2008年04月19日
想い出(2)/バッド・ブルー・ボーイズ
「そうさ、神様だってご存知の聖なる名、聖なる名ディナモ 一緒に天国、一緒に地獄、バッド・ブルー・ボーイズとディナモ」これはディナモ・ザグレブのサポーター、バッド・ブルー・ボーイズの有名な応援ソング「DINAMO JA VOLIM」(愛しているぜ、ディナモ)のサビの一部分です。ディナモのために全てを捧げる彼らは「BBB」と略され、時には"フーリガン"という括りで国内外で知られる存在です。 クロアチアでは不良少年の代名詞というべきバッド・ブルー・ボーイズですが、最近はめっきり元気がありません。水曜日のオシエク戦で北側のスタンドに駆けつけたバッド・ブルー・ボーイズは数百人ほど。前節で優勝を決めたディナモの凱旋試合のはずが、スタンドは何とも寂しい光景でありました(写真)。ザグレブに住み、ディナモを愛する一人としては時代の流れを感じずにいられませんでした。なぜなら、私もバッド・ブルー・ボーイズの一員だったからです。 (長文かつ駄文ですので、関心がある方のみ、この先どうぞ…)。 まずはバッド・ブルー・ボーイズの歴史を振り返ってみましょう。
結成は1986年3月17日、ハイドゥク・スプリトのアウェーマッチの後でありました。ショーン・ペンの映画「バッド・ボーイズ」が名前の由来とも言われる彼らは、チトー死後のユーゴ内における民族主義の高まりと共にメンバーを増やしていきます。ただし、当初はザグレブ市内の各地区で若者が集まり、それぞれのバッド・ブルー・ボーイズを結成。またザグレブ以外の都市、更には国外のクロアチア人コミュニティにまで自らのバッド・ブルー・ボーイズが広がっていきました。 歴史に残る事件は1990年5月13日に起こりました。舞台はディナモvs.ツルヴェナ・ズヴェズダ(レッドスター)。ズヴェズダのサポーター「デリエ」が南スタンドで暴れたのがきっかけに、バッド・ブルー・ボーイズとユーゴ警察が衝突。ボバンが警官に飛び蹴りを食らわせたシーンでご存知の方もいることでしょう(この事件に関する私の記事はこちら。また当時の映像はこちら)。 翌年からクロアチア国内でセルビア勢力との戦争が始まります。クロアチアで「祖国戦争」と呼ばれる戦いは上の事件をきっかけに始まったとさえ言われています。多くのサポーターが志願兵となり、戦地へと向かいました。ディナモは戦前よりクロアチアのアイデンティティとなったクラブ。彼らが銃を持って戦うのは必然的な話だったわけです。
同時に彼らは新たな戦いを抱えました。ディナモに肩入れしていた初代大統領のトゥジマンが、クラブ名が共産主義的だとして1991年に改名を強います。ハシュク・グラジャンスキー、そしてクロアチア・ザグレブと改名を余儀なくされた時代には、トゥジマン大統領に対しての抗議活動を繰り返しました。冒頭の「DINAMO JA VOLIM」はその当時に作られた応援ソングです。1995年に戦争が終わったところでも、彼らに圧力を加える政府の戦いはトゥジマン大統領が亡くなる1999年末まで続きました。まさに1990年代はバッド・ブルー・ボーイズにとって闘争の時代であり、それに共鳴する若者が次々と加わった時代でもあったわけです。 トゥジマンの死後から2ヶ月、2000年2月14日に「ディナモ」の名称が戻ります。しかし、その後に待っていたのは、戦う相手を失った喪失感でありました(この辺りは宇都宮徹壱さんが書いた「ディナモ・フットボール」が詳しいです)。クロアチア・リーグが誕生してから、ディナモの真のライバルはハイドゥク・スプリトのみ。ハイドゥク以外の試合ではスタジアムに閑古鳥が鳴き、創立以来の中心メンバーが「卒業」してしまったバッド・ブルー・ボーイズも分解寸前になってしまいました。 しかし、間も無くして新たな動きが起こります。2001年、公認組織として「ディナモ・サポーター協会」(Udruga Navijaca Dinama)が誕生。本拠地があるマクシミール地区に事務所を構えました。中心となったのは1990年代以降にバッド・ブルー・ボーイズに入った第二世代のメンバーたちでした。ホームの試合となれば巨大幕や人文字を準備し、アウェーの試合となれば遠征バスをオーガナイズ。彼らは応援だけに終わらず、フットサル大会やバーベキューなど様々な企画を通して友情を深め、また献血やチャリティーを企画しては社会貢献にも参加していったのです。 1997年8月のチャンピオンズリーグ予備戦「ディナモ(当時はクロアチア・ザグレブ)vs.ニューキャッスル」を現地で生観戦し、クロアチアとディナモの虜となった私は勤務していた会社を辞め、以降は毎年クロアチアへの渡航を繰り返し、その度にディナモの試合を観戦してきました。決意してクロアチアに移住したのが2001年9月。クロアチア語を学ぶためザグレブ大学に通っていたわけですが、最初の頃はクロアチア人の友人が多くはいませんでした。 2002年2月、ザグレブvs.リエカ戦を観戦に行ったところ、懐かしい面々と会います。
2000年6月にスロバキアで行われたU-21欧州選手権に私はクロアチアU-21代表の応援に駆けつけたのですが、そこではクロアチア各地のサポーターと知り合いました。その中にはもちろんバッド・ブルー・ボーイズがいて、そのメンバーがたまたまザグレブvs.リエカを観戦していたのです。彼らは直ぐに私の友人となり、私もディナモ・サポーター協会に通うようになりました。同年、私は外国人としては初の協会会員となります(会員番号939)。つまり、私も晴れてバッド・ブルー・ボーイズの一員になったのです。誰もが私を同胞と見なしてくれ、あらゆる場所へと引っ張っていってくれました。余所者に冷たい人の多い首都ザグレブの中で、彼らは数少ない「仲間」といえる存在だったのです。 時は流れ、2005~2006年頃から状況は変わっていきます。ある友人は仕事が忙しくなり、ある友人は結婚して、スタジアムへ足を運ばなくなりました。暴力行為のためスタジアムの出入りが禁止になった友人もいます。一番の親友は寂しい顔をしつつ、「俺たちゃ年金生活者になったのさ」と冗談を口にしました。そう、第二世代の彼らも「卒業」を迎える頃だったのです。 この頃からバッド・ブルー・ボーイズには第三世代といえる若者(高校生~20歳前後)が占めるようになりました。かつて日本でも「戦争を知らない子供たち」という歌が流行りましたが、バッド・ブルー・ボーイズの第二世代と第三世代にもジェネレーションギャップが存在します。第三世代はいわゆる現代っ子たち。日本同様にインターネットや携帯電話が一般化する中で、生身の人間との接し方が下手になっています。彼らは異邦人の私に対して冷たく、コミュニケーションを図ろうともしません。協会事務所もマクシミールから移転してしまい、かつての仲間たちがいない場所には足が遠のいてしまいました。最後まで付き合いのあった上の親友も結婚して故郷リエカに帰ってしまい、バッド・ブルー・ボーイズとは完全につるむことがなくなってしまいました。私も他に仕事を抱えるようになったこともあり、本格的に「卒業」を迎えてしまったのです。ディナモの試合はあくまで撮影取材に行くだけで、私の存在を知らず、かつ外国人として敵視するようなバッド・ブルー・ボーイズのガキから避けるべく行動するようになりました(最近、試合観戦に来た日本人旅行者が袋叩きに遭ったと聞いています)。 盛り上がりに欠けた水曜日のディナモvs.オシエクの試合中、ピッチ際でカメラを構える私の携帯に電話がかかってきました。東側のスタンドで観戦しているトモからでした。 「おう、元気か? 試合後、久しぶりに飲みに行こうぜ」
スキンヘッドの彼と私は同い年。ディナモ・サポーター協会の事務所で知り合い、2年前まではよく飲みに行ったバッド・ブルー・ボーイズのメンバーです。マクシミールの敷地にある喫茶店には、第二世代のトモとモロ、そして第三世代の21歳の若者が待っていました。トモ、モロ、私の間でつい昔話に花が咲きます。 「最近は事務所に顔を出すのかい? 新たな世代は感じ悪いし、もう僕は行かなくなったよ」 北側のゴール裏に顔は出さず、古い仲間と東側のバックスタンドで観戦を続けるトモはこう苦笑いします。 「ああ、俺も行かなくなったなあ。若い奴らは俺たちにも挨拶しないぜ」 「ということは、お前も"年金生活者"になったのか?」 「いやいや、そこまではいかないけどな(笑)」 名前は聞き忘れたのですが、第三世代の彼は北側のスタンドに通い続け、ディナモに青春を捧げている若者でした。彼にこんな質問を投げかけました。 「なんで最近のバッド・ブルー・ボーイズの若者たちは変わっちまったのかい?」 すると、彼は率直に語ってくれました。 「僕はトモやモロといった古いメンバーとつるんで話を聞くことが大好きなんだけど、僕みたいなのは少数なんだ。残念ながら、新たな世代は古いメンバーに対してだけでなく、誰に対しても敬意を払えなくなってしまったんだ。かつては横の繋がりが強かったと聞いているけど今は違う。ネットなどで呼びかけないと集まらなくなってしまったしね」 トモはそんな彼に同情します。 「昔は試合前に仲間たちとビールを飲んで盛り上がってから、スタジアムへと足を運んだものさ。しかし、今じゃ新たなサポーター法のせいで、酔ったサポーターは入場禁止だからな。盛り上がりに欠けるのは仕方ないさ」 "バッド・ブルー・ボーイズは減っているのか?"-この質問に彼は苦悩を滲ませました。 「ああ。警察のコントロールはますます強くなるし、学校や家族からも白い目で見られるからね。仲間うちでもバッド・ブルー・ボーイズになるのはほんと少ないよ」 「今じゃ、バッド・ブルー・ボーイズがパンクに殺される時代だからな。時代も変わったよ」 トモはつい最近、ザグレブで発生した事件を引き合いに出しました。公園で酒盛りをするパンクの一団にバッド・ブルー・ボーイズが酒をせびり、拒否されたことで両者が大喧嘩。一人の少年がナイフを持ったパンクに刺殺されたのです。私も第一報を聞いた時は立場が逆かと思ったわけですが、これも時代の変化なのでしょう。 「そういえば、イヴァンが新たなサポータークラブの事務所で働き始めそうだ」
トモから聞いた言葉を頼りに昨日、一つの事務所を訪ねました。その事務所は「サポータークラブ バッド・ブルー・ボーイズ」(Klub navijaca Bad Blue Boys)。二年ほど前にディナモ・サポーター協会から分離したグループです。ディナモ・サポーター協会の創立者の一人、トミスラフ・グルシッチが当時の幹部たちと運営面で対立。組織的に暴徒化しつつあった当時の協会に対して嫌気が差したとも聞いています。新たなサポータークラブは二年間ほどは事務所を抱えられず、メンバー集めに苦労していたのですが、今年2月にスペースを借りて事務所をオープンしたのです。 (写真は6年前、ディナモ・サポーター協会で働いてた頃のイヴァン)
「おお、ヤスユキ!」 イヴァンはトミスラフの兄であり、唯一ここで常勤する人物です。1990年のディナモvs.ズヴェズダ戦では警察との衝突に加わり、その後の祖国戦争にも出兵。ディナモ・サポーター協会発足当時はカリスマ的なリーダーの一人でありました。当時は協会事務所に常勤していたこともあって親しい関係にあり、彼が好きなインテルを見るため、二度に渡ってレンタカーでイタリアに行ったこともあります。私が新たなサポータークラブの事務所に顔を出すや、大歓迎してくれました。しかし、入り口の看板は投石によって壊されています。 「オープン直前の深夜に何者かに壊されてしまってな。ディナモ・サポーター協会の奴らの仕業かって? いや、そんなことは判らないさ。今の奴らのことなど、俺は興味もへったくれもないからな」 このように上層部からバッド・ブルー・ボーイズが分裂してしまったことも、かつての求心力を失った原因と言えるかもしれません。スタンドでは一緒に応援するとはいえ、遠征用バスのオーガナイズも別々になってしまいました。 「あの頃は本当に楽しかったなあ。いつもマクシミールの事務所でつるんだもんだ」 小さな事務所内にはもう一人19歳の第三世代の若者がいたのですが、当時の内輪話や、イヴァンの武勇伝を興味津々に聞いていました。しかしながら、いずれもがノスタルジーであることは否めません。バッド・ブルー・ボーイズであることを誇りとして、結束力を高めていったあの時代が再び繰り返されることはもうないのでしょう。「ヤスユキ、うちの会員に登録しないか? 特典として、ここにある帽子かマフラー、Tシャツを一つプレゼントするぞ」 私と同じ35歳になったとはいえ、風貌は昔と変わらず、まだまだバッド・ブルー・ボーイズを卒業しそうにないイヴァンに薦められると嫌とは言えません。会員番号1286番。所属組織は変わったとはいえ、私は5年ぶりにバッド・ブルー・ボーイズの一員になりました。バッド・ブルー・ボーイズのマスコット、ブルドックがワンポイントで入ったブラックの帽子を被った私は 「家からも近いし、また遊びに来るよ」 とイヴァンに挨拶を残して事務所を後にしました。中学に再入学して学生帽を被る一年生のような気分です。今度は現代っ子のバッド・ブルー・ボーイズたちとも上手くやっていけるといいのですが。
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これはディナモ・ザグレブのサポーター、バッド・ブルー・ボーイズの有名な応援ソング
結成は1986年3月17日、ハイドゥク・スプリトのアウェーマッチの後でありました。ショーン・ペンの映画「バッド・ボーイズ」が名前の由来とも言われる彼らは、チトー死後のユーゴ内における民族主義の高まりと共にメンバーを増やしていきます。ただし、当初はザグレブ市内の各地区で若者が集まり、それぞれのバッド・ブルー・ボーイズを結成。またザグレブ以外の都市、更には国外のクロアチア人コミュニティにまで自らのバッド・ブルー・ボーイズが広がっていきました。
歴史に残る事件は1990年5月13日に起こりました。舞台はディナモvs.ツルヴェナ・ズヴェズダ(レッドスター)。ズヴェズダのサポーター「デリエ」が南スタンドで暴れたのがきっかけに、バッド・ブルー・ボーイズとユーゴ警察が衝突。ボバンが警官に飛び蹴りを食らわせたシーンでご存知の方もいることでしょう(この事件に関する私の記事は
同時に彼らは新たな戦いを抱えました。ディナモに肩入れしていた初代大統領のトゥジマンが、クラブ名が共産主義的だとして1991年に改名を強います。ハシュク・グラジャンスキー、そしてクロアチア・ザグレブと改名を余儀なくされた時代には、トゥジマン大統領に対しての抗議活動を繰り返しました。冒頭の「DINAMO JA VOLIM」はその当時に作られた応援ソングです。1995年に戦争が終わったところでも、彼らに圧力を加える政府の戦いはトゥジマン大統領が亡くなる1999年末まで続きました。まさに1990年代はバッド・ブルー・ボーイズにとって闘争の時代であり、それに共鳴する若者が次々と加わった時代でもあったわけです。
トゥジマンの死後から2ヶ月、2000年2月14日に「ディナモ」の名称が戻ります。しかし、その後に待っていたのは、戦う相手を失った喪失感でありました(この辺りは宇都宮徹壱さんが書いた
2000年6月にスロバキアで行われたU-21欧州選手権に私はクロアチアU-21代表の応援に駆けつけたのですが、そこではクロアチア各地のサポーターと知り合いました。その中にはもちろんバッド・ブルー・ボーイズがいて、そのメンバーがたまたまザグレブvs.リエカを観戦していたのです。彼らは直ぐに私の友人となり、私もディナモ・サポーター協会に通うようになりました。同年、私は外国人としては初の協会会員となります(会員番号939)。つまり、私も晴れてバッド・ブルー・ボーイズの一員になったのです。誰もが私を同胞と見なしてくれ、あらゆる場所へと引っ張っていってくれました。余所者に冷たい人の多い首都ザグレブの中で、彼らは数少ない「仲間」といえる存在だったのです。
時は流れ、2005~2006年頃から状況は変わっていきます。ある友人は仕事が忙しくなり、ある友人は結婚して、スタジアムへ足を運ばなくなりました。暴力行為のためスタジアムの出入りが禁止になった友人もいます。一番の親友は寂しい顔をしつつ、「俺たちゃ年金生活者になったのさ」と冗談を口にしました。そう、第二世代の彼らも「卒業」を迎える頃だったのです。
この頃からバッド・ブルー・ボーイズには第三世代といえる若者(高校生~20歳前後)が占めるようになりました。かつて日本でも「戦争を知らない子供たち」という歌が流行りましたが、バッド・ブルー・ボーイズの第二世代と第三世代にもジェネレーションギャップが存在します。第三世代はいわゆる現代っ子たち。日本同様にインターネットや携帯電話が一般化する中で、生身の人間との接し方が下手になっています。彼らは異邦人の私に対して冷たく、コミュニケーションを図ろうともしません。協会事務所もマクシミールから移転してしまい、かつての仲間たちがいない場所には足が遠のいてしまいました。最後まで付き合いのあった上の親友も結婚して故郷リエカに帰ってしまい、バッド・ブルー・ボーイズとは完全につるむことがなくなってしまいました。私も他に仕事を抱えるようになったこともあり、本格的に「卒業」を迎えてしまったのです。ディナモの試合はあくまで撮影取材に行くだけで、私の存在を知らず、かつ外国人として敵視するようなバッド・ブルー・ボーイズのガキから避けるべく行動するようになりました(最近、試合観戦に来た日本人旅行者が袋叩きに遭ったと聞いています)。
盛り上がりに欠けた水曜日のディナモvs.オシエクの試合中、ピッチ際でカメラを構える私の携帯に電話がかかってきました。東側のスタンドで観戦しているトモからでした。
「おう、元気か? 試合後、久しぶりに飲みに行こうぜ」
スキンヘッドの彼と私は同い年。ディナモ・サポーター協会の事務所で知り合い、2年前まではよく飲みに行ったバッド・ブルー・ボーイズのメンバーです。マクシミールの敷地にある喫茶店には、第二世代のトモとモロ、そして第三世代の21歳の若者が待っていました。トモ、モロ、私の間でつい昔話に花が咲きます。
「最近は事務所に顔を出すのかい? 新たな世代は感じ悪いし、もう僕は行かなくなったよ」
北側のゴール裏に顔は出さず、古い仲間と東側のバックスタンドで観戦を続けるトモはこう苦笑いします。
「ああ、俺も行かなくなったなあ。若い奴らは俺たちにも挨拶しないぜ」
「ということは、お前も"年金生活者"になったのか?」
「いやいや、そこまではいかないけどな(笑)」
名前は聞き忘れたのですが、第三世代の彼は北側のスタンドに通い続け、ディナモに青春を捧げている若者でした。彼にこんな質問を投げかけました。
「なんで最近のバッド・ブルー・ボーイズの若者たちは変わっちまったのかい?」
すると、彼は率直に語ってくれました。
「僕はトモやモロといった古いメンバーとつるんで話を聞くことが大好きなんだけど、僕みたいなのは少数なんだ。残念ながら、新たな世代は古いメンバーに対してだけでなく、誰に対しても敬意を払えなくなってしまったんだ。かつては横の繋がりが強かったと聞いているけど今は違う。ネットなどで呼びかけないと集まらなくなってしまったしね」
トモはそんな彼に同情します。
「昔は試合前に仲間たちとビールを飲んで盛り上がってから、スタジアムへと足を運んだものさ。しかし、今じゃ新たなサポーター法のせいで、酔ったサポーターは入場禁止だからな。盛り上がりに欠けるのは仕方ないさ」
"バッド・ブルー・ボーイズは減っているのか?"-この質問に彼は苦悩を滲ませました。
「ああ。警察のコントロールはますます強くなるし、学校や家族からも白い目で見られるからね。仲間うちでもバッド・ブルー・ボーイズになるのはほんと少ないよ」
「今じゃ、バッド・ブルー・ボーイズがパンクに殺される時代だからな。時代も変わったよ」
トモはつい最近、ザグレブで発生した事件を引き合いに出しました。公園で酒盛りをするパンクの一団にバッド・ブルー・ボーイズが酒をせびり、拒否されたことで両者が大喧嘩。一人の少年がナイフを持ったパンクに刺殺されたのです。私も第一報を聞いた時は立場が逆かと思ったわけですが、これも時代の変化なのでしょう。
「そういえば、イヴァンが新たなサポータークラブの事務所で働き始めそうだ」
トモから聞いた言葉を頼りに昨日、一つの事務所を訪ねました。その事務所は
「ヤスユキ、うちの会員に登録しないか? 特典として、ここにある帽子かマフラー、Tシャツを一つプレゼントするぞ」
私と同じ35歳になったとはいえ、風貌は昔と変わらず、まだまだバッド・ブルー・ボーイズを卒業しそうにないイヴァンに薦められると嫌とは言えません。会員番号1286番。所属組織は変わったとはいえ、私は5年ぶりにバッド・ブルー・ボーイズの一員になりました。バッド・ブルー・ボーイズのマスコット、ブルドックがワンポイントで入ったブラックの帽子を被った私は
「家からも近いし、また遊びに来るよ」
とイヴァンに挨拶を残して事務所を後にしました。中学に再入学して学生帽を被る一年生のような気分です。今度は現代っ子のバッド・ブルー・ボーイズたちとも上手くやっていけるといいのですが。

