2007年07月04日

My Memorial Skaters : 1st half

前回、拙いながら自己紹介を兼ねたプロローグからスタートしたが、いよいよ今回から当ブログを本格スタートさせようと思う。
とは書き始めたものの、フィギュアスケート界は今はオフシーズン。フィギュアのシーズンインははっきりしていないが、国際基準になるのはやはりISUカレンダーだろう。07-08シーズンの最初のイベントとして、7/18-22に台北で開催される 2007 Asian Figure Skating Trophy がアナウンスされているが、例年ではジュニアGPシリーズが開幕する8/末がシーズンインと見るのが妥当か。これに対して、シーズンエンドは毎年はっきりしている。3月の世界選手権だ。それにしても、最近の若いファンの語彙はユニークだ。昔は「世界選手権」または「世界フィギュア」と言ったものだが、若いファンは単に「ワールド」と言ったり、中には「世選」と略したりする人もいる。隔世の感がある。・・・・と怪訝に思っていたら、あの城田強化部長(元)が「ワールド」と口走ったことを昔のビデオを整理していて発見した(犯人はあなたか!笑)
ちょっと脱線してしまった(汗) 本題に戻ろう。

まだ本格的なシーズンインの前なので、今回はオールドファンならではの「思い出話」をしよう。題して「My Memorial Skaters ~永遠の名華たち」(クサッ!)

ジャネット・リン Janet LYNN
オールドファンなら恐らく真っ先に名前を挙げるだろうこのスケーターは、1972年の札幌五輪で「サッポロの恋人」と謳われ、私にとっても「最初の恋人」となったスケーターだ。彼女ほど「可憐」とか「妖精」とかの比喩が似合ったスケーターは他には見当たらず、その後も出ていない(もちろん私にとっての話だが・・・・)
当時、私は小学生。雪国に住んでいたこともあって、札幌五輪の開幕前に注目していたのはアルペンスキーだった(雪国の子供は普通にスキーをやる)。女子アルペンの女王プレルと新星ナディヒのデッドヒートにはやはり興奮したものだったが、フィギュアスケートにはまったくといっていいほど関心がなかった。ところが偶然NHKの中継で見たジャネット・リンの姿に釘付けとなってしまった。当時TVではフリーしか放送しなかったと思うのだが、そのプログラムの出だしが、本当に妖精のような滑りで、いきなり私の心を捕らえてしまったのだ。彼女は途中で転倒してしまったのだけれど、当時の幼い記憶ではジャンプで転倒したのだとずっと思っていた。後年、ビデオを入手した際に見直したら、転倒したのはフライングシットスピンだった。Sit Spin を失敗すると Shit Spin になるのだなと思ったものだ(すいません、オヤジギャグです)
プラチナブロンドのショートカットが素敵な、本当にキュートなスケーターだった。しかし、不幸にも当時の日本国内ではフィギュアのTV放送があるのはオリンピックくらいで、彼女は次のインスブルック五輪には出なかったので、彼女の記憶は唯一、札幌だけとなった。しかし、それゆえ、そのたった一度の出会いで私にとってジャネット・リンは永遠に「サッポロの恋人」となったのだ。

ドロシー・ハミル Dorothy HAMILL
ジャネット・リン引退後、全米選手権を三連覇し、インスブルック五輪の金メダリストとなったのが、ドロシー・ハミル。
マッシュルームのショートカットが可愛い、でもその滑りはダイナミックでスピード感あふれるものだった。当時は勝手に「ショートカットのキュートなスケーター」がアメリカ女子選手の伝統なのだと思っていた。まだ本格的に(?)色気づく前の洟垂れ小僧だった私にとってはショートカットの女の子がお気に入りだったのかもしれない(今も嫌いじゃないが)
しかし、彼女は「インスブルックの恋人」にはならなかった。私にとってのインスブルックは、女子アルペン初の三冠王にもう少しで手が届きそうだったロジ・ミッターマイヤーだった(滑降・金、回転・金、大回転・僅差の銀)。
次に「銀盤の恋人」が現れるには、あと8年を要したのだ。

カタリナ・ヴィット Katarina WITT
ヴィット! ヴィット! ヴィット! マイ・カタリナ!
サッポロの恋人の次に私の前に現れたのが「サラエボの華」だった。さすがにこの辺になってくると若いファンもその名だけではなく、その姿もリマインドできる人は少なからずいるだろう。彼女の現役時代は既に10年以上も前のことだが、未だに生きる伝説だ。五輪を連覇(1984年サラエボと88年カルガリー)したのは、彼女とソニア・へニー(第二次大戦前に三連覇)の2人しかいない。(流石の私もソニア・ヘニーは記録でしか知らないが・・・・)
サラエボのヴィットも可憐だった。しかし、リンのときのように「妖精」のような感じはしなかった。確かに可憐な美少女だったが、もっと生身の現実的な女の子のように見えた。私自身も洟垂れ小僧から色気のついた若僧になっていたことと、フィギュアを競技としてきちんと鑑賞できるようになっていたことも少なからず影響していたのだろう。ヴィットは私にとってアイドルであっただけではなく、美しきアスリートとしてリスペクトしていたのだ。
彼女がサラエボに現れたのは18歳くらいだったはずだが、可憐さだけではなく、大人の色香が匂った。後年、彼女のコーチの話を聞くことになるのだが、彼女のスケートのテーマは「恋」だった。彼氏と離れているときの切なさ、彼氏と逢うときのトキメキ、そして戯れの悦び。彼女は少女のときからセクシーだった。88年のカルガリーでは、その天賦の才が大輪として花開いた。肉感的な魅惑を増した容姿とも相俟って、彼女はフィギュア界を超えたセックスシンボルにさえなった。彼女は当時、統一前の東独の選手だったためか、口さがない西欧のマスメディアの中には「毒々しい妖艶さ」と毒づいた者もいたが、彼女が名実ともに女王であることには異論を挟む余地はなかった。サラエボのプリンセスは、カルガリーでクイーンになったのだ。
彼女のスケートはアーティスティックだった。もちろん基本技術がしっかりしていたのは当然だが、ジャンプやスピンが際立っていたということはなかった。例えば、当時トリプルルッツやフリップも跳ぶ女子選手がいた中で、彼女のトリプルジャンプは最も難易度の低いトーループ止まり(但し、その質は高く、きれいなトーループだったが)。
彼女のスケートの最大の魅力は、音楽を全身で表現し、見る者にメッセージを伝える力強さにあったのだ。
その表現力がスピリチュアルな域にまで達したのが、プロから一時アマチュア復帰して臨んだ94年のリレハンメル五輪だ。有名なフリープログラム “Where Have All the Flowers Gone?”(邦題『花はどこへ行った』)についてはそのエピソードも含めて多くのサイトで採り上げられているので、ここではそのときのショートプログラム “Wilhelm Tell” について少しだけ語ろう。
このプログラムでは楽曲のリズム、テンポのアップダウン、ストーリーの解釈、そのどれもが見事にスケートで表現されている。特に圧巻なのは、グラマラスな肢体を宙に躍らせるゴージャスなジャンプから一転して水を打ったような静寂のイーグルに至る後半の展開だ。この楽曲に合わせた緩急と強弱の表現、構成が見事なのだ。映像でないと伝わりにくいのだが、YouTubeか何かで是非一度このプログラムを見ていただきたい。私は今でもこのショートプログラムは珠玉のプログラムのひとつに数えている。
サラエボで生誕したプリンセスはカルガリーでクイーンとして戴冠し、リレハンメンルでディーヴァとなって降臨したのだった。

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posted by pbq1447 |03:30 | コメント(0) | トラックバック(0)
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