2008年06月11日
この6月、サッカーにうつつを抜かしている間に、東京秋葉原で痛ましい事件、そして絶対に許せない出来事が起こった。録画を見る前に、EUROの結果を知ってしまわないように、TVニュースや新聞・ネット報道を意図的に避けてしまっていたがために、事件の詳細を知るのがだいぶ遅れてしまった。そしてそれによって、今になって大きな衝撃と憂鬱に苛まれている。
今はひとつひとつのコメントに対応する気力が少し足りていないので、このエントリーがそれに対するレスポンスと認めていただければと思う。
以下にAWAYオマーン戦の要点をまとめたい。
後半に日本の攻撃が活性化したのは間違いないが、だからといって僕は、前半が評価できない…とはまったく思わない。むしろこの後半立ち上がりの猛攻のための前半であったとも理解するのだ。
ご存知のように酷暑の中、まだ昼の日差しが残る厳しい環境の中で、前半は始まった。しかも日本からオマーンへの気候も時差も異なる長距離移動含めての中4日の試合。もちろん90分攻め続けて気持ちよく勝ってほしい…という願望は判らぬでもないが、僕は正直ダラダラとした展開の中にも勝負の20分、25分という時間帯を定め、“メリハリ”の利いた試合運びを見せて欲しいと願っていたし、実際後半開始直後は“それ”を見事に展開してくれたと思う。
彼らの意識の中に、前半は少しセーブして後半勝負…のようなコンセンサスがあったのかどうかは判らないが、前半はしっかりと機能していたオマーンの自陣でのプレスが、後半は足が止まり綻びだらけになっていたことも考慮に入れなければならない。それも踏まえれば、後半は良かったが前半は悪かった…という評価は必ずしも当たらない。あの前半があって、後半があるのだ。この3次予選の経過があって、この試合があったように。僕はそこに3次予選の戦略として、この試合のゲーム運びとして、なんら誤算なかったと思う。ただ一点、前半の早い時間帯に失点してしまった…という事実をのぞいては。
海外のサッカーを引き合いに、僕は常々この場で書き記してきたが、日本のサッカーにはこの“メリハリ”が足りない。90分をゴール目指して、ただ猛然と攻めきるのが良いサッカーで、強いサッカーだと妄信し、思考停止している部分があるように思うのだ。そして見る側も疑いなくそれを要求する。日本のゲーム運びが、未だ中東と比較してさえ拙いのは、そんな僕ら見る側の視点の拙さでもあると考える。
イタリアやブラジルの試合運びを見れば判るはずだ。
彼らは90分の試合の10分、15分を勝負どころと定めてキッチリと仕留めにくる。そしてムダな“労力”は浪費しない。1-0で良い試合は1-0で良いし、0-0で良い試合は0-0で良いのだ。だからこそまた、厳しい過酷な条件、連戦に次ぐ連戦をくぐりぬけて、最後の栄冠まで辿り着くことができる。要するに彼らは“効率的”なのだ。
意識的か無意識かは判断しかねるが、この試合の日本は“効率的”だったと僕は思う。そしてまたオマーンも、日本相手にホームでカンタンに勝ち点3をくれるような貧弱なサッカーではなかった。歴然とした力の差はありながらも、彼らは“効率的”なサッカーで、しぶとく90分をしのぎ切る意地を見せてくれたと思う。
たとえオシムが監督であっても、結果がどちらに転んでいたにせよ内容的にはこれとほぼ同じものであったと僕は思う。2007アジアカップでの試合と比較しても、このAWAYオマーン戦は同じような厳しい環境の中、同等のサッカーが展開できていたと僕は考える。
また押し込みながら得点できないことに関して言えば、では、どうすればこのような引かれた相手に対して簡単に点が取れるだろうか?別にオシムや岡田さんだけではない。世界中のあらゆる強豪、名将たちが、あいも変わらずこの問題に直面している。クローゼやイブラヒモビッチ、トーニのような日本人がいれば、アジア相手に多少はやりやすいのかも知れない。クリスチャン・ロナウドやメッシが居れば、アジアレベルであればどうにでもなる話なのかも知れない。が、そんな日本人がいないのであれば、やはり前線から動いて、連動して、スペースを作り、それを使うしかないのだと思う。が、相手の力量によって、それは読まれたり、封じられたり、対応されたりする。そこで今度はその動きと連動に、さらにスピードと精度が求められるのだろう。
1年ちょっとの任期でそれはオシムに出来なかった、岡田さんにもまったくできていないじゃないか…の前に、ニッポン人に出来ていない事柄なのだと僕は思う。
サッカーの監督は手品師でも超能力者でもない。無いモノを突然にその手から生み出したりはできない。今在るものをよりよく調和させ、用途によってアレンジを加え、そして作り変えてゆくものだと思う。もちろんその技量に巧拙があり、その趣向に好悪があるのは当然のことなのだが、それはオシムの壁でもなく、岡田武史の壁でもなく、ニッポンの壁なのだと僕は思う。たまたまそこに岡田武史がぶち当たっていたとして、僕はそれを彼の責任であるとは思えないのだ。
そしてさらにはその先に“決定力不足”なるこの宇宙の普遍のサッカーの命題が聳えている。よくTVや新聞報道で『決定力不足が解消されず…』という文言を目にするが、それはあらゆる世界でサッカーがある限り根本的には解消されない問題なのではないだろうか。サッカーを語るに置いて、これほど不毛な文言は無いと僕は思う。
そして最後に、今の岡田ジャパンの実力はどれぐらいのものなのか?
要するに前回のエントリーで、
オシムジャパン≧岡田ジャパン>トルシエジャパン>ジーコジャパン
を僕個人のカンカクで語った。議論すればこれはとても面白みのあるお題なのだろうが、ここでは自分の意見を述べるだけに留めておく。
この10年で日本は世界の先端からはさらに離された…と思うが、日本のサッカーそれ自体は大きく進歩したと思う。プレースピード、フィジカル、動きの効率性、そして球際の強さ、選手個々のタクティクス…それらすべてが少しずつ磨かれ、成長したと思う。
例えばいまトルシエに代表監督をお願いして、今現在の選手と、あの当時の選手の中から、好きな者を11名選べ…と言えば、2002年から選出されるのは、中田英寿と柳沢敦の2人だけではないかと僕は思う。楢崎正剛、中澤佑二、さらに中村俊輔、そしてもしかしたら明神智和、選ぶとしてもトルシエとて2002年の彼ら…ではなく、2008年の、今現在の彼らの方をチョイスすると僕は思う。それぐらい日本人選手はこのトルシエから数えても6年の間に大きく成長したと思うし、強くなったと思う。
岡田武史さんの能力がトルシエよりも高いかどうか、今現在の日本に合っているか、合っていないか…は別として、チームとしての2008岡田ジャパンは、2002トルシエジャパンを凌駕してもまったく不思議はない。少なくともあのバーレーン戦のような試合をしない限り、キリンカップ以降の状態で戦える限り、僕は岡田ジャパンの優位を予想する。
おまけに一言つけ加えれば、僕はこれまで世界のサッカーを“監督”に焦点をあててずっと眺めてきた者の一人なのだと思うが、僕も含めて“監督”の力を過信しすぎるニッポン人のサッカー観には少し違和感を覚えたりもする。一国の国代表監督の能力が強化やその結果に及ぼす影響力というものを過大に捉え過ぎているのではないか…と感じる部分もあるのだ。オシムのこの国の未来を見据えたやり方を僕は心から賞賛する。けれどもだからといって2010年の南アフリカで何かを成し遂げた…とも安穏と思えない。
例えばモウリーニョが日本代表監督になれば日本は1年で強くなるだろうか?モウリーニョに監督になって欲しい人はたくさん居るだろうが、ではチェルシーのサッカーと、ポルトのサッカー、どちらが本当のモウリーニョのサッカーで、日本はそのどちらかのように戦えるのだろうか?
僕から見ればキリンカップ以降の岡田ジャパンは、文句なく及第点をあげられるデキだと思う。
そして、むしろそれ以上に僕らが厳しく目を向け糾弾すべきは、スポーツとしての倫理と商業主義の横暴との間の均衡を保つどころか、財団法人としての公益を忘れ、営利の側に分別なく加担し迎合する、JFAのその立ち振る舞いなのではないだろうか?
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posted by 桐谷 |
11:53
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2008WCアジア予選 |
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2008年06月09日
今回のEURO2008の組み合わせを見て、ファンの興味を一番惹きつけるグループはやはり“死のグループ”とも言われるC組(オランダ・イタリア・ルーマニア・フランス)なのだと思うが、僕にとってもっとも興味深く、見逃せない組み合わせ…となっているのが開催国スイスの組み込まれたA組である。
基本的に僕は、サッカーを個人ではなく、チームや戦術で見たいタイプなのだと思うが、その中でも特に監督というものにフォーカスして、ひとつひとつのゲームや大会を見てきた…といえるのかも知れない。
そんな中で、引退宣言されたカレル・ブリュックナー率いるチェコが見たかった。2000年UEFAカップ決勝、ガラタサライを率いてベンゲルのアーセナルを叩いたファティ・テリム監督の現在(トルコ代表)を確認したかった。そして2006年ドイツワールドカップにおいて、僕の記憶にもっとも鮮烈な驚きを残してくれたコビ・クーン監督(彼も今大会で引退)率いるスイスのサッカーを再確認したかったし、また、このタレントの質・量があれば誰が監督をやっても…と思えなくもないのだが、いつだって楽しいサッカーを見せながら上位にまで進出して大会を盛り上げてくれるフェリペ率いるポルトガルも見たかった。他にもスウェーデンのラーゲルベック監督、ロシアのヒディンク監督、そしてまたある意味趣向の範囲外でギリシャのレーハーゲル監督が導き出すその“結果”にも注目していたりもするのだが、僕にとっての最大の見所は、やはり名将の豪華な競演ともいえるA組なのだ。
そして迎えたこの開幕戦、スイスVSチェコ。
やはり往年の迫力はすでに失われたと見受けられるチェコが、組織サッカーをさらに進化させたスイスの、その磐石の厚い守りとシステマチックなプレスをかいくぐり1点をもぎ取りそのまま逃げ切った。
この試合に関して言えば、僕はむしろスイスの方に好感を持ったし、また勝たせたい…とも思ってゲームを見ていたのだが、決定機をことごとくチェフに防がれ、またそれでも前がかりに攻め込もうとDFラインを上げて行ったところで、コラーからスピードあるスベルコスに変えられ、裏のスペースを狙われた。最終的にはセットプレーからのオフサイド崩れによる失点だったと思うが、ゲームの流れが変わったのはこのスベルコス投入を契機としたものであったように思う。
どんな名将であったとしても、采配・選手起用とは当たったり当たらなかったりの“気紛れ”なものである。が、たとえ失敗に終わったとしても、そこにゲームを動かしてみるだけの“理”が在ったのかなかったのか…?僕はそれで“采配”そのものを評価する。大会緒戦、後半の早い段階でチームの大黒柱ともいえるコラーを下げたこの采配は、信頼あるブリュックナーでなければできなかったことであると思うし、実際あのままその成り行きを見守っていたとしたら、結果どうあれ、チェコは後半の最後までスイスの圧力に押し込まれてしまっていただろう。
この試合に関しては、ブリュックナー監督のスベルコス投入には確かな“理”があったと僕は考えるし、実際にその“采配”が勝利を導いた…と言えるのかも知れない。
スイス側から見れば、ある意味開催国として“勝たねばならない”重圧からくる悲劇であり、またその優位なゲーム内容の手応えから来る焦り…でもあったのだと思う。フレイを失ったショックも当然大きいだろう。3ゲームリーグの緒戦で、勝ち点0に終わることがどれだけの痛手かは僕も充分に理解するが、彼らの戦いぶりは、その完成度は、やはりグループA随一のものであったように思う。チェコとポルトガルがすんなり決勝進出を決めるか、或いは次のスイスVSトルコ戦でどちらかがその2チームに対する挑戦権を得られるかどうか…。このグループはまだ終わってはいない…と僕は思う。スイスの奮起に期待したい。
また今後、スイス15番フェルナンデス(マンチェスターC)のその激しくも献身的なプレーぶりにも注目して見守ってゆきたいと思う。まだ21歳、地味な役割ながら豊かな将来性を感じさせるタレントである。
またポルトガルVSトルコの試合は、互いに攻撃的なスペクタクルなシーンを数々披露してくれた。ある意味ポルトガルが勝つべくして勝った…と言えるのかも知れないが、僕はむしろこの10年のトルコサッカーの躍進振りが強く印象に残った。そして彼らはもうすでに日本の手の届かないところまで到達してしまっている…というこの現実に、大きなショックを受けた。
僕らが東南アジアや中東の小国と戦っている間に、彼らは欧州列強と日々しのぎを削る真剣勝負を繰り広げている。それはJリーグと、ガラタサライやフェネルバフチェ、ベシクタスを擁するトルコリーグとの必然的な、そして歴然たる“格差”と言えるのかも知れない。そして彼らにはさらにUEFAでの厳しい戦いが在るのだ。
Jリーグ、そしてニッポンサッカーにはもっと切迫した“危機感”が必要なのではないだろうか。
WCに出場すること…と世界に追いつくこと…とはイコールでは結ばれない。これは現存のFIFA・AFCの枠組みの中で、日本代表の問題として考えるには自ずと限界があるのだ。
僕はJリーグこそが、変わらなければならない…のだと確信する。少なくともJはトルコを目指す、メキシコを目指す、それと同等かそれ以上の質を目指す。そしてその為の強化の方向性を今すぐに探るべきだ。11ミリオンという数字に、具体的に何の意味があるのかは僕には不明だが、リーグが強くなり、サッカーの質も上がれば、きっと代表も強くなるし、自ずと観客動員も増えるだろう。数字のトリックに夢うつつを抜かしている暇が在るならば、もっと本質的な事柄に取り組んでゆくべきである。
もしJリーグ自体が変わらないのならば、僕らは100年経っても欧州や南米の後塵を拝したままでいるか、或いは有能な選手たちをすべからく海外へ輸出することで、結果的にはJそのものを消耗させてしまうより他ないのだ。そのどちらをも拒むとするならば、やはりJそのものが本質的な“改革”に取り組まねばならないのだ。
………と、ここまで書いた所で、ふと我に返る。
確かEURO開幕にあたってのエントリーではなかっただろうか…。
なぜ今ここでイレブンミリオンなのか、Jリーグ改革なのか…話がここまで脱線してしまってはもう後戻りは効かないし、時間もない…。
とにかく最後にクリスチアーノ・ロナウドに一言。
この1、2年で本当に成熟した。プレーに無駄がなくなったし、その判断に誤りもなくなった。
けれども僕は、彼だからこその“トライ”が見たい。
突き抜けた“何か”をさらに期待したい。彼にはいつまでもそういうプレーヤーで居て欲しいと思う。そしてシモンに何か弱みでも握られているのかも知れないが、とりあえずFKはお前が蹴れ…と、そう付け加えておきたい。
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EURO2008 |
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2008年06月06日
*2008年6月4日(水) オシム会見前文/スポーツナビ*
生きていれば当然のように出会いと別れがあるもので、時としてそれは、互いに予定せず、不意打ちのように突きつけられる現実すらあることを思えば、こんな別れであっても、せめて心の準備期間だけは与えてくれた、この運命に感謝したいと思う。
会見の全文を見る限り、JFA側としては“日本代表が欧州に遠征した際にはお世話になりたい”との意向のようだ。実質的にこのEUROを期にオシムには欧州へ帰還してもらい、あとは残り半年の契約の範囲内で、日本のサッカー界への助言なり忠告を乞う…とのことなのだと思う。この現状であれば、それは双方にとってきっと良い選択なのだろうと思う。
会見で語られたひとつひとつの言葉。
冗談や隠喩、そして意地のワルい皮肉や箴言…またこれまで決して語ることのなかった、その心に秘めた夢や感傷のかけら…のようなもの。
僕のようなものが、それに手垢をつけて汚してしまうことは躊躇われるので、ここではその一切に触れずに、自分自身の心に仕舞い込んで封をしたいと思う。皆さんも、どうかこのオシムの惜別の言葉をそれぞれの胸に深く刻んでください。
僕らはここでひとまずイビチャ・オシムと別れるのかも知れない。
確かにこれは別れなのかも知れない。
心は晴れ晴れとしていても、鼻の奥をツンとつく痛みがあるから、きっとそうなんだろうと思う。
けれども僕はふとこんなふうにも思うのだ。
僕らが、本当のオシムに出会うのは、きっとこれからなんだろうと。
10年先、20年先、いや、もしかしたらもっと先に、僕らはこの国で本当のイビチャ・オシムに出会う。
ピッチを駆け巡る子供たちの、その楽しげな躍動するサッカーの中に、年老いた僕らは再び、オシムを見出すのだ。
子供たちは絶え間なく走り、強く弾き出されるボールは、さらに、回る。ボールを奪うことに腐心する前に、ボールを渡さないことにサッカーの純粋な、普遍の喜びを見出す。そして、自陣ゴール前をガラ空きにしてでも、先を競って敵ゴール前になだれ込んで行く。
何度でもトライする。失敗をおそれない。負けを負けと認めない(笑)。そしていつだって夢と希望を見失わない。この国のどこかの街のデコボコの土のグランドの上に、陽光に照らされた輝く青いピッチの上に、いつか僕らは、ほんとうのイビチャ・オシムに出会うだろう。
僕はその日を楽しみにしている。
その日までずっと、サッカーを好きでいようと思っている。
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オシムJAPAN |
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2008年06月04日
『日本が強かったというより、オマーンが弱すぎた』
『結局は個に依存した攻撃スタイルとなってしまった』
『アジアでは戦えるがWC本選では勝負にならない』
前回のオマーン戦についてのエントリーで、現岡田ジャパンに対する幾つかの厳しいコメントをいただいた。大きく要点は以上の3点であり、実は僕自身も、まったくそれを否定しないし、その通りである…と思っている。
正直オマーンが、あんなにもダラシないチームであるとは予想していなかったし、今のままの日本であれば、よほど組み合わせに恵まれでもしない限り、WC本選で欧州や南米やアフリカのサッカーを退けて、決勝トーナメント進出を果たせるとも思っていない。そしてその前に、アジア最終予選でさえ五分五分の可能性を切り抜けてゆかなければならないものと思っている。
そしてそれは誰が監督であったとしても、確率的には大きく差のないもの…でありながら、サッカーを知るものであればあるほど、オシムに対する夢や希望もまた一方ならぬものであったこと…を、僕は深く理解する。
極論でもなんでもなく僕は素直にそう思うのだが、往々にして優れた選手たちにとって“監督”とは、正の存在なのか負の存在なのか…それさえ疑わしいものと思っている。中田英寿、中村俊輔、中村憲剛、遠藤保仁、中澤裕二…日本を代表する賢き優れた選手たちならば尚更だし、その“監督”なるものの選者が、腐った政(まつりごと)に憑かれ羞恥を忘れた政治屋か、或いはそれに傅くだけの、魂を失った政治屋の使用人であれば、さらに尚更である。
よくジーコは選手の自主性に任せた…と言われるが、それは平時の親善試合やテストマッチの類であって、己自身が硬くなるような真剣勝負の場においては、選手たちはいつも不自由で不合理な“禁則”やフォーメーション、選手起用の“ミスマッチ”に苛まれていた。少なくとも僕の目にはそう映った。
そしてそんなことであれば、もしオシム本人、或いはオシムのような奇跡の再来が見込めないものとすれば、僕はやはり腐った選者の見立てによる“監督”など要らない…と思うし、そんな仕様がやはり認められないとするならば、今在る監督と選手の間で芽吹きつつある“中庸”というサッカーの在り方を、今後模索してゆくことに一縷の望みを見出すのである。
そして国代表のサッカーとは、本来そういうものなのではないだろうかと思っている。
以前にも一度ここで書き記したことがあると思うが、オシムが築いたもの、この国に築こうとしていたものは、華美な城郭…ではなしに、僕は土台だったのだと思う。水害や震災、火災やその時代時代の流行に左右されない、この国のヘソ、揺るがぬ地盤の上にその堅固な土台を築くために、彼は人生の最後にこの4年間の挑戦に賭けたのだと僕は思う。
そしてそれは、見栄えの良いばかりで必要の無い“橋”や“道路”を架けて自らの業績を鼓舞するような、政治屋的立ち振る舞いの対極にあるもので、例え見栄えはパっとしなくとも、健全な未来の為に今不可欠な“環境”“医療”“教育”といった、未来に繋がる投資を意図したものであったのだ…と僕は考える。だからこそ、あのアジアカップにおいて、刹那の勝利よりもその先にある成長を見越して、過酷な環境の中、どこまでも厳しく、子供たちを追い込んでいったのだろう…と。
彼は自らの手柄のために、オシムという色で異国の代表を染め上げようとは決してしなかった。
彼は自らの限られた時間の中で、この国にただサッカーにおける普遍(土台)のみを築き、あとは皆で考えなさい…と、4年後に厳しい現実を遺して静かに立ち去るつもりだったのではないだろうか…と、僕はそんなふうに思うのだ。
一番カンタンなようで一番難しいこと。それは自らを知ること…であると僕は思っている。自らに不都合で、そして不愉快な“現実”を知ること。僕はそれこそが哲学の原理であると思っている。そしてそれは、本来誰かから教えられるもの…でもないのだと思う。
セカイは限りなく広い…。
僕が知り得たセカイなど、きっとそのセカイの尻の半分…ぐらいのものでしかないだろう。
が、その半ケツのセカイしか知らない僕が、そのセカイについて、あえて言わせてもらうとするならば、ミケルス、サンターナ、メノッティ、サッキ、クライフ、ベンゲル、ゼーマン、ヒディンク、ビエルサ、トップメラー、ブリュックナー、オレアリー、テリム、クーン…優秀なサッカーの指導者はセカイに数々在れども、一切の虚飾・虚栄を顧みることなく、己の信ずる理に没頭し、ニッポンの為に、命がけでそれを成そうとする者など、オシム以外に誰一人居なかったと思う。
1993年のドーハでの出来事が、近代日本サッカーの“ビッグバン”であったとすれば、オシムはそこに誕生したニッポンという小惑星が初めて巡り合った“太陽”だったのかも知れない。そしてそのまばゆい“太陽”光に、照らされて輝くか、或いは輝かないか…は、きっと僕ら自身の問題なのだろう。
そしてこのちっぽけなブログに寄せられた皆さんの日本サッカーに対する厳しい見方こそが、それによって照らされよう、或いは自らで輝こう…と必死で足掻く、どこまでも往生際の悪い、この国のサッカーに対する愛情の表現…なのだと僕は思う。
この冷たい現実に、僕らは今一度向き合わなければなければならないのだ。
きっと僕自身を含めて、オシムという“奇跡”にいつまでも執着していてはならないのだと思う。
この過酷な現実の中に、またニッポンのサッカーに対する新たな“夢”と“希望”を見出さなければならない。その為に、僕らは今日もサッカーを語るのだ。無自覚か自覚的かはひとまず置いて、今日も明日もここで、そしてどこかでサッカーを語り、サッカーを想うのだ。きっといつか、そこに再びの“奇跡”を見出すことを信じて。そしてそれが“奇跡”でもなんでもなくなるその日まで、僕らは執拗にサッカーを語り倒していくのだと思う。
いつも皆さんからいただくコメントと関心に、心から感謝いたします。
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JFAについて |
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2008年06月03日
技術、戦術、闘争心、そして結果…。
岡田ジャパン発足以来、最高のゲームができたと思う。
内容についてはすでに各所で語りつくされてもいるだろうし、今更僕が新たに書き加えられる視点などもないのだと思う。最終ラインから3列目、そしてトップまでが顔を出し、まずは丹念に繋ぐ。そしてアタッキングサードに至るゾーンでシフトアップし、中村俊輔、松井大輔が勝負のパス、仕掛けを繰り出す…。そんな折り目正しいポゼッションと攻撃への適正なシフトアップができて初めて、最終ラインからの勝負のロングフィードも有効となるのだ。岡田さんのコンセプトと選手達の習性と対応力がうまく調和された、素晴らしい内容と結果であったと思う。
バーレーン戦から2ヶ月、岡田武史さんも尋常ではない重圧とここまで戦ってきたことだろうと思う。ただ戦術を説き、それに選手を従わせるだけでは済まないこの日本代表監督というものの職責の重さ、その孤独さを、真に理解しながら、これを引き受けた勇気と、逃げずに闘おうとするその強い意志に、改めて心からの敬意を表したい。
『攻撃に関してはおまえらに任せる。…が、守備はこの前からのプレス、フォアチェックを徹底して追及してくれ』
岡田さんは否定するかもしれないが、この試合を見る限り、僕は彼から選手たちへあてた、そんな大人びたメッセージを読み取ることができた。これまでの日本の、ある意味未熟な選手たちは、その時々の指導者の方針によって“極から極”へと流れ、翻弄されてしまっていた感もあるが、ここへ来て自らの美意識、おぼろげながらもニッポンサッカーのアイデンティティを軸とした、成熟した“中庸”の価値観と行動様式を身につけつつあるのかも知れない。
岡田武史とこのチームが、この2ヶ月間の困難と苦しみを通し、そこから得たこの“調和”という合理、“中庸”という果実を、お互いのコンセンサスの上に今後更に実り多きものへと育んでいってくれることを願う。
特に3点目は、岡田ジャパンを象徴する、泥臭さと美しさが調和した、感動的なゴールシーンだったと思う。
またこの日のオマーンは、その実力も、そしてその戦い方も、非常に中途半端なチームだった。もし10人でゴール前を固めるようなベタな闘い方をすれば、そして日本の厳しいプレスの前に下手に繋ぐのではなく広いスペースに徹底してロングボールを放り込んでいたならば、この内容や結果も少しばかり違ったものになっていたのかもしれない。ある意味では、あのバーレーンVS日本戦が、彼らの現状認識やその判断を曇らせた…と言えるのかも知れない。そして彼らは日本の地力を見くびり、自らの実力を過信したとも言えるだろう。
ひとつの大きな山は越えたが、もうひとつアウェーの大きな山を越えなければならない。この戦い方でいく限り、そして相手の実力を推し量る限り、真の敵は、オマーンよりも“暑さ”なのだと思う。
当然対策を考え、ぬかりなく手当てして試合に臨むのだろうが、くれぐれもあのバーレーン戦のような策に溺れる試合にだけはして欲しくない。もしどちらかに“振る”のであれば、それはポゼッション側に“振る”べきだろう。そして何よりもボールを大切にし、前に急がず、敵に“走らせるサッカー”を見せて欲しい。
この試合を見ながら、オシムと闘ったアジアカップの日々を思い出した。
あの時、もし闘莉王が居たなら?
長友佑都が居たなら?
松井大輔が居たならば?
そして大久保嘉人が居たならば…?
その結果も大きく変わっていたのだろうな…と思ったりもする。そしてそれだけ、今の日本は強いのだ…と確信する。五輪予選を見ていても同様である。アジアにおいては、日本の地力もすでに相当なものなのだろう。
この先がどんなに険しくとも、遂にここまでは来れたのだな…とあらためて想う。
長沼健さんのご冥福を祈ると共に、今日のこの日の日本サッカーの勝利を心から祝福したいと思う。
あの日からずっと繋がっている。あの日の前のずっとその以前から繋がって、今のニッポンのサッカーが在るのだ。
在任中は様々なことがありながら、JFA会長の座を退いてからの、彼の日本サッカー界の未来を見据えたその苦言と、ハンディキャップサッカーの普及に一途に情熱を注いだその“晩節”に心からの敬意を表したい。彼らの功績と日本サッカーに対するその人生を賭けた挑戦が成し得た“奇跡”を今一度噛み締めながら、この6月のニッポンの戦いを見守りたいと思う。
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2008WCアジア予選 |
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2008年05月28日
皮肉なことに、岡田体制の影響をここまで受けずにいられた中村俊輔が主役の座に加わり、遠藤保仁、中村憲剛のアジアカップ時のポゼッションを構成した3人の中盤がピッチ上で“再会”した途端に、中盤の、前線の選手が次々とパスコースに顔を出し、ボールが明確な意図の下に、軽やかに躍動しはじめた…。結局この流れは、後半遠藤保仁を変えたあたりで徐々に潰えていったのだが、堆積した土砂に堰き止められていた濁った水が、中村俊輔という“一穴”を得て、清らかな澄んだ流れを取り戻したかのような…そんな印象を残した。これこそが自然な姿であり、在るべき姿なのだ…と改めて僕は思う。
本来、誰が何を言うでもなく、賢明な選手とは、まずはじめにその身体に染み付いた一番“良質なサッカー”を展開しようとするものである。自ずからそれを崩したい…と願う選手など居る訳がないのだ。
大別すればサッカーとは2つの種類に分類することができると思う。
良質を是とするサッカーと、良積を是とするサッカーである。前者が未来主義のサッカーであるとすれば、後者が刹那主義のサッカーであるとも言える。
岡田武史氏の言う“俺流”とは、“良積”に重心を置いたシフトを意味するものだと僕は考え予想していた。が、実際のピッチに用立てられたのは“良質”を是とするオシムジャパンの秘蔵っ子たちである。そして彼らが、岡田氏から何を託されたのかは知らないが、そのピッチ上で、この試合の前半、オシムと共に闘ったアジアカップ時のサッカーを展開したのだ。
この選手たちを“賢明”な選手たちであると認識するならば、これ以上の答えなど無い…と思う。きっとこれこそが、今の日本の“自然なカタチ”なのだと僕は思う。
そして再び“再開”されたこのサッカーが、これ以上、さらに“俺流のサッカー”なるものに無用な手を加えられ、書き換えを迫られ、そして見るも無様に改竄されようとするのならば…。JFAがそれに気付かないならば、或いは気付いていて変えようとしないならば…、最終的にはあの選手たちの“賢明”なる意志に、それを託す他無いのだろう…と僕は思う。そして僕は、この日の選手たちを信じよう…と思う。
コートジボワールに比べれば、このパラグアイはある程度高いモチベーションを持ってこの試合に臨んでくれた。得点への意欲は、後半の最後までほとんど見られなかったが、組織的な守備と抑制の効いた大人びたプレスの在り方は、現状の岡田武史氏に対する良い手本であり、また中東の強国に対峙する上で、非常に良い経験となったように思う。
彼らが2軍か3軍か…は僕には判らないが、この条件で集められたパラグアイの選手たちに対して、ホームで、この結果と内容…といったところが、僕は現状の日本の偽らざる実力なのだと思う。少なくとも日本は、ほぼベストメンバーで臨み、ここ数試合のうちで一番良い内容を見せた。それでいてなお、微妙なジャッジや敵FWの決定的なミスにより、やっと“引き分け”てゲームを終わらせる事ができたのだと。
この日本の現在地を、僕らはしっかりと見つめなければならないのだと思う。あのコートジボワールに勝った試合とこのパラグアイに引き分けを拾った試合。実際のサッカーに真摯に目を向けなければ、スコアシートにある“嘘”を読み取ることはできない。
“良積”は誰の目にも明らかだが、“良質”を解さぬ世論というものも確かに存在する。疑いなく、それこそが“すべての真実”であるかのように…。
そしてそんな“世論”こそが、その国のサッカーをやがては形作ってゆくのだと僕は思う。
岡田武史氏は試合後のインタビューでこう語っている。
『前半、非常にボール支配率が高かったんですけど、なかなかディフェンスラインの裏を取れない、ちょっとじれったい展開になりました。今日のメンバーだと、こうなる危険性は十分あるだろうと。ただ、一度やってみないと分からないということでトライしました。』
彼の“志向”や“価値観”が非常によく現われた表現である…と思う。
対するパラグアイ代表マルティノ監督はこう語っている。
『私の印象として(日本)は、前半と後半とではまったく違う2つのチームのように思えた。それが、こちらのプレーの影響によるものかどうかは分からない。もしかしたら、日本が自滅というか、自分自身でレベルを下げてしまったのではないかという印象さえ受けている。いずれにしても前半の日本は、非常にスピード感あふれていて、プレーも正確だった。攻撃時にいい動きができていたと思う。』
やり直しの効かない6月に突入する。
結果がどうあれ、“俺流のサッカー”の実体がなんであれ、結局“変わろう”としなかった技術委員会と、その選択を僕は忘れない。
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posted by 桐谷 |
11:34
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岡田JAPAN |
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2008年05月26日
試合内容については何も言うべきことは無い。
運動量・モチベーション・そしてオーガナイゼーション…。精神的にも肉体的にも厳しいこの条件の中で、散り散りに散らばった“欧州”から、出し殻の状態で地球の裏側に連れて来られた彼らに、これ以上のパフォーマンスを求める事は酷である。
内容の詳細に眼を向ければ、“あのコートジボワール”に勝った!“ボスニア・ヘルツェゴビナ”に圧勝した…などと、いつまでも無邪気に喜んでいられる時代でもないだろう。この枠組みでの大会・親善試合が、すでに強化としての意義をほぼ終えつつあるのと同時に、早晩その経済的メリットや存在意義そのものについても、根本から考え直さなければならないタイミングが来るものと僕は思っている。
ひとつだけ非常に印象に残ったこと、そして日本のサッカー界が教訓にすべき事柄がこのゲーム中にあったとすれば、それはレフェリーの笛とカードである。
僕が思う良いジャッジの規準とは、極力、可能な限り“ゲームに触らない…”というものである。ジャッジによって勝敗が決した…あるいはジャッジによってチャンスやピンチが生じたり、潰えたり…ということが無いレフェリングこそが、素晴らしい試合を演出する為に不可欠な要素であると僕は思っている。その意味で、この日の主審のその姿勢とゲームコントロールの能力を僕は高く評価したい。確かポルトガルの方々であったと思うが、欧州規準で見ても彼らのそれは“流しすぎる”きらいのあるものであったように思う。
けれども、だからこそ、選手は転べないのである。
いつまでも寝ていられいなし、起き上がろうとする相手を引きずり倒してでも、前へ、ボールへ…とファイトしなければならないのである。この非常に難しい試合に“闘う気迫”“闘争する魂”を吹き込んでくれたのは…、その一端を担ってくれたのは、間違いなく僕はこの日の主審であったと思う。
そして、このような姿勢を…、軽々しく欺きあうのではなく、剥き出しの闘争本能で激突し合うようなゲームを、僕はJリーグで見たい。ニッポンの一級審判の方々にはどうかこの試合のレフェリーの“裁き”をしっかりとその眼に焼き付けて欲しい。どれだけの体力差があろうとも、渾身の気迫でぶち当たることさえできれば、10に2つや3つは球際で勝てるのだ。さらに肘を張り、膝を構えることを躊躇わず会得すれば、相手だって怯むこともあれば恐がることもあるのだ。この日の長谷部誠が、長友佑都が、大久保嘉人が、そして闘莉王が、身を挺してそれを証明してくれたように思う。
こんな状態のコートジボワールであってさえ、その“戦う気持ち”なくして今の日本は勝つことはできなかっただろう。彼らの奮闘がなければ、きっと僕はこの試合最後まで、TVの前に居続けることはできなかったと思う。
プレッシャーのない相手であれば、どんな看板を背負った“強豪”であったとしてもなんだってできる。この日の前半がまさにそんな展開だったと僕は思う。そしてこの恵まれた環境であってさえ、後半あれだけ疲弊させてしまうのだから、前線を個のプレスで踏ん張らせるこのスタイルが、アウェーのオマーンやタイでどこまでやれるのか…そして噛み合うのか…には、みな不安も感じていることだろう。
そんな中、長友佑都のパフォーマンスはひとつの光明であったと思う。そして楢崎正剛も昨今の好調をしっかりゲームの中で証明してくれた。厳しいスケジュールの中、海外組も非常に高い意識で試合に臨んでくれたと思う。6月の長距離移動と連戦に向けて、コンディション管理とピーキングだけはぬかりなく整えていって欲しいと願っている。
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posted by 桐谷 |
11:29
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岡田JAPAN |
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2008年05月22日
審判問題についてずっと書こうと思ってきた。
いかにしてそのレフェリングスキルを向上させてゆけば良いのか…そしてその為には何が必要なのか…と。
僕は審判の資格は持っていないし、サッカーのルール自体実戦で学び会得した以外にルールブックなどを読んで学習した訳ではない。要するに、それで困らないぐらいにシンプルな規則性も、サッカーというスポーツのひとつの素晴らしさだと思うし、またそれだからこその“難しさ”というものも裁く側にはあるのだろうと思う。少なくとも…
『どうでしょう…触ったように見えますがねぇ…ハンドじゃないですかねぇ』
とか
『ファール!今ユニフォーム引っ張りましたよ。明らかにファールだ。絶対ファールだ。日本のPKだっ!』
なんて視座で裁くことなど審判にはできない。どんな時でも曖昧な情報から瞬時に白黒つけなければならないし、また自らの願望やその場の空気によってジャッジを下すこともあってはならないのである。
テクノロジー全盛のこの世の中にあって、現状の彼らはあえてその使用を、合理的効率的な活用を許されず、“誤る”こと…をある意味前提として、それを強要されている…とも言える。“誤審”を非とする主義主張を僕らが断固貫くのであれば、やはりルール改正とテクノロジーの活用にまで話を突き詰めなければ論理矛盾である…とさえ僕は思う。
確かに常日頃見るセリエAやプレミアリーグのレフェリーたちより、日本の、Jリーグの、彼らの力量や威厳、その裁く規準への物足りなさ、違和感…は否めないが、現状それが紛れも無い“現実”である事を認め、そこから論理的に積み上げていかなければ、この問題は改善されてゆくものではないと僕は思う。
そしてその為には、いったい現実的にどんな手立てがあって、何が有効なのか…を深く議論し、ひとつひとつ実行に結び付けてゆくことが不可欠なのだろう。
その点で、JFA・Jリーグの取り組みは非常に緩慢で、また“甘い”と僕は思う。
海外で実戦的な研修を積むこともカンタンではないだろうし、レフェリングスキル自体は一朝一夕で向上するものではないはずだ。
が、そのゲーム中の夥しいミスと失態を良い題材・教訓として、そこからひとつひとつ学んでゆくことは可能なはずだ。そしてその為には、誤魔化し無くそれを公衆の前に認め、そのプレッシャーの中で“誤審”や“失態”について反省する機会を、Jリーグも当たり前のように審判に与えていかなければならないと思う。その為にはゲーム後の記者会見を義務付けたり、またあってはならない過怠による誤審に対しては容赦なく罰則を科す。またそれと同時に、優れた審判の待遇については、一流選手のそれと違わぬほど高めていってやらなければならないと僕は思う。今のままではリスクとリターンが釣合っていない。均衡あるその体制が整えられて初めて、正当なプレッシャーとそれに打ち勝とうとする強い意志が育まれてゆくのではないだろうか?
少なくともJリーグやJFAが自らの立場に拘泥して、その“誤審”を加護したり、無かったことのように振舞ったりする事は、その“在るべき姿”、審判の能力向上への意志に逆行する姿勢であると僕は思う。“日本の審判のレベルは高い”などと強弁し、世論形成を図る前に、その当たり前の取り組みに誠実に注力し、現状を是正してゆくべきなのではないだろうか?
先日のJ1第13節ヴェルディVS清水戦でこんなことがあった。
明らかにオフサイドの位置にいたフッキに、レアンドロからのリターンパスが出てゴール。副審は旗をあげたが、主審はそのままゴールを認めた。清水の選手たちは一斉に主審に詰寄り、その身体を小突く者まであったが、判定は覆らなかった。アウェイながらも清水側のゴール裏は騒然となった。僕も明らかな誤審だと思った。
が、再生ビデオを見ると、フッキへパスしたのは清水の選手だったのだ。レアンドロのそれより一瞬早くボールに触れ、それがフッキの足元に転がったのである。
審判と同じように、選手も、そして僕ら自身も、ニンゲンである限り当たり前のように見誤る。
そんなニンゲンの現実や限界というものに対して、僕ら自身の自省も含めて、もっと寛容に“理解”し、そして共に高めあおうとするしなやかな“心の構え”というものが、サッカーに関わるすべてのニンゲンにとって必要なのではないだろうか。改めてそう思った。
結局、彼は一枚のイエローカードも出さずにその場を収めたが、その揺るがぬ信念と、“見えざる者”に対する理解…その“心の構え”が生んだとても美しいシーンであったと僕は思う。
彼にもこれまで少なくない“微妙”な判定があったことを僕も知っている。そしてこれからもきっとたくさんの誤審をおかしてもゆくのだろう…とも思う。けれどもそれを踏まえてなお、彼にはさらに大切な何か…を、それに気付くためのキッカケを、この試合の1シーンを通して教えてもらった気がするのだ。
佐藤隆治さんの今後の活躍とさらなる成長に僕は期待をしている。
柏木陽介や香川真司に日本の未来を託すように、僕は佐藤隆治さんのその成長の軌跡に、同じように日本の未来を託して、今後も応援し見守ってゆきたいと思っている。
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posted by 桐谷 |
11:22
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Jリーグ改革案 |
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2008年05月19日
「挑発に取られかねない行為は避けるべきだとガンバ側と話をした」
試合後、ガンバの選手がアウェー にもかかわらず、ピッチ内で円陣を組み、跳びはねたことについて触れた…という浦和レッズの藤口光紀社長のこのコメントには少しガッカリさせられた。
問題の発端となる“水風船”は、すでに試合前から投げ込まれていたと聞く。であれば、運営側の責任として、それは試合にまたがろうとも全力を挙げて排除すべきものであったと考えるし、それが現実的にできない体制であったとするならば、何よりもまず先に自らの統治責任能力の非を、この日スタジアムに訪れたすべての観客たちに詫びるべきではないだろうか?
このような話題になると、すぐガンバサポは…レッズサポは…という論争になりがちだが、ただ試合を楽しみに駆けつけた多くのガンバサポ、レッズサポになんら非があった訳ではなく、責めを負うべきはその“水風船”を投げつけたとされるほんの数人の不心得者と、それにより自制を失して行動した一部の人間のみである筈だ。
そして同様に、そんな状況に適切に対処できなかった浦和側の運営によって、さらに要らぬ多くの被害者を生んでしまった。これはどちらのサポが性質が悪い…などの感情論ではなく、運営責任とシステムの問題として冷静に捉えるべき事象である。
今回の事件の発端となった“水風船”が、ただちに一発レッドの処分が下されるべきか、或いはイエローカードの戒告に留めるべきかは議論の別れる所であると思うが、その騒動の顛末による“流れ”の出来事であったとしても、現実にスタジアムにおいて他者に傷を負わせたり、器物を損壊したりといった暴力行為があったとするならば、それは運営側の責任において、徹底的に事情聴取・情報収集に努めた上で、司直の手に委ねるべき事柄であると僕は思う。
これまでにもそのような事象は度々あった事と思うが、リーグ・運営・周囲の者たちの“甘すぎる”処置や対応が、望ましくないシグナルを送っている…という側面も否定できない。
リーグもリーグで、ただ漠然と制裁金を科して事を収めたつもり…になるばかりでなく、抜本的にこれらの問題に取り組む意志が本当にあるのならば、その1000万円とも言われる罰金を、違反者特定の為のスタジアム内の防犯カメラ設置に使わせれば良いし、またその違反者のスタジアム内への侵入を拒むべく、Jリーグ全クラブをあげての徹底排除に…、そのシステム作りに真剣に注力すべきなのだ。
そして浦和レッズ藤口光紀社長。
最後の最後に機動隊特殊車両や20台ものパトカーを呼びつけて事態の収拾を預けるぐらいであれば、あらかじめスタジアム内で自主的に騒動の芽を摘む、迅速に対応し得る体制とシステムを事前に構築しておくべきではないだろうか。カンタンではないことは重々承知するが、日本を代表するビッククラブ浦和レッズの社長としてまずすべきことは、ピッチ上の敵のパフォーマンスを指弾する前に、埼玉スタジアムに集まる6万人の観客に対する、安全で快適な観戦環境を確保することである筈だ。どんな事情があったにせよ、責任者としてそこに逃げ場などない。
浦和レッズだからこそ、このような事象に対して、他に先駆けて抜本的な対策と厳格な基準を打ち出し、それを実践して、他クラブの、そしてJリーグの良い手本となって欲しい。まったくおもしろい視点を提案できずに恐縮なのだが、
“スタジアムの安全と調和”
この部分だけは、ニッポンの、Jリーグのアイデンティティとして未来永劫絶対に失って欲しくはない…と僕は思う。観戦者のモラルを再度徹底的に啓発することと共に、厳重なルールに基づく妥協なきシステムの導入に踏み切るべき時期である…と僕は考える。
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posted by 桐谷 |
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Jリーグ改革案 |
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