2008年06月11日

● 史上最高? ドナウの至宝への序奏

 スタンリー・マシューズ、見事に抜き去る! このあで姿をご鑑賞いただいて…

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 … of the people, by the people, for the people …
                — 「ゲティスバーグ演説」 —

 … その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者が
   これを行使し、その福利は国民が …
                     — 日本国憲法 —


 イングランド・サッカー協会(FA)とともにFAルール・サッカーが成立したのは1863年。明治維新以前であり、十年さかのぼった1853年が黒船来航だから、とても古い話です。この1863年にはオリンピック運動創始者のクーベルタン男爵が生まれ、リンカーン大統領の歴史的な演説もありました。翌年には洪秀全が病死、太平天国が終結します。

 しかしフットボール系統の現存ゲームでは、楕円のクリケット場を使ったオーストラリアン・ルールズの方が、今にいたる競技成立としては少し先輩のようですね。1858年からだとされています。

 ペリーを派遣したアメリカでは、十九世紀前半に今日へつながる野球が成立しており、プロ野球リーグ戦は1871年から始まったそうです。これがイングランドのプロ・リーグの手本だとのこと。
 この時点ではもちろんイングランドのプロ・リーグは存在しません。イングランド・サッカー協会チャレンジ・カップ、通称FAカップが1871年からですね。

 そして1872年には初の国際試合、スコットランド対イングランドが引き分けに終ります。次の対戦ではイングランドが勝ったはずですが、十何年か、さらにもっとか、当初はスコットランド黄金時代が続いたといいます。
 この1872年は、ラヴィクレールのマイヨ・デザインにも取り入れられた有名な模様で有名な、モンドリアンが生まれてますね。またメリー・セレスト号事件も発生。この蒸発事件はさまざまに取りあげられていて、直木賞などをとった久生十蘭も、顎十郎捕物帳の中で謎の解決を試みています。

● 英国最強神話

 イングランド代表チームは、英国協会同士の対戦でこそ敗北もあったとはいえ、他の海外諸国には負けません。
 最初に敗れたのは1929年、敵地でのスペイン戦。アメリカ暗黒の木曜日、世界恐慌の年です。しかし1931年に地元へ迎えたスペインを7−1で粉砕。

 この時期の世界チャンピオン、ウルグアイとは対戦しなかったイングランドですが、1932年、当時の大陸最強と称されもした驚異のチーム、14戦無敗のオーストリアを、ロンドンのスタンフォード・ブリッジに迎えて4—3で破りました。1934年の第二回ワールドカップで優勝したイタリアも、その冬にハイベリーに招いて3—2と降しています。

 イタリア戦のイングランド代表メンバーは、同一クラブ選手を七名並べた前代未聞(?)のもの。チャプマンの遺産のアーセナル。後代にもない、最多記録でしょうか? 

 スペインに続き、フランス、ハンガリー、チェコスロバキア、オーストリア、ベルギー、スイス、ユーゴスラビア。1939年秋からの第二次世界大戦までに、イングランドはこれら各国に敗れたといえども、それはすべて敵地での試合です。
 地元無敗のまま第二次世界大戦をくぐり抜けていきました。

● 寒い国からやってきたスパイス

 寒い国は東ドイツのことでしたが、その建国よりも前のこと。
 第二次大戦終了直後の1945年、友好親善をかかげてモスクワからディナモがロンドンに来ます。ソ連チーム初の英国遠征でした。彼らはチェルシーやアーセナルを内容では翻弄するほどだったともいいますし、引き分けはあっても負けていません。

 ディナモの広く散らばる攻撃と、下がって密になる守りのことを指して、折り畳み方式だと評した例があります。そしてどの選手もがポジションを入れ替わってプレーしていたといいます。
 このクラブの感銘は長く英国識者に残ったようで、後にソ連のチームが期待はずれなプレーをすると、あの素晴らしかった1945年のディナモにはとてもおよばない、といった回想が飛び出してきたりしてました。
 一方、サッカーそのものでなく、周辺にこだわる英国人の中には、政治的背景、これはプロパガンダなんだからと、否定的に評する例もありました。ディナモの選手は尋ねられても自身の考えや感想を述べない、とか。

 そして1950年、初参加のブラジル・ワールドカップで、イングランドは一勝二敗のグループ・リーグ敗退。しかし地元観衆は、いまだ代表チームの敗戦を見てはいません。

● 英国祭

 1951年はロンドン万国博百周年で、第二次大戦からの復興を祝う英国祭(Festival of Britain)が催されました。ロンドンでは産業博覧会や映画祭があり、こうした祭典の開幕時期の5月にあわせ、サッカー界は五十以上の外国チームを招いて試合を行ったそうです。これはFA=イングランド協会だけでなく、スコットランドほか英国すべてを含んだお祭りでした。

 トータルでは英国チームの成績がよかったようですが、FKアウストリアはスコットランド王者になったハイバーニアンを破り、イングランド・リーグ優勝を飾って間もないトッテナムにも勝ちました。

「トッテナムは0−1で敗退した。それ以上に、アルフ・ラムゼー、ビル・ニコルソン、エディ・ベイリー、ロニー・バージスといった面々をもちながら、彼らがただ単に敗れたというだけでなく、ほとんどボールにさわることができなかったのだ!」

 この誇張かと思える文はエリック・バッティの記述です。彼はほかにも、五月の二週間ほどの国際ゲーム祭りのあいだ、レッドスターのミチッチ、ハイデュクのブカスなどを見たそうです。とても感銘を受けたようですね。

「それまでほとんど見たことのなかった外国勢が、依然として“真のフットボール”をやっていることを悟ったのである。彼らには“クラス・プレーヤー”がおり、技術があり、インテリジェンスがあった」

 初めて目にするダニューブ・フットボールだったということです。そしてその後は機会を逃さず外国チームのプレーを見るようにしたそうです。

● イングランド代表も

 英国祭での代表チームは、ウェンブリーでアルゼンチンを2−1と逆転しました。これが、始めてイングランドが赤いシャツを着た試合だろうといわれています。続いてグディソン・パークでポルトガルを5−2で破る。

 しかしこのころは厳しい試合が多かったようです。ウィリー・マイスルの見方では…

「適切だったユーゴスラビアのイレブンは地面でボールを保持、イングランドは好運だったから2—2の引き分けに逃げ込めた。似たことはフランスとの間でもあった。そしてもっと弱いヨーロッパ・チームとも」

 これはたぶん…
 【対ユーゴスラビア 2—2 1950年11月22日、ハイベリー】
 【対フランス 2—2 1951年10月3日、ハイベリー】
 【おそらくは…
  対オーストリア 2—2 1951年11月28日、ウェンブリー
  対イタリア 1—1 1952年5月18日、フィレンツェ
    (オーストリアは例の賞賛されたチームで、
              ユーゴ以上かもしれないですが)】

● FA創立九十周年の1953年

 1953年は朝鮮戦争が停戦となった年で、ファルカン監督やジーコ監督が生まれてもいます。
 イングランド代表は南米遠征を敢行し、ときの世界王者ウルグアイに負けました。

 アルゼンチンとは引き分けたようですが、公式代表戦記録には載らない別の試合もありました。ブエノスアイレス・イレブンというチームと。対するイングランド側もなんらかの選抜チームとかいった扱いでしょうか。白黒写真を眺める限りでは水色と白のシャツが相手のようにも見え、1−3の敗北でした。
 このシリーズ、イングランドはチリ代表には勝ち、ヤンキー・スタジアムまで足をのばしてアメリカを破り、ブラジル・ワールドカップの仇を討って凱旋。

 秋になると、お祝いの一環としてFIFA選抜チームがロンドンに来ます。選ばれた寄せ集めチームは、ハンガリーをはずした欧州選抜といった趣でした。イングランドのフル代表チームは、終了間際のPKでやっと引き分けに追いつきます。
 祝典の花試合だろうという後の慣行に基づく憶測とは、かなり異なるゲームだったみたいです。これをFAは公式国際試合に数えてますね。4−4の結果はともかく、実質的には地元での惨敗だと見る向きもあったそうです。

 そしてハンガリーがウェンブリーにやって来ます。

posted by ports |17:48 | コメント(0) | トラックバック(0)
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