長田渚左の「考え中」

東京五輪50周年の展示会に想う

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 東京五輪開幕50周年を迎えた今年、都内の複数の自治体で1964年の東京五輪にちなんだ展示会が開催されている。夏以降、暇を見つけては展示場に足を運ぶようにしている。渋谷区や杉並区などは、区の取り組みや地域の人々の生活と五輪との関わりを象徴する写真や記念品を展示していて何とも興味深い。  先日、自治体ではなく、あくまで個人の所有物として最大級だと思われる展示会を発見した。  東京五輪当時27歳で、陸上競技のスターターの補助役員だった野崎忠信氏の収集品である。展示室には見たこともないお宝の山があふれていた。  野崎さんは当時、スターターの佐々木吉蔵氏の後ろに控えて、佐々木氏が発する「ヨーイ」から「ドン」に至るまでのタイムを計測する役目だった。1.7秒、1.8秒、1.6秒……克明な記録を記すうちに、野崎さん自信も0.1秒の違いをはっきりと体感できるようになったという。

 展示品の中に50年前に陸上女子80㍍ハードルで5位入賞を果たした依田郁子の写真を見つけた。彼女は屈託なく白い歯を見せて笑っていた。依田のこんな顔を今まで見たことがなかった。  そこで私はずっと疑問に思っていたことを聞いてみた。

 メダルが期待されていた依田郁子のコーチは、現役時代に「暁の超特急」と呼ばれた吉岡隆徳。1932年(昭7)のロサンゼルス五輪で東洋人として初めて100㍍で6位入賞している。「八の字スタート」を生み出した男としても有名だった。  「八の字スタート」はつま先を内側に向けた形で、左、右、左と踏み出し、体勢を地面近くで低く保ったまま、上体を稲妻型に振る……三歩で最高速度になると言われた驚異的なスタートダッシュは「ロケットスタート」とも呼ばれ、世界でも最速だった。距離が100㍍ではなく、もし70㍍だったら、世界の頂点に君臨していただろうと言われている。  コーチになった吉岡は独自の「八の字スタート」に加えて、さらに微細な筋肉の痙攣を加味したとっておきのスタート術を愛弟子の依田郁子に伝授した。車をスムーズに発進させるにはエンジンを温めてからアクセルを踏む、だから人間も「ヨーイ」から「ドン」までの約2秒間に脚の筋肉を震わせておけば、猛ダッシュにつながる……という理論だったとわれている。ただ発想はあまりに奇想天外で思わず笑ってしまう。果たしてその逸話は本当だったのか……。  それを確かめたかったが、当事者の吉岡も依田もすでに鬼籍に入っている。実はある人物が市川崑監督の映画「東京オリンピック」の編集前のフィルムには、特大の望遠レンズで撮影した依田の太もも裏の筋肉の痙攣が写っていたと耳にしたことがあった。そこで私は直接、市川崑監督を取材したが、確証は得られなかった。  あの日、女子80㍍ハードル決勝のスタート地点の20㍍後方から「ヨーイ」から「ドン」までの時間を計測していた野崎さんならば、何かを見ていたのではなかったか……?  「私は乱視なので眼鏡をかけていますが、視力は1.5近くはありましたから、競技者の前に飛び出す動きや腰の位置の変化はしっかり見えていました。ですが、部分的な微細な筋肉の痙攣までは目に止まらなかったです」  ミクロの闘いを吉岡と依田のコンビは決勝レースで実行したのだろうか……やはり事実は藪の中だった。しかし、野崎さんがこんなことを思い出した。  「大会間近になっても吉岡さんのところは立川の陸上競技場で独自の練習をやっていたんです。それでスタートの練習に佐々木先生とともに立川まで出向きました。そして、その日、吉岡さんは佐々木先生にこう聞いたのです。『スタートのピストルを撃つのは、1.7秒か1.8秒かどちらだい?』。それで佐々木先生が激怒しました」  いったい佐々木先生は何に怒り、どんな返事を返したのだろうか。野崎さんが続けた。  「佐々木先生は、1.7秒だ、1.8秒だなどとタイムを決めてスタートを撃つんじゃない。選手が静止した瞬間を確認してピストルを撃つ。時間で撃つわけではない、と言われました」  佐々木吉蔵氏は1956年(昭31)のメルボルン五輪と60年のローマ五輪で、ともに100㍍決勝でフライングがあり、64年の東京五輪でスターターとしての技術を磨きに磨き、一発でのスタートに賭けて研さんを積んでいた。  1.7秒か、1.8秒か。時間でピストルを撃つわけではない……その佐々木の言葉は技を極めたスターターとしての自信と誇りの表れであり、かたや依田のメダル獲得へ0.1秒の差にこだわった吉岡も、また同じような人知を超えた境地にいたということだろう。

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長田渚左(おさだ・なぎさ)
ノンフィクション作家。女性スポーツジャーナリストの草分け的存在であり、現在も旺盛な取材活動を続けている。
NPO法人スポーツネットワークジャパンおよび日本スポーツ学会代表理事。
スポーツ総合誌『スポーツゴジラ』編集長。
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(05月27日現在)

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