2009年11月27日
サンフレッチェのミキッチがパパに/元ジェフのフルゴヴィッチ、またして退団
Jリーグで馴染みのある二人の今の明暗についてです。 鼠径部の故障で11月10日にクロアチアに帰国したサンフレッチェ広島のMFミハエル・ミキッチですが、25日に最初の子供が産まれたことが報道されています。妻はクロアチア国内外で知られるトップモデルのリュプカ・ゴイッチということで、メディアも大きく扱っています(ここ最近はクロアチアの有名人の間でベビーブームとなっています)。帝王切開によって無事に出産された娘の名前はヤナ(Jana)で、出身時の身長は48cm、体重は2800グラム。ミキッチも出産には立ち会ったそうです。 モデル業で多忙な妻を持ったこともあり、かつては離婚の噂も立ったカップルでありますが、夫が日本に行ったことで更に関係が強まった模様。ミキッチが移籍した際には 「遠くても関係は今までのように維持していくわ。我々の結婚はお互いの理解の下だし、距離が離れててもミカ(ミハエル)と会うと常に羽ばたくような気分になるの。今までは私が旅立ってばかりで、彼がザグレブに残っていたけど、今は立場が逆。彼が日本に行った今は、私がザグレブに戻ることが少なくなり、日本の彼に何度も会うようになるわ」 と妻のリュプカは不安色を一掃するコメントを語ってました。今年の彼女はパリとニューヨークを拠点に活動していたのですが、妊娠が分かってからはしばし活動を休止しておりました。ただし、リュプカ自身はクロアチアの第一人者として今後もモデル活動を続けていく意思があるそうです。ちなみにパパとなったミキッチは、サンフレッチェ広島の発表によると再来日のスケジュールは未定となっています。 (ザグレブでの最近の二人の写真はこちらで見られます) 明るい話から一転して次は暗い話となります。 昨年にジェフユナイテッド千葉(以前はガンバ大阪にも)に在籍していたMF/DFミルコ・フルゴヴィッチが、監督との喧嘩を理由にドイツ二部のグロイター・フェルトを退団することになりました。
ジェフを退団後、身を置いたディナモ・ザグレブではサポーターのバッド・ブルー・ボーイズから元ハイドゥクの選手として最悪な扱いを受けました(詳しくはこちら)。昨シーズンの終了をもって、ディナモはフルゴヴィッチに違約金を払うことで契約を解消。今季から移籍金ゼロでグロイター・フェルトに入団していました。 開幕からスタメン出場していたものの、レッドカードをもらってからメルンヘン監督との関係が悪くなり出場機会が激減。ミーティングがあった際に自分の考えを監督にぶつけたところ、それが侮辱と取られ、フロントが彼との契約解消を決定しました。 フルゴヴィッチ自身は 「監督に言ったことは何も特別に酷いことじゃない。彼の仕事ぶり、チームの状況について自分が思っていることを言ったまでだ。選手全員が同じことを思っており、ただ誰も敢えて口にしなかった。僕は黙ることができない人間だし、怒りっぽい人間になってしまっている。もう30歳だし、自分の考えは言える年齢だろう。黙るつもりなんてもうないよ。いつも僕の背後を通して傷つけられてきたが、もうそれは望まない。キャリアを通して余りにも許すことが多すぎた。もう充分だよ」 と語っています。ディナモだけでなく、ハイドゥク、そしてボスニア・ヘルツェゴビナ代表でもサポーターから様々な嫌がらせを味わったフルゴヴィッチですが、キャリアの円熟期に差し掛かりながら自暴自棄になりつつあるのは残念な話でもあります。

帝王切開によって無事に出産された娘の名前はヤナ(Jana)で、出身時の身長は48cm、体重は2800グラム。ミキッチも出産には立ち会ったそうです。
モデル業で多忙な妻を持ったこともあり、かつては離婚の噂も立ったカップルでありますが、夫が日本に行ったことで更に関係が強まった模様。ミキッチが移籍した際には
「遠くても関係は今までのように維持していくわ。我々の結婚はお互いの理解の下だし、距離が離れててもミカ(ミハエル)と会うと常に羽ばたくような気分になるの。今までは私が旅立ってばかりで、彼がザグレブに残っていたけど、今は立場が逆。彼が日本に行った今は、私がザグレブに戻ることが少なくなり、日本の彼に何度も会うようになるわ」
と妻のリュプカは不安色を一掃するコメントを語ってました。今年の彼女はパリとニューヨークを拠点に活動していたのですが、妊娠が分かってからはしばし活動を休止しておりました。ただし、リュプカ自身はクロアチアの第一人者として今後もモデル活動を続けていく意思があるそうです。ちなみにパパとなったミキッチは、
ジェフを退団後、身を置いたディナモ・ザグレブではサポーターのバッド・ブルー・ボーイズから元ハイドゥクの選手として最悪な扱いを受けました(詳しくは
内陸のスラヴォニア地方は豊かな穀倉地帯であり、畜産業や林業も盛んな土地でありますが、クロアチアの基幹産業である「観光」面では遅れており、また90年代の戦争でも多くの被害を受けたことから、国内では比較的貧しい地方となっています。そういった経済事情をモロに受けるのがサッカークラブ。オシエクにしてもチバリアにしてもスポンサー難で苦しみ、選手も給与未払いが続いています。
しかしながら、スラヴォニア地方は常に優秀なタレントを輩出する土地です。FWダヴォル・シュケル、FWゴラン・ヴラオヴィッチ、FWイゴール・ツヴィタノヴィッチ、FWロベルト・シュペハール、FWイヴィツァ・オリッチ、FWイヴァン・ボシュニャクMFユーリツァ・ヴラニェシュ、MFマルコ・バビッチ、MFダニエル・プラニッチ…。こう見ると、とりわけ攻撃陣のタレントに優れていることが分かります。サッカーとは別ですが、攻撃力という観点では、格闘家のミルコ・クロコップもスラヴォニア地方の出身であるのも興味深いところです。
(写真はオシエクの街並み)
今季のスラヴォニア地方の両クラブの躍進は、そんな地元のタレントを活かしたチーム作りが開花した結果と言えます。
オシエクの魅力は若くて豊富な攻撃陣。14試合で32得点はディナモ(44)に次ぐリーグ2位で、FWイヴァン・ミリチェヴィッチ(21歳)、FWヨシップ・バリシッチ(23歳)が6ゴールずつ、MFヨシップ・クネジェヴィッチ(21歳)が5ゴール、FWヴェドラン・ニクシッチ(22歳)が4ゴールと続きます。いずれもユースで育成した選手であり、プロ登録される27選手の平均年齢は実に22.6歳という若さ。選手を余所から買える財力がない代わりに、堅実にユースで選手を育て、彼らをトップチームの監督、ステインブリュックナーが辛抱強く起用し続けました。
シーズン初めは有り余るFW陣を活かすために3トップを採用しましたが、上手くいかないと知るや4-1-3-2にチェンジ。本来はFWだったトミスラフ・ショルサ(20歳)を右MFへコンバートに成功するなど、若さならではの適応力も活かしています。攻撃陣のタイプも多彩で、ステインブリュックナー監督も試合中に次々と攻撃カードを切ってくることから、相手にとっては実にやり辛いチーム。試合を重ねるに連れてチームは成熟を続けており、その好調ぶりはここ10試合で8勝1分1敗という成績が物語っています。
続いてチバリア・ヴィンコヴチに触れましょう。今年90周年を迎えたチバリアは、ユーゴスラビア時代はオシエクの陰に隠れつつも、1982年から1987年まで5シーズンに渡り、強豪がひしめき合う当時のユーゴスラビア・リーグ一部に加わっていました。クロアチア・リーグ独立後はいつも残留争いを強いられ、過去二度に渡って二部に降格した経験もあります。
オシエクほどのユース組織は持たないものの、彼らも生き残るための手段を地元選手の活用に見出しました。トップチーム24人のうち、ヴィンコヴチ出身の選手は16名。100km圏内に広げれば、実に24名中23名が地元の選手となります。平均年齢24.8歳のチーム構成もユース出身が中心になるのですが、他のクラブを渡り歩いて移籍金ゼロで再びヴィンコヴチに戻るようなDFマリオ・ルチッチ(26歳)、DFニノスラフ・パルマコヴィッチ(26歳)といった選手が含まれるのが特徴です。地元重視の方向性がチームの和を作り、身近な存在の彼らを応援するために観客が集まる相乗効果が生まれています。
ムルシッチ監督が率いるチバリアの強みは、リーグ最小失点「6」が物語るディフェンス力です。U-21代表のGKマリヤン・アントロヴィッチ(20歳)は195cmと高く、センターバックのルチッチとパルマコヴィッチ、そしてアンカーのヨシップ・ミラルドヴィッチ(27歳)は一対一の守備力に定評があります。武器となるのはセットプレーで、25m正面やや右の位置からの直接FKを"シュートゾーン"とするMFトミスラフ・パヴリチッチ(25歳)は昨季に
キックオフはテレビ放映もあって20時半。冬が近づき、気温は5度とサッカーの観戦条件としては厳しい部類に入るものの、メインスタンドが埋まる約3500人の観客がHNKチバリア・スタディオンに集まりました。私はメインスタンドの中央席のチケットを購入したのですが(50クーナ…約900円)、上の貴賓席にはU-21代表監督のドラジェン・ラディッチ、ユース統括部長のマルティン・ノヴォセラッツが視察をしていました。また、バックスタンドに構えるチバリアのサポーター「ウルトラス」、そしてゴール裏に構えるオシエクのサポーター「コホルタ」(写真)は対立関係にあるものの、11月18日がヴコヴァル陥落の日ということで愛国主義の類のシュプレヒコールは一緒にやりあっていました。
前半はお互いとも堅さが目立ちます。チバリアはロングボールをFWクレシンゲルをターゲットに放り込むものの、A代表入りが近いとされるオシエクDFドマゴイ・ヴィーダがことごとく押し返します。
先制点はオシエク。13分、ロングボールを受けたDFイブリクスがペナルティエリアにドリブルで切り込み、中央に折り返したところ、ボールはDFパルマコヴィッチの足に当たり、がら空きとなった中央へ。一人ボールを待っていたFWバリシッチがあっさり押し込みます。
リーグ最小失点のチームとは思えないミスで、それからは挽回しようにも空回りのチバリア。パスが一向に繋がらず、相手のエンドに詰めてもクロスがあさっての方向でスタンドからは溜息が漏れます。前半最大のチャンスはロスタイム、MFパヴリチッチが右サイドでドリブルを加えて絶好のグラウンダークロスを通したものの、FWプルゴメットのシュートは左ポストを叩いてしまいました。
後半頭からチバリアのムルシッチ監督は、左サイドバックとして本来MFのルカチェヴィッチを入れます。ディフェンスに難はあるとはいえ、突破力に優れたルカチェヴィッチ投入の采配はずばり当たります。50分、ルカチェヴィッチが左サイドの仕掛けから縦に抜けて中央に折り返すと、そこにはMFパヴリチッチが。フェイントで目の前の相手を欺くと、利き足とは逆の右足でゴール右上隅に同点シュートを叩き込みます。この日はパヴリチッチ目当てで1FCケルンが視察に来ており、絶好のアピールとなりました。
正直、前半は眠気を誘う内容でしたが、後半は両チームのつばぜり合いがビシビシと伝わり、スタンドの熱気も高まっていきます。息を吹き返したチバリアはどんどんと攻め込み、オシエクも必死に防ぐ展開に。70分、チバリアが25m正面やや右の位置でファウルを得ると、スタンドの観客はこの瞬間を待っていたかのようにMFパヴリチッチにコールを送ります。「パヴリチッチ・ゾーン」で放たれたFKは壁を越えてゴール右上へ。文句なしの軌道でしたが、コースを読んでいたオシエクのGKカルドゥムはシュートを掻き出します。
オシエクも74分、MFクネジェヴィッチのFKからFWバリシッチがフリーでヘディングシュートをするも不発。その直後のチバリアの攻撃では、MFフシッチのロングボールにFWクレシンゲルが飛び出したGKカルドゥムの背後へとヘディングシュートを放ったものの、エンドラインを割る前にDFヴィーダがクリア。
試合は痛み分けのドローに終わりましたが、真のダービーたる雰囲気を作り出した「スラヴォニア」が勝利者となった言える試合でありました。
(ダイジェスト動画は
実のところ、ディナモ関係者は告訴したことで更に重い処分=欧州カップ追放を受けるのでは、と恐れていました。というのは、今から3年前、フェイエノールトがサポーターの暴動で2試合無観客試合の処分を受け、告訴したところ逆に欧州カップ追放という重い処分をもらったことがあるからです。とはいえ、「この先3年間、欧州カップで同様のトラブルを起こした場合は、欧州カップ追放処分を課す」という執行猶予も付けられました。
意外な結果に終わったわけですが、となると規律委員会の処分発表後の11月5日にザグレブで行われた
その一方で、アイルランドを葬り去ったアンリのハンドに対して、UEFAやFIFAが無言を続けているのは笑止千万。プラティニUEFA会長も「ダイブが決まった時は気分が良かった」と過去にダイブ経験を告白しておきながら、エドゥアルドは槍玉に上げ、そしてアンリに対しては無言を続けています。
「アンリは僕よりビッグネームだけに大きな差はあるよ。全ての罪は審判になすり付けられるだろう」
とアンリの事件について語るエドゥアルド。ちなみにエドゥアルドはこんな意地悪な質問をこう答えています。
-君がアンリの立場だったら何をやっていた?
「うーん、難しい質問だね。知っているようにアンリは今、フランスで英雄だ。そして世界の他の地域では彼を憎んでいる。ワールドカップに行くことが最重要という彼の発言は理解できるよ。結局のところ、全ては瞬間に起こったことだし、その瞬間に結末なんて考えられないものだ。ゴールを決めることが最重要なんだし。彼を守るつもりはないけど、彼の立場で自分が何をするかなんて話すのは難しいよ」
病気で合宿参加が遅れたペリシッチは存在感が薄かったものの、DFを二人背にしたところでも倒れないカリニッチ(写真)、俊足を活かして右サイドを切り裂くオレムシュ、そして中盤で一人格の違い見せるラキティッチの攻撃力で相手ゴールを脅かしていきます。一方のスロバキアはヴァイスが病気で直前に欠場が決定。しかし、もう一人の助っ人、ストッフが巧みなボールコントロールでスピードを活かして左サイドから攻め上がりますが、フィジカルに優れるヴィーダが対人で食い止めます。
前半26分、ペナルティエリアでバデリからのパスを受けたヴィーダが相手に倒されてPKを獲得。しかしながら、ラキティッチのシュートはあっさりとGKドゥブラヴカにキャッチされます。
アンラッキーに嘆くことなく、わずか2分後、ラキティッチが絶好のスルーパスをDFの裏に受けるカリニッチに通すと、GKの股下を抜くシュートを決めてクロアチアが先制します。この夏にブラックバーンに移籍してからはコンディション不良に悩み、10月のU-21代表召集を断った際には"プライドが理由か?"とスキャンダル視されたカリニッチですが、ようやく本調子に戻ったことを証明するゴールでありました。
後半頭からスロバキアのキトゥカ監督は、ヴァイスと同じくマンチェスター・シティに所属するMFマクを右サイドに投入。47分、そのマクが右サイドでヨジノヴィッチを振り抜いてグラウンダーのクロスを入れると、ニアで待つFWシルヴェストルが近距離のシュートを決めて同点に追いつきます。
キプロスからスロバキアまで移動に11時間を費やしたこともあり、後半序盤のクロアチアはがくっとペースが落ちてしまいました。スロバキアは右のマク、左のストゥフを中心にどんどんと攻め込み、クロアチアには苦しい時間帯が続きました。
しかし、交代のカードを二枚切り、途中から形勢を持ち直すと再びチャンスを作り出し、86分、カリニッチがハーフウェーライン手前から4人に囲まれながらドリブルで突進。ペナルティエリア手前まで相手を引きつけた状態で、右のスペースに走り込んだヴィーダにラストパス。ヴィーダ(写真左)はGKの飛び出すタイミングを見極め、技ありの抜いたシュートを決めて勝ち越しに成功します。トメチャクの怪我もあって右サイドバックに起用されたヴィーダは(オシエクではセンターバック)、キプロス戦に続くゴールとハードなディフェンスで存在感をアピールしました。大きな勝利を収めたクロアチアは、スロバキアを抜いて単独首位に浮上しています。
(試合のダイジェスト動画は
第一回は「エディン・ムイチン」です。 (シリーズ化するかは定かではないですが…)
クロアチアとの国境に近いボスニアのボサンスキ・ブロッドで1970年に生を受けた彼は、実力派のプレーメーカーとして、左利きのテクニシャンとしてピッチの中央に君臨しました。ズボニミール・ボバン、プロシネチュキ、アリョーリャ・アサノヴィッチによる黄金の中盤が揃わなければ、間違いなくムイチンはクロアチア代表に召集されたと言われています(ボスニア・ヘルツェゴビナ代表を選択し、25キャップ・1得点)。
彼のキャリアの中心となったクラブはディナモ・ザグレブでした。彼がディナモに加入した1995年は、ディナモの1990年代の黄金時代が始まった年。リーグ5連覇に加えて、1998年と1999年にはチャンピオンズ・リーグ本大会に出場しました。プロシネチュキとのW司令塔は、欧州のどのチームに恐れる存在となったのです。そして、2001年3月から2002年7月まではジェフユナイテッド市原(当時)に在籍。その頃の話は私のホームページで掲載した
(写真は2004年のクロアチア・カップ決勝の表彰式にて。左がムイチン、右が現サンフレッチェ広島のミハエル・ミキッチ、下がクラニチャール)
ムイチンのディナモ最終年となった2004/05シーズンは、リーグ7位と過去最悪の結果に終わりました。35歳になった彼は
「現役引退を考えたけど、こんな終わり方で長いキャリアを締め括るのは惨めだと結論づけたんだ。船が沈む間に逃げ出したかのようになってしまう」
と引退を撤回し、
「まだ一部でも二部でもプレーする能力はあると感じている」
として、故郷に近い一部のNKカメン・イングラッドを選びます。カメン・イングラッドは2003年にはUEFAカップ、2004年にはインタートトカップにも出場した新興クラブ。2005/06シーズンは6位と健闘したものの、ヴラド・ゼッツ会長の杜撰な経営に加え、本業の土建屋で偽造容疑で会長自身が逮捕され、クラブは転落。2006/07シーズンを最下位で終え、ムイチンも去ることになりました(クラブは2007/08シーズンを最後にユース部門を残して消滅)。
2007/08シーズン、37歳のムイチンが迎えられたのは、ザグレブ市内にある3部リーグのNKロコモティーヴァ。ディナモのユース選手育成の場、いわゆるサテライトと化すこのクラブで若い選手の模範となったのでした。今のディナモのトップチームで活躍するMFミラン・バデリ、DF/MFイヴァン・トメチャク、DFトミスラフ・バルバリッチらも"デダ"の背中からプロの姿を感じたわけであります。ムイチンに牽引され、ロコモティーヴァは見事に2部昇格を果たしました(翌シーズンは1部昇格)。
ロコモティーヴァでの一年を最後にキャリアを終えると宣言していたムイチンでしたが、2008年、彼はザグレブ郊外にある3部リーグのNKルチュコに入団。シーズンを2位で終え、チームの目標だった2部昇格を実現させます。2008年冬にはボスニア・ヘルツェゴビナの名門ヴェレズ・モスタルからオファーがありましたが、このように断りました。
「自分はベテランだし、ほとんど年金生活者だよ(笑) もう少し若かったら間違いなくヴェレズのオファーを受けて、プレーをしていたはずだね。でも、自分は年寄りだし、目標というものがないんだ。それが僕の現実であり、今から新たな環境に移ることは愚かなことかもしれないよ」
今年1月に不惑(40歳)を迎えた彼は、いまだ現役としてプレーしています。自宅のザグレブから充分に通えるクラブとして選んだのは、スロベニアとの国境に近い「NKサヴスキ・マロフ」でした。サヴスキ・マロフが首位争いをしているザグレブ県リーグは、実質5部リーグとなります。人口が35人しかない町で、彼は毎週、ピッチの上に立っています。それもフルタイム出場で。武器のプレスキックは健在で、首位決戦となった11月7日のTOPケレステネッツの試合では後半ロスタイムに右CKを担当し、同点ゴールを演出。11月15日はディナモ・ヒドレルに敗れはしたものの、直接FKを決めています。
実はサヴスキ・マロフで2006年にもう一人の大物がプレーしています。彼の名はロベルト・プロシネチュキ。レアルやバルセロナでプレーした彼ですが、走れなくともボロボロになるまで現役を続けました。2004年のNKザグレブ退団を最後に引退したものの、2006年春にサヴスキ・マロフのユニフォームを着たのです。ディナモでチームメイトだったムイチンは彼の影響を多分に受けています。
「ここでの私はプロシネチュキの後継者なんだ。彼も私のようにサッカーが好きだし、健康面の問題さえなければ今でも現役でやっていたと思う。ディナモで彼と一緒にプレーしたことは名誉だよ。あらゆることに関して我々は一緒の主義を持っているんだ」
ディナモでチームメイトだった三浦知良が42歳で現役を続けているように、ムイチンもまたモチベーションは衰えてないようです。キャプテンマークをつける彼はこうも述べます。
「サッカーから離れることが私には恐怖なんだ。60歳までプレーしたい、それから直ぐに墓に横たわる、なんて言っているよ。自分は何がやりたいかって? ここでは首位を我々は賭けて戦っている。優れた選手もいるし、自分一人で引っ張ろうとしなくていいんだ。そして私はここでのサッカーを楽しんでもいるんだよ」
(写真は今年、ザグレブvs.クロアチア・セスヴェッテ戦で、ディナモ時代の戦友であるアギッチと観戦するムイチン)

