2007年02月12日
いつ終わるの? ドラフト篇(敬称略)
1993年 安達智次郎
う~ん
ひさびさの再開なのに
いきなりほとんど記憶がない投手やな・・・
たしか入団当初は
「豪腕左腕」だの「江夏2世」だの
チヤホヤされてたはずだ
まぁ安達にかぎらずいつものこと・・・
案の定一度もスポットライトを浴びぬまま
現役生活を断念し打撃投手として再契約
ところが!
そんな安達に救世主現る
再生工場長の名をほしいままにしていた超大物カントクだ
「もっぺんやってみぃ」
やってみたけどダメでしたトホホ・・・
1994年 藪恵壹(恵市)
本名は恵一
入団時に姓名判断を受け恵市にしたそうだ
藪にかわってわたくしからその姓名判断士に一言
「金返せ」
ルーキーイヤーに9勝
その後3年連続2ケタ勝利をマーク
負け数もいつも2ケタだけどね・・・
暗黒の90年代を支えた功労者だ
あの再生工場長をして
「うちの理想のローテーションはな・・・
藪・雨・雨・雨・雨 藪・雨・雨・雨・雨や」といわしめた
清原との確執も有名だ
内角球を一切避けずに死球を稼ぐ清原に対し
「避けないヤツが悪い」と言い放ったアンタはエライよ
ある年のオフ
関西では知らない人はいない?
超有名番組「トラトラタイガース」に電話出演
そこで酒に酔ったヤクザ司会者の恐喝により
背番号を4に変更させられたしたのであった
現在はメキシカン・リーグ(?)で活躍中
アナタの功績はダメ虎ファン永遠の宝物です・・・(ウソ)
1995年 山村宏樹
99年 退団 いきなりかよ
以前にも某巨漢投手のところで触れたが
その巨漢投手にイジメを受け自律神経失調症に陥ったのが
退団の原因だといわれているが果たして
ところが近鉄移籍後は別人のような活躍
2001年近鉄優勝にも貢献したのだ
ダメ虎を去った選手が活躍するのはいつものこと
ダメ虎のスカウトさんたち
アナタたちの目は節穴ではなかったのですよ・・・
そんなに自分を責めないで・・・ 余計なお世話
ひさびさなのでつかれました
次回へつづく・・・
posted by わたくし |13:03 |
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2006年12月02日
ドラフト篇のつづきいってみよう(敬称略)
1989年 中込伸
まずは球団職員として囲い込んでおいてから
ドラフトで指名されたという阪神では珍しいケース
あの92年の確変イヤーに9勝をマークして
その後の活躍が期待されたのだが
度重なるヒジの故障により何度もメスを入れる
思うように勝ち星を伸ばしていくことはできず
積み重なるのは体重だけというトホホな現役生活
100勝には程遠いが100kgには到達することができた
体重の増加とともにガキ大将ぶりを発揮し始める
ここからはあくまでもウワサの域を出ない話だが
中谷めがけてケータイを投げつけ失明寸前に追い込んだり
イジメを受けた山村が自律神経失調症に陥ったりと
何かとダーティーなイメージが定着するハメになってしまう
結局2001年のオフに自由契約
その後は台湾球界にて現役を続行
現在は沖縄のクラブチームで監督を務めているようだ
1990年 葛西稔
「高校時代はあの大魔神の控え投手」
試合中に話題に困ったアナウンサーが
その度にこのフレーズを連呼していた
野茂英雄のハズレ1位指名として入団
同期入団のライバルたちがルーキーイヤーに大活躍
おかげで名前をもじった「クズニシ」という
なんともトホホなニックネームを頂戴するハメに
2年目には先発に定着
翌92年には開幕投手の座を射止めた
その後はリリーフに転向し活躍
「阪神のリリーフ=サイドスロー」の公式を完成させるのに貢献
そして現役生活のハイライトはやはり
「遠山‐葛西‐遠山‐葛西」のトホホな継投劇だ
ふたりはまさに一心同体
プロ野球チップスのおまけのプロ野球カードでも
2人1組にされてしまうなどホントにラブラブだった
引退後は投手コーチとして活躍
藤川球児のフォーム改造・大躍進の陰の立役者となった
1991年 湯舟敏郎
小池秀郎のハズレ1位指名として入団
ダメ虎はクジ運のなさもトホホなの
子連れルーキーとしてほんのチョットだけ話題になった
2年目の92年には左のエース格に成長
ノーヒット・ノーラン達成や2度の月間MVP獲得など
先発の柱として大車輪の活躍を見せた
だがシーズン終盤に故障した田村勤に代わり抑えを任されるが
大事なヤクルト戦で失敗するなど大誤算
これが優勝を逃した一因となってしまい
前半の活躍が霞んでしまうというトホホな湯舟さん
その後はダメ虎貧打線のあおりを喰い続ける
3年連続5勝止まりで2年連続リーグワーストの負け数を記録
「阪神にいなければもっと勝てたはずなのに・・・」という
きわめて数多い投手のうちのひとりとなってしまった
晩年はベースカバーに入った際に足を捻るなどトホホな現役生活
しかし2001年にトレードで近鉄入りして優勝を経験し
引退にささやかな花を添えることができた
その後は解説者として活躍
当初はMBSにいたはずなのに
いつのまにかABCに移ったのはなぜだろう ←関西ローカルネタ
焼肉店「牛若丸」の経営もしているそうだが
いまいちセンスのない店名はやはりよっさんに相談したのかな
1992年 萩原誠
高校時代は大阪桐蔭の4番として
全国の高校野球ファンにその名を轟かせていた
そんな彼がなんと阪神にやって来たではありませんか
ポジションはサードで背番号は31
「ミスタータイガース」の後継者として絶大なる期待を背負う
だがしかし・・・
やはり入る球団を間違えてしまったのか
その大いなる才能はプロではまったく発揮されず
挙句の果てによく知らない選手とのトレードで
近鉄へと旅立ってしまったとさ・・・
次回へつづく
posted by わたくし |22:42 |
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2006年11月15日
今回からはドラフト篇がスタート
日本一に輝いた85年以降のドラフト1位選手にスポットをあてて
ダメ虎のトホホな歴史を振り返ることにしよう
なお年度表記はドラフト指名年度ではなく
あくまでも入団1年目の年度を表すことにする(敬称略)
1986年 遠山昭治(奨治)
あの清原和博のハズレ1位指名として入団
ルーキーイヤーに8勝をマークするも
翌年以降はケガにも泣かされ目立った活躍はできず
90年のオフにロッテへとトレードされる
ロッテから阪神へとやって来たのは高橋慶彦
まだ伸びそうな若手を放出して
ピークを過ぎたベテランを獲得するという
「ダメ虎トレード」の被害者となってしまう
ロッテでも投手としてはパッとしないまま打者へ転向
ファームで才能が開花したと思いきや1軍では通用せず
97年のオフにあえなく自由契約となる
その後古巣阪神の入団テストに野球人生を託す
もちろん野手として受験するも首脳陣の目には留まらず
ところが阪神在籍時代のコーチでもあった一枝修平の一言
「ついでやからブルペンで投げてみぃ」
温情もあったのか投手として合格
その頃の阪神のリリーフ陣は
当時の投手コーチの古沢の意向によりみんな横手投げ
てゆうか彼が横手投げ投手しか指導できないだけ
遠山もまた強制的にサイドスローへと転向
99年野村克也のもとで復活を遂げる
強制的にシュートをマスターさせられたのが功を奏し
リーグ有数の左キラーとして名を馳せることとなる
遠山の名を背負った宿命なのか
新聞の見出しはこぞって「遠山の金さん」になぞらえたものだった
気を良くした本人も左肩に桜のタトゥーを入れ・・・(嘘)
ところが名を馳せすぎるのも困りもの
右打者を迎えると強制的にファーストを守らされ
「遠山‐葛西‐遠山‐葛西」というノムさん必殺リレーが完成
他球団の失笑を誘う哀れな継投に一役買うハメになる
02年のオフに惜しまれながらも現役引退
記録には残らないが記憶には間違いなく残る投手だった
だが優勝の翌年に入団し優勝の前年に引退だなんて
なんともトホホな話ではないか
1987年 猪俣隆
主に先発として活躍したサウスポー
同期入団の阿波野秀幸・西崎幸弘らとともに
「トレンディーエース」という今になって考えると
何ともダサいニックネームを頂戴する
92年の確変イヤーを支えた投手のひとり
翌93年には2ケタ勝利をマークするが
その後は故障もあり97年オフに自由契約
98年から2シーズンだけ中日に在籍(成績等詳細不明)
現役引退後は日本を飛び出しアメリカへ
メジャー挑戦? いえいえ
アメリカにて寿司職人の修行を始めたのだ
寿司なら日本でも握れそうなものだが
よほどダメ虎の苦いトラウマを忘れ去りたかったようだ
周囲から「元阪神」として見られる環境では
新たなチャレンジの障害になってしまうから
思い切ってアメリカで一から新たな道を歩みたかったとのことだ
1988年 野田浩司
入団当初から先発として期待通りの活躍
90年に2ケタ勝利を挙げ翌年には開幕投手を務める
着々とエースへの道を歩んでいるように見えたが
92年のオフに「ダメ虎トレード」の犠牲者になる
代わりにやって来たのが松永浩美
ご存知のように1年でダイエーへ移籍 トホホ・・・
オリックス移籍1年目に最多勝のタイトルを獲得
後に1試合の最多奪三振記録も樹立するなど
華やかな野球人生を謳歌することとなり
ダメ虎ファンのフロントに対する憎悪をより激しくするのに貢献する
引退後は解説者として活躍
関西を拠点に活動しているにもかかわらず
担当する試合はもっぱらオリックスのゲーム
やはりダメ虎への怨念は拭い去れないままなのだろうか・・・
番外編 1982年 源五郎丸洋
パンチョ伊東がその個性的な名前を読み上げた瞬間
ドラフト会議の会場には一斉にどよめきが起こったそうだ
「誰だそれ?」
「阪神の隠し玉か?」
「それって本名か?」
聞くところによるとかなりの速球派で
将来を嘱望されていたとのことらしい
ところがルーキーイヤーのキャンプでいきなり大ケガ
結局一度も1軍のマウンドに登ることなく現役引退
その後はスポーツ店を経営するもすぐに閉店したらしい
この頃わたくしはまだ小学生だった
もちろん阪神ファンのわたくしではあったが
2軍の選手についての知識・情報は皆無なトラキチ少年だった
容姿・風貌については言うまでもなく微塵も覚えていないが
それでも源五郎丸の名だけは鮮明に記憶に残っている
入団時の期待度の大きさと個性的な名前のインパクト
それとは対照的なきわめて寂しいプロとしての実績
このギャップもまたダメ虎のトホホな歴史といってもいいのかも
監督篇同様に長期化が予想されております
次回につづく
posted by わたくし |23:02 |
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2006年10月19日
今日は監督篇の最終回(敬称略)
よっさんが辞任した98年オフ
これまで阪神の監督といえばOBが常だったが
この時点でOBの監督候補にあがるのが
万年監督候補の一枝修平しかいないトホホな状況
しかしヤクルト黄金時代を築いたあの超大物監督が
期せずしてヤクルト監督を辞任
われわれトラキチはまさか野村克也が
阪神の監督になるなんて夢にも思わなかった
ヤクルト時代と同様阪神でもキャンプはミーティング重視
これまでただ漠然と野球をしていた虎戦士たちは悲鳴をあげる
新庄「いっぺんに聞いても解りません、今日はもう許してください。」
坪井「ボクは頭を使ってバッティングしたことがありません。」
おいおい大丈夫か・・・
しかし! 迎えた99年シーズン
なんと6月には6年ぶりの単独首位に立ったではありませんか
世は空前のトラフィーバーに沸き返る
去年まで見たこともないようなトラグッズが続々登場
極めつけは純金ノムさん像お値段100万円也
だが好事魔多し
ダレル・メイがマスコミに対して
「I hate Nomura!」と書かれたビラを撒くという
前代未聞のトホホな事件が発生
くわしくは「ダメダメ助っ人篇」にて
さらにグラウンドの外では
「サッチー・ミッチー騒動」なるものまで勃発
公私ともども踏んだり蹴ったりなノムさんに呼応するように
チームも徐々に指定席へと近づいていく・・・
あのトラフィーバーは何だったのか
結局首位から26ゲーム差の最下位でシーズンを終えた
2000年
春のキャンプにてプリンスが話題を独占
「新庄ピッチャーに挑戦!?」
この無謀とも思える二刀流だがノムさんのホントの意図は
「投手の心理を理解させるため」だったのだが
そんなお堅い理由ではプリンスがその気にならないのは百も承知
そこでプリンスの耳元でお得意のささやき戦術
「おまえのストレートは江夏クラスや」
おだてられる前から木に登るような性格のプリンスだ
こんなことを言われてヤル気が出ないわけがない
オープン戦でもノリノリでマウンドに上がったが
やはり批判の嵐を浴び公式戦では実現せず
はたして投手の心理は理解できたのか・・・
そして開幕
昨年のような確変も起きず最下位を突っ走る
投手陣のコマ不足を補うための
「遠山‐葛西‐遠山‐葛西」という高校野球ばりの投手リレーが
他球団からの失笑を買ったのがこのシーズンの唯一のハイライトか
もちろん首位から21ゲーム差の最下位でフィニッシュ
2001年
さて問題です
F1セブンのメンバーをすべて答えよ (難易度AA)
正解は・・・
赤星・藤本・上坂・沖原・平下・高波・松田 (予想正答率3.8%)
「スーパーカーはもう古い、時代はF1や」
ただ如何せんどいつもこいつも地味なキャラばかり
話題になったのはせいぜいキャンプのあいだぐらいだった
F1セブンがスベったと悟ったノムさん
今度は上坂・赤星・濱中を「平成の新少年隊」と名付けるも
結果は言うまでも無くだだスベりだった
開幕→4月30イニング連続無得点→シーズン終了
首位から25.5ゲーム差の最下位でジ・エンド
↑なおこのシーズンは勝利数で順位を決定
ゲーム差はあくまで参考記録
ちなみにF1セブンのその後はといえば・・・
沖原号 仙台へ
平下号 千葉へ
高波号 所沢へ
松田号 福岡へ それぞれコースアウト
上坂号にいたっては
国道43号線にてホントにF1してしまい警察に御用となった
就任後3年連続最下位の屈辱にまみれたノムさん
4年目のシーズンへの意欲を見せるも
ご夫人の所得税法違反という
今世紀最大のトホホな事情により解任の憂き目にあった
そんなトホホなノムさんだが
これまでの単なるトホホな監督たちとは違い
その目に見えない功績は称えられて然るべきである
彼が蒔いた種がその後に実となり花となる
彼がいなければ今の強い阪神はない
ありがとうノムさん
posted by わたくし |00:12 |
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2006年10月12日
part I part II part III までご紹介して
今日は part IV に突入
どこまで続くの?
どこまでも続くのよ
てなわけで監督篇のつづき(敬称略)
1997年 吉田義男 is back
しかも89年から95年までおフランスに滞在
フランスナショナルチームの監督も経験
しかしどういう経緯で・・・?
はたして国際派監督としてパワーアップしたのか?
就任早々大仕事が待っていた
西武からFA宣言した清原との入団交渉
相手はミスタープロ野球長嶋茂雄だ
圧倒的に分が悪いと悟ったよっさんは
歴史と伝統に彩られたユニフォームを引き合いに出し
「タテジマをヨコジマに変えてでも!」と
名言なのか迷言なのかよくわからん口説き文句を試みたが
これがなぜか清原のハートを揺さぶった
しかし長嶋大先生のラブリーな一言
「僕の胸に飛び込んでおいで」には勝てず
だがわれわれトラキチは清原にフラれた残念さよりも
タテジマがヨコジマに変わらなくてよかったと胸を撫で下ろした
さて迎えた97年のシーズン
球界きってのどケチ球団として知られた阪神が
なんと年棒3億円の超大物メジャーリーガー獲得!
彼については後日「ダメダメ助っ人篇」にて詳しく
誰もがバースの再来を期待せずにはいられなかった
しかし背中を痛めてキャンプ中に一時帰国
「ゆっくり治して頑張ってね」
われわれトラキチは温かく見守っていた
何せ300万ドルプレーヤーである
きっと治れば活躍してくれるだろう・・・
そして4月の終わりに再来日
しかし出場7試合目にして自打球で足を骨折
この瞬間彼は何かを悟ったようだ
「これは神のお告げだ」
え? 何が?
「野球を辞めなさいというお告げだ」
そして現役引退 即帰国
同時に阪神のシーズンも終了したも同然
ナゴヤドーム元年で失敗した中日のおかげもあって
首位から21ゲーム差の5位でフィニッシュ
そして98年の開幕を目前にした4月1日
我らがよっさん笑わせてくれた
「吉田監督 寅年優勝祝賀記者会見」
えっ? 開幕前なのに優勝会見? いやいや
4月1日はエイプリルフールなのだ
誰が主催したかは忘れたが(外国人記者クラブ?)
よっさんは真顔で会見に臨んだ
「今年もバントなしで打ちまくりましたな」
「一番の思い出は6者連続ホームランですな」
これがおフランス仕込みのジョークってやつなのか
だが実際のペナントレースは会見通りにいくわけもなく
首位から27ゲーム差の最下位に沈んだ
そしてよっさんもあえなく辞任
その後は解説者として天然ボケを連発するのでありました
今日もひとりだけで終わってしまった
しかし次の超大物監督もトホホなエピソード満載
次回につづく
posted by わたくし |00:23 |
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2006年10月03日
性懲りもなく part III に突入
監督篇のつづきを(敬称略)
1995年 シーズン中に辞任した中村の後任は鬼
当時2軍監督だった鬼平こと藤田平
就任初日に練習に遅刻したあの新庄に正座を命令
チームの人気者を晒し者にすることにより鬼ぶりをアピール
*追記 監督命令と思われていたこの正座ですが
どうやら選手同士の話し合いにより決められた
ルールとのことらしいです 失礼いたしました
だがこれにより鬼のイメージが定着してしまいました
さらに不振の選手は名前に関係なく容赦なく2軍へ落とした
結局このシーズンはチームを立て直す時間もなく
首位から36ゲーム差の最下位で終えた
なおこの年のオフにはあの有名な「新庄退団騒動」も勃発
「僕にはセンスがないから」と衝撃の引退宣言
センスの塊が何をゆうとんねん、と誰もが思った
しかしその翌日にはあっさり前言撤回
ただ単に鬼のもとではやりたくないだけの話だったのだろう
翌96年はキャンプから鬼モード全開
あまりの猛練習に選手たちは開幕前には終了モード
もちろん開幕から最下位をぶっちぎった
あまりのふがいなさに甲子園球場では
「応援ボイコット事件」なるものも発生
凄まじい迫力の応援で有名なあの甲子園が
鳴り物ひとつ鳴らずにシ~ンと静まり返ってしまった
その後もチームは浮上のきっかけすらつかめず秋を迎え
そこで阪神の歴史に名を残すトホホな事件発生
チームは藤田のシーズン途中での解任を決議
それを三好球団社長(当時)から伝えられた鬼平は
納得がいかず久万オーナー(当時)との会談を要求
しかし三好にあっさりと拒否された鬼平は
そのまま球団事務所にたてこもるという暴挙に出た
午前零時を過ぎても頑としてそこを動こうとしなかった
結局8時間以上篭城したあげく会談は持ち越し
最終的に解任を受け入れた鬼平だが怒りは収まらない
オーナーへの取次ぎを頑なに拒否した三好に対し
「三好のアホは伝書鳩以下や!!」との迷言を残した
結局は鬼のイメージしか残らなかった藤田だが
選手の栄養管理のためにベンチにフルーツを差し入れるなど
実は細やかな気配りも忘れない監督だったというのは
あまり知られていない やはり鬼だった
そしてシーズンの残り試合は柴田猛が監督を代行
この人のことはあまりよく知らないが
現在は名スコアラーとしてその名を馳せているらしい
とにかくこのシーズンも首位から23ゲーム差の最下位
予想通り長引いた鬼物語
今日は鬼平ひとりでおしまいとなりました
このつづきは次回のお楽しみ
posted by 管理人 |20:56 |
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2006年10月02日
前回のダメ虎トホホ伝説 part I を
どれだけの方にお読みいただいたかはわからないが
part I と名づけたからにはpart II もやらなくては
てなわけで今回は監督篇(85年以降 敬称略)
1985年 幸運にも(?)日本一の座を勝ち取ったのが吉田義男
ことあるごとに「チーム一丸」と呪文のように唱えてはいたが
主力中の主力である掛布と岡田の不仲は有名な話で
どこが一丸やねんと誰しもが思いながら口には出さなかった
翌86年は勝率5割で3位とやや失速
さらに87年には首位から37.5ゲーム差の最下位に沈み
シーズン終了後にあえなく辞任した
なお当時の吉田監督は
自分のタバコ一本一本に名前を書き込み
監督賞の封筒の中身は監督のネーム入りタバコが一本
というウソかホンマかわからん話に代表されるように
無類のドケチ監督として名を馳せていた
1988年 第2次村山実政権がスタート
漢・村山は就任当初からヤル気マンマン
「江夏も田淵も平(藤田)も全員集合や!」
かつてのスターたちに熱く入閣を促す
だが 誰も帰っては来なかった
そしてシーズン開幕直後からチームも成績不振
トレードマークの目の下のクマは日に日に濃くなる
結局首位から29.5ゲーム差の最下位
翌89年も当然最下位を独走
ボロボロの投手陣を立て直すために
村山は奇策に打って出た
翌日に先発予定の投手の自宅に電話を入れ
「もしもし奥さん、ご主人は明日先発ですので、
どうか今夜はゆっくりさせてあげてください」と
夫婦生活に堂々と介入するという奇策
これが功を奏したのか(?)
首位から30.5ゲーム差の5位でフィニッシュ
しかしながら村山はここでサヨウナラ
1990年 チームの期待を一身に背負い登場したのは
弱冠40歳の青年監督中村勝広
シーズン序盤は奮闘するのだが
チームの4番ワニ喰い男(パリッシュ)の帰国とともに失速
結局首位から36ゲーム差の最下位でシーズン終了
翌91年も首位から26ゲーム差の最下位で終える
しかし92年は10年に一度の確変イヤー
なんと6月には首位に浮上ではあ~りませんか
だが9月 ヤクルトとの首位決戦において
八木のサヨナラホームランが幻に終わったことも影響し
ヤクルトに優勝をさらわれることとなった
しかし実は優勝を逃した最大の原因は
ひさびさの優勝争いに動揺した久万オーナー(当時)の
「今年は5割でええねん」という超消極的発言だったともいわれている
そして確変は終了
翌93年は首位から17ゲーム差の4位
94年は首位から8ゲーム差の4位と健闘するが
迎えた95年はまたもや最下位を独走
ここで堪忍袋の緒が切れた久万大先生の登場
「このスカタン監督が!!」
この一言により中村はシーズン途中で辞任となった
やはり一度では書ききれなかった
任期が長いわりに「スカタン」しか逸話のない地味な中村に対し
次の監督が任期の短さのわりにエピソードが多いこともあり
次回につづく・・・
posted by 管理人 |21:57 |
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2006年09月16日
セ・リーグはシーズンオフに入った(涙)
てなわけでオフ企画スタート
1987年から2002年までの16年もの間
1992年を除きすべてBクラス
そのうち最下位が10回という
超氷河期時代を経験した阪神
その頃のトホホなエピソードの数々を
振り返ろうという企画であります
今日はトレード・FA篇
この頃の阪神はグラウンドの中だけでなく
選手の移籍に関しても
他球団から格好の餌食にされていた
これから伸びるであろう選手を放出し
ピークを過ぎたおっさんを獲得するのが得意だった
80年代は長崎・柏原・田尾・金森らを次々に獲得
印象に残っているのは長崎の日本シリーズ満塁HRぐらいだ
90年代に入ってもわけわからんトレードを連発
ダイエーとの大型トレードでは
阪神から放出された池田がストッパーとして
大野久は盗塁王になるなどリードオフマンとして活躍
一方阪神に来たのは誰だったかしら?
4,5人ぐらい来たはずだが誰も思い出せない
なお池田氏は85年日本一時のエースにもかかわらず
引退後は阪神OBである過去を封印し
福岡にベッタリの生活を送っている(なぜ?)
次に野田⇔松永の1対1のトレード
野田はオリックスで最多勝を獲得
さらに1試合19奪三振の日本記録を樹立
松永はシーズン途中にケガで離脱
そしてその年のオフに
「甲子園は幼稚園の砂場」との名言を残し
FA宣言してダイエーへと去っていった
中日との2対2のトレードでは
関川が高打率をマークしMVP級の活躍
久慈は当時ショートを守っていた福留の
貴重なバックアップとして活躍
片や阪神に加わったのは矢野・大豊
矢野に関しては唯一といっていい成功例だ
大豊もそれなりには頑張った
だが最下位が確定した後の9月に
狂ったようにヒットを量産して
連続試合安打の球団記録を更新したといわれてもね
近鉄とは3対3の交換
そして北川は近鉄の優勝がかかった試合で
代打逆転満塁サヨナラHR!
球界の歴史に名を残すプレーヤーになった
阪神に加入したのは・・・(略)
他にも高橋慶・平塚・佐々木・広沢(自由契約)などが
阪神でステキな余生を楽しんでおられた
そして阪神がFA制度で獲得したのは
衰えはしたものの阪神では不動の4番石嶺
一試合たりとも投げずに契約金を持ち去った山沖
阪神に来なければ間違いなく200勝できた星野伸
これまたトホホな補強だ
そんな我が愛しのタイガースだったのだが
今では阪神の余剰戦力を他球団が
ヨダレをたらして欲しがるという状況
当時のことを思うとアンビリーバボーだ
posted by 管理人 |21:10 |
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