2008年05月07日

ユーロ本大会に向けたクロアチア代表メンバー発表

5月5日、欧州選手権(ユーロ)に向けたクロアチア代表メンバーが発表されました。

本大会は23名まで登録できるわけですが、代表候補として事前にリストを広げることはせず、スラヴェン・ビリッチ監督はあくまで23名だけを発表し、将来性を見込んで代表チームに随行する若手2名を加えた計25名の名前を挙げました。
予選では基本的に固定メンバーを召集してきたビリッチですが、常に呼ばれながらもチャンスを活かせなかったMFヴラニェシュ(ブレーメン)、MF/DFバビッチ(べディス)、FWバラバン(ディナモ)を外した一方で、一度も代表でプレーしていないFWカリニッチ(ハイドゥク)、MFポリヴァチュ(モナコ)を選出しました。また随行の若手としてはDFパミッチ(レッドブル・ザルツブルク)、またU-21代表でラディッチ監督と対立したMFシャルビーニ(リエカ)が選出されました。
メンバーは以下になります。

GK:
スティペ・プレティコサ  (スパルタク・モスクワ/ロシア)
ヴェドラン・ルニェ    (ランス/フランス)
マリオ・ガリノヴィッチ   (パナシナイコス/ギリシャ)
DF:
ダリオ・シミッチ       (ACミラン/イタリア)
ロベルト・コヴァチ     (ボルシア・ドルトムント/ドイツ)
ヨシップ・シムニッチ    (ヘルタ・ベルリン/ドイツ)
ヴェドラン・チョルルカ   (マンチェスター・シティ/イングランド)
ダリオ・クネジェヴィッチ  (リボルノ/イタリア)
フルヴェイエ・ヴェイッチ  (トムスク/ロシア)
MF:
ニコ・コヴァチ        (レッドブル・ザルツブルク/オーストリア)
ダリヨ・スルナ       (シャフタール・ドネツク/ウクライナ)
ニコ・クラニチャール    (ポーツマス/イングランド)
イェルコ・レコ       (モナコ/フランス)
ルカ・モドリッチ      (ディナモ・ザグレブ/クロアチア)
ダニエル・プラニッチ    (ヘーレンフェーン/オランダ)
イヴァン・ラキティッチ   (シャルケ04/ドイツ)
オグニェン・ヴコイェヴィッチ(ディナモ・ザグレブ/クロアチア)
ニコラ・ポクリヴァチュ   (モナコ/フランス)
FW:
ムラデン・ペトリッチ    (ボルシア・ドルトムント/ドイツ)
イヴィツァ・オリッチ    (ハンブルガーSV/ドイツ)
イヴァン・クラスニッチ   (ヴェルダー・ブレーメン/ドイツ)
イゴール・ブダン      (パルマ/イタリア)
ニコラ・カリニッチ     (ハイドゥク・スプリト/クロアチア)

随行メンバー:
DFイゴール・パミッチ    (レッドブル・ザルツブルク/オーストリア)
MFアナス・シャルビーニ   (リエカ/クロアチア)


代表発表記者会見でビリッチ監督(写真)は以下のように質問に答えています。

ビリッチ-ポクリヴァチュを選んだのは?
「なぜポクリヴァチュで、ヴラニェシュではないか? なぜなら、ニコラ(ポクリヴァチュ)は左サイドバックもカバーできるからだ。アリョーシャ(アサノヴィッチ・コーチ)と私はU-21代表から彼のことを知っており、モナコではユルチェヴィッチ(コーチ)とアリョーシャが視察してきた。私もモナコには足を運んだ。彼は中盤で素晴らしく適応しているんだ。」

-カリニッチは?
「ドゥドゥ(エドゥアルド)の不幸のあと、バラバン、マンジュキッチ(ディナモ)、カリニッチの三人の中から一人を選ばねばならなかった。カリニッチを選んだのは、そのメンバーの中では最も必要な選手だと判断したからだ。」

-落選したバビッチ、ヴラニェシュ、バラバン、DFドゥルピッチ(ディナモ)、FWマンジュキッチらについては?
「この二日間、私は彼ら全員と電話で話し合った。メンバーに選ばなかった理由を説明し、今後も戦力として考え続けていることを示したんだ。それは当たり前のことであり、不愉快なテーマだが話し合いの感じは良かった。彼らが失望し、怒ることは私にとっても明らかだよ。私が彼らの立場であっても同じ気持ちになったはずだからね。もし可能ならば、彼らにはシーズン終了後も気を抜くことなく、休暇も行かずに待って欲しいともお願いをした。急に誰かが怪我などをして、チームに呼ぶ可能性だってあるのだから。
彼らはこれまで私たちと一緒だったし、本大会に行けたのならば大満足だっただろう。しかしながら数には制限があるんだよ。我々にはシステムに関しては三つのバリエーション(4-4-2, 4-2-3-1, 4-3-3)があるが、全てのポジションがしっかりカバーできるようメンバーを選出したかったんだ。」

-随行メンバーのパミッチとシャルビーニは?
「クロアチアは若いサイドプレイヤーがなかなか育っていなかったが、パミッチはリエカ、そしてザルツブルクで高いレベルのプレーしていたし、利用価値のある選手であることを証明した。
シャルビーニは将来性を買っての選出ではなく、むしろ彼は直ぐにチームに必要となるだろう。今回の選出には色々な反応が起こることは分かっている。彼の代理人(ウガルコヴィッチ氏)が私の友人だから、と疑いをかける人もいるはずだ。しかし、代理業はあくまで仕事の一つだ…。シャルビーニの長所と短所を秤にかけた時、長所の方が上回っていた。もちろん、U-21代表での事件から逃げるわけにはいかない。規律委員会は彼への罰金を10000クーナから8000クーナ(約180万円)へと下げたわけだが、彼はそれを払うことになろう。罰金の一部分は私や私のスタッフ、またU-21代表監督のラディッチも補助することになるだろうから、決して似たような真似を彼がしでかすことはないだろう。」

-DF/MFエトー(ディナモ)とDFクリジャナッツ(ゼニト・サンクトブルク)が選ばれなかったことは?
「エトーはクロアチアのパスポートを手にするまでは、我々のプランの中にあった。しかし、幾らか彼は落ちてしまった。本物のクラブ、例えばオファーの噂があるヘルタ・ベルリンに移籍したならば興味深い選手となるだろうし、秋には呼ぶことになるだろう。
クリジャナッツはゼニトでの活躍でUEFAカップのファイナリトにもなったことで、新聞が持てはやしていた。日曜日の夜に私は彼に電話を入れ、一時間半に渡って話をしたのさ。これまで決して話し合いをしたこともないし、会ったこともなかった選手だ。2006年8月のインタビューが引き起こした全てに関して、またなぜ当時はメンバーに選ばなかったかを私は説明をした。あの批判は私に対してでもなく、私のチームに対してのものでもなかった。クリジャナッツが厳しい言葉で他の選手たちに矛先を向けたことが私たちにとっては厄介だったんだよ。けれども、初めての彼との話し合いは非常に良いものだった。若いディフェンダーの中でエクストラなタレントがいないのが事実だし、いずれは誰かベテランもチームから外れる。彼は比較的若い方だし、チームでレギュラーを維持するようならば、代表の門は開かれているよ。」

-FWルカビナ(ハイドゥク)が選ばれなかったことは?
「調子は上がっているが、余りにも長く停滞してしまっていた。けれども、毎日進歩はしている。将来的にはMFトマソフ(ザダール)、GKスバシッチ(ザダール)らと共に期待をしている。」

またこの記者会見では、ビリッチ監督とチームスタッフが新たに契約を2年延長しています。ビリッチには様々な西欧のクラブが巨額なオファーを送ってきたわけですが、結局は月給10万クーナ(約225万円)という世界的に見れば薄給にてクロアチア代表監督を続けることになります。またこれまで監督の資格がないということで無給で働いていたロベルト・プロシネチュキも、ビリッチの後ろ盾もあってサッカー協会と報酬契約を結んでおります。


posted by 長束恭行 |21:45 | サッカーコラム | コメント(4) |
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2008年04月29日

モドリッチ、トットナムと正式にサイン/ディナモのGKコッホ、引退へ

ディナモ・ザグレブのMFルカ・モドリッチがメディカル・チェックを終えて、昨日、正式にトッテナム・ホットスパーと6年契約にサインしました。ただし、今季いっぱいはディナモでプレーし、ハイドゥクとのカップ戦制覇で花道を飾る考えです。トッテナムでの週給は5万ユーロとされ、わずか二週間でディナモでの年俸を稼ぐことになります。ちなみに背番号はクロアチア代表と同じ「14」となっています。

ディナモ所属のドイツ人GKゲオルグ・コッホ(写真)が背中の状態が思わしくなく。今季限りで引退をすることを、スポーツ・ディレクターのゾラン・マミッチが明らかにしています。
今季ディナモに加入した36歳のコッホは常にディフェンス陣を怒鳴り散らすほどの闘争心と数々のスーパーセーブを見せ、わずか一年でサポーターの心を掴みました。しかし、背中の痛みが取れず、後半はミドルシュートをあっさりと決められるシーンが目立ちました。
ディナモは若いケラヴァとロンチャリッチしかGKがおらず、経験豊かな選手の獲得が急がれることになります。第一候補としてはパナシナイコス所属の代表GKガリノヴィッチの名前が挙がっています。

29日、ベジクタシュのディレクター、エンギン氏がザグレブを訪れ、この冬にディナモから獲得したDFゴルドン・シルデンフェルドの返却に関して話し合いをしています。当初はディノ・ドゥルピッチを獲得をするはずが、かつての不祥事がトルコ・メディアに暴かれて変更(ハイドゥクのサポーターに向けて尻を出した事件)。それからシルデンフェルドを200万ユーロで獲得しました。
ベジクタシュでレギュラーとしてプレーしたシルデンフェルドでしたが、右眼の視界がいきなり失われる原因不明の病気に数日襲われてしまい、その後は復帰したとはいえ、ベジクタシュはディナモに返却を要求することになりました。オプションとしてイゴール・ビシュチャンを金銭をプラスして彼と交換できないか希望しているようです。

また先週土曜日の第31節の結果は、水曜日に行われる第27節(延期分)と合わせてレポートします。


posted by 長束恭行 |23:58 | サッカーコラム | コメント(2) |
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2008年04月23日

クロアチア代表を起用した広告特集

ユーロ本大会が近づき、国内はクロアチア代表を起用した広告が増えてきました。
今日はそんな特集をしてみましょう。

ビール好きのクロアチア人にとって、長くメインスポンサーとなっているのが「Ozujsko Pivo」(オジュイスコ・ピーヴォ)。日本にとっては「キリン」みたいなものでして、かつてはクロアチア・リーグの冠スポンサーにもなっていました。彼らのユーロ・バージョンのCMはこれです(中央の動画をクリック)。
ちなみに最近は選手が入ったラベルも登場(写真)。500ml瓶にはクラニチャール(左)、1lペットボトルにはモドリッチ(右)が起用されています。

オジュイスコ
ちなみにオジュイスコのライバルメーカーは「Karlovacko」(カルロヴァチュコ)。彼らはクロアチア・サッカー協会とスポンサー契約を結んでおらず選手起用はできないのですが、大きな大会が近づくと毎回コミカルなサッカーCMを作成します。二年前には日本人にクロアチア国歌を間違えながら懸命に歌うというCMを作り、インパクトは高く、評判は良かったとはいえ、一部の苦情を受けて国営放送が直ぐに放映中止した、なんてこともありました。しかし、しっかりYoutubeには上がっており、ここで見ることができます。ちなみに熱唱しているのは当時の日本人留学生だと聞いています。日本人が少ない国だけに私に声が掛かる可能性は十分あったのですが、彼ほど役にはハマりきれません(苦笑) ナイスキャストだったと思います。  昨年からスポンサーになったのはオシエクの石鹸会社「SAPANIA」(サポニア)。今年2月6日にスプリトで行われたオランダとの親善試合の前に、選手たちを起用してスプリト旧市街に近い広場でCMを撮影しました。場所がスプリトだけに、ハイドゥクでプレーしたスルナやプレティコサがいい役をもらっています(ここからダウンロードが可能)。 しかし、オランダとの試合は0-3で完敗。ビリッチ監督はスポンサーのCM撮影が選手の調整の邪魔になっていると苦言を呈しました。 それにもかかわらず、一ヶ月半後に行われたグラスゴーでのスコットランド戦を前にサッカー協会がやらかしてしまいます。3月25日の記事にも書いていますので引用すると


しかし、そのビリッチを欺くかのような問題が発生しています。クロアチア代表一行は24日、スコットランドとの親善試合が行われるグラスゴーに入りました。しかし、代表スポンサーのCM撮影のため、モドリッチ、ペトリッチ、チョルルカ、ヴコイェヴィッチ、シミッチらが他のチームメイトより長くザグレブに居残ることになり、また飛行機の遅れもあってグラスゴーでの合同練習に参加できず。他にも合流遅れや怪我もあって、合同練習に参加したのはわずか6人。これにはビリッチ代表監督もおかんむりで、
「オランダ戦の前にもスポンサーのせいで時間が割かれ、我々が罰せられることになった。そして今回もまただ。ここへは練習と試合をするためにやってきたんだ。子供にセルティックのジャージを買うためにスコットランドにいるんじゃないんだよ! 我々からは欧州王者を要求している割には、アンドラのレベルでしか機能していない」
とバッサリと協会批判をしています。


そこまでして撮影されたCMは、昨年からスポンサーとなったクロアチア最大のマーケットチェーンの「KONZUM」(コンズム)社。つい最近からテレビでも放送されるようになりました。このCMのツボは左足にギブスをつけながらテレビの前で応援するエドゥアルド。上の二つのCMでも主役級をもらっていたエドゥアルドですが、いずれも骨折事故の前に撮影されたものでした。ですので、このCMが最新だと分かってもらえるでしょう。


スポンサー広告による活動の制約に文句を言うビリッチ監督も、会社にとっては広告に是非欲しい存在。例えば、最近は「CONVERSE」の看板広告に彼が起用されるようになりました(左から二番目がビリッチ監督)。

コンバース
ユーロのメインスポンサーである「MASTERCARD」の広告には、アサノヴィッチ、プロシネチュキ、ユルチェヴィッチといったコーチ陣と共にビリッチ監督が戦術盤を前にサポーターを指示しています(写真)。そして定番の文句といいますと… 「俺たちの仲間と一緒に過ごす時間-プライスレス」
マスターカード
さらにRawbauというプロのメタルバンドでギタリストを務めているビリッチ監督は、自ら作詞・作曲したというサポーターソング「Vatreno ludilo」(炎の狂気)を発表。19日には故郷スプリトでMTVを撮影しました。それを報じるニュースはこちら(その1その2)。またこちらは上から一般人が撮影した映像です。 ビリッチの友人であり、サッカー協会の広報担当を務めるダヴォール・ガヴラン氏もプロのロッカーだったりするので、音楽活動には理解を示しているのかもしれません(笑) クロアチア・サッカー協会とスポンサー契約を結ぶ会社は実に19社。これは増加傾向にあり、ここでは紹介し切れなかった広告もあります。階段でモドリッチとニコ・コヴァチに応援用の太鼓を運ばせたり、アイスクリームを食べるモドリッチに子供が色々とねだったり、と何でもござれ。この企画、好評ならばいずれ第二弾もやりたいものです。


posted by 長束恭行 |00:20 | サッカーコラム | コメント(3) |
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2008年04月19日

想い出(2)/バッド・ブルー・ボーイズ

「そうさ、神様だってご存知の聖なる名、聖なる名ディナモ
一緒に天国、一緒に地獄、バッド・ブルー・ボーイズとディナモ」

オシエク戦のBBBこれはディナモ・ザグレブのサポーター、バッド・ブルー・ボーイズの有名な応援ソング「DINAMO JA VOLIM」(愛しているぜ、ディナモ)のサビの一部分です。ディナモのために全てを捧げる彼らは「BBB」と略され、時には"フーリガン"という括りで国内外で知られる存在です。
クロアチアでは不良少年の代名詞というべきバッド・ブルー・ボーイズですが、最近はめっきり元気がありません。水曜日のオシエク戦で北側のスタンドに駆けつけたバッド・ブルー・ボーイズは数百人ほど。前節で優勝を決めたディナモの凱旋試合のはずが、スタンドは何とも寂しい光景でありました(写真)。ザグレブに住み、ディナモを愛する一人としては時代の流れを感じずにいられませんでした。なぜなら、私もバッド・ブルー・ボーイズの一員だったからです。

(長文かつ駄文ですので、関心がある方のみ、この先どうぞ…)。

まずはバッド・ブルー・ボーイズの歴史を振り返ってみましょう。
マスコットのブルドック結成は1986年3月17日、ハイドゥク・スプリトのアウェーマッチの後でありました。ショーン・ペンの映画「バッド・ボーイズ」が名前の由来とも言われる彼らは、チトー死後のユーゴ内における民族主義の高まりと共にメンバーを増やしていきます。ただし、当初はザグレブ市内の各地区で若者が集まり、それぞれのバッド・ブルー・ボーイズを結成。またザグレブ以外の都市、更には国外のクロアチア人コミュニティにまで自らのバッド・ブルー・ボーイズが広がっていきました。

歴史に残る事件は1990年5月13日に起こりました。舞台はディナモvs.ツルヴェナ・ズヴェズダ(レッドスター)。ズヴェズダのサポーター「デリエ」が南スタンドで暴れたのがきっかけに、バッド・ブルー・ボーイズとユーゴ警察が衝突。ボバンが警官に飛び蹴りを食らわせたシーンでご存知の方もいることでしょう(この事件に関する私の記事はこちら。また当時の映像はこちら)。

翌年からクロアチア国内でセルビア勢力との戦争が始まります。クロアチアで「祖国戦争」と呼ばれる戦いは上の事件をきっかけに始まったとさえ言われています。多くのサポーターが志願兵となり、戦地へと向かいました。ディナモは戦前よりクロアチアのアイデンティティとなったクラブ。彼らが銃を持って戦うのは必然的な話だったわけです。

2002年のカップ戦決勝/ディナモvs.ヴァルテクス同時に彼らは新たな戦いを抱えました。ディナモに肩入れしていた初代大統領のトゥジマンが、クラブ名が共産主義的だとして1991年に改名を強います。ハシュク・グラジャンスキー、そしてクロアチア・ザグレブと改名を余儀なくされた時代には、トゥジマン大統領に対しての抗議活動を繰り返しました。冒頭の「DINAMO JA VOLIM」はその当時に作られた応援ソングです。1995年に戦争が終わったところでも、彼らに圧力を加える政府の戦いはトゥジマン大統領が亡くなる1999年末まで続きました。まさに1990年代はバッド・ブルー・ボーイズにとって闘争の時代であり、それに共鳴する若者が次々と加わった時代でもあったわけです。

トゥジマンの死後から2ヶ月、2000年2月14日に「ディナモ」の名称が戻ります。しかし、その後に待っていたのは、戦う相手を失った喪失感でありました(この辺りは宇都宮徹壱さんが書いた「ディナモ・フットボール」が詳しいです)。クロアチア・リーグが誕生してから、ディナモの真のライバルはハイドゥク・スプリトのみ。ハイドゥク以外の試合ではスタジアムに閑古鳥が鳴き、創立以来の中心メンバーが「卒業」してしまったバッド・ブルー・ボーイズも分解寸前になってしまいました。

しかし、間も無くして新たな動きが起こります。2001年、公認組織として「ディナモ・サポーター協会」(Udruga Navijaca Dinama)が誕生。本拠地があるマクシミール地区に事務所を構えました。中心となったのは1990年代以降にバッド・ブルー・ボーイズに入った第二世代のメンバーたちでした。ホームの試合となれば巨大幕や人文字を準備し、アウェーの試合となれば遠征バスをオーガナイズ。彼らは応援だけに終わらず、フットサル大会やバーベキューなど様々な企画を通して友情を深め、また献血やチャリティーを企画しては社会貢献にも参加していったのです。

1997年8月のチャンピオンズリーグ予備戦「ディナモ(当時はクロアチア・ザグレブ)vs.ニューキャッスル」を現地で生観戦し、クロアチアとディナモの虜となった私は勤務していた会社を辞め、以降は毎年クロアチアへの渡航を繰り返し、その度にディナモの試合を観戦してきました。決意してクロアチアに移住したのが2001年9月。クロアチア語を学ぶためザグレブ大学に通っていたわけですが、最初の頃はクロアチア人の友人が多くはいませんでした。

2002年2月、ザグレブvs.リエカ戦を観戦に行ったところ、懐かしい面々と会います。
BBBの仲間とバーベキュー/右から三番目が私2000年6月にスロバキアで行われたU-21欧州選手権に私はクロアチアU-21代表の応援に駆けつけたのですが、そこではクロアチア各地のサポーターと知り合いました。その中にはもちろんバッド・ブルー・ボーイズがいて、そのメンバーがたまたまザグレブvs.リエカを観戦していたのです。彼らは直ぐに私の友人となり、私もディナモ・サポーター協会に通うようになりました。同年、私は外国人としては初の協会会員となります(会員番号939)。つまり、私も晴れてバッド・ブルー・ボーイズの一員になったのです。誰もが私を同胞と見なしてくれ、あらゆる場所へと引っ張っていってくれました。余所者に冷たい人の多い首都ザグレブの中で、彼らは数少ない「仲間」といえる存在だったのです。

時は流れ、2005~2006年頃から状況は変わっていきます。ある友人は仕事が忙しくなり、ある友人は結婚して、スタジアムへ足を運ばなくなりました。暴力行為のためスタジアムの出入りが禁止になった友人もいます。一番の親友は寂しい顔をしつつ、「俺たちゃ年金生活者になったのさ」と冗談を口にしました。そう、第二世代の彼らも「卒業」を迎える頃だったのです。

この頃からバッド・ブルー・ボーイズには第三世代といえる若者(高校生~20歳前後)が占めるようになりました。かつて日本でも「戦争を知らない子供たち」という歌が流行りましたが、バッド・ブルー・ボーイズの第二世代と第三世代にもジェネレーションギャップが存在します。第三世代はいわゆる現代っ子たち。日本同様にインターネットや携帯電話が一般化する中で、生身の人間との接し方が下手になっています。彼らは異邦人の私に対して冷たく、コミュニケーションを図ろうともしません。協会事務所もマクシミールから移転してしまい、かつての仲間たちがいない場所には足が遠のいてしまいました。最後まで付き合いのあった上の親友も結婚して故郷リエカに帰ってしまい、バッド・ブルー・ボーイズとは完全につるむことがなくなってしまいました。私も他に仕事を抱えるようになったこともあり、本格的に「卒業」を迎えてしまったのです。ディナモの試合はあくまで撮影取材に行くだけで、私の存在を知らず、かつ外国人として敵視するようなバッド・ブルー・ボーイズのガキから避けるべく行動するようになりました(最近、試合観戦に来た日本人旅行者が袋叩きに遭ったと聞いています)。

盛り上がりに欠けた水曜日のディナモvs.オシエクの試合中、ピッチ際でカメラを構える私の携帯に電話がかかってきました。東側のスタンドで観戦しているトモからでした。
「おう、元気か? 試合後、久しぶりに飲みに行こうぜ」
中央の右がトモ、中央がモロスキンヘッドの彼と私は同い年。ディナモ・サポーター協会の事務所で知り合い、2年前まではよく飲みに行ったバッド・ブルー・ボーイズのメンバーです。マクシミールの敷地にある喫茶店には、第二世代のトモとモロ、そして第三世代の21歳の若者が待っていました。トモ、モロ、私の間でつい昔話に花が咲きます。
「最近は事務所に顔を出すのかい? 新たな世代は感じ悪いし、もう僕は行かなくなったよ」
北側のゴール裏に顔は出さず、古い仲間と東側のバックスタンドで観戦を続けるトモはこう苦笑いします。
「ああ、俺も行かなくなったなあ。若い奴らは俺たちにも挨拶しないぜ」
「ということは、お前も"年金生活者"になったのか?」
「いやいや、そこまではいかないけどな(笑)」

名前は聞き忘れたのですが、第三世代の彼は北側のスタンドに通い続け、ディナモに青春を捧げている若者でした。彼にこんな質問を投げかけました。
「なんで最近のバッド・ブルー・ボーイズの若者たちは変わっちまったのかい?」
すると、彼は率直に語ってくれました。
「僕はトモやモロといった古いメンバーとつるんで話を聞くことが大好きなんだけど、僕みたいなのは少数なんだ。残念ながら、新たな世代は古いメンバーに対してだけでなく、誰に対しても敬意を払えなくなってしまったんだ。かつては横の繋がりが強かったと聞いているけど今は違う。ネットなどで呼びかけないと集まらなくなってしまったしね」
トモはそんな彼に同情します。
「昔は試合前に仲間たちとビールを飲んで盛り上がってから、スタジアムへと足を運んだものさ。しかし、今じゃ新たなサポーター法のせいで、酔ったサポーターは入場禁止だからな。盛り上がりに欠けるのは仕方ないさ」

"バッド・ブルー・ボーイズは減っているのか?"-この質問に彼は苦悩を滲ませました。
「ああ。警察のコントロールはますます強くなるし、学校や家族からも白い目で見られるからね。仲間うちでもバッド・ブルー・ボーイズになるのはほんと少ないよ」
「今じゃ、バッド・ブルー・ボーイズがパンクに殺される時代だからな。時代も変わったよ」
トモはつい最近、ザグレブで発生した事件を引き合いに出しました。公園で酒盛りをするパンクの一団にバッド・ブルー・ボーイズが酒をせびり、拒否されたことで両者が大喧嘩。一人の少年がナイフを持ったパンクに刺殺されたのです。私も第一報を聞いた時は立場が逆かと思ったわけですが、これも時代の変化なのでしょう。

「そういえば、イヴァンが新たなサポータークラブの事務所で働き始めそうだ」
6年前のイヴァントモから聞いた言葉を頼りに昨日、一つの事務所を訪ねました。その事務所は「サポータークラブ バッド・ブルー・ボーイズ」(Klub navijaca Bad Blue Boys)。二年ほど前にディナモ・サポーター協会から分離したグループです。ディナモ・サポーター協会の創立者の一人、トミスラフ・グルシッチが当時の幹部たちと運営面で対立。組織的に暴徒化しつつあった当時の協会に対して嫌気が差したとも聞いています。新たなサポータークラブは二年間ほどは事務所を抱えられず、メンバー集めに苦労していたのですが、今年2月にスペースを借りて事務所をオープンしたのです。
(写真は6年前、ディナモ・サポーター協会で働いてた頃のイヴァン)


「おお、ヤスユキ!」
イヴァンはトミスラフの兄であり、唯一ここで常勤する人物です。1990年のディナモvs.ズヴェズダ戦では警察との衝突に加わり、その後の祖国戦争にも出兵。ディナモ・サポーター協会発足当時はカリスマ的なリーダーの一人でありました。当時は協会事務所に常勤していたこともあって親しい関係にあり、彼が好きなインテルを見るため、二度に渡ってレンタカーでイタリアに行ったこともあります。私が新たなサポータークラブの事務所に顔を出すや、大歓迎してくれました。しかし、入り口の看板は投石によって壊されています。
「オープン直前の深夜に何者かに壊されてしまってな。ディナモ・サポーター協会の奴らの仕業かって? いや、そんなことは判らないさ。今の奴らのことなど、俺は興味もへったくれもないからな」
このように上層部からバッド・ブルー・ボーイズが分裂してしまったことも、かつての求心力を失った原因と言えるかもしれません。スタンドでは一緒に応援するとはいえ、遠征用バスのオーガナイズも別々になってしまいました。
「あの頃は本当に楽しかったなあ。いつもマクシミールの事務所でつるんだもんだ」
小さな事務所内にはもう一人19歳の第三世代の若者がいたのですが、当時の内輪話や、イヴァンの武勇伝を興味津々に聞いていました。しかしながら、いずれもがノスタルジーであることは否めません。バッド・ブルー・ボーイズであることを誇りとして、結束力を高めていったあの時代が再び繰り返されることはもうないのでしょう。


壊されたサポータークラブの看板「ヤスユキ、うちの会員に登録しないか? 特典として、ここにある帽子かマフラー、Tシャツを一つプレゼントするぞ」
私と同じ35歳になったとはいえ、風貌は昔と変わらず、まだまだバッド・ブルー・ボーイズを卒業しそうにないイヴァンに薦められると嫌とは言えません。会員番号1286番。所属組織は変わったとはいえ、私は5年ぶりにバッド・ブルー・ボーイズの一員になりました。バッド・ブルー・ボーイズのマスコット、ブルドックがワンポイントで入ったブラックの帽子を被った私は
「家からも近いし、また遊びに来るよ」
とイヴァンに挨拶を残して事務所を後にしました。中学に再入学して学生帽を被る一年生のような気分です。今度は現代っ子のバッド・ブルー・ボーイズたちとも上手くやっていけるといいのですが。


posted by 長束恭行 |14:17 | サッカーコラム | コメント(5) |
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2008年03月19日

想い出(1)/八百長(ホイツァー)事件を起こしたクロアチア人マフィアに取材

ここ最近はニュース系のネタが多かったので、たまには趣向を変えてみましょう。
クロアチアを初めて訪れた1997年以降、それから2001年にクロアチアに移り住んでからというもの、サッカーを通して様々な経験、様々な接点がありました。それらを振り返りながら、想い出話を綴ってみようと思います。

ミラン・シャピナこれまで取材並びにコーディネート仕事がピークだったのは、2006年ワールドカップの抽選会から日本vs.クロアチア戦までの半年間でした。様々なテレビ局や新聞社の取材に協力し、あらゆる関係者にインタビューしてきたわけですが、その中でも一二を争う印象深い取材対象者はベルリンにおりました。
その名はミラン・シャピナ(写真)。選手でもなければ、元選手でもコーチでもありません。ベルリンにカフェ「キング」を経営するクロアチア移民のオッサンです。ここでピンと来る人はさほどいないかもしれませんが、「ホイツァー」という審判の名前を聞けば、ああ、と思い出す人もいるでしょう。

「すっかりあの事件以降、ここはベルリン名物になってしまってな。観光バスすらここを通って行くんだよ。日本人も見学にやってくるぞ」

ワールドカップを前年に控えた2005年、ドイツ・サッカー界を震撼させた八百長事件が起こりました。ドイツカップ1回戦のハンブルガーSV vs.パーダーボルン戦の不自然な判定(HSVは前半にムペンザが退場した上、PK2つを取られて2-4で敗北)をきっかけに主審のロベルト・ホイツァーがクローズアップ。ブックメッカーに多額な金が賭けられたとの報告を受け、警察が取り調べをしたところ、クロアチアの賭博マフィアから金銭を譲り受けて八百長したことを白状。4試合に渡って不正な笛を吹いたことを認めました。その舞台となったのがカフェ「キング」。そして賭博マフィアだったのがシャピナ三兄弟でした。ホイツァーともう一人の審判、そして長男ミラン、次男アンテ、三男フィリップのいずれも起訴。彼らはブックメーカーで実に270万ユーロを稼ぎ出したと言われています。

キング店内あの頃、クロアチア取材というと未だに戦争と結びつけようとしたメディアが多い中、新たなテーマの切り口は「移民」にあると私は見てました。当時でもコヴァチ兄弟、クラスニッチ、シムニッチらが移民二世で、また現在でもペトリッチやラキティッチが移民二世の選手です。このテーマに同調してくれた旧知の新聞記者の方と2006年4月にベルリン取材を決行。その一つとして「キング」がスポンサーをしている地域リーグ(7部に相当)のSDクロアチアの試合を観戦。チームに三男フィリップがいることを知り、取材を申し込んだところ、カフェに行けばミランがいると知らされたのです。とはいえ、相手はマフィア。ビビりながら店内でミランの到着を待ちました。黒ずくめのミランが登場。そしてインタビューとなりました。

「オレたちのことをマフィアだ、マフィアだって言うけど、決してそんなんじゃないんだけどなあ。あの事件だってホイツァーが持ちかけたんだから。まあ、確かに悪いことはしたと思っているけど…」

意外に正直。怖そうな顔とはいえ、つぶらな瞳を持った憎めないオッサンです。大風呂敷を広げるようなタイプでもなく、またマフィアのイメージとは程遠く、単なる賭け好きなオッサンでありました。

-ところで、日本vs.クロアチア戦は賭けるのですか?
「ああ、もちろん。でも最近の日本はレベルアップしている。1998年のワールドカップでも苦戦したじゃないか。結果予想? 1-0で勝てれば充分さ」

半分冗談で切り出した質問を真面目に返答し、それも日本を高く評価してくれてことに"キング、かっけー!"と思ったものです(笑)。当初はアテがなかったとはいえ、ミラン・シャピナへの取材は成功に終わりました(新聞記事はこちら)

ミランと共に時は6月13日、ワールドカップのクロアチアvs.ブラジル戦当日。試合会場はベルリンのオリンピア・シュタディオンということもあって、街中には赤白の格子模様を身につけたクロアチア・サポーターが溢れていました。ベルリンはドイツでもとりわけクロアチア移民が多く、一説には18万人もいるとされています。私は2ヶ月ぶりにカフェ「キング」を訪れました。クロアチア・サポーターで埋め尽くされた店内にはすっかり有名人のミランがいて、遠方から来たサポーターたちにも記念写真をせがまれていました。声を掛けるやミランは再会に喜んでくれ、私も一緒に記念写真を撮ったのでした。ちなみにミランのブラジル戦予想はクロアチアの勝利か引分け。続く日本戦、そしてオーストラリア戦もきっと随分な金をすったことでしょう(笑)

もちろん、ホイツァーと共にやらかした事件は許されることではなく、ミランは16ヶ月の執行猶予付きで有罪判決。ホイツァーが禁固刑2年5ヶ月、次男アンテが禁固刑2年11ヶ月、三男フィリップが執行猶予12ヶ月となりました。それでもカフェはすっかり有名となり、経営も順調のようです。ちなみに彼らはドイツだけでなく、クロアチアの代理人と釣るんでオーストリアでも八百長をやらかした可能性があるとか。その代理人がセレッソに使えないクロアチア人を送り込み、セレッソの悪い成績を賭師たちに予想しやすくさせた、なんて疑いも持たれるだろう…と眉唾なクロアチア誌の記事もありました(英文記事)。

それはさておき、もしベルリンに行かれる際には話のネタとしてカフェ「キング」へどうぞ。ほんと普通のカフェなんですけど、奥の方にも狭い部屋があり、ここで密談したのだろうなあ、と想像をかき立てます。お土産に店の絵葉書もプレゼントしてもらえます。マフィアと世界的に報じられた店長のミランさんにもお会いできるかもしれませんよ。


宣伝ですが、19日発売の海外サッカー週刊誌「footballista」で、EURO出場国紹介「クロアチア」を書いています。宜しければご覧になって下さい。


posted by 長束恭行 |19:04 | サッカーコラム | コメント(1) |
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