2008年06月11日
● 0トップ狂詩曲第4番 中央ヨーロッパの平原にて
地元で初めての敗北、それも3−6で負けたイングランドは、半年後にブダペストでリターン・マッチに臨みます。スイス・ワールドカップの強化の一環でもあります。 ハンガリーがORだけを変更したのに対し、イングランドは大幅に選手を入れ替えていました。しかしこの直後のワールドカップにはこちらのメンバーが多い。アウェーだから二線級を投入したのではないですね。 それに、すでにこの守備陣に切り替えた後のスコットランド戦に勝っており、敵地でのユーゴスラビア戦でも、ミチッチ、ブカス、チャイコフスキ相手に善戦し、0−1の敗北にとどめています。多少の見通しは持ってブダペストに乗り込んだということでしょう。
ウィングハーフをもとのままにして、三名のバックを全部取り替え。ストッパーにはシド・オーウェンが使われました。ハリー・ジョンストンはロンドンでのハンガリー戦が最後の代表選出になってしまいます。 でもオーウェンも短命でした。1954年ワールドカップ中に、もとはアタッカーだった主将のビリー・ライトに替わられて、二度と代表戦には出ません。 マシューズがいない事情は全然調べていません。 フィニーは名高い選手で、マシューズと違ってゴールも挙げる、ウィングの枠に収まらないタイプ。ブローディスはテクニシャンだったという人。バーンはミュンヘンの事故で亡くなるユナイテッドの選手で、もとは左ウィングだったのをバスビー監督にコンバートされ…、どうだったんでしょう? 選手選考をしたのはISCで、ウィンターボトム監督の意見がどのくらい反映されたのかは疑問もあります。でもまあ、不安定ながらも、守備は取っ替え引っ替え工夫を試みていたのだと思います。 ハンガリーの戦い方は充分に織り込み済みで、イングランドはそれに対応しようと試行してました。それでもやはり… 《1954年5月23日 Népstadion 主審 Giorgio Bernardi》 【ハンガリー】 Zoltán Czibor Nándor Hidegkuti József Tóth Ferenc Puskás Sándor Kocsis József Zakariás József Bozsik Mihály Lantos Gyula Lóránt Jenő Buzánszky Gyula Grosics(→Sándor Gellér) 【イングランド】 Tom Finney Bedford Jezzard Peter Harris Ivan Broadis John Sewell Jimmy Dickinson Billy Wright Roger Byrne Syd Owen Ron Staniforth Gil Merrick ハンガリー 7−1 イングランド Lantos 9 Broadis 69 Puskás 22, 72 Kocsis 30, 57 Tóth 60 Hidegkuti 62
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● 0トップ狂詩曲第4番 中央ヨーロッパの平原にて
平成14年12月25日、ワールドダイジェストが発行した雑誌「ファンタジスタ50 NOW!」にマシューズとフィニーについて書かれています。
筆者はブライアン・グランビル氏。
彼についての説明はとくにないのですが、氏本人は両者のプレーを何度も見て敬意を抱いている、と述べています。
その彼がマシューズについてこう書きます。
「ウイングから離れて中盤に入っても、彼は同じように好プレーを展開した。…マシューズについては、仲間内からときどきこんな苦情が漏れ聞こえることがあった。
『右翼にいるマシューズにボールを渡すと、そのあと、どこからボールが返ってくるのか皆目見当がつかない!』
事実、戦後の一時期、イングランド代表がウェンブリーで闘った試合では、他のメンバーがマシューズにボールを回さないという事態にまで発展した。」
マシューズは一部からは煙たい存在だったのでしょうか?
人とは知らずしらず過去を捏造する動物なので、いちがいにグランビル氏を信じるわけにもいきませんが。
フィニーについては47年5月、リスボンでのポルトガル戦で共存したことがあったそうです。このときはフィニーが左にまわり、10-0で粉砕したのだとか。
ポルトガルの実力がなんともわからないので、すごいことなのかは不明ですが。
ともあれマシューズとフィニーの共存の可能性はその後もさぐられていたようです。
ところが50年W杯、マシューズは代表から外されたとグランビル氏はいいます。
その後あわてて召集され、最後のスペイン戦にだけ出たのだとか。
これがフィニーとのポジション争いのゆえなのかは、グランビル氏は触れていません。
53年にもなにかそんなことがあったんですかね?
posted by 由比彰紀 | 2008-06-12 22:13
返.● 0トップ狂詩曲第4番 中央ヨーロッパの平原にて
由比彰紀 さんへ
どうもありがとうございます。
> 筆者はブライアン・グランビル氏
エリック・バッティと同世代の多作家ですね。
たしかイタリアにいた時期があったかと思いますが、イングランドに帰って、マシューズやフィニーも何度もみたでしょう。
> そのあと、どこからボールが返ってくるのか皆目見当がつかない!
わかりませんが、そんなエピソードもうなずける感じがあります、なんとなく。
ウィリー・マイスルが、マシューズはどこにでも現れると書いていましたね。実際にそういうプレーを見せた試合もあったことと思います。そして相手をとにかく抜きにかかるタイプみたいですね。
それから、エリック・バッティがどこかの記事で述べてましたが、マシューズはあまりシュートせずにパス、センタリングでプレーを終えるから、あまりディフェンダーが必死に削りにかからなかったようです。これは関係ないか…
> フィニーについては47年5月、リスボンでのポルトガル戦で共存
これも有名な試合みたいですね。イバン・シャープは対スコットランド戦を対象にして歴代最高の代表を選んでいましたが、1943年のイングランドが上がっていました。
四年の差があるとはいえ、戦時中ずっと、イングランド代表は事実強かったのではないでしょうか。
エリック・バッティも、40年代のイングランドは最強時代みたいに書いていたものがありました。
posted by コリバノフ | 2008-06-12 22:49


