2007年06月30日
オシムを論じる前に、トルシエとジーコの功罪を考えてみよう。(ジーコ編)
トルシエが「規律」を代名詞とすれば、次の監督となったジーコに期待された代名詞は「自由」。 W杯での敗戦のショックもままらないまま、日本はトルシエの後任監督の擁立に動きます。 一時は日本人監督(山本監督)をという声が挙がるも、トルシエが日本に残した功績から外国人監督というのはほぼ規定路線であったと言えたのではないだろうか。 ヒディング(PSVの監督へ)、ヴェンゲル(アーセナル監督)という声が挙がる中、唐突に(少なくとも私にとっては)ジーコという声が挙がりはじめどんどん大きくなる。それからというものスポーツ紙などで連日ジーコ監督へという報道がなされ、TVでも次は誰か?からジーコはいつ監督へ?という具合にジーコ監督就任はいつのまにか規定路線へと・・・。 そして、7月22日ジーコ日本男子サッカー監督に就任。 初戦であるジャマイカ戦でジーコは中田・中村・小野・稲本の日本版「黄金のカルテット」をスタメンで起用してみせる(もっともこの呼び方はマスコミがファンを煽る常用文句のようなものでジーコ自身がこう言ったわけではない)。そして日本のファーストゴールがワンタッチプレイで展開された美しい連携より生まれたことから、ドイツへの大きな期待を抱かせるには十分な船出だったといえるだろう。ただし、この時1-1というスコアは日本にとって後に考えさせられるものとなる。 翌年、日本代表はキリンカップでひとつの転機を迎える。それまでジーコは秋田・名良橋・森岡・服部のベテランDF(森岡は若かったがw)の経験を重視し起用してきたが、アルゼンチン戦での1-4という結果からトルシエで重宝されていた宮本をはじめとした坪井ら若手DFを起用し始める。特に三都主を左サイドバックで起用するという賭けは一部のファンから最後まで非難されることとなった。しかし、このときのメンバーが山田を除き最後までジーコのスタメンとして起用されることになる。 またこの年、コンフェデへと出場した日本はフランス・コロンビア・ニュージーランドと対戦することとなるが、日本はニュージーランドの初戦こそ勝利するも続くフランス・コロンビアには敗戦。特にフランス戦では(厳しい日程の中日であったとはいえ)アンリ(後半出場)ら主力を温存されるという扱いをうける。この頃からジーコに対してファンでは賛成・反対の声が二分するようになる。(潜在的には反対派はすくなからずいたが、ネット上での批判等限られた) 04年、ドイツW杯初戦でオマーンにロスタイムでのゴールで苦勝する。しかしこの時一部のファンが解任デモを行い、その後も数回にわたって行われる。しかし川淵をはじめとした日本協会は(トルシエの時とはうってかわり)ジーコへの全面的支持を表明。とはいえジーコはアジア杯の結果次第では解任という空気が流れ始める。この年のアジア杯、日本は多くの主力が怪我などで呼べないという状態での参戦となる。いわゆる海外組は中村・川口のみで、予選では思わぬ伏兵オマーンに苦しめられる。なんとか予選を勝ち上がった日本であったが準々決勝のヨルダン戦ではPKの末勝利。しかも川口のスーパーセーブによる薄氷での勝利であった。また、次のバーレーン戦でも何度もリードされながら最後は逆転で勝利というピンチの連続であった。決勝こそ3-1であったが、この時の日本は準々決勝・準決勝とも敗れていてもおかしくなかったのは間違いない。 ただ、この時日本はきつい日程のほかにも中国サポーターからの激しいブーイングにさらされるなど、極めて肉体的・精神的に苦しい状況に合った。しかし、このときのブーイングが日本の控え選手に「日本を勝たせたい」という気持ちにつながり、海外・国内組といった溝がなくなりひとつのチームになっていたことを忘れてはいけない。 05年、日本はイランに勝てなかったものの予選1位でW杯出場を決める。そしてアジア杯王者としてコンフェデに出場し、ブラジル・メキシコ・ギリシャと対戦することとなった。日本は、同じく国内リーグ選手中心のメキシコに1-2で敗れると、最後のブラジル戦では絶対勝利が必要となった。この時中村の活躍によってドローとり、ギリシャ戦に勝ってはいたものの予選敗退となった。しかし、このときのブラジル戦での戦いぶりからW杯までに監督交代はなくなるとともに加地の活躍など後のドイツで戦うメンバーがほぼ決定されることとなった。 そして運命の06年、日本はW杯本番前にドイツをはじめとして親善試合をこなしていく。ただ、この時日本はゴール欠乏症とも言える状態といわれており、ジーコは連日シュート練習を選手に課していた。結果、W杯本番で日本はコンディションが最高潮から下がり始めた状態になる。オーストラリア戦での逆転負けをはじめ、日本は予選3戦とも後半途中には足が止まり不完全燃焼のまま1分2敗でW杯を終えることとなった。 ジーコは日本監督の任期が終わる時に広告代理店や放送キー局の都合で代表の試合日程等がきまっていくと日本サッカーを批判して去った。 ジーコの場合、私が思うのは彼自身が問題として考えれるのはほんの少しではなかったかという点である。 ジーコは常に日本協会からの雇われの身という立場から、強化日程や代表合宿には(希望はだすが)一切口を挟まなかった。これは彼自身の信条という部分であるというのはわかるが、監督である以上いいなりではなく最善をつくせるように努力とすべきであったと考える。たとえばアジア杯では結果こそ見ればよかったが、控えにDFがほとんどいなかったなど途中でけが人が出た場合どうなるか分かったものではなかった。もっとも、これは現在の日本代表にもいえる事ではあるが。 また、ジーコは極めて選手選考が閉鎖的であった。さらにその中でスタメンに起用されるのは常に同じメンバーが多かった。これはいわゆる海外組・国内組という考え方ではなく、スタメンとベンチ間の溝の深さが問題であった。日ごろの練習からスタメン(&試合でよく使われる交代選手)とベンチメンバーでは練習方法が違ったため実際の試合では新しく起用された選手が息を合わせにくく、実力が出し切れずに終わることが多かった。また、コンディション管理不足も彼の監督としての経験の少なさであったことは否めない。 しかしながら、そもそも監督としての経験がないジーコを選んだのは日本協会である。つまるところ、彼が監督として至らない部分があったのは(関東の試合しか足を運ばなかったこと以外は)すべて協会が(実際には指名した川淵が)責任を負うが筋というものではないか。「ジーコは監督として戦術を知らなさ過ぎる」等の批判は、そもそもそのような監督を選んだ時点で分かりきっていたことだし、それはジーコの責任ではない。また、よく聞くのが「もっとルールを作るべきだった」という意見だが、そもそもジーコはトルシエとは別の「自由」というコンセプトを日本にもたらすことを期待されて就任したのであって、それも彼自身の問題というより協会の強化方針が問題であるといえる。(つまり問題があれば首を切ればよかっただけであり、支持を表明するということはジーコが作ろうとしているサッカーそのものを日本協会として支持していたということになる) そして、ジーコは日本の多くの問題点を浮き彫りにさせてくれた。 たとえば代表の試合日程。彼自身が言い残したように今の日本は代表の試合が商品として扱われている。そのために協会が監督の選手選考にまで口を出すという越権行為が公然として行われている。(少なくとも有名な選手を入れて欲しいという圧力はかかっていた) また、海外の有力国との試合も問題が多かった。たとえば欧州で試合をやったチェコやコンフェデでのブラジルとの試合では主力選手が出場しなかった。またキリンカップでも多くの国で主力選手が招集されていない。 このような点で、ある意味ジーコは日本がこれから強くなるために必要なことを知らせてくれたと言えるだろう。 私個人としてジーコは監督として好きになれない。けれど、彼が監督として不誠実な仕事しかしていないかというとそうではないと考える。 上記にも書いたが、ジーコは彼なりに最善を尽くしていた。彼の監督としての至らない部分は元々彼が就任する時に分かりきっていたことであったし、そのことで批判するのは間違いだろう。 ジーコは監督として未熟であったが、未熟なのを分かっていながら代表監督就任を要請した日本協会こそこれらすべての責任を負うべきだ。代表監督がすべて悪かったなどと逃げて、批判している姿は非常に不愉快に感じる。現在監督のオシムを考える意味でも、参考とすべき点だろう。
posted by mishel |01:32 |
男子日本代表 |
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