2008年07月29日
既に日本の一部メディア(スポーツニッポン)が報じていますが、7月22日のクロアチアの日刊紙ヴェチェルニ・リスト紙で、イヴィツァ・オシムのインタビュー記事が掲載されました。
ボスニア・ヘルツェゴビナ代表に関する話、ユーロのクロアチア代表の話など非常に興味深い内容なのですが、残念ながら日本代表に触れた後半部分だけを取り上げたスポーツニッポンの記事は誤訳をしており、まるでオシムが日本代表監督を熱望しているかのように書き立てました。翻訳された方の能力の問題か、それともセンセーショナルな記事を求める編集側の問題なのかは分かりませんが、ここで改めて記事の全文を翻訳してみました。
日本サッカー協会のアドヴァイザーを務める、栄光あるサッカーの指導者イヴィツァ・オシム(67)は、グラーツで脳梗塞の後遺症から回復しつつある。豪華なジグムント・フロイト・クリニックにて、毎日全力にて練習をしているのだ。まだ彼の足並みはクレイ(モハメド・アリ)のように遅く、左手を使いこなすことはできず、彼の声はまるでドン・コルレオーネかのように抑えが利いている。しかし、会話は全くもって完璧だ。体力は毎日良くなっているし、一日に10km以上走っている…。
「7月30日まではここに残る。それからヴォディーチェ、そしてサラエボだ。日本への戻りは9月となる。健康面が充足すればの話だが」
-今日、ジグムント・フロイト(・クリニック)のカフェのインタビューでオシムは我々に語った。
-貴方の息子、アマルが競争相手だったとはいえ、チーロ(ミロスラフ・ブラジェヴィッチ)がボスニア・ヘルツェゴビナへとやってきたこと(代表監督になったこと)を支持しているのか?
「アマルにとってはチーロの対立候補になったことが賛辞といえる。彼が選ばれなかったことは私にとって残念じゃない、なんてことはなく、むしろ私は幸せなのだよ。私の息子はオープンで、思っていることをいつも口にしてしまう。しかし、それは決して良くはない。とりわけボスニアではね」
-ボスニア・ヘルツェゴビナはヨーロッパで最高齢の代表監督を持つことになるが。
「あのような年代で監督に選ばれたのならば、それはハンディキャップではなく、むしろ賛辞だ。今は選手たちも不平を述べることはできない。誰もがチーロに応えるのが当然だろう。サッカー協会はやれるだけの最高のことをした。モウリーニョを連れてくることはできなかっただろうしね」
-チーロは成功するだろうか?
「自分の首にレンガを置く必要など私にない。"ボスニアをワールドカップに連れていく"との彼の声明にどう言えばいいんだね。まあ、ゆっくりと。人々はそれ(声明)を読み、それに束縛される。それ(ワールドカップ出場)が起こらなかった時には批判を始めるだろう。そして彼らには罪はなく、むしろそれを発言した人物が罪となるのだ」
-期待は大きい。
「ボスニア・ヘルツェゴビナではいつもそうだ。一人のジャーナリストが私に対して、ボスニアの我々は勝利を望んでいると口にする。分かっているよ。しかし、世界でボスニアに勝利させてくれる代表チームがあるのかどうか私に言ってくれ。スペインだってトルコだって赤十字じゃないんだ!」
-クロアチアもユーロではトルコに止められてしまった。
「おそらく貴方たちはそれに失望したことだろう。願望がどんなものかが分かっていたり、"天才たち"とか"我々より良いチームはない"なんて書かれていただけに、それ(失望)は当然のことだ」
-イングランド戦での勝利が我々を(熱狂へと)さらっていった。
「それも理解できる。しかし、問題なのはイングランドがまだサッカーにおける何かの基準なのか、ということだ」
-クラーゲンフルトでの二試合(クロアチアvs.ドイツ、クロアチアvs.ポーランド)戦を貴方は観戦した。クロアチアからはもっと期待をしていたのか?
「ああ。選手たちに関して全てを読んでいた後だっただけにね。もっと洒落の利いたプレーを期待していたし、もっとアイデアを期待していた」
-クロアチアは準々決勝で最弱の相手を引いたわけだが?
「それはワールドカップ2002での日本もそうだった。間違いなく先へ進めるという雰囲気が作られていたが、トルコが彼らを倒してしまった。トルコはそこら辺の相手ではないのだよ。彼らはある時代にヨーロッパを支配し、あらゆる面で大国なのだ」
-あの試合の采配にミスはあったのか?
「ビリッチが何をする必要があったのかね? 自分をピッチへと投入することか?」
-クラスニッチがゴールを決めた時はピッチへと入っていった。
「ああ、事実だ。コーナーまで走り、そして戻った。あれはコンディション用のトレーニングだったよ。ビリッチとアシスタント陣は一緒になって相当数の試合をこなしていただけに、あのように反応する必要はないと知らねばならなかった。自分や他人を乱してしまい、あのように振舞う権利を選手たちに与えてしまった挙句に危険を忘れてしまった。あれは余りにも早くに始めたお祝いだった」
-ワールドカップ予選の対イングランド戦におけるクロアチアをどのように見込んでいるか?
「既に貴方たちはイングランド相手の経験がある。今も彼らはより優れてはいない」
-カペッロが一緒でも?
「ファビオは選手時よりもずっと優れた監督だ。しかし、監督がプレーすることはない」
-モドリッチはユーロの理想イレブンの候補となったが?
「何においてなのかが私には分からない。モドリッチがプレーで見せた全ては予想の範囲内だった。彼は最もボールを持ってはいたが、彼が"通した"パスはどれだけあったのか、プロシネツキやボバン、アリョーシャ(アサノヴィッチ)が出していたようなパスがどれだけあったのか私に言ってくれ」
-ルカはそのクラスではないと?
「それ(そのクラス)へと発展することは可能だ。イングランドで成長することだろう。まあ、イングランドに全ての選手を売った人物は芸術家だよ! そう認識する必要がある。見事だ! ディナモはヨーロッパにて何かしら大きな結果を残せなかったものの、マミッチは同様に巨大な額で彼らを売却したのだから」
-ベンチ(監督)へと戻るのか?
「それが私の願望だ。なぜなら、望んでいた全てを成し遂げてはいないからだ」
-日本をワールドカップ2010に導くことは?
「まず第一に、私は彼ら(日本)のそれ(ワールドカップ2010出場)を本当に望んでいる。けれども一方で、もし私が彼らを導くのならば、それは完全に私が回復したという意味になるのだろうがね」
[※仮定法でも現実的ではない時の表現]
-脳梗塞が起こった日がどのようだったか覚えているか?
「その時まで私には多くのものが溜まっていた。あの日、ジェフユナイテッドとある大学チームとの試合に訪れた。私がジェフの監督だった時はいつもあっさりと勝利していた相手だ。その試合において私の5~6人の代表選手がどれだけ苦しみ、彼らがプレーしたいのかしたくないのか(はっきりしない)、という光景を眼にした。私にはそれが不愉快で、ジェフを指揮していた息子のアマルを非難した。しかし、彼にとってはどうでも良いようだった。我々は少しやり合い、それから夜にプレミアリーグの試合を見た。そして私にあれ(脳震盪)が起こったのだ」
-以前に健康面の問題を抱えていたのか?
「心臓に不整脈を持っており、注意はされていた。病院へと運ばれた時、医者たちは私を人工的な昏睡状態へともたらした。幸運なことに病院は家から近く、直ぐに私を装置へと繋いでくれ、私の命を救ってくれたんだ」
オシムの手記「日本人よ!」(新潮社)を制作した際も、「それ」という言葉の使い回しが多く、何が「それ」なのかを前後から見極める必要があったのですが、日本代表のコメントはジャーナリストが一枚噛んでいるとはいえ、きちんと訳せば「日本代表熱望」には繋がらない発言でありました。
スポーツニッポンはワールドカップ2006の時にも、クロアチア代表チームのスタッフが「日本と言えばイチローだな。彼がイチバンだ」と見下した発言をした、なんて大っぴらに報道をしましたが(参考記事)、野球の認知度が極めて低いクロアチアの人がイチローを知るわけがなく、日本の某テレビ局で通訳コーディネートをしていたクロアチア在住のアメリカ人の発言であるのは間違いありませんでした。彼はサッカーの「サ」の字も知らず、むしろ野球が好きなことからイチローのことを知っており、彼とはザグレブで野球談義をしたことがあります。多分、キャンプ地でたまたま知り合った彼との雑談を、まるでクロアチア代表スタッフが言ったかのように記者が捏造した悪しき例といえましょう。
posted by 長束恭行 |07:29 |
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2008年07月28日
クロアチア代表として54試合に出場し、ユベントスでも活躍したハイドゥク・スプリトのDF/MFイゴール・トゥドール(30・写真)が、23日に現役引退を表明しました。
右足首を痛めて長く治療にかかっていたトゥドールですが、練習に完全復帰した直後の引退発表だっただけに驚きとして捉えられています。
トゥドールは引退会見にて
「この4~5年間に渡って蓄積してきた健康問題もあり、キャリアを終えようという考えが私の中に長きに渡って存在していた。昨日は何とか痛みを耐えながら練習をしたが、既に自分の中では以前より現役を退く決定を下していたんだ。痛みと常に生き、薬を飲みながらプレーすることで、もう健康を害することはできない。非常に残念だが、この先、現役を続けるのは不可能だ。
(最後の)トレーニングはチームメートのため、そして全てのために終わりまでやり遂げたかった。しかし、もう決めたことなんだ。引退の決心は楽ではなかったが、もう苦しみたくはないんだよ」
とコメントを残しています。
様々な怪我に苦しんだトゥドールでしたが、最後は2006年8月にユベントスのキャンプ中に痛めた右足首に雑菌が入り込んだのが致命的となりました。二度の手術を経てから2007年夏にハイドゥクへとやって来たものの、開幕前の親善試合で左足首を傷めて3ヶ月半欠場したのち、最後の公式戦となった3月8日のディナモ戦で右足首を痛めていました。
ハイドゥクのヴチェヴィッチ監督は
「私もまた同じく怪我のために30歳でキャリアを終えることとなった。それ以外の選択肢が見つからなかった時にね。健康のせいで、違う決定を下すことは許されなかったんだ。だからトゥドールのことは理解できるんだよ」
と同情のコメントしています。
イゴール・トゥドールは192cmの高さと正確なロングパスを持ち味にし、ストッパーだけでなく、右サイドバック、ボランチとしてもプレー。フランスW杯では最年少で代表チームに選ばれると、大会直後にユベントスに移籍。2000/01シーズンは25試合6ゴールの活躍を見せました。しかし、そのシーズンを境目に怪我で苦しむ日々が続き、日韓W杯も欠場。ユーロ2004とドイツW杯に出場したものの、精細のないプレーに終わりました。スプリトならではの気まぐれな性格も災いして、高いポテンシャルを最大限まで活かすことなく現役を終えてしまい、残念でありません。今後は指導者への道を考えているようです。
そのハイドゥク・スプリトは17日、UEFAカップ予備戦一回戦でビルキラカラ(マルタ)をホームに迎えました。ここ3シーズンはディナモの後塵を喫し、財政難に苦しんだハイドゥクですが、株式化に踏み切って以来は思い切った補強を進め、かつヴチェヴィッチ新監督も攻撃的なサッカーの信奉者であることから、その期待を寄せた20000人以上のサポーターがポリュウド・スタディオンに集まりました。
先制は3分、ザグレブから移籍したMFイブリチッチが18mの直接FKを決め、鮮やかなデビューを果たします。23分には同じく新加入の左SBストゥリニッチがグラウンダーでクロスを上げると、代表FWカリニッチが冷静に決めて2-0とリードを広げます。
後半55分には右SBルビルのクロスからFWブシッチがヘディングシュートを叩き込み、71分には「ハイドゥクのネドヴェド」とその才能を見込まれている16歳のMFティチノヴィッチ(写真)がデビュー戦ながらゴールを決め、4-0と順調に発進しています。
また同日にはスラヴェン・ベルーポもUEFAカップでマルタのマルサクスロックとアウェーで対戦。DFクルスティッチ(15分)、MFポルドゥルガチュ(29分)、FWテプリッチ(34分)、FWヴルチーナ(77分)のゴールで4-0と一蹴しています。
またハイドゥク・スプリトは21日、オーストラリア代表MFヨシップ・スココ(32)と契約しました。クロアチア移民である彼にとっては9年ぶりのハイドゥク復帰。1995年から99年までハイドゥクに在籍したのちは、ヘンク(ベルギー)、ゲンツレルビルリギ(トルコ)を経て、2005年からヴィガン・アスレチックとストーク(いずれもイングランド)でプレーしていました。セントラルハーフのプレイヤーで、オーストラリア代表歴は51試合。契約期間は2年となります。
リエカには右MFイゴール・ノヴァコヴィッチ(29)がトムスクから復帰。また代表歴のあるMFフィリップ・タパロヴィッチ(32)も1年+オプション1年で契約しました。
その一方で、昨季のトップスコアラーだったFWラドミール・ヂャロヴィッチ(25)がステアウア・ブカレストに4年契約で移籍しています。
私のホームページでも取り上げている元ディナモ・ザグレブのFWドマゴイ・アブラモヴィッチ(27)が、このほどフィンランド一部のFCインテル・トゥルクと年内いっぱいの契約を結びました。昨季前半は三部のロコモティーヴァでプレーし、冬にインテルのテストを受けて合格したものの契約交渉が上手くいきませんでした。改めて両者が接触し、入団の運びとなりました。
彼から入団が決まったとの連絡が届き、昨日は携帯メールで連絡を取り合ったのですが、まずはフィンランドで結果を残して、それからより良いオファーを待つとのこと。クロアチア・ユース代表の常連だった彼は困難なキャリアを送っていますが、まだ27歳ですので、北の地で花開いて欲しいところです(入団を報じるFCインテルのサイト)。
クロアチア代表MFニコ・クラニチャール(23)が18日、彼女のシモーナ・フリスティッチと18日にクロアチアの教会で結婚式を挙げました。6歳年上の彼女と4年間の付き合いがあり、2年間の同棲を経てのゴールインとなります。
posted by 長束恭行 |22:17 |
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2008年07月28日
昨日、お陰さまで無事に旅行から戻ってきました。旅行という意味でも、取材という意味でも興味深いバルト三国12日間となりました。それぞれに抱えるサッカーのお国事情というのがあり、またサッカーを通してでもメンタリティの違いを感じました。また想像以上にインフラが整備されており、ピッチに関してはどこも良好。サッカーのレベルも決して低くはなく、ラトビアのメタルルグ・リエパーヤやベンツピルスのように好チームと出会うこともありました。問題は国民の関心の低さで、エストニアでは一部リーグのトップチームなのに観客が70人、なんてこともありました。
ノートパソコンは荷物を軽くするために置いていったのですが、時間を持て余すこともそれなりにあったので、記事を書きながら随時アップしていけば良かったのかも、と反省する次第であります。またホームページのコンテンツなりで、写真と共にバルトのクラブシーンを紹介できれば、と思っています。
昨日はタリンから朝にヘルシンキへとフェリーで渡り、ヘルシンキ→ウィーン→ザグレブと飛行機で乗り継いで、試合開始10分前にクロアチア・リーグ開幕戦のカード「ディナモ・ザグレブvs.リエカ」に間に合わせました(タリンからでは間に合う便がないため)。フルゴヴィッチ(元ハイドゥク、ジェフ千葉)のディナモ・デビューとなったのですが、前日には彼に見立てた首吊り人形(写真)がスタジアム外に掛けられ、試合でも彼とマミッチ副会長へ罵倒の嵐。バルトとは違った殺伐としたグラウンドの雰囲気でありました。こういうのを見ると、クロアチアに戻ってきたな、と思ったりもします(苦笑)
また私のいない間でクロアチア国内のサッカー事情も動きがかなりありました。宿に置いてあったパソコンでは動向を追っていましたが、ちょこちょことまとめてみるつもりです。
[写真] ラトビアのリエパーヤにて。試合後に分裂したサポーターそれぞれに挨拶するメタルルグ・リエパーヤのDFジルニス。
posted by nogomet |16:27 |
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