2008年07月03日
貘が夢を見るとき~2008世界選手権レビュー(女子シングル篇3)
ISU世界フィギュアスケート選手権大会2008 ISU World Figure Skating Championships 2008 中野 友加里 Yukari NAKANO (JPN) SP:61.10(3位)、FS:116.30(4位)、総合:177.40(4位) 今季安定した演技を続けていた中野選手はきちんと世界選手権にコンディションを合わせて来たのではないか。シーズン最後の大一番にピークを持ってくるコンディショニングができたのは、シーズンイン前からの入念なフィジカルトレーニングの賜物だろう。彼女は今季見事なアスリートぶりを発揮してくれた。 SPは正に彼女のベストの出来。苦手のルッツもうまくアウトエッジで跳べたし、得意のスピンは軸が安定していて回転も速く見応え十分。コンビネーションに3+3を入れるのは来季へ持ち越しとして、今できるベストをやり遂げたと言っていいのではないか。課題のPCSもシーズン前半から比べると確実に6点台の後半を獲得できるようになっている。本人も滑りながら手応えと充実感を感じるのだろう。演技中の表情は柔らかく、むしろ笑みを湛えるほどのエレガンスさえ漂わせ、失敗が許されないSPで最も余裕を感じさせたのが彼女だった。欲を言えば、柔らかさだけではなく楽曲のイメージに合わせてもう少し情熱を感じさせるメリハリがあれば、PCSでも7点台を付けるジャッジが増えたように思うが、これは彼女の技量というよりも振り付けの問題もあるかもしれない。 FSもほぼベストの出来。 結局、上位選手の中でSPと合わせて2日間ベストの演技を揃えられたのは中野選手だけ。ロシェットやマイアーも2日間安定した演技だったがベストの出来とは言えなかったと思う。 冒頭の3Aは惜しかった。確かに回転不足気味だったけど、それも1/4回転以下に収まっていたように見えた。しかし現在の基準では残念ながらダウンレードに判定されてしまった。キャッチの姿勢を取るのが少し遅れて見えたのも判定に影響したのかもしれない。興味深いのは彼女のGOE。そのほとんどをジャンプ以外のステップやスピンで稼ぎ出している(ジャンプのGOE合計は-1.22、ジャンプ以外のGOE合計は+4.57)。それにもまして注目すべきことはPCSだ。彼女がこの日叩き出したPCS59.32は、FS1位の金妍兒の58.56を上回り、浅田真選手の60.57に次ぐセカンドベスト。特に、各選手が苦労するTRの7.21というスコアは立派だ。中野選手のスピンはそのバリエーションの豊富さ、姿勢・軸の美しさ、回転の速さはピカイチ。本人もスピンにはこだわりがあるのだろう、ひとつひとつのスピンを丁寧に、時間もたっぷりかけて回っているように思う。ジャンプ以外のエレメンツに余裕を感じさせることが「つなぎの滑り」に奏功しているのではないだろうか。「つなぎの滑り」というと要素間に目いっぱいステップや振付を詰め込んでいるのが評価されると思っている人が私の周りにもいるのだが、決してそういうことではないことを中野選手のTRが示してくれているとは言えまいか。そして、このゆとりある「つなぎの滑り」が美しさを引き出していると感じたことも付け加えておこう。ちなみに、彼女のGPシリーズ3戦の5コンポーネンツの平均は6.72だったのに対して、今大会のそれは7.41。合計のPCSではGP平均53.73に対して今回は59.32だったからPCSだけで5.59も上積みしたことになる。今大会を機に彼女の5コンポーネンツの評価がジャッジ間で定着すれば、PCSは今後の彼女の武器になるだろう。 氷上で繰り広げられたドラマの鮮烈な記憶やその大会全体のイメージを決定付ける、最終滑走者の演技はその重要な役割を担うことが多い。まして、世界選手権のような「シーズン全体の大トリ」を務め、ベストを出し尽くせた選手は幸せだ。前回の東京大会での安藤美姫選手などはその好例だろう。余談ではあるが、昨年、その安藤選手を「日本一幸せな気持ちにしてくれた選手」に選出したアウォードがあった。あまたあるアウォードの中でもなかなか粋な企画をする人がいるものだなあと感心した次第。今回、女子FSは大会最終日ではなかったので、中野選手は「大トリ」というわけではなかったが、女子シングルの最終滑走者を務めた彼女の演技には「トリ」に相応しい感動があった。ただ、その感動は東京大会の魂を揺さぶられるような激情の迸りとは違った、どちらかというと静かで優しい、でもどこか気持ちが救われるような柔らかな光に包まれるような感動だった。中野選手のキス&クライで見せた清々しい笑顔に、この日一番のスタンディングオベーションをしてくれたオーディエンスとフィギュアスケートの神様への感謝の気持ちだけではなく、共に集い闘ったすべてのスケーターへのエールを垣間見たのは、すっかり夜が明けた日本の早朝に眠気を催した刹那に見た白日夢ではなかったはずだ。 夢の途中・・・・ どんな競技でもチャンピオン不在の大会というのはどこか一抹の寂しさを感じるものだ。まして注目度の高い女子シングルで女王不在となれば、その寂しさは一入だ。2005年のモスクワでは荒川静香選手(当時)が極度の不調で女王は存在感を失くし、06年はチャンピオン(スルツカヤ)と五輪ウィナー(荒川静香)が揃ってカルガリーに姿を見せなかった。それでもモスクワではスルツカヤの復活があったし、カルガリーでは新星マイズナーの逆転劇が女王不在を補ってくれた。続く07年の東京でもマイズナーは意地を見せて女王健在を示してくれた。では、今年のイエテボリはどうだったか? 周知の通り、ディフェンディングチャンピオンは劇の途中で自ら舞台を降り、復活を期した元女王やベテランのリベンジもなければ新星も現れなかった。先述のように選手個々には見所があったのは確かだが、今大会の女子シングル全体を俯瞰して見るとシーズンエンドに相応しい華やかさをそこに見出すことは難しかった。それはやはり今大会が「本年度のオールキャストが総出演するフィナーレ」にはならなかったことと無縁ではない。 そうであれば、本稿の最後にやはりディフェンディングチャンピオンについて触れておかなければならないだろう。 安藤 美姫 Miki ANDO (JPN) SP:59.21(8位)、FS:WD(DNF) 今季の初頭、私は「安藤選手の今季はケガとどう付き合っていくかに腐心するシーズンになるだろう」と予想したが、その私ですらこのような幕切れは夢にも思わなかった。全日本でモチベーション問題に決着をつけ、四大陸では4Sにトライしつつ、スピン&ステップのレベルアップに成功し、紆余曲折を経た今季の中、なんとかイエテボリには「闘える」状態に間に合わせられるのではないかと思っていた。 安藤美姫という選手は感性の人である。全日本で魅せてくれたように、のってくると唯一無二の存在感を示すことができる稀有なスケーターだ。自ら怪我を忘れてしまうような圧倒的な演技を見せてくれる。全日本でも「演技後に激痛が走って自分が怪我をしていることを思い出した」というくらいだ。一方で、このようなメンタリティは安定感に影を落とすことにもなる。競技選手に求められるのは安定した心身のコンディショニングだというのであれば、彼女のメンタリティはコンペティション向きではないのかもしれない。彼女はアスリートというよりもアーティストに近い気質をもった選手なのだと思う。であればこそ、惨敗したNHK杯の4週間後に蘇生した全日本のときのように、韓国からスウェーデンまでの4週間で再び気を充実させることができれば、あのミシェル・クワン以来の世界選手権連覇も可能なのではないかとさえ思っていた。 しかし、メンタルはフィジカルと表裏一体なのもまた事実である。今や肩の脱臼は彼女にとって(不名誉な?)代名詞にもなろうかというくらい慢性化していることは知られているが、私にはそれ以外にも気がかりなことがもうひとつあった。それは昨年のNHK杯、FS直前の6分間練習で負った右太腿の損傷だ。始め、それはブレードによる浅い裂傷かと思われた。しかし、負傷後2ヶ月以上経った四大陸でも彼女の右太腿からテーピングが取れていなかった(結局イエテボリでもテーピングは残ったまま)。世界選手権前に分かったことだが、ブレードは筋肉にまで達し、内転筋の一部が切れていたのだという。片方の脚を怪我していると無意識にその脚をかばってしまい、結果としてもう片方の脚まで故障するということはよく知られている。彼女の四大陸から世界選手権までの4週間は、そのような綱渡りの状況でハードトレーニングを積んでいたことになる。ハードトレーニングに怪我は付き物だと言ったら本人には酷だろうが、彼女の場合はそれに時間的な不運が重なった。浅田真選手も四大陸後の練習で捻挫したらしいが、四大陸直後だったことは幸いだった。練習再開後にまだ3週間ほど時間が残されていたからだ。負傷が捻挫だったことも浅田真選手の強運のひとつだろう。現代のテーピング技術というのは素晴らしく、(腫れが引いた後)適切なテーピングを施せば、かなりの負荷にも耐えられる。(サッカー選手などは足首の捻挫は付き物で、テーピングして試合に出ることは日常茶飯事) 不幸は単独ではやって来ない。Misfortunes never come singly. (これも試験に出ます) 安藤選手の不運も単独では済まなかった。内転筋損傷の右脚をかばいながら(?)のハードトレーニングが左腓腹筋断裂(左ふくらはぎ肉離れ)を引き起こした。しかもイエテボリ入りする直前に・・・・。ただこのときの肉離れは比較的軽い部分断裂だったと見え、アイシングで腫れを抑え何とか滑れる状態にまでは一時的に回復したものと思われる。事実、SPではテーピングは見られなかった。しかし、直前に肉離れを起こしているという情報は当時メディアでは一切報じられていなかったので、イエテボリ入りした彼女の生気のなさを見て首をひねった。練習でジャンプが決まらない。表情が冴えない。四大陸に続いて4Sに挑むのかという問いには「そんな状態ではない」。当初、この回答(怪答?)に対しては、今季成功率が下がっている(本来得意の)3Lz+3Loの精度向上を優先させているのではと推測された。実は本当にそれどころではなかったのである。公式練習や6分間練習でもいつもの彼女らしさは当然見られない。延々スケーティングを繰り返すだけで、ジャンプは確かめる程度にしかやらない。それも無表情なままで。 迎えたSPで異変の一端が明らかになった。緊張というよりも無力感漂うような生気のない表情。コンビネーションのセカンドはダブルに抑えただけではなく、他のジャンプにも切れがない。FSSpはダイナミックさに欠け、踏ん張りも利いていない。昨季魅せた激情がほとばしるようなSlStは緩慢にさえ見えた。とにかく足が動いていない。初日のSPで既に疲労困憊のように見えてしまった。それでも大きな失敗はなくPCSも平均7点近く取れたことは、今から思えば彼女にわずかに残された最後の幸運だったのかもしれない。上位陣も伸び悩み、トップとの差は5点に収まっていたのだから・・・・。 これから先のFSについては周知の通り。改めて多くを語ることはないだろう。何とか怪我をおしての強行出場には賛否両論もあろう。ただ、「トップを目指す選手」の経験がある人でなければ分からないだろうが、選手とは怪我をおしてでも試合に出たいものだ。まして、シーズン最後の目標にしていた大会であれば尚更だ。それを冷静に引き止めるのはコーチや関係者の役目だが、今回はコーチ陣も含めてぎりぎりの選択をした結果があのFSだったのだろう。また、安藤選手の名誉のためにもひとつ注釈をつけておきたいことがある。「元・選手」と自称する人が「直前の6分間練習でルッツを跳べたのだから演技は続けられたはず。肉離れしていたらバックスケーティングすらできない」と某掲示板で疑問を投げかけたのを見かけた。これはまったく「自分の物差しと経験だけ」でしか物事を見ることができない人の浅知恵だ。肉離れもその症状は一様ではない。「元・選手」が言うような「バックスケーティングすらできない」肉離れとは重症のもので、筋繊維のほとんど、もしくは全部が断裂した場合だ。これであれば筋肉内の出血も激しく、歩行もままならない。軽い部分断裂であればアイシングとテーピングで歩行はできる。但し肉離れは再発率が高く、運動を中止しないと断裂箇所が広がるのだ。モロゾフ・コーチがさかんに棄権を促していたのは当然のこと。では、痛みがある中、なぜ途中まで滑ることができたのか。それは患部に局所麻酔をしていたからだ。私には似たような経験がある。捻挫している足首にスプレーでアイシングして一時的に痛覚を麻痺させ、サッカーをしたことがある。痛みは感じないのでプレーはできたが、感覚が麻痺しているので思うようなボールコントロールはできなかった。彼女が「筋肉が動かなかった」と唇を噛んだのはこのことに他ならない。ディフェンディングチャンピオンがサルコウの母国の舞台から自ら退いたのは、「自分にとってはなんてことのないほど簡単」で最も得意だと自負していたはずのトリプル・サルコウを跳べる感覚すら残っていなかったという事実を受け入れた後だった。 安藤選手が再発の危険を顧みず、そこまでしてFSに臨んだモチベーションは何だったのか。彼女にとってイエテボリ大会は何だったのか。 シーズンを通して変わらず応援してくれているファンの前でどうしても滑って謝意を示したかったという気持ちには一点の曇りもないだろう。ここは最初から棄権して早々にリハビリに努めるというアスリートとしての合理的な判断よりも、自らの感性に従って行動してしまうところが彼女らしいと言ってしまえばそれまでだが、その行為を訳知り顔で愚行だとか蛮勇だとか言うほどの厚かましさは幸か不幸か私には備わってはいない。 必死に涙を堪えながら自ら棄権を申し出た彼女に耳を傾ける大会レフェリーのモナ・ヨンソン女史の、その優しく諭すような穏やかな表情に後押しされ、ただただ「ありがとう」の一言を遠く離れた日本のテレビの前で小さく呟くことが私にできるたったひとつの彼女へのエールだった。
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posted by pbq1464 |23:24 |
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