2008年01月20日

ハンドボールを超えて

 新春の慌しさもなくなり、いつも通りの時間が流れるこの日にもスポーツを嗜んでいる。去年の12月は柔道だらけだったのが、年末年始はサッカー三昧(見るほうもプレーするほうも)。
 そしてここにきてハンドボールと続いていく。もちろんメインはサッカーなのだが、やはりこれまで味わったことの無い緊張感の矛先はハンドボールにある。
 
笛以上の存在、韓国
ハンドボール日本協会は18日の夜「国際連盟(IHF)から連絡が入り、中東チーム寄りの判定が相次いだ問題により再開催が決定していたハンドボールの北京五輪アジア予選が、男女とも日本、韓国の2カ国の出場で1月29、30日に東京・国立代々木競技場で開催されることが決まった」と発表した。

 国民の興味の対象と化した興行を超えて、決定された事項は時間を増すごとにプレッシャーとなって選手に跳ね返ってくる。「中東の笛」と呼ばれるセンテンスはいまや日本中誰もが知る事実となったわけだが、その「笛」が届かない場所で未来へとつながる楔を打ち付けることが果たして出来るのだろうか、と。
 韓国は強い。ソウル五輪云々ではなく、虚構の王者を最も苦しめたのが今回の韓国だ。故にクウェートもギリギリのラインでゲームをコントロールした。
理不尽なファウルではなく、これまで全くといっていいほど日本の土俵でプレーさせてもらえず、圧倒的な強さのほうが印象に残る。

複数の責任
ハンドボールを「見る」ということはボールゲームの中でも一、二を争うほど難しいと各方面で耳にする。私も数試合程度の観戦歴しか無く局面だけの展開を追うことだけでゲームが終了してしまうだろう。
 それでもライヴで見てみたいのは、そこに国を背負うほどの責任が充満しているから。日の丸の重みを体言することは、あるレベルの階段を上ってこない限り、我々には到底判断できない部類のものである。だからこそ、一流の証を纏うアスリートのワンプレーや言葉をひとつひとつ感じ取ることで「国家」の外堀を埋めていく。
 
 世界一の遊撃手と言われた安藤美佐子氏とお話すると、一定の時間内に「責任」という言葉が非常に多く出てくる。ソフトボールに対する責任、現所属のベルマーレに関する責任。
 私と安藤氏のパワーバランスは当初、確実にバラバラだったはずだ。しかし、対面して言葉を受け止め、五輪へ参加した当時の映像を見直し、ひとつでも安藤氏の責任に対する重みを理解しようとする。見る対象の肉付けを様々な角度から行うことで、そこにはさらに一つ上の興味が溢れていた。
 結果的にではあったが、この人が「何をしようとしているのか」を多少、私の切り口で表現できる材料が揃っていた。

ハンドボール・スタディーズ
これまで、ハンドボール界はエロスもタナトスも存在しない、無形の闇だけが広がる世界だった。しかし、様々なメディアが問題の根源を訴え、多くの人々が日本ハンドボール界の未来を共有できる可能性を持ち始めている。だれも知らなかった「ハンドボール選手の責任」を理解できる機会とも取れるだろう。
 現状を受け入れるだけの素材は揃った。あとは見えてきた世界を変えるだけの一手を待とう。全ては選手の手の中にある。

posted by okumastore |23:04 | Sports |
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2007年10月22日

腑抜けども、スポーツへの愛を見せろ

 日本にスポーツは根付いているのか。その問いかけに明瞭な回答を用意することは難しく、何を持って文化的土壌が完成したかという基準も存在しない。

スポーツを前にして
セントラルパークとは言わないまでも、駒沢公園には今日、この時間も身体的欲求を満たす為に走る人を見つけることができる。
 もしくは荒川左岸、14万平方メートルの敷地にレッズランドと呼ばれるコミュニティスペースがある。2005年に東農大が撤退することになったスペースを、浦和レッズがまたとないタイミングで借り入れることに成功。東京ドーム3個分の中に広々としたスポーツ施設はもちろん、アグリフィールドやデイキャンプ場まである。数年後の基本完成を待たずして既に会員数は850人を数える。

 レッズランドだけではない。今年、JFAが主催したスポーツマネージャーズカレッジの中でケーススタディにもなった「横浜カントリー&アスレチック・クラブ」。
 横浜の港を眺め、天然の芝で愉しむ。100年以上の歴史を持つ、欧州並みの施設が整ったスポーツクラブである。日本、というより欧米のスポーツ文化が空間として完成されている特殊な場所だ。今でも会員の9割は外国人だという。

 上記のような、日の目を見ることのあるスポーツクラブもあれば、ドイツなどを目的に高い志で設立したにも関わらず、財政難などで消滅したクラブも多い。ネガティブな事実はスポーツと共に生きていけば必ずといっていいほど直面するものだ。思いのほか、崇高なものでもない。
 だが、スポーツから得られる喜びは他のそれを凌駕する。日常のやりくりでは得られることのない、言いようのない充実感がそれだ。スポーツが近くにあればそれでいい。基本的にはそう思っている。

FC琉球とコロラド・ロッキーズ
先週行われたFC琉球のゲームを見た。悪くは無い内容だが、今のところ来季をイメージすることはできない。JFL残留を望む現実的な戦いを前に、サッカーの質を追求する批評の矛先は「現実的な」という言葉の前に崩れ去る。
 気付けば、シーズンを通じて理想とするサッカーを追う事はできなくなる。今年は残り6ゲーム。「現実的な」戦いをすることは未来に繋がるようで、結局は繋がらない。

 そう思ったある日、大リーグのコロラド・ロッキーズの躍動を目にした。デンバー市民の希望の結晶。市民が消費税を0.1%アップさせ、新しい球場建設の資金調達を促した。それは後に大リーグ参入への大きな原動力になる。
 しかし、度重なるオーナーのスキャンダルや不安定な経営は、今でもチームを苦しめる要素が蔓延っている。人件費にしても生え抜きが並ぶオーダーは、レッドソックスが持つ豪華さとは無縁だ。
 それでも、チーム創設15シーズン目で初のワールドシリーズ進出を果たし「マイルハイの奇跡」は現実に起こってしまった。
 
 FC琉球の苦しみと同一視野に入れることは難しいが、スポーツが傍にあるという事実は何ら変わることはない。そう思えたとき、多少は気が楽になった。

 生みの苦しみをどう捉えるのか。この時間と対峙する価値は十分にある。

日本にも確実に存在した地域とスポーツ
1972年に日本サッカーリーグの2部が誕生した際、クラブチームは読売サッカークラブ、甲府クラブ、京都紫光クラブの3クラブだった。
 読売は別にしても、甲府クラブと京都紫光クラブは当時から完全な地域密着型のクラブとして確立されていた。欧米型のスポーツ価値意識が入る余地は無く、生活の営みから生まれた普遍的なスポーツとの繋がりがそこにはあった。このとき既に日本独自のスポーツ文化は約束されていたのである。
 2チームは現在、バンフォーレ甲府、京都サンガFCへと名前を変え、地域色豊かな存在として日本のトップリーグに位置している。
 
 スポーツは、我々が生活する土壌で全てが決まる。欧米との比較はそう簡単にできるものではない。世界基準の意志は常に持つべきだが、人々の意思にそこまで差異はないだろう。結局、行き着く場所は決まっている。最終的には自分の心の持ちようで、どうしても決まってしまうわけだ。
 

posted by 奥間店長 |23:22 | Sports |
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2007年09月02日

世界陸上の日々

 恍惚の時間、世界陸上が終わろうとしている。リアリスティックな数字や筋繊維の収縮、そして生命の死を隣人とする陸上競技。絶対的な数字から伝わる純情な身体活動は、やがて極度の鋭敏を超えた境地を感じることになる。
 他分野の挑戦の記録は、見る側がその内幕を感じ取ることは難しい。だが、陸上競技だけは「煽りや努力の結晶を知る」という行為そのものが陳腐に思えるほど、結果だけを受け入れることが可能な競技だ。

そう思ってきた。世界陸上大阪大会を迎えるまでは。

日本選手団の「外」の戦い
今回の日本選手団は最後まで使命感で一杯だった。身体を動かすことに不満を持つ子どもの実態が右肩上がりに成長する中で、彼等は己の生き様と陸上への威光を保とうと必死だった。陸上選手がビジネスを語り、影響力の強い媒体へと世界陸上開幕直前まで出て行く。
 
だがそこには今回に懸ける強い想いは感じられたが、何か物悲しさも残った。

 日韓W杯が開催された際、日本代表選手のベースキャンプで使用した磐田の葛城北の丸は確かに非日常の日本列島と代表選手を乖離した。異常なほど熱が上がる国民を尻目に、あの場所では淡々と時間が流れていた。タクティクスやスキルの進化だけでは追いつけることはない世界との距離を見事に縮めた原因は、確実に北の丸にあったのだ。

到達点は他の場所に
サッカー日本代表と、今回の世界陸上の選手団。前者は理想のパフォーマンスに近づけるために最高の環境を用意できる組織を持っていたが、後者は最後まで満たされない環境要因をぶら下げながら戦い抜くことしかできなかった。
 JOCの田富昭選手強化本部長は世界陸上での日本勢の不振について「選手はあまりスター意識に走らないで初心に立ち返って体力をつけてほしい」と語る。
 彼等にサッカーや野球選手が持つスター性はない。だが彼等はスター性の欠落以上に陸上競技が放つ恍惚とした塊を我々に伝えようとした。最後まで主力選手の周りは騒がしかっただろう。ピーキングに失敗しても言い訳できない状況に立たされていた。
 意識と肉体の分離を感じながらも、彼等は自己完結するのではなく陸上競技の存在を訴え続けた。
 
 それは選手間の問題ではなく、陸連を含めた組織の未成熟さが招いた結果でもある。五輪では考えられない負の連鎖は、選手だけの責任ではない。選手に依存しなければ世界陸上そのものを伝えきれない組織。怠慢な姿勢が選手のコンマ何秒に影響した。
 
 結果だけを見ればその選手が理解できる。陸上競技とはそういうスポーツだと思ってきたが、考えを改める時期にきている。それが大阪、世界陸上の印象だ。

友人の山崎を見て
と、それだけの感想しか持てない日々だと思っていた。しかし、昨日の50キロ競歩で世界と互角に戦った山崎の姿は、今も脳裏に焼き付いて離れない。彼は裏表の無い真実の男だ。大学時代に出会って、サッカーの授業では私のスルーパスに歩いて反応しようとした。普段も自分だけの時間が流れている「いかにも」トップアスリートだけが秘める世界観を持っている。
 あの非常な結末には呆然とさせられ、「レースに参加さえしていない」という事実にも憤りを感じてしまう。
 結果だけを見ても、やっぱり陸上競技はわからない。この時点で大会は最終日を迎えてはいないが、このスポーツに関する価値意識は完全に逆転した。
 

posted by okumastore |00:41 | Sports |
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2007年05月10日

Inevitable Ring to the Unimaginable

 グラウンド上の勝者であるためには、マネジメントの勝者であるべし。
 
 ピーター・ユベロスがバケツにさえ広告を入れた五輪から金銭の流れは激変し、我々がスポーツを共有する幅も広まった。そして現在は、スポーツを社会経済的対象として捉えることに金銭が伴うことは普遍性を持って我々の前に存在している。
 
 だが、今回の特待制度事件の源流を探ると、明治初期に欧米から伝わったスポーツを、スポーツとして消化できなかった歴史的事実がある。
 体育とスポーツ。この両者の間には社会的な受け入れ方の度合いに決定的な相違が見られる。しかし、我々はその区別を長年受け入れようとはしなかった。教育機関の中にある体育は極めて刹那的な身体運動であり、後者のスポーツは生活を軸として様々な属性を持って人々の生活に潤いを与えている。

 現在のプロ、アマ野球問題の根源にはスポーツとは本来地域社会との関わりの中で行われるべきものであるという認識が欠落したゆえの結果だと思う。
 現状の打開策は一つしかないだろう。一方通行の教育機関でのスポーツ活動よりも、地域に産み落とされたクラブとして活動し、その先にプロフェッショナルの矜持が育つような環境を作り出せばいい。
 スポーツを取り巻く人々はある種の自己を常に探している。自己実現とは、最終的に社会承認レベルを超越し、自分の心の中にベクトルを向ける人に与えられた特権なのだ。それが上手く表現できないこの時代は、果たして幸福なのだろうか。
 隔靴掻痒の日々は、まだ続く。

posted by okumastore |23:50 | Sports |
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2007年03月31日

指定管理者制度を難しく考える必要など果たしてあるのか

最近、衝撃的な出会いをしてしまいました。

環境が示す人生の道
アメリカの大学ではNCAAのディビジョン1レベルでなくとも、広大な敷地の中にあるアメフト専用のスタジアムや、地域の企業がスポンサーにつく巨大なアリーナが普通に存在した。

 しかし、トレーニングルームに関しては、我が大学より充実した施設に出会うことは結局、最後まで無かった。
 環境は間違いなく人を育てる。大学のあり方、突き詰めて考えればブランディングという言葉さえも見え隠れする時代で、大学が持つ武器は限りなくシビアになりつつある。
 今年卒業した「箱根の山の神」と言われた今井や、五輪を経験し日本のトップスプリンターへと成長を遂げた高平、横浜Fマリノスの小宮山など「超」一流の選手が上手く育つ背景には何かしらの環境要因が存在し、アスリートを支えるアメニティの有無はその後の人生を左右する力を持つ。
 その一つがあのトレーニング室だった。私もはじめて施設を見たときは結構ビビッた。
 
 だがよっぽどの事がない限り、私はもう大学へ足を運ぶことはないので、あの素晴らしい施設に舞い戻ることは無い。
 巷に溢れるフィットネスクラブに入会することも頭を過ぎるが、どう考えても経済的な考えではなかった。

 この国は金をかけなければろくに身体を動かすこともできないのか。ドイツで見たあの「充実」とは言えなくとも全ての住民が気軽に足を運べる施設は皆無なのか。そう思っていた。

 ある友人から軽く東京体育館のトレーニング室の存在を知るまでは。

指定管理者制度とは何か
スポーツ界に革命を起こしたと言われる「指定管理者制度」。少し前よりは多方面で聞くようになり、普段の生活でも浸透度は増してきた。
 従来の公的な施設の管理は自治体が2分の1以上出資した法人などに限られていたが、平成15年9月2日に改正自治法が施行され、民間事業者(株式会社・NPOなど) を含む団体(指定管理者)に委ねることができるようになった。
 昔は、地方自治体が直営するか、あるいは地方自治体が出資した財団や公社などに限定される「管理委託制度」だったのが、スポーツの世界では一気にフィットネスクラブをはじめ、スポーツ施設メンテナンス会社、ビルメンテナンス会社などが、各地で行われる指定管理者の公募に湧いた。
 
 その指定管理者制度の恩恵を私は始めて受けてしまった。

 東京体育館のトレーニング施設は昨年の6月から、指定管理者「財団グループ」のメンバーであるティップネスが運営を行っている。450円でサイベックスを中心としたマシーンやバスルーム、マッサージチェアも使用できる。
 今までは指定管理者制度なんてスポーツ施設マネジメントの授業で学んだことはあれど、実際に使う側に立つとこの衝撃度はかなりのものだった。

 サッカー界でも去年の4月に公設スタジアムの指定管理者となった鹿島アントラーズや浦和がレッズランドの「浦和西体育館」を指定管理者として管理・運営し、インドアの充実に着手している。他にも指定管理者制度を導入しているのは、宮城、新潟、静岡、大分県や横浜市などが上げられるが、民営委託を模索し続けながら、多様性のあるマネジメントを展開している。

隣にある喜び
もちろん全てが上手くいくような制度ではなく、確かに公共スポーツ施設民営化への危惧、依存から派生する様々なトラブルなど問題も上げればきりがない。
 しかし、この際はっきり言いたいのはそういう机上の空論に振り回されるだけの余裕はこちら側にはないということだ。縋りつく思いで出会ったこの制度に対し、先行する想いは「あってよかった」。これに尽きる。他の感情を特に抱くことはできない。
 学会やシンポジウムでも問題点を抽出すべく走り回る教授もよく見かけるが、いい場所でいい運営が行われている事実をもっと体感して欲しいと思う。
 
 人生に何気ないスパイスを求めることは何気なく行いたい。何気ない行為だからこそ、本質以上の存在感に喜びを感じることが出来る。上記した「超」の付くアスリートではなくとも何気なく身体を動かし、心地よい疲労感に侵食される。それでいいのではないか。

posted by 奥間店長 |00:24 | Sports |
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