2007年07月29日

アジアカップの総括と次の行方

 「芸術点でいえば日本は飛びぬけていた」とある新聞に掲載されていたが、それは韓国との一戦でも変わることは無く、現段階での限界が手に取るように理解できる大会となってしまった。

溢れる日本らしさ
グループリーグからオーストラリア戦でのゲームプランや環境への適応はほぼ完璧だった。初戦のカタール戦から始まった「整合性に富んだ美しいボールポゼッション」は他国を圧倒し、わずかなスペースでさえも高度なテクニックと意図が溢れるフリーランニングで、広大なスペースへと作り変える。
 高原、巻は自身のストロング・ポイントを90分フルに見せ付けた。
 両サイドバックは抜群の運動量で、初戦で殆ど絡みが無かった「黄金」と呼ぶに相応しい距離感を保つ中盤と徐々に攻撃に変化をつけ、そして阿部と中澤は常に相手FWの前でタスクをこなしラインが深くなることは皆無だった。

こぼれ落ちた強み
しかし、準決勝のサウジアラビア戦。これまで代表が体感したことのない衝撃がサウジの2トップから発せられた。伏線はオーストラリア戦からあった。

 一人退場者が出ることでオーストラリアの守備陣は8人を数え、逆にゴールをこじ開けることは難しくなる。個の力がアジアレベルから突出しているオーストラリアの選手がゴール前であそこまで張り付けば、得点を奪うことは11人を相手にするより難しくなる。
 得点に結び付けない時間を繰り返す日本はそれによりリズムを失い、理路整然と個々が結びついていた攻撃陣が一人だけ浮き上がって無理に攻撃を始めようとする。

 そしてこのあたりから拍車をかけるように乳酸値は高まり、筋肉組織は急速に酸性化していった。
 
 結果論ではあるかもしれないが、サウジ戦は3バックでいくべきだったと思う。阿部を一人余らせて中澤とスピードがある坪井で十分対応できたと思うのは私だけだろうか。
 あの二人を中澤はともかく、本来センターバックを本職としない阿部が抑えるのは至難の業だった(さらに手の負傷で身体のバランスを失った)。
 親善試合のコロンビア戦では相手FWが二枚、または三枚で臨んでも4バックで守れるイメージは十分にあったが、やはり身体疲労からくる内的要因は、まだ成熟した組織とは言い切れない部分が山ほどあったのだ。
 そのセンターバックとコンビを組んだボランチの二人(鈴木・中村憲)も中村と遠藤が攻撃に力を注ぐ時間が多く、広大なスペースを埋めるためのエネルギーはもう残っていなかった。
 
最終的な議論の到達
このアジアカップで感じた限界点は「論理的な効率性の追求にも、明らかな限界がある」ということだ。それが顕著に現れたのが、現在世論で論点に挙げられているアタッキングサードでの個の爆発である。
 
 実はサウジ戦の前に私は西が丘で東京V対C大阪を観戦していた。この日はC大阪がゲームを支配する時間が長かったが、実効あるオートマティズム、つまり要所で個の爆発と組織の連動性が繋がったのは東京Vの方だった。
 結果は4-0で東京Vが圧勝。C大阪に押し込まれる時間帯は長くとも、主体的にアイディアを出し合い、それを恐れず実行に移していった東京Vがゲームを制した。
 特に4点目の永井とディエゴのコンビネーションから永井が一気にゴール前へ飛び込み、個の力で切り裂いた姿勢は平日の西が丘の幻想的な雰囲気にうまくリンクして、本当に素晴らしかった。

 私はこのシーンに日本代表が進むべき青写真が集約されていると感じていた。日本代表に「個の打開力が足りない」「変化をつける選手がいない」のは誰が見てもそう言うだろう。
 しかしそれは、その前の有機的なポゼッションやビルドアップがあってはじめて「個」に繋がるもの。最終的な「個」は日本人を見渡せば高原だけでは無いはずだ。大黒や家長、松井は揺るがない個人能力を持っている。また、あと3年で誰が突然変異として現れるのか、それはオシムでさえもわからない。
 問題は、個人能力と組織力の繋がりの質に次のステップへ進むファクターがある。
 
次を求めて
個人に対する批判は今更だというべきだろう。それよりもそこに至るまでの組織力がハッキリと形になって現れたのは大きい。W杯予選までの選手モデルはこれから先、殆ど変わることはない。ベースが発足一年目にして生まれ、そして次への課題が明確になることなど、ここ数年では考えられなかったことだ。
 
 組織的に行動する事実から日本は避けられない位置にいる。その質の高め方を主体的に行動に移せるのか。今後はそこに論点が集まってくるのではないだろうか。

posted by 奥間店長 |21:45 | NIPPON代表 |
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