます。もしかすると往時はFKオーストリアと言っていたかもしれませんね。
 ウェブ上で行き当たった Horst Hirch という人のフーゴ・マイスル評では、スキルが低くて選手としては伝説にはなれなかったコーチだとしていました。
 ブライアン・グランヴィルの書では、体格に恵まれていないことが非常な障害となったとはいえ、大変な技巧の持ち主だったとなります。どちらも本人を知らないし、もうプレーを見た人も残っていないでしょう。

 どんな選手であったにせよ、結局はお父上の命令でサッカーを続けられず、たぶん弟以上に若くしてやめさせられたのではないかと想像します。家業の支店でしょうか、トリエステの事務所に三年くらい流刑になったようです。
 しかしその間、友人のサッカー選手とせっせと文通して、イタリアにいながらオーストリアのサッカー事情に誰よりも詳しかったといいます。で、軍役でウィーンに戻されちゃうんですね。
 その先はオーストリア協会の運営や代表の指導、FIFAの仕事とかへまっしぐら。

● さらに若旦那

「チャプマンは偉大な見せ物師であり、同様にサッカーの将軍だった。私の兄はサッカーのために資産を注ぎ込んだばかりか、銀行でのキャリアも犠牲にし、そしてそれを私は支持するのだが、チャプマンであれば、どのようなビジネスにあっても最高に成功した重役になれるに違いない。ショウ・ビジネスではとりわけそうである」

 こう述べる弟ウィリー以上に、兄の方が多数の言語を使ったといわれます。八か国語を流暢に喋っただとか。独・英・伊・西・瑞・仏・丁・葡? 最初の三つは確実ですが後は推測です。

 いちおう父上の友達が株主をしている銀行に籍を置いてましたが、店が閉まるころに現れたらしい。通信部門だかに所属していて、部外者が外国語の文書を手渡すと気軽に翻訳してくれる人だったそうです。
 間違っても昇格しないようにしていたという伝説で、でもじきに辞めちゃうんだったと思いましたが。

 先に記したミトローパ・カップ、中欧国際カップ創設の中心人物でもありました。2008年欧州選手権にあわせて顕彰されるんではないでしょうか。

	The Mitropa Cup
	(La Coupe de l'Europe Centrale)

	The Central European International Cup
	(Coupe Internationale européenne)

posted by ports |23:55 | コメント(2) | トラックバック(0)
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この記事に対するコメント一覧
◆ ナポレオンズ

サードバックに入ってきましたね。
「安全第一」ってそういうことだったんですね。自分の中で一つ、伏線が回収されました(笑)

マイスルとチャップマンがこのようにつながっていたとは・・・・なるほど、なるほど。

>ハーバート・チャプマンが早世しなければ、イングランドのサッカーが斜面を滑り落ちることなどなかったに違いないと感じる。彼は危険信号を最初に気に留め、そして守備的傾向を支配した人物だろう。
 だが実態としては、われわれのサッカーを懐旧的なものにしてしまい、ことをこれほど悪化させたもの、それがハーバート・チャプマンの才能だという点を認めねばなるまい。逆説的で、しかし真実ではある。

ここの評価はどう捉えればいいんッスかね。
「サッカー・レボリューション」って1954年でしたっけ。
まだ生きてたら、イングランドがより守備的になって諸外国には負けてなかったけど、どんどんつまらなくなったってことですか。なんかヒネくれてますね。
でも、イングランドの状態がよくわかりますね。

posted by ブランク | 2008-04-22 00:52

返.◆ ナポレオンズ

ブランク さんへ

> まだ生きてたら、イングランドがより守備的になって諸外国には負けてなかったけど、どんどんつまらなくなったってこと

それに関してはマイスル弟の例解を提示するようにしたいと考えてます。率直なところ、長生きしたらどうなったかは、まったくわたしでは不明です。
本は、執筆がほとんど1954年ワールドカップ後だろうと思います。出版は翌年ですね。

ただ、チャプマンは大物中の大物です。実はサー・ウォルター・ウィンターボトム以前に代表監督まがいのことさえしてたかとも思われます。
サード・バック・ゲームの元祖にとどまる人でもなかったか、とは感じます。
たぶん英語ではたくさん評論があるはずです。

WMの考察をよろしくお願いします。
ありがとうございました。

posted by コリバノフ | 2008-04-22 01:07

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