2009年11月03日

パニック障害を乗り越えて

③日本ハム・小谷野栄一 

創価教諭・近藤省三氏(当時の創価高野球部監督)


 リトルシニアリーグで松坂(大輔)君と一緒にやっていたので入学したときからレベルが高かった。松坂君の活躍は刺激になっていたようですけど、そういうことを話すタイプではなかったです。当時から器用でしたね。ウチの生徒全般に言えることですが、彼も真面目でした。彼はあまり努力を人に見せないタイプだった記憶があります。

 大学時代も見ていますけど、ここまで活躍する選手になるとは思いませんでした。やはり、パニック障害を乗り越えたのが大きかったんじゃないですかね。苦しんでいるときに直接話す機会はありませんでしたが、だいぶよくなった時期に会ったときには「今大変なんです」と話していましたね。自分で障害の克服に取り組んだのだと思います。彼は障害を乗り越える忍耐力とか内に秘めたものを学生時代から持っていました。

posted by koshien2009 |16:14 | プロ野球選手「恩師が語るアマチュア時代」 | コメント(0) | トラックバック(0)
このエントリをlivedoorクリップに登録 このエントリをはてなブックマークに登録 newsing it! このエントリを Buzzurl に追加

2009年10月27日

育成枠から這い上がった努力の男

②巨人・松本哲也 

専修大学野球部監督・江崎久氏


 高校から入ってきたときから「将来は上(=プロ)でやりたい」と話していた。当時、(東都)2部だったんですけど、「自分たちが1部に上げます」と話していた。とにかく上を上を目指していた。あいつが主将の時、4年の秋に1部に上げたんですよ。まさに有言実行の男ですね。
 足と守備に関しては、山梨学院大付高時代からすでにプロレベルでした。松本の一番の特徴は、飛球を追う際、捕球ギリギリまでグラブを出さないこと。普通、外野手はグラブを出しながら打球を追いますが、松本は捕球の寸前までグラブを出さない。落下地点まで一直線に全力疾走ができるから守備範囲が広くなる。松本は高校時代からそれができていました。ただ、体が小さかったので、「まず体を作ることを考えろ」と言いました。

 本人はプロ志望でしたが、クラブチームから誘いがひとつ来ただけだった。そのレベルだったにもかかわらず、本人は「どうしてもプロでやりたい」と。お父さんも「育成でもいいから何とか入れるところはないですか」と言っていました。

 とにかく、なんとしてもプロになるという気持ちが強かったですね。育成枠で巨人に入りましたが、スカウトの藤本(茂喜)さんが押してくれて取ってくれたんです。当時は誰も気がつかないレベルの選手でしたからね。逆に言うと、藤本さんの見る眼がすごいということ。

 練習がとにかく好きで、小さい体でよくやっていた。努力でレギュラーを摑んだ選手ですね。ウチの子はみな影響を受けていますよ。今の中学生や高校生も「体が小さくてもやれるんだ」と彼を見ているんじゃないかな。

 大学4年の時は主将としてチームを引っ張ってくれた。副主将だった長谷川(現ソフトバンク)は静かな男で黙々と練習するタイプなんですけど、対照的に彼はよく声を出してチームをまとめてくれました。スカウトの方はそういった部分も見てくれていたと思います。
 
 (松本からは)今でも頻繁に電話が来ます。彼から後ろ向きなことは一度も聞かされたことはないですね。常に前を向いています。今後ですか? 私は1年でも長くやれたらなと思っています。

posted by koshien2009 |11:11 | プロ野球選手「恩師が語るアマチュア時代」 | コメント(1) | トラックバック(0)
このエントリをlivedoorクリップに登録 このエントリをはてなブックマークに登録 newsing it! このエントリを Buzzurl に追加

2009年10月21日

新シリーズスタート!!あの選手のアマチュア時代を恩師が明かす

①日本ハム・高橋信二

津山工業野球部監督(現在は水島工業教頭)・赤木恭吾氏

 高校時代の彼は個人的にはプロを目指していましたが、それが実現するかはわからないレベルでした。2年生のときは、ひとつ上の先輩に駒澤大学から日本通運に行って活躍した選手がいたことからファーストだった。そのためプロのスカウトの方は興味を示さなかったんです。肝心の3年生の時はチームとして成績がイマイチで、プロのスカウトの方に情報が上がらなかった。ですから、東北福祉大に進学希望でした。セレクションを受けてOKをもらっていたのですが、ドラフト近くになって急遽、日本ハムから指名すると話があったのです。当時の彼は体が細かったので、名門大学で鍛えてからプロを目指した方がいいと思っていました。周囲は大学進学をすすめましたが、本人がどうしてもやりたいということでプロに送り出しましたんです。大学に相当する4年間でどれだけ頑張れるかという話をよくしましたね。
 
 ドラフト7位の入団、ましてや名の通った高校ではないですし、甲子園にも出ていない。我々が知らないところのでの苦労は並大抵ではなかったと思います。でも、彼にはそれを克服する努力とメンタリティがあった。同期は8人いましたが、今でも残っているのは小笠原(道大)と高橋だけ。頑張っていると思います。
 
 彼は常々「人との出会いに恵まれた」と話していて、その出会いを力に変えています。そのひとつがトレイ・ヒルマンさんとの出会い。2年目の11月にアメリカでヒルマンさんと出会った。当時の日本ハムはヤンキースと業務提携していて、若手選手をヤンキース傘下の3Aのチームに派遣していた。そのチームの統括コーチがヒルマンさんで、彼の指導により飛躍的に技術が向上したそうです。
 
 入団4年目の最終戦で初打席初安打を記録し、当初の目標は実現できましたが、その後も出番に恵まれなかった。そうして7年目の時にヒルマンさんが監督になった。キャンプで会ったときは、むしろヒルマンさんのほうが高橋のことを覚えていたそうです。彼は「ヒルマンさんとの出会いがなかったらここまでなっていなかった」と常々話しています。
 
 同郷の先輩である川相昌弘さんの存在も大きかったそうです。川相さんには折に触れて相談に乗ってもらったそうです。川相さんが巨人を離れる年のことです。川相さんが日本ハムの練習を見に来てくれて、「(俺は)降りるからな。お前が岡山の代表としてがんばれ」と激励されたそうです。川相さんの激励は大きな力になったそうです。これは本人が言ったわけではありませんが、恵まれない体にもかかわらず巨人で活躍したという努力の部分に共感したのだと思います。

posted by koshien2009 |18:25 | プロ野球選手「恩師が語るアマチュア時代」 | コメント(0) | トラックバック(0)
このエントリをlivedoorクリップに登録 このエントリをはてなブックマークに登録 newsing it! このエントリを Buzzurl に追加