2008年01月16日

1対1で戦えない者は去れ

どうも。こんにちは。
半人前コーチ@恵比寿の職場で昼休みです。
いやいや、寒いですね。とっても。
私の部屋にはハロゲンヒーターしかないので・・・
いくら東京と言っても、結構厳しいです。

さて、この3連休は高校生のチームの方で
試合がありました。金曜日の夜行バスで帰って、
朝8時の練習を見に行くのは、ちょっときつかった。。。
ま、仕方なし。

で、結果のほうですが、残念ながら準決勝で破れて
しまいまして、結局3位で終わってしまいました。
くぅぅぅぅ。悔しいですね。。
でも、やっぱり相手が上手だったことは認めざるを得ません。

具体的な戦術的敗因は記載することができませんが、
うちは、チームに一体感がありませんでした。
それから、1対1で逃げている選手がいました。
これが1番、残念なことでした。


私が数年前に読んで、今でも参考になるなと思う記事があります。
岡田武史監督が1997年に就任した時のことなどが書かれた記事です。


あまりに遅すぎた監督交代 

 
W杯アジア最終予選第3代表決定戦では、岡田監督の采配がひときわ
光った。カズ、中山の同時交代、延長戦での岡野投入……。すべては
状況に流された感情的なものでなく、理詰めのものであった。  
「加茂周監督を更迭し、残りの試合の指揮を岡田君にやってもらう…
…」 10月4日。上気した面持ちの長沼健日本サッカー協会会長の口か
ら、振り絞るような声が発せられる。この発言が会見場の淀んだ空気
を緊張感に孕んだものに変えた。それはあまりにも突然の“人事”だ
った……。

 10月5日夕方、ウズベキスタンの首都・タシケント郊外のトラクタ
・スタジアム。この老朽化したスタジアムと呼ぶのがはばかられるよ
うなグラウンドに新監督・岡田武史の姿があった。飛行機便の都合で
、この練習に間に合ったのは、わずか数人。監督交代から一夜明けた
ばかりというのに、新聞記者は誰もいない。

 だからだろうか、落ち着いた雰囲気のなかで練習は進んだ。「3年
間やってきたことを1週間で変えられるわけがない」「正直、先の試
合のことなど考えられない。次の試合のことだけ」「正直言って誰か
のためにとかそんな余裕はない」……。

 何度も「正直言って」と前置きしながら話す岡田の顔は明らかに緊
張してこわばっていた。

 このとき、岡田は突然自分に回ってきた大役に、心なしか迷ってい
るふうでもあった。

 1997年9月に開幕したフランスW杯アジア最終予選。日本は開幕二
戦を一勝一分で乗り切る。ここまでは計算どおりだった。ところが、
韓国戦での逆転負けから状況は一変。この敗戦を機に、選手たちから
は、以前のような自信に満ちたプレーは消え、何か組織と呼ぶにはあ
まりにも脆い、ただの“集合体”としてのチームになってしまった。

 10月4日のカザフスタン戦では、ロスタイムに同点ゴールを喫して
引き分けている。

 監督の采配ミスが直接の要因とはいえ、たった一試合の敗戦で、こ
んなにもなってしまうものなのか。

 伏線はあった。

 97年に入ってからの日本代表チームは、結果こそ残していたものの
、実は順風満帆と言える状況ではなかった。96年末のアジアカップで
惨敗した後、選手と加茂監督との間には大きな溝ができ、選手は加茂
の指揮官としての力量に不信感を強めていたのだ。取材の場で、私は
何度となく加茂に対する不満の声を選手から聞いた。

 ブラジル人選手たちはよく「チームはファミリー」と表現するが、
残念ながら当時の日本代表は「ファミリー」という言葉とは懸け離れ
た状態だった。一次予選こそ絶対的な実力差で勝ち進んだものの、実
力の拮抗する最終予選を無事通過するには、あまりに危険な“病巣”
を内部に孕んでいたのである。しかも加茂周監督は選手と積極的にコ
ミュニケーションをとるタイプの監督ではなかった。そのため、ギャ

ップは広がりこそすれ、縮まることはなかった。

 加茂の代わりに、選手とのコミュニケーション役を担っていたのが
、当時コーチの岡田だった。彼はそれぞれの所属チームを訪ね、選手
と個別に話し合いの場を何度も持った。その結果、選手たちも「オカ
ちゃん」と親しみを持って岡田を呼ぶ関係が出来上がっていた。

 もっとも当時のそれはあくまでもコーチの岡田に対しての“兄貴分
”的な親密間であったのだが。

 そんな、伏線あっての韓国戦の逆転負けだったのだ。国内メディア
では、「電撃的な監督交代劇」と報じられたが、事情を知っている者
にとっては、むしろ遅すぎた人事であった。

 予選前に楽観視されていたW杯は、いつの間にか暗雲の彼方に消え
入りそうに霞んでいた。しかもチーム状態はどん底……。そんな状況
で岡田は監督に就任したのである。


“ファウル”なき実戦練習の効果

 話を10月5日に戻そう。 緊張した面持ちで話す岡田は、何から手
をつければいいのか、いや何かをすることによってチームを蘇らせる
ことができるのか、暗中模索しているように見えた。

 そして突然虚空を眺めるように、「加茂さんと一緒に僕も納得して
やってきたこと」と話した。そう、これは忘れてならないことだが、
岡田は加茂前監督とコンビを組むコーチだったのだ。当然、岡田にも
責任はある。しかも岡田は加茂に呼ばれて日本代表のコーチという要
職に就いたのだ。いわば加茂は岡田にとって恩人である。 岡田は加
茂と一緒に辞めるつもりだったという。この責任はボス同様、自分に
もある。ボスがクビなら俺も当然……。

 岡田は監督就任を要請する会長らに対して、はっきり言ったという。
「私はあなた方に要請されてコーチになったのではなく、加茂さん
に呼ばれたのだ」と。

 恩人・加茂に対する義理と自分のボスを切った上層部に対する反骨
心。「岡田なら断らないだろう」と場当たり的に監督就任を要請して
きた協会上層部に対する「なめられてたまるか」というプライドも彼
のなかで頭をもたげたに違いない。

 一国の代表監督になる名誉は大きい。だが、岡田が監督要請を受け
たのは野心的な利己のためではない。彼は自分なりの筋を通そうとし
たのだ。ただし彼の“筋”は義理人情に縛られることではなかった。
日本サッカーがW杯に出場すること。そのために何がベストか……。


 遠く離れた中央アジアに新しい監督を呼ぶことはビザの関係からも
無理だった。もし岡田が固辞すれば日本は監督不在で戦わねばならな
い。しかもこのチームを加茂とともに3年間つくってきた蓄積もある
。

 いずれにしても岡田は次のウズベキスタン戦まで暫定的に監督を引
き受けるしかなかった。事実、この時点では日本へ帰れば次の手(新
監督)が打たれる可能性が高かったのだ。

 翌10月6日。何かが変わっていた。空気がピンと張り詰めている。
紅白戦では実戦さながらのタックルが浴びせられ、何度も選手が倒れ
た。その緊張感の発信源は岡田監督。少し動いてはゲームを止めて、
「そこまで動いて駄目ならサイドへ出せ!」「OK!そのままやるぞ
!」と厳しい口調で檄を飛ばす。誰よりもいちばん声を出し、走り回
って、ピッチを引き締めていた。

 あとになって岡田は「選手に精神的なタフさを植えつけるために練
習ではファウルを取らないようにした」と明かしたが、この日を境に
日本代表のトレーニングは、とても大事な予選の真っ最中とは思えな
い激しいものとなっていった。

 練習後、岡田は「ミーティングで気合を入れすぎたかな」と笑いな
がらも、「1対1でファイトしない選手は使わない」「練習が始まった
ら私語を慎め」「自分の荷物は自分で持つ」などと選手へ告げたこと
を話した。そして「根性主義と思われても困るのでこのくらいで」と
軽く笑いを取った。その顔からは前日の思い詰めた様子はなかった。
それどころか、落ち着いてすっきりとした顔だった。

 岡田は常々こう語っている。
「私はつねに目標を先に決めます。そこからその目標を達成するため
に何をすべきかを決めていきます」

 また、
「目標というのは手が届くか届かないところになければならない」

 突然降りかかってきた監督就任に、彼はまず自分の気持ちを整理し
、けじめをつけ、それから監督としての仕事、つまり目標(ウズベキ
スタン戦に勝つために必要なこと)を設定し、何をやるべきかを試合
までの日程のなかで具体的にスケジューリングしたのだ。それができ
たら、あとは行動するだけだった。

 だからこそ彼の顔から悩みの色が消えたのである。

 

「初めに話したのは精神論である」 

 
まず初めに手をつけたのが選手の意識改革だった。予選中、岡田は
「根性主義」ととられることを嫌がったが、帰国後「スポーツにおい
て根性とか精神とかいうのは古いと言われていますが、私が監督に就
任して初めに選手に言ったのは、戦術でも戦略でもなく精神論でした
」と明かしている。要するに戦う姿勢である。どんなに組織サッカー
を標榜し、高度な戦術を駆使しても、個々の選手が目前の相手と戦え
なければ、チームとして勝利を掴むことなど望めない。

 岡田が「1対1でファイトしない選手は使わない」と告げ、練習では
ファウルすらとらなかったのは、戦術に凝り固まった選手たちに、も
う一度原点である「ファイトすること」を思い出させるためだったの
である。その結果、西澤明訓、中西永輔の2人が負傷で離脱する事態
となったが、岡田監督は「11人になるまでやる」と練習を緩めること
はなかった。
 
“希望”という文字を最後まで捨てなかったのは、選手でもマスコミ
でもなく、サポーターたちではなかっただろうか。今予選で「背番号
12」が果たした役割は大きい。  
 もちろん根性論だけで勝てると踏んでいたわけではない。精神面の
立て直しと同時に、戦術面の再構築にも岡田は取り組んだ。ベースと
なる戦術は加茂前監督と変わらなかったものの、パターン化し、硬直
化していた動きをフレキシブルに転換した。その原点とも言えるのが
岡田監督がしきりにやったハーフコートのミニゲームである。狭いエ
リアのなかでは、じっとしていてはパスを通せない。一見、軽い調整
練習に見えて、選手たちはパスを出しては次のスペースへ動き、空い
たところに他の選手が入ってくる……といった繰り返しを続けなけれ
ばならない。ここで体得した動きが、この先、実際の試合で生かされ
ることになるのである。

 また選手の意識を統一するために、ミーティングでは、ビデオを見
せ、問題点を指摘しながら次の戦い方を指示した。そうしたことを一
つ一つ地道に積み上げていったのだ。

 W杯出場が決まったあと、「岡田マジック」などという表現がもて
はやされたが、彼がしたことは決してマジックなどではない。

 彼は一つ一つ手順を踏んで、その結果として偉業を成したのだ。岡
田監督はその能力に長けていたのであって手品を使ったわけでも、ま
たサッカーの戦術において突拍子もないアイデアを出したわけでも何
でもなかったである。それをマジックと言うのは怠慢者の言い草だろ
う。何かを成し遂げた者は、その陰で必ず地道な何かをしているもの
なのだ。

 称えたいのは岡田監督の人間性だ。普通の人間ならパニックに陥り
そうな状況のなかで、冷静に情勢を見極め、チーム状態を把握し、相
手の分析をし、自分の能力までも含めて、正しく判断できた岡田の器
の大きさにこそ、私は感銘を受ける。

 そして、もう一つ付け加えるならば、彼には行動力があった。決断
力と言ってもいい。初采配となったウズベキスタン戦。岡田監督は中
田英寿、呂比須ワグナーという攻撃の中心選手2人をベンチに置いた
。彼は後半15分頃に2人をフィールドに入れるつもりだったという。
だが岡田は予定より7分早く中田と呂比須を送り出した。そして、そ
の2人の活躍で日本は同点に追いつき、勝ち点一を拾った。

 彼はいつも迷っていたと思う。第三者が想像するよりもずっと迷い
あぐねた揚げ句に決断していたに違いない。ただし、その決断は「え
いやっ!」という粗放なものではなく、集められるだけの情報を集め
、考えられるだけの分析をした末の決断だった。

 決断力とは迷わないことではない。散々悩み迷った末に、材料をき
ちんと分析し、冷静な判断を下す勇気のことなのではないだろうか。

 イラン戦直後のインタビューで「孤独でした」と思わず漏らした岡
田はのちにこう語った。

「監督というのは非常に孤独な仕事です。いろいろな人がサポートし
てくれたり助言をしてくれたりする。でも結局、決断を下すのは全部
自分なんです。誰も助けてくれない。この面でとても精神的な強さを
求められます」

 岡田はその強さを持っていた。
 そしてその強さは、自信が生んだ。

「四六時中サッカーのことを考えていた。夜に目が覚めてメモをとる
こともありましたよ。でも、その瞬間、『今、世界中でこんなにサッ
カーのことを考えているのは俺しかいないんだ』と思うと、不思議に
自信が湧いた」

 試合中、彼の下す決断は前向きなものが多い。サッカー的に言えば
「攻撃的」である。それは加茂前監督とは対照的なものだった。前監
督の選手交代は、あの韓国戦の秋田豊投入に象徴されるように守備固
め的な交代が多かった。いや楽勝だった緒戦と韓国に逆転されたあと
のFW投入以外はすべてそうだった。だが、岡田は初采配のゲームで
攻撃的な交代をし、成功した。

「俺は1対1で戦えない奴は嫌いだ」
「俺のことをどう思おうと構わない。嫌だったら帰ってくれていい」
と選手に“啖呵”を切ったあたりにも岡田の性格が見える。

 彼はあの容貌からは想像し難いほど、負けん気が強く、大胆な性格
の持ち主である。だからこそ岡田が選んだ選択はつねに前向き、攻め
の姿勢がすべての選択の根底にあった。それを貫き通したことも勝利
に繋がった一因なのである。

「大胆かつ細心であれ、小心と粗放に勝利はない」

 私事で恐縮だが、これは私が座右の銘としている言葉だ。岡田武史
は、それをまさに体現してみせてくれた。

http://www.president.co.jp/pre/19980100/01.html


 

選手たちに伝えたいこと、選手と自分の関係、チームの中での自分の
立ち位置。どれをとってもアシスタントコーチの私には、
非常に参考になることばかりです。

"目標を設定し、何をやるべきかを試合までの日程のなか
 で具体的にスケジューリングしたのだ。"

これは、バスケットなどに限らず仕事でもそうですが、
目標を設定(ぎりぎり現実可能であるラインで)し、
そこからTo Doを細かく落とし込んでいく作業は、
目標達成に必要な、最初のプロセスだと思います。

それを明確にせずに進めていくと、予測と実際のギャップを
把握できず、修正の作業や分量も曖昧になってしまうため、
目標達成の確率が下がってしまうのでしょう。

試合の対策には外的要因(競合の特徴の把握や対策など)
も考慮に入れる必要があるかもしれませんが、
チームカラーの確立や強化には、内的要因、特にチームの
モチベーションや個々の成長具合などによって、
細かく対応することが必要かと思います。
それが、それぞれの精神面を育てるのだと思います。
それができない、もしくはそこに視点を置けない指導者は、
指導者の資格が無いと言っても良いとも思っています。
僕はそのくらい、個々に対するフォローを重視しています。


私が目の当たりにしているのは、日本代表ではなく、
一般的な中学生や高校生です。
代表のように選手同士の組み合わせ+αということではなく、
その個々をどうやって育てるかということが重要だと
いうところが大きな違いだと思います。
(代表監督の仕事なんて、想像もつかないですが・・)


”1対1で戦えない奴は去れ”

これも、技術的に足りないのか、技術は足りているのかに
よっても、対応は変わってくるのだと思います。
それを一概に「精神的な弱さ」といっては、それは
今後の指導には活かせません。
できないことの要因の
"集められるだけの情報を集め、考えられるだけの分析"
をした上で、その解決に望むべきでしょう。


1対1で戦えなければ、試合で勝てるわけがありません。
そんな選手は試合に出すことができませんし、指導者としては、
ではどうすればその選手を育てられるか、そしてその集結として
どのようなチームを作るのか。

ビジョンの明確化とそこに進むまでの戦術の細分化と実行
そして、モチベーションの共有。


その全体指揮者として、大きな責任を感じた3日間でした。

posted by miyagi-jr |14:38 | 高校生 | コメント(0) | トラックバック(0)
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