2009年10月17日
09-10シーズン GP開幕記念スペシャル
フィギュアスケートの真髄 ~ ショープログラムの魅力 オフシーズンはよくアイスショーが開催される。プロスケーターによるアイスショーであれば競技カレンダーに関係なく通年開催されているが、アマチュアスケーターの場合はやはりオフシーズンの出演が中心となる。よって、両者が同時に出演可能なオフシーズン(4~9月頃)はアイスショーの開催が増えるというわけだ。 今、ここでプロ、アマと便宜的に書いたが、最近知人から「アマと言ってもトップスケーターの場合は、実際にはプロみたいなもんでしょ?」という指摘があったが、これは当らずといえども遠からずといったところかもしれない。プロスケーター=生業として(収入を得ることを目的に)スケートをしている人、アマスケーター=生業とは別にスケートをしている人、と定義した場合、なるほど(一部の)巨額のスポンサーマネーを得ているスケーターであれば自らプロと名乗らずとも実質的にプロスケーター同然かもしれない。もっとも、日本で「プロ同然(実際はプロ以上?)の収入を得ている」と言えるアマスケーターは一人くらいだろうが。(海外の選手については詳細を知らないので割愛) もうひとつプロとアマを分ける定義があるが、フィギュアスケート界のそれは独特だ。そして、その定義はISUが定めたオフィシャルな定義でもある。 そのオフィシャルな定義では、スケートで収入を得ているかどうかをアマチュアの基準にしていない。というよりも、実はISUのレギュレーションには「アマチュア」と「プロフェッショナル」という規定が既にない。どういう基準があるかというと、「ISU公式戦に出場する資格があるかどうか」となっている。資格がある選手を(アマチュアとは呼ばず)「エリジブル eligible」と規定し、あとは「それ以外の選手=資格がない選手」となっているだけだ。換言すると、ISU公式戦に出場資格がない選手の中にプロ(と通称されるスケーター)が含まれていることになる。 整理すると、ISU公式戦に出場できるスケーターがアマチュア(エリジブル)であり、そのスケーターがスケートで収入を得ているかどうかは関係ない。 そういうわけで、フィギュアスケートの世界では「スケートで収入を得ているアマチュアの競技選手」が存在することになるのである。(実際、間もなく開幕するGPシリーズは「賞金大会」である) 閑話休題。 私は子供の頃からエキシビション(EX)が大好きだった。 昔はフィギュアスケート自体のTV放送が少なく、放送されても当然のことながらSP、FSが中心でEXは放送されないこともしばしば。あったとしても30分~1時間のダイジェスト。それが今ではBSやCSならばしっかり放送してくれるのでありがたい。(地上波の状況はさして変わりないが) 競技終了後に行なわれるEXでは、上位入賞選手(大会にもよるがだいたい1-5位の選手)が出演する。選手の誰もが競技の緊張感から解放され、のびのびと演技する姿が子供の眼にもとても魅力的に映ったのだろう。しかもEXならではの演出は競技にはない娯楽性があり、競技ルールをよく知らない子供でも理屈抜きに楽しめたからだ。その魅力の原点はやはりEX用のショープログラムにある。 (ちなみに、上位選手はEX出演が義務付けられていて、無断欠場すると罰金が科せられるそうだ。試合が終わったからさっさと帰るというわけにはいかないのだ) 数あるスポーツの中で、エキシビションが大会日程に組み込まれているのはフィギュアスケートくらいだが、そもそもその起源はよく知られていない。「上位入賞者による模範演技」という俗説もあるが、果たしてそれはどうだろうか。競技のようなルールには縛られずに自由に演技されるEXのプログラムでは「模範演技」にはならないだろうから、この俗説は疑わしい。 私が一票を投じるのは、クラシック音楽の「ガラ・コンサート」に起源を求める「音楽祭起源説」だ。 ご存知のように「ガラ Gala」とは「祝祭」の意味で、ガラ・コンサートは祝日に開催される特別興行だ。一般興行とは違う構成で、ソリストだけを集めたり、オペラの中の人気アリアだけで構成して催される「お祭り興行」である。EXが “Exhibition Gala” と呼ばれることが多いのもこの起源を裏付けるものではないだろうか。EXは「競技が無事に終了したことを感謝する祝祭」と解釈するのが自然だと思う。私がしばしばEXを「競技日程終了後の後夜祭」と書いているのも、この説に従っているためだ。 そして、EXがお祭りであるならば、それは楽しくなければならない。 EXで披露されるショープログラムには制限がない。自由だ。「自由」と書くとフリースケーティング(FS)を連想する人が多いだろうが、実際のFSにはしっかり制限がある。得点対象となるエレメンツとその演技回数が指定されていることは周知のこと。フリー(無制限)と言っても指定外のエレメンツを行なっても得点にはならないし、指定回数を超えて演技しても得点にはならない。例えば、あるジャンプを失敗したらそれで終わりで、やり直しをしても認められない。ゆえに、現代のFSは、ショート・プログラムの演技時間とエレメンツの種類、回数が増えるだけで、実質的には「ロング・プログラム」になってしまっている。新採点ルールにおける弊害のひとつが「FSのSP化」だと喝破した人がいたが、けだし明言である。 それに対してEX用のショープログラムは本当にフリーであるゆえ、フィギュアスケートの魅力をスケーターが思いのままに表現することができる。 イベント運営上の制約は別として、衣装制限もない、楽曲制限もない、時間制限もない。もちろん禁止技もなければ、小道具や照明等の演出にも制限はない。裸になったっていいし(流石に全裸はNGだが^^;)、観客席を使ってもいい。リンクでスキーをするスケーターがいたかと思えば、スケート靴を履かないで演技したスケーターすらいる(EXではなくアイスショーだったが)。 競技で使用される楽曲はメディアに録音されたもの(昔はテープ、今はCD-R)に限られるが、EXでは生演奏もOKだ。かつて、「世界選手権ではEXと言えども厳粛なプログラムであるべきで、流行歌手の生歌などもってのほか」と噛み付いた石頭がいたが、それは単なる無知と偏狭だ。 演技に制限がないため、EXにはフィギュアスケートの魅力がふんだんに詰まっている。そのことをよく知っているからだろうか、フィギュア文化先進国では競技以上にEXに人気がある。SPやFSよりもEXのチケットの方がよく売れるという。 翻って日本ではどうだろうか。私の周りでは「EXはどうも苦手。競技しか見ない」という人が少なくない。「競技は真剣勝負。EXはお遊び」だという。まあ、生真面目というか、頭が硬いというか、そもそもスポーツは遊びだろうに、とぼやくのは私だけだろうか。 EXでは競技から解放された選手の、競技では見られないEXならではのプログラムが見たくなる。選手の中には競技とEXであまり印象が変わらない選手もいる。これはちょっと寂しい。物足りない。せっかく上位選手にだけ与えられた権利なのだから、選手もEXでは思い切ったプログラムを披露して、違う一面を見せてほしいものだ。競技が王道のクラシックの名曲を使ったのであれば、EXでは通俗的なポピュラーミュージックでもいい。競技をシリアスに演じたら、EXではピエロになってもいい。逆に、競技で妖艶に演じたら、EXでは溌溂と飛び跳ねてもいいだろう。 実はEXにもひとつだけ制約がある。それは、EX用のプログラムは競技用のそれと同じものであってはいけない、というものだ。EXは競技とは別のプログラムを演じてくださいということだ。このただひとつの制約もEXと競技を分けるためのものであるから、なおのこと選手には競技とは趣の異なったプログラムでEXを滑ってほしいものだ。 とにかくEXでは競技を離れて、思いのままにスケートをする選手が見たいと願うばかりだ。 エキシビションやアイスショーのショープログラムには、他のスポーツには決して見られない、スポーツとアート、エンターテイメントの融合がある。そして、そこにフィギュアスケートの真髄がある。 Off-season On Ice このオフシーズンはよくアイスショーを見た。手帳と懐の許す限り会場にも足を運んだ。 今季は五輪シーズン。例年以上に、シーズン直前のアイスショーに注目が集まる。それは、アイスショーが今季の新プログラムのお披露目の場となることが期待されるからだ。もちろん、選手によってプログラム開発のスケジュールはまちまちで、ひとつのショーで一斉に新PGが披露されるということにはならない。また、選手によっては開発済みのPGであってもお披露目のタイミングを念入りに考えていたりする。TV局とがっちり組んで大宣伝をぶちかまし注目を独占しようと画策する選手もいれば、今日のネット社会では無駄だと知りつつも「ファンへのサプライズ」として直前まで頑なに隠し通そうとするいじらしい選手もいる。中には予告なく披露し、「もしかして、これは新PG?」と観客が後から気づくような場合もある。 アイスショーを見慣れてくると、スケーターが演じるPGがショーPGなのか競技用PGなのかを初見で見分けるのはそれほど難しいことではない。それを見分ける一番簡単なポイントはPGのジャンプ構成だろう。アイスショーではジャッジが採点するわけではないので、競技のようにエレメンツを詰め込む必要はない。高得点を狙った技術的に高難度の技を入れる必要もない。技術よりも表現に重点を置いて余裕をもったPG構成になることがほとんどだ。どうするかというと、手っ取り早いのはジャンプをすべてソロにしてコンビネーションを入れないこと。 コンビネーションを入れにくいのにはもうひとつ理由がある。アイスショーではリンクサイドにも観客席を設置することが多いので、競技のときよりもリンクが狭くなりがちだ。リンクの縦横それぞれ5mくらいずつ短くなる。このため長い助走距離を必要とするコンビネーションは跳びにくいのだ。また、ショーでは全体的に照明を落としてスケーターだけにピンスポットを当てるライティングが多用され、リンクサイドにも目印となる小さなランプを並べるだけ。ゆえにスケーターは余計にリンクのサイズがつかみにくいという状況の中で滑っているわけだ。 昨年の「スターズ・オン・アイス日本公演」でゲストスケーターの荒川静香さんが3T+3Tを果敢に跳んでみせたが、セカンドジャンプではリンクサイド席に飛び出しそうなほどにぎりぎりに着氷したため、本人はもちろん観客も肝を冷やしたのではないか(実際には観客のキャーと言う声は悲鳴というよりも「黄色い声」に近かったが)。恐らくこれは荒川さんがプロ転向後も高い技術レベルを維持していることをアピールするためのプライドとファンサービスだったのだろうが、競技生活を退いたスケーターがアイスショーでトリプルのコンビネーションを披露するのは誠に珍しい。 今回は私がこのオフシーズンに見たアイスショーの中で、特に印象に残ったスケーターとそのプログラムについて、かいつまんで書き留めることにする。 Dreams On Ice 2009 2009.6.19-21 新横浜スケートセンター 今年で6回目(?)を迎える「ドリーム・オン・アイス」(DOI)は、他のコマーシャルなアイスショーとは正確を異にする。 日頃あまり大勢の観客の前で滑る機会が少ないような選手にも経験を積ませるために、シニアからノービスまで広く国内選手にアイスショーの機会を提供しようと日ス連が選手強化活動の一環で始めたもの。したがって、日本国内のトップスケーターから将来を嘱望されるジュニア~ノービスの次世代スケーターまで一同に会するというわけだ。海外スケーターやプロスケーターのゲスト出演もよくあるので、国内のアイスショーとしてはその顔ぶれは最大規模になる。(キャストの規模に会場キャパが追いついていないのが玉に瑕) 例年、オフシーズンの真っ只中に開催されるため、現役競技選手(エリジブル)の場合は競技用の新PGはまず間に合わないので、EX用の新PGを披露する場になることが多いようだ。基本的には国内の「代表クラス」の選手は全員参加することが日ス連から義務付けられているので、最近は「日本代表エキシビション」というサブタイトルも付けられているようだ。「義務」とは言っても、怪我やリハビリ中の選手に欠場が認められるのは仕方ないとして、「練習日程と重なったため」に欠場すると日ス連から「日程はかなり前から知っているはずだから調整ができないのはけしからん」と叱責をくらってしまうのは、このアイスショーが他のアイスショーとは一線を画す趣旨を表わしている。 現役選手には「新PGお披露目」の場となるが、前季で競技生活を退いたスケーターにとっても別の意味でお披露目となる。新たなスケート人生の進水式のごとく・・・・。 太田 由希奈 Ave Maria Music: J. S. Bach Song: Hayley Westenra 昨季、競技シーズン真っ只中に競技会からの引退を発表した太田由希奈さんは、既に一部でプロスケーターとしてイベント出演を果たしていたが、このDOIでプロスケーターとして改めてファンの前でその新しい姿を披露することとなった。私自身久しぶりに生の姿を拝見することにもなり、今年のDOIで最も楽しみにしていたスケーターの一人でもあった。 彼女のプロスケーターとしての再出発は、彼女自身の苦悩からの解放を象徴するようなスケートだった。 ヘイリー・ウェステンラが歌うバッハの『アヴェ・マリア』は救いの詩(うた)だ。単に清らかとか綺麗というのではなく、救いを求め、魂を浄化する、そんな詩だ。その救いの詩が、太田由希奈というスケーターの新たな旅立ちのプログラムとして再生された。 私はこの新PGについて事前情報なしに会場で初見するという機会を得たわけだが、しかし彼女のスケートは私の眼には既視感を伴って映った。何かのキャラクターを演ずるとか、何かのストーリーを表現するというものでもなく、スケートそのものが見る人の心に訴えてくる。太田由希奈という希代のスケーターに天与の資質がいかんなく発揮されたPG。『アヴェ・マリア』には彼女の本質が詰まっていたからだ。 これから彼女はプロスケーターとして新たなキャリアを積み、競技生活では成し得なかった新たなスケートを自身のキャリアに加えていくことになるだろう。しかし、その旅立ちの第一歩は苦悩から自身を解き放ったスケートによる自己再発見から始まった。わずか3分半のスケートにそんな思いを感じずにはいられなかった。 PGの中盤、彼女はイーグルからバレージャンプを跳んだ直後に、真っ直ぐにリンクサイド席の間近まで滑ってきたかと思うと観客席の直前で急制動をかけた。その直後、眼の前の観客に両手で何かをさっと渡して去っていくような動作を見せ、疾風とともに去っていった。 実は彼女の眼の前の席に座っていたのは偶然にも私だったのだが、彼女のその動作の刹那、私は彼女から瞬間的に喜びを与えられ、そして私から一瞬にして悲しみを持ち去っていってくれたような錯覚を覚えた。 一瞬にして駆け抜けていった予期せぬ白日夢に、私は滂沱に暮れた。 苦悩から解放され、新たな旅立ちを迎えた太田由希奈と再会した初夏の横浜。 救われたのは私だったのだ。 THE ICE 2009 2009.7.25-26 愛・地球博記念公園内アイススケート場 オリンパスが冠スポンサーとなり、トリノ五輪後の「フィギュアバブル」を受けて2007年に新設されたこの若いアイスショーは、現在国内で開催されているアイスショーとしては最もコマーシャリズムの色彩が濃い。企業が単に「看板スポンサー」となっているだけではなく、場内では自社製品のプロモーションを行ない、ショー自体も自社広告の契約選手中心に企画・構成するという徹底したマーケティングがショーの成り立ちを明確にしている。ショー全体があまりに当該契約選手中心に構成されているので、他のスケーターが全員ゲストスケーターに見えてしまうほど、そのショー構成は他のそれに比べて異彩を放っている。 また、このショーは主催者である中京テレビ(CTV)により番組化され、例年は中京地区のローカル放送だったが、今年は同局の40周年記念企画として初めて全国ネット放送された(8/2)。但し、オリンパスは全国ネット番組を「一社買切り」として提供するほどの予算を持っていなかったようで、番組は「冠番組」の体裁は保ちつつ、他のスポンサーとの共同提供として放送された。 また、共同提供という形態に合わせて、番組本編に仕込まれていたオリンパスの企業色は薄められ、例年のローカル放送とは異なる五輪シーズンに合せた内容で特番として放送された。例年のショー映像はメインスケーターのハイライトに留め、その代わりに五輪候補選手の特集映像を大幅にフィーチュアすることで全国ネットに相応しい(?)内容で放送された。 2007年以降、夏休みの第一週に開催されているこのショーでは、いち早くPG開発を進めている選手の新PGがお披露目となる場合があり、その機会に遭遇したファンにとってはちょっとしたサプライズになろうというものだ。 小塚 崇彦 Bold as Love Music: Jimi Hendrix Play: NA 昨季の急成長でバンクーバーの日本3枠獲得の原動力となったばかりか、さらには自身がその3枠の有力候補として期待されるほどに急成長を見せた小塚選手。もともとスケーティングスキルには定評があって、ジャンプの安定感と表現力の向上が次なる成長の鍵と言われているのは既報の通り。 その彼が真夏のモリコロパークで本邦初公開となった09-10シーズンの新PGはちょっとしたサプライズだった。 彼がこれまで演じてきたのは王道のクラシック、ポピュラーミュージックのスタンダードナンバーといった、定番だった。また、それが彼のきれいなスケーティングにも調和していたのだが、今回はそこからちょっとずれて新しいスケートに挑戦しようとしているかのようだった。そして、その「ずれ」がまた気持ちよかった。それはディストーションの効いたハードなギターで始まった。 楽曲の出だしを聴いて私は最初、ジミ・ヘンドリックスの “Little Wing” かと思った。確かにそれはジミヘンだったが、実際は “Bold as Love” だった。オリジナルとは違い、歌が入っていないインストゥルメンタルにアレンジされていたので、勘違いしてしまった。どうやら私は、ギターフレーズだけのジミヘンは聴き間違えることがあるという想定外の体験をしたようだ。(地味変、というわけではないので誤解のないように^^;) 小塚選手が披露してくれたのは今季の新SPだったのだが、競技用のPGであることは見ている途中で分かった。 「歌なし」のジミヘンということで「もしや」と浮かんだ出だしの仮説は、濃密な構成で展開されていくエレメンツの数々を目の当たりにしたときに確信に変わったのは言うまでもない。今季、彼はジミヘンで戦うのだ、と・・・・。 この “Bold as Love” は意訳すると「激しく、愛して」といったところだが、昔から諸説あってこの歌のメッセージには定説がない。もともとフラワー・ムーヴメントの真っ最中にサイケ・アウトして生まれた歌ということもあり、特に意味はないとか、深層にはスピリチュアルなメッセージがあるのだとか、その解釈は様々だ。ただ間違いないのは、歌詞はどうであれ、ジミヘンのギターそのものにスピリットがあることだ。 そういう音を、ジミヘンを競技用PGに選んだ小塚選手にその真意を質してみたいが(メディアは選曲の意図をなかなか取材してくれない)、彼のきれいなスケートにディストーションが加わることで新しい表現が生まれるような、そんな予想外のサプライズにわくわくしたPGだった。 表現なんてぶっとばせ!ただただ音を感じて、俺のスケートを感じてくれ! そんなスケートを見せてくれたら、このプログラムは語り草になる。 ちなみに、今季の新FPは、布袋寅泰&マイケル・ケイメンの『ギター・コンチェルト』。彼はその気だ! Ice Jewelry 2009 2009.6.27-28 いしかわ総合スポーツセンター メインアリーナ 石川県で初開催となったアイスショーは先述のDOIのすぐ翌週末に、金沢市内のスポーツセンターのアリーナに臨時リンクを張って開催された。実は、このアイスショーには皮肉にももうひとつ「初」が付くことになった。新型インフルエンザの影響がフィギュアスケートにも及んだ最初のイベントとして記録されたのだ。ある海外スケーターが感染していたということが開催直前に分かり、一時はショーの開催が不安視されたようだが、観客とスケーターの接触&プレゼントの投込み禁止という物々しさの中でなんとか開催にこぎつけたのだ。 地元・北國新聞(ほっこくしんぶん)の主催で初開催が実現したショーには、数多くのトップスケーターが顔を揃え、初めてフィギュアスケートを見る観客を大いに喜ばせたに違いない。何事にも初めてというのは大切で、その後の価値観を左右する原体験になる可能性もあるわけだから、出演者の責任は重大だ。 主催者はトップスケーターを揃えて、その責任を果たした。あとはスケーターが最高の演技を披露する番だ。 そして、フィギュアスケートを初めて見た観客にとって、この日は幸運だったか、不運だったか。それはこの日以降に出会うスケートに左右されるかもしれない。 なにせ、この日初めてスケートを見る観客がいきなり眼にしたプログラムは、誕生してすぐに伝説となるような最上級のマスターピースだったのだから・・・・。 安藤 美姫 Requiem in D minor, K.626 Music: W. A. Mozart Play: NA 安藤美姫の正体を見た。彼女の本質はやはりアーティストだったのだ。 以前にも書いたことだが、自身はアスリートたらんとしてスケートに臨んでいるようだが、その本質は隠しようもない。いや、寧ろ今季の彼女はその自身の本質と正面から向き合うことで、次のステップへ向かおうとしているのではないか。そう思えるプログラムが初夏のオフシーズンに何の前ぶれもなく降臨した。 彼女は今季いくつものPGを用意し、オフシーズンでそれらを試しているかのようだ。EXとSP用にそれぞれ2つ、FS用に(今のところ)1つ、合計で5つものPGを試している(SP用の2つ目のPGの詳細は10/15時点で不明)。オフシーズンでPGを5つも開発しテストするというのは異例のことで、その真意は明かされていないが、少なくともEXとSPには実験的な狙いがあり、二度目の五輪シーズンを迎えた今季を集大成ではなく、新たなチャレンジと位置づけたPGで戦おうとしているようだ。 金沢で披露された『レクイエム』はそんなPGの中のひとつ。 「三大レクイエム」のひとつとしてクラシックファンに名高い「モーツァルトのレクイエム」。ファンは「モツレク」と通称するそうだが私はどうもこういう略称は苦手だ。なぜか?だって「モツなべ」みたいではないか^^; いきなり余談で始めてしまったが、それは私のウォーミングアップ。実は安藤選手のこのPGは、書き始める前にウォーミングアップが必要なくらいに向き合うこちらに覚悟を要求する。私の筆が(実際はキーボードだが)、彼女のPGに追いつけるとは思わないが、真摯に向き合わないと弾き飛ばされてしまいそうな、そんなオーラが初演から放たれていた。 ファンの方であれば既に気づいておいでだろうが、彼女の『レクイエム』は実はこの金沢の「アイス・ジュエリー」が初演ではなかった。 前週のドリーム・オン・アイス(DOI)の最終日(6/21)に一足早く披露されている。しかし、フジテレビから6/27に放送されたDOIの番組(関東ローカル放送)は初日6/19収録のものだったため、放送されたのはもうひとつのEX用PG “Bring in’da Noise, Bring in’da Funk” というブロードウェイナンバーによるステップを中心とした実験的PG。金沢のアイス・ジュエリーもTV放送されたのは結局1ヶ月後の7/26(北陸放送による石川県のみのローカル放送)。つまり、この時点で幸運にも『レクイエム』を見られたのはDOI千秋楽に行った人だけ。会場で隠し撮りでもしない限りTV放送がなければ動画投稿サイトにもその映像はアップされることはなく、情報源は会場で直接見た人のクチコミだけ。 ゆえに、初演から1ヶ月以上に亘って、安藤選手の『レクイエム』は噂だけが熱病のようにネット上を駆け巡ることとなった。 すごすぎる、圧倒された、オーラのかたまり、こんなの見たことない、他の誰にも似ていない、彼女にしかできない、最初から最後まで釘付けになった、訳も分からず泣いてしまった、うまく言葉が見つからない、何にも言えねえ・・・・ ここに書いたコメントはいずれも安藤選手の『レクイエム』を幸運にも生で見ることができた人がブログや掲示板に書き込んだもののほんの一部を抜粋したものだが、興味深いのはその半分は安藤選手のファンではない人たちによる脱帽の言葉だったことだ。 このPGには何があったのか? その噂の熱が一向に冷めない中、金沢が跳ねてちょうど1ヶ月後の7/26、開催地・石川県内でアイス・ジュエリーが放送され、安藤選手の噂のPGの全貌がようやく電波に乗った。その放送を直接見ることがかなわない私は、個人的なルートを駆使してその同録を1週間以内で取寄せ、噂の真相を確かめることになった。 既に動画がネット上を出回り、TVでも8月に THE ICE で演じた模様が全国ネットで放送された今となっては、細かい演技解説自体は無用かもしれないが、2009年のオフシーズンの最大の事件として、私の心に深く刻み込まれた「印」として記録しておこう。 その噂は真実だったのだ。 アイスショーによくあるリンクサイドの照明も最小限に抑え、天井からの1本のスポットライトに照らし出された一人の女性。他には照度を抑えた補助的なスポットが3本あるだけのシンプルなライティング。そのため、リンクで滑る姿は漆黒の闇の中でたった一筋の光に向かって駆けていくかのように見える。 追いかけても追いかけても追いつくことのない光を、それでも諦めることなく光を求めて闇の中を疾駆する安藤美姫。時には壁にぶつかり、はねのけ、襲い掛かってくる禍事を振り払いながら光を求めて突き進んでいくように、ひたすらリンクを駆け抜ける。 襲い掛かる禍事を吹き飛ばさんとジャンプし、闇を切り裂こうとするかのようなフライングキャメル。それもやがて力尽き、倒れ伏す・・・・。 しかし、それでもその先にある光を信じて立上り、祈り、決意を固める。もう逃げない。隠れない。向かってくるものには正面から戦うのみ。 そして、光は確かにあった。彼女の頭上に光は差していた。 しかし、その光は果たして永遠にそこにあるのだろうか。一見、死からの復活を果たしたかのように見えるフィナーレにおいて、私はこのPGが単純にハッピーエンドでは終わっていないような気がしてならなかった。戦いが終わった後もファイティングポーズを解いていないような緊張感が一層私をそう思わせる。 出会いが別れの始まりでもあるかのような、光の陰には必ず闇が寄り添っているような、永遠に消えることはない哀しみを残り香にして、安藤美姫の『レクイエム』は終わる。 安藤美姫は死生観をもったスケーターだ。 私はこのPGを見て、以前から抱いていたその自説を確信した。「レクイエム」とはもともと安息を意味するらしいが、周知のように音楽では鎮魂歌や葬送曲として使われることが多い。いずれにしても死者の魂に捧げられる詩だ。死がテーマなのだ。安藤選手は専門誌のインタビューでこのPGのテーマについて、「(死は)自分にとっては身近なテーマ。自分の経験や思いも込めて滑っている」と答えていたが、この言葉も彼女の死生観を示唆していよう。 しかし、彼女の『レクイエム』が私の心を捕らえて放さないのは、そのテーマによるからではない。直接的に「死」を表現するのではなく、わずか4分強の時間の中に人生の縮図を描き出しているからだ。 成長と停滞、栄光と汚名、或いは復活と挫折、希望と絶望・・・・それは弱冠21歳にして浮き沈みを繰り返した彼女のスケート人生を思わせる。そして、その縮図に私は自身の人生を重ね合わせる。生と死のテーマが人生の無常に昇華され、それを恐れずに受け入れることで初めて、誰のものでもない自分の人生を歩む覚悟ができる。彼女の『レクイエム』にはその覚悟が凝縮されているゆえ、私の心に深く共鳴したのだ。 一方で、このPGを絶賛する人がどれだけいようが、このPGを受け入れられない人もいるだろう。それは人それぞれの経験と感性と覚悟の違いだ。人は誰しも自身の内奥に、美しいものと醜いもの、強いものと弱いもの、誇れるものと恥ずべきものを内包している。それを自覚し、直視し、そのすべてが自分自身なのだと受け入れられる人だけが、この『レクイエム』に共鳴する。きれいなファンタジーだけを見ていたい、或いはネガティブなものは見たくも知りたくもないという人であれば、このPGは重たかろう。忌み嫌うだろう。 そう、この『レクイエム』は恐ろしいのだ。そして、それを演じる安藤美姫もまた恐ろしいのだ。 スポーツは生の上に立っている。しかし、芸術は生と死の両方に足をかけている。「美は相反する醜さをも飲み込む」と喝破したのは私の大学時代の恩師だが、私はこの言葉を安藤美姫の『レクイエム』に捧げよう。生と死というテーマを昇華させて、人間の美醜を体現するに至ったこのPGはスポーツの域を超えてしまった。それは紛れもない芸術の淵に足を踏み入れるものだった。 もう少しこのPGの話を続ける。 このPGのあまりの評判に、ファンの中では「EXではもったいない。是非競技用PGにしてほしい。このPGで五輪を戦ってほしい」という声が少なくないという。4分強というPG時間も手伝って、FP用に改編できないだろうかというのだ。 そのファンの無垢な気持ち自体には共感するが、少し距離を置いて冷静に考えたとき、果たしてこのPGは競技用として仕上げられるだろうか。 まず、このPGは三部構成になっている。 第一部は「受難」だ。ここに使われている楽曲は原曲が判別できないほどのアレンジがされた『レクイエム』が使われている(EXでは珍しいほど凝ったアレンジ)。恐らく原曲は「キリエ」だろう(あまり自信はないが^^;)。このパートの安藤選手は必死に苦難から逃れようと救いを求めてあがき続けるが、力尽きて倒れる 第二部は「再生」だ。ここに使われているのは有名な「ラクリモサ(涙の日)」。このパートは楽曲はもちろん歌詞を再現するような演技が披露される。安藤選手は一筋の光の中でゆっくり目覚め、祈り、復活する。 第三部は「闘い」だ。このパートも有名な「ディエス・イレ(怒りの日)」。演奏自体は原曲通りだが、原曲では「キリエ」の後、「ラクリモサ」よりも前が本来の構成。このパートの演技上のハイライトとしてストレートラインステップを持ってきているので、「ディエス・イレ」を最後に配置したアイデアは正解だ。安藤選手の鬼気迫るステップとトランペット(戦闘の楽器)と大合唱が怒涛の競演を見せてエンディングまで駆け抜ける。 この闘いの果てに勝利が待っているとは限らない。しかし例えそこに敗北が待っていようと私はまた立ち上り、闘いを挑む・・・・。 ここで余談をひとつ。 この最後のステップで安藤選手は、苦難から逃げるのではなく自ら闘いを挑む姿を演じている。その闘いはスポーツのような様式に則った試合ではなく、死と隣り合わせのストリートファイトの「死合い」だ。ゆえに、彼女はまるでケモノのように、相手につかみかからんばかりの闘志を露わにしてステップを踏む。 ところがこのステップを見て、私の知人の女性が「前屈みの姿勢が美しくない。バレエをやっていた者としては気になるのよネエ」と、したり顔でほざいた。ああ、この人にはこのPGのメッセージは届いていないのだなあと私は諦めた。 この闘いのステップは前屈みでなければならない。姿勢を低くして跳びかかるようにステップを踏まなければ迫真性に欠ける。相手に跳びかかり、喰らいつき、引き裂かなければならないのだから。この女性にとって「美しい」とは単なる表面的な「きれい」であって、醜悪をも飲み込む「美」を感じ取ることはできなかったのだろう。 話を戻そう。この『レクイエム』を競技用PGに改編できないかという問題。問題点は4つある。 まず、フィギュアスケートのプログラムは、スケート(技術と表現)、振付(演技構成含む)、衣装、楽曲(編曲)で決まる。もちろん演じるスケーターのキャラクター(容姿、表情、気性)も重要だ。競技用のPGはこれでいい。問題はEX等のショープログラムにはもうひとつ重要な要素がある。それは演出だ。中でも照明は重要な演出要素だ。 安藤選手の『レクイエム』では、「光」は重要な役割を担っている。テーマと密接な関わりがある。光は祈りであり、救いだからだ。原曲に照らして言えば神だ。この光を演出する照明効果を得られない競技では、このPGのメッセージは希薄になる。 金沢のアイス・ジュエリーではシンプルなライティングがこのPGを一層引き立てた。それに対して THE ICE ではリンクの照明が過剰で「闇」を再現できていなかった。このPGは明るい照明の下では魅力半減なのだ。 次に、演技構成の問題がある。このショープログラムではジャンプはわずかに2つ、3Sと2Aしかない。もちろんこのPGでは何ら不足は感じない。しかし競技ではあと5つジャンプを詰め込まなければならない。しかもその5つのうち3つはコンビネーションが必要だ。そして、その追加ジャンプをどこに入れるのかが悩ましい。第二部の「ラクリモサ」のパートにジャンプは似合わないだろう。であれば、第一部と第三部にまとめてジャンプを詰め込むことになるのだろうが、それで果たしてPG構成のバランスは保てるだろうか。 3つ目の問題は、第一部と第二部の間にある。リンクに倒れ伏す振付けはこのPGでは重要な演技要素だ。ショーではこの振付けだけに25秒も費やしている。もちろんショーの中では長く感じない。力尽きて倒れ、そこから起き上がり再生するためには、ゆっくりとした時間の流れが必要で、この25秒間は必然と言える。しかし、競技ではそうはいかない。スケートを滑っていない、空白の時間が25秒間もあるということになってしまうからだ。この25秒の「再生の時間」は競技ではそれこそ再生不可能だろう。例え「フリー」と言えども競技では「表現本位の自由な構成」は認められないのだ。 最後に、これが最も厄介なのだが、それはこの楽曲が合唱なしで果たして見る者の魂を揺さぶるだろうか、という問題だ。 ご存知のようにシングル競技では「歌」は反則で減点されてしまう。合唱の部分を旋律はそのままにヴォカリーズに代えて「歌なし」にアレンジするという手もないではないが、それはもはや『レクイエム』ではないだろう。どんなにスケートが素晴らしく、振付けや衣装が魅力的でも楽曲の持つ力は否定できない。フィギュアスケートにおいて楽曲は不可分なのだ。 結論を言えば、この『レクイエム』はショー・プログラムゆえに成立したのだ。競技ではまったく違ったものになってしまうだろう。換言すると、ことシングル競技においては『レクイエム』は使えないのだ。 最後に、先述したアイス・ジュエリーと THE ICE の二つのTV放送を比較して気づいたことを記そう。 ライティングではアイス・ジュエリーに劣った THE ICE ではあったが、ことTV放送という点では THE ICE に軍配が上がる。それはアイス・ジュエリーの放送では例のステップのところで、ゲスト解説の無粋なコメントが入ってしまったからだ。せっかくそれまで演技中にコメントが入らず久しぶりに良質な放送だと感心していたのだが、それまで沈黙していて我慢できなくなったのか、元チャンピオンの某女史が肝心のところで突然饒舌にコメントを連発してきたのだ。おまけにそのコメント内容も極めて凡庸だ。ショープログラムでは解説は不要。コメントを入れるのであれば演技終了後で十分だろう。TV解説席に座るからには視聴者本位の放送をしてほしい。せめてディレクターには編集段階でこのコメントをカットするという英断がほしかった。 安藤美姫の『レクイエム』は、心底、会場で生で見たいと思う。 そのように思えたのは、記憶する限りは、カタリナ・ヴィットの伝説のプログラム『花はどこへ行った』(Where Have All The Flowers Gone?)以来のことだ。あのときは、リレハンメル五輪後に来日したヴィットに会いたくて、あのプログラムをどうしても生で見たくて、代々木体育館にカメラを携えて駆けつけたものだ。(当時は撮影自由だった) この『レクイエム』は生まれながらにして伝説となるような、そんなプログラムだ。ショーでなければ成立しない、滅びを前提として誕生した、そんな儚なさを内包したプログラムだ。ゆえに、このプログラムは美しい。ゆえに、このプログラムは伝説になるべくして生まれたのだ。 そして、然るべき舞台で演じられることで、四年に一度という一期一会の舞台の最後の最後に演じられることで、その伝説は初めて完結するだろう。 ISU Grand Prix of Figure Skating 2009/2010 このブログがアップされる頃、今季のGPが開幕する。 今季のGPは五輪シーズンということもあって、例年とは様相が異なることは既にお気づきだろう。 まずは、日程が変更された。例年はシリーズ最終ラウンドにNHK杯が組み込まれているのだが、今季はファイナルが日本開催ということで例年の日程だと日本で連続開催となってしまう。そこでNHK杯が第四戦に繰り上がることになり、全体日程も組み替えられた。 欧州、アジア、北米の順に転戦する。 注目は何と言っても五輪出場を視野に入れて復帰したカムバック組だろう。 エフゲニー・プルシェンコ、ステファン・ランビエール、サーシャ・コーエン、申雪/趙宏博・・・・。そして「現役復帰」という意味ではないが、高橋大輔選手の名前を挙げることも私は忘れない。一時はミシェル・クワンの名前も噂されたようだが、彼女は学業優先ということで復帰する気はないとのこと。どうやら米国内に根強い「国内スター待望論」が噂の元かもしれない。 そのスター不在を埋めてくれるのではないかと期待されたコーエンはいきなり初戦の仏大会に出場予定だったが、直前になって故障を理由に欠場となった。報道によると、足首の痛み(アキレス腱痛?)が原因とのこと。フリップとルッツのときだけ痛みが出るということだから、左足首の故障かもしれない。 また、第2戦のロシア大会に出場予定だったパトリック・チャンも急遽欠場となった。こちらは左ふくらはぎの故障ということなので肉離れの可能性もある。いずれにしても、シリーズ後半には復帰する計画とのことなので用心して治してほしいものだ。 そして、故障による欠場で最も心が痛むのがキミー・マイズナーだ。 右膝の故障が慢性化し、治療が間に合わないということで全戦欠場となった(本来は2試合出場予定)。マイズナーの「GP全戦欠場」というのは他の選手とは異なり大変重い決断だったに違いない。この欠場で彼女の公式戦出場は今季すべて終了ということを意味するからだ。 彼女は昨季の全米選手権を欠場している。そのため今季の全米出場は「GP出場」を条件として認めるという特例がUSFSAにより与えられていた。そのGPが欠場となったので全米出場の特例が適用されない。そうなると米国内の地区予選に出場し、それを勝ち上がっていかないと全米には出られない。治療に専念するため、その地区予選も出場しないというから、彼女の今季の全米出場の道は断たれたことになる。 全米に出場できなければ、四大陸も五輪も世界選手権も出場権を得られない。よって、今季すべての公式戦を欠場ということになってしまった。 マイズナーの09-10シーズンは、シーズンイン早々に終わってしまったのだ。それも戦わずして。彼女の無念は容易には想像できない。五輪は確かに特別なイベントだが、それがすべてと考える必要はない。バンクーバーの後にもマイズナーのスケートは続くのだから。そう信じて、今はゆっくりと治療をしてほしいと願うばかりだ。 どうも今季はかつてのスター・スケーターの復帰という華やかなニュースの陰で、現役トップスケーターの故障が相次いでいる。これが今季の行方を左右する鍵にはなってほしくはないが、そうは言っても競技会はとどのつまりはスポーツ。最後は、無事是名馬、というのでは何ともつまらないなあとぼやく、GP開幕前夜であった。
posted by pbq1463 |05:20 |
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