2008年06月28日
『私のチームにとって重要なことは、プレーを楽しみ、創造的であり、ゴールを決めること。ロッカールームでは、選手たちに“誇らしく思う”と伝えたよ』
セミファイナルでドイツに敗れたファティ・テリム監督(トルコ)の、おそらくはこのチームに向けた最後の、そして惜別の言葉である。
ニンゲンとは弱いもので、サッカーにおいて、いや、なにもサッカーに限った事ばかりではなく、あらゆる事柄において、“結果”を追うことで見えなくなるもの、失ってしまうもの…というものがあるような気がする。もしかしたらそれは、プレーを楽しみ、創造的であり、そしてゴールを決めること…なのかも知れないし、このような敗北を“誇らしく思う”という、揺るがぬ哲学なのかも知れない。
この大会が、なぜ僕の目にはこんなにも素晴らしく、スペクタクルに満ちたものに映ったのか…。きっとそれは彼らのような魂、哲学を貫いた者たちに、“結果”という光が射したからなのだと僕は思う。運が報いを与えたからなのだと思う。
一番大切なのは、勝つことの前に、戦うこと。そして戦うことの前に恐れぬこと。さらに恐れぬ為には揺るがぬ信念を持つ事。その原点にあるべきものこそが、サッカーを楽しむこと…なのだと僕は思う。
僕に言わせれば、結果よりもずっとずっと先に大切なものがある。“結果”に“価値”が宿るのではなく、“価値”に“結果”が宿る事こそが、僕にとってのサッカーの“醍醐味”であり、“希望”なのだ。僕はサッカーを見ながら、いつだってそれを追い求めている。それこそが、僕にとってのサッカーの喜びなのだ。
トルコは最後の最後まで、本当に素晴らしいチームだった。また準決勝では良いところなく敗れたが、ロシアこそがこの大会の“華”だったと思う。ドイツはドイツらしく、粘り強い受身でトルコの攻撃を交わし、そしてゴール前での強さを発揮した。スペインはロシアの緩慢なプレッシャーに恵まれたとはいえ、まさに自在にボールを動かし、クリエイティブなサッカーの模範を体現してくれた。
決勝戦の図式が、創造と破壊のガチンコのぶつかり合いになるか、或いはスペインの創造に対してドイツもまた創造で対抗しようとするのか…。両チームの中日が一日異なる事を踏まえれば、前者のぶつかり合いの場合にはドイツが、そしてそれ以外であれば現状の地力でスペインが勝るような気がしているが、幸運はどちらに微笑むだろうか。未だ動きの悪いバラックと、準決勝で意地を見せたセスク。両監督が、彼らの起用をどう考えるのか…動くのか、動かないのか…僕はそんなところに注目してこのファイナルを観戦したいと思う。
最後に、スカパーでは岡田武史監督が現地で解説を務めているのだが、スペインのセスクやイニエスタやその華麗な攻撃に見とれる前に、彼らの守備をじっくり見て欲しい。
このEUROにおけるスペインは、アジアにおける日本だと僕は思っている。この攻撃の為の効率的な守備の在り方。守備の為の効率的なポゼッションの在り方…を、ぜひ現日本代表のそれと比較・分析してみて欲しい。アジア最終予選の組み分けも決定したが、このスペインがどうドイツと対峙するのか?それはそのままオーストラリアとの戦いの為の良い教訓となる筈である。三次予選の過酷な重圧からひとまず開放されて、今は“自分へのご褒美”気分に浸りたいキモチも重々承知するが、この願ってもない機会を、今後の日本代表の在り方にぜひとも活かし、役立てて欲しいと切に願う。
*EUROの閉幕とともに少し休暇をいただいて旅に出ようと思います。
よって決勝後のエントリーを仕上げる時間がありませんので、完全なるオフサイドではありますが、ここに今大会の私的ベスト11を付記して、この場のEURO2008を幕引きして終えたいと思います。
GK ジャンルイジ・ブッフォン /イタリア
DF セルヒオ・ラモス /スペイン
DF カルラス・プジョル /スペイン
DF ペル・メルテザッカー /ドイツ
DF ユーリ・ジルコフ /ロシア
MF マルコス・セナ /スペイン
MF ルカ・モドリッチ /クロアチア
MF ダビド・シルバ /スペイン
MF アンドレス・イニエスタ /スペイン
MF ルーカス・ポドルスキ /ドイツ
FW アンドレイ・アルシャビン /ロシア
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posted by 桐谷 |11:38 |
EURO2008 |
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2008年06月26日
僕らは小学3年生から高校の途中まで一緒にサッカーをやった。
僕がセンターフォワードで、彼が右のウイング。…といっても田舎町の、常にとても弱いチームだったために、下がるのを禁じられた僕と、右サイドハーフの辺りに位置する彼との間には、いつも遠い遠い距離があった。
小学3年生の時にはすでにやんちゃ三昧に明け暮れ、6年生の悪ガキどもと、僕は日々抗争を繰り広げていた。ハンパなく彼らの憎悪を買っていた僕は、度々教室にまで襲撃を受けて拉致され、階段の踊り場まで連れて行かれて、そこで1対10の数的不利を強いられ(笑)、ボコボコにされた。
そんな時に、いつもたった一人、時に小突かれたりしながらも、最後まで身体を張り、僕を奪還しようと奮闘してくれていたのが彼だった。
僕らは同じようにサッカーが下手くそで、そして足だけは速かった。
彼は僕より勉強が得意で、そして女の子には僕ほどモテなかった(笑)。その性格は水と油で、誠実を絵に描いたような彼と、不実を体現したかのような僕との間には、何の接点もない筈だったのだ。たったひとつ、サッカーを除いては…。
ある時僕は、いつものようにカープの野球帽をかぶって練習に訪れたジャイアンツファンの彼を、何の気なしにからかった事がある。
『本当はカープファンなんだろ…(笑)』と。
もう何年もかぶり続けていたその赤い野球帽は、少し色褪せてピンク色に変色し、そしてクタクタにくたびれていた。彼は顔を赤くして、泣きそうな顔で僕に挑みかかってきた。そしてそれからしばらくの間、僕と口をきいてくれなかった。
その頃の僕には、彼の家庭の事情に対する配慮やおもいやりなど一切なかったのだ。なぜそこまで彼が腹を立てたのか、当時の僕にはまったく理解できなかった…。
そしてそれ以来、彼はその色褪せてすすけたピンク色のカープの帽子をかぶることは無くなった。きっと働き詰めのおかあさんから買って貰った、大切な大切な野球帽だったのだ…と思う。
いつだってそうなのだが、僕が大きな失敗をやらかして、それを彼がかばってくれた。それ以外にも僕は、きっと何度も何度も彼を怒らせて、そしてその度に、何度も何度も許してもらった。彼にしてみれば、本当に身勝手で、迷惑なだけのトモダチだっただろう。
やがて仲直りした僕らは、また一緒にひとつのボールに共に戯れ、連戦連敗の屈辱のサッカー人生を、めげずになあなあでやり過ごした(笑)。一緒にビートルズを聴き、サイモン&ガーファンクルを聴き、クイーンやビリー・ジョエルやカーペンターズを聴き、プリンスかマイケル・ジャクソンか、クライフかベッケンバウアーか、或いはソフィー・マルソーかフィービー・ケイツか、清純な○○○ちゃんか完熟の○○先生か…で、日夜互いに一歩も引かぬ論争を繰り広げたりもした。
そして僕は少しずつ悪に染まってゆき(笑)、彼はその最後の最後まで善良と誠実を貫いた。僕ら二人のコンビは、きっと傍目にも相当の違和感があったのではないだろうか…と今にして思う(笑)。今この半生を振り返っても、あれほど澄んだ、透明なニンゲンを僕は知らない。
あれから二十数年がたって、今では互いに消息も知らず、きっと今生でふたたび再会することは叶わないのだろうな…と思う。そして今彼に、一言だけ心に秘めたこのキモチを伝える事ができるとするならば、
『あん時君から借りたABBAのレコード…傷つけたの、俺だから^^;』
とだけ、腹を割って伝えたいと思う。
僕が少年時代を過ごした田舎町に別れを告げてトウキョウへと旅立つその前夜。
いつものように放課後僕の家で、大橋巨泉の世界まるごとHOWマッチを一緒に見ていた彼は、結局朝まで自宅へ帰ろうとはしなかった。十七歳の春、彼より一足先に田舎を出てゆく僕と、誰よりもトウキョウに憧れながら、そこに取り残される彼が、『宇宙の果てって何があんのかな…』って、互いにデタラメな知識をアホみたいにシンケンに語り合った…あれは一体なんだったのだろう(笑)。
とりあえず少し寝ようか…と、二人で窮屈に身をかがめながら僕のベットで横になったが、結局一睡もできぬままに、やがてしらじらと夜が明けた。そして尋常ではなく朝の早い爺様たちの耕運機の音がガタガタと音を立て始めたその時、彼は思いついたかのように目を輝かせながら、『キャッチボールしない?』と僕に言ったのだった。
まだ白いモヤのかかる、田舎の冷え込んだ早春の日の明け方。いつものように、そして当たり前のように、腰を落としてキャッチャーをしてくれる彼と、それに当たり前のようにハッチャキになって全力のカーブやホークの大暴投を投げ込んでいた僕…。
それが、僕と彼との、サッカーを通して刻まれた記憶のラストシーンである。
あの日からこんなにも遠く離れてなお、ずっとずっと、心のすぐ側で生き続けてくれた記憶である。
試合に勝ったときも、互いにゴールを決めたときも、少しシャイだった僕らは、照れながら目を合わせて軽く微笑みあうだけだった。あの時、あれが最後だってわかっていたなら、僕はたった一度だけ、この人生に一人きりの、そして最高のトモダチに駆け寄り、力いっぱい彼を抱きしめたかった。
『じゃあね』と言って、僕らはいつものように別れた。
若さゆえに、なんの疑いもなく僕らは“永遠”を信じていた。
春の日の朝の陽射しが眩しかった。
不見識と戦う気色悪いものより、サッカーのトモダチへ
サッカーについて語らねばならないのは重々承知のこのスポーツナビブログで、なぜ今、あえて僕がこんなことを書き綴ったのかというと、急にボールをよこすな!と言われても、いつかこの場を立ち去るとき、僕からのノールックの華麗なヒールパスを受けとめてもらおうと思っていたある人に、今のこのボンヤリとした寂しさを伝えたかったからだ。
サッカーが手でボールを扱ってはならないのは、手よりもはるかに不自由な足によって、失敗を楽しむべき競技だからだと僕は思う。これは言うまでもなく僕の勝手な解釈なのだが、同じように言葉とはどこまでも実体とは異なるもので、これを介しての完全なるコミュニケーションなど絶対に有り得ない。
言葉のコミュニケーションとは、言葉の空しさを知ってしか成り立たないのだ。
そしてだからこそそこに、相手を敬い、理解しよう…という心の構えが不可欠なのだと僕は思う。僕らは互いに、その不完全な“コトバの信号”から、執筆した彼のココロを、その真意を汲み取らねばならない。それなくして、互いに意義あるコミュニケーションなど成り立たないのだ…と僕は思う。ずるいモノ達が大手を振って闊歩するシステム。容赦なく他者を傷つけ自らは暗闇でほくそ笑む卑劣がまかり通る現実。自らの無力は重々承知の上で、やはり僕はそれを“自由”とは認めない。合法ではあろうが、それが許された“権利”だとは絶対に認めない。そして僕らは、これ以上そんな無益に直接関わりあう必要なんてまったくないのだ…と思う。
僕もここでのたった1年という期間に、たくさんの失敗を積み重ねてきました。失敗の数で言えば、きっと誰よりも群を抜いて秀でている事と思います。唯一それだけは自信があります(笑)。そして彼が、それを失敗だと自認するならば、僕はそれを断じて否定したいけれども、やはり尊重しなければならないのでしょうね。そしてその上で僕は、また次の失敗にトライしようよ…と言わせていただきます。僕らは言葉の世界の、デコでもロナウジーニョでもベルカンプでも無いのだから。永遠に失敗しないリフティングなんて、世界の何処にもありはしないのだから…。そして、それがサッカーであり、人生なのだ…と僕は思います。一、二度ここで言葉を交わしただけの赤の他人の彼に、サッカーのトモダチとして最後に一言言わせてもらいます。
あなたのスベる話、スベりまくる話が(笑)、僕は大好きでした。楽しい文章を、ここまで本当にありがとう。きっとまたどこかで会おうネ!
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*今回はたった二人のサッカーのトモダチにあてて綴ったエントリーですので、コメント欄の開放は控えさせていただきます。この場を借りさせていただいたスポナビ様には、たいへん身勝手な本文であったことを深くお詫びいたします。
posted by 桐谷 |11:42 |
その他 |
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2008年06月24日
強い国であれば強い国であるほど、その国の優秀なタレントは欧州各国に散らばり、シーズン終盤まで厳しい連戦を戦い、異なるスケジュールと、異なるメンタリティー、スタイルに馴染んで、バラバラの状態でこのEUROの一ヶ月に召集される。
そこに強者ゆえの難しさが存在することも自明であり、それゆえに近年少なくない番狂わせが生じてしまっているのも一理の真実なのだと思う。
だが、それを慮ってなお、このEURO2008のヒディンク率いるロシアは、傑出して素晴らしいサッカーを展開してきたと僕は思う。グループリーグからここまでのゲームを見てきて、今どのチームにアンリ・ドロネー杯がもっとも相応しいかと問われれば、僕は迷う事無く
『ロシア』
と答える。
強豪にも怯むことのない気迫と闘争心。驚異的な運動量と、攻撃は最大の防御という90分を通して貫かれる一途な攻撃への姿勢。さらにアルシャービン、パブリュチェンコらに見られる眩いタレントたち。対スウェーデン戦にしろ、準々決勝のオランダ戦にしろ、単に結果のみならず、彼らはその内容でこの欧州の一流国を圧倒し、勝つべくして勝ってきたのだ。
今回のドイツも素晴らしい、スペイン、トルコもまた素晴らしい…が、ここまでの内容をつぶさに見てくれば、ロシアほど素晴らしい戦いぶりを見せてきた国は他にない。たとえ彼らが優勝を逃すとしても、この2008EUROを僕はロシアの鮮烈な攻撃サッカーと共に思い出すことだろう。
そしてまたファティ・テリムが今大会で成し遂げた仕事も偉大なものであると僕は思う。
EURO予選ではマルタやモルドバに勝ちきれず、またギリシャやボスニアに敗れた事で、自国ではテリム解任の声まで上がっていたと聞くが、本選で見せてくれたサッカーは、トルコの歴史上最高の輝きを有したものであると思う。僕はテリムサッカーの信望者として、氏の今後の動向が非常に気にかかるのだが、大枚を叩いてでも、Jリーグは彼のような指導者こそ引寄せるべきであると思う。
今回のEURO2008。
僕はオランダが優勝した1988大会や、その次の1992年、直前までオシムが率いていたユーゴが排斥され、代わりに出場権を得たデンマークが優勝したこの2つの大会を上回るレベルの感動と興奮を感じている。
スイス代表とコビ・クーン監督のその7年にわたる冒険の心温まる惜別のシーン。
同じく6年もの栄華のときを共に過ごしてきたチェコ代表とブリュックナー監督とのその儚すぎる夢の結末…。
グループリーグ、他のどこよりも素晴らしいサッカーを見せてくれたビリッチとクロアチア代表の突然の敗退。そしてラーション、コラー、ファンデルサール、マケレレ、ニコ・コバチら華々しいスター選手たちの国際舞台からの離別。1試合1試合が終わるたびに、その一人一人の去り際にこみ上げてくるものがある…。
また選手の技量ばかりではなく、その優れたレフェリング技術の巧みさにも深く感心する。スタッツの紹介やカメラワーク、スイッチングにいたるまでのサッカー中継の充実ぶりも、日本のそれと比較すれば雲泥の差がある筈だ。これらすべてを含めて、欧州のサッカー文化の豊かさを、改めてまざまざと思い知らされた気分だ。
残り3試合。
ドイツのサッカーもクリンスマン以降だいぶ様変わりしてきた部分もあり、今回生き残った4チームの面子を見れば、今後も高確率で、スペクタクルな試合が展開されるような気がしている。
正直に言えば、僕は1998年フランスWC以来のヒディンクサッカーの虜…である。
アルシャービンのその眩い輝きと共に、6月29日のファイナルまで、この闘争するロシアのパンクなサッカーを、存分に味わいつくしたいと思っている。
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posted by 桐谷 |11:35 |
EURO2008 |
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2008年06月23日
この日のバーレーンと、初戦アウェーにおけるバーレーンとでは、僕には違うチームに見えた。
お互いにとって消化試合。日本にとってはリベンジマッチの意味合いもあったのかも知れないが、彼らにとっては同等の重さを感じられる試合ではなかったのではないだろうか。初戦で見たメンバーの何人かも欠けていたようにも見受けられた。
ともかく自陣ゴール前だけは異常に強いが、これだけビルドアップに窮し、個人技にも、個々のタクティクスにも欠けるタレントたちを擁して、よくぞ日本に勝てたものだ…と、この試合そっちのけで、初戦のマチャラ氏の手腕とその功績に改めて敬意を表したくなるような内容だった。彼のような指導者ならば、果たしてJリーグにおいてどのようなチームを作り上げるのか…ゲーム中、ふとそんなことを夢想していた。
そしてこのバーレーンの自滅によってやっと勝ちを拾い面目を保ったニッポン。このブログ開設当初、“結果か内容か?”の水と油の議論に引きずり込まれて辟易させられたものだが、“結果”を唯一無二の拠り所としてサッカーを物語るのであれば、あの終了間際のバーレーンGKの大チョンボにこそ、この試合のすべての意義が集約され、またまごうことなき真実の価値が宿っていたのだろう。
この“内容”を受けて、来るべき最終予選を、僕は大きな不安を抱えながら暗澹たる思いで迎えねばならないが、同じくこの3次予選通過の“結果”を受けて、川淵三郎氏の『2010年南アフリカまで岡田監督続投』のお墨付きも得、チームはこのままの状態で“正念場”へと突き進んでゆくのだ。
それについてはもう今更何も言うまい…と思っている。
良くも悪くも、これがニッポンなのだ。
今のニッポンのありのままの姿なのだ。
川淵三郎氏らが、EUROやWC南米予選のその“内容”に目を向けてくれているかどうかは判らないが、アジア最終予選はもちろん、2010WCグループリーグ突破…までを、彼らがこの岡田ジャパンに期待する…とするならば、そこにはイタリアやスペイン、ブラジルやアルゼンチンには勝てなくとも、ロシアやトルコ、パラグアイやコロンビアあたりとならば、このニッポンも負けていない…という予断や憶測が、きっとどこかに存在するのだろう。アフリカ勢相手ならば、例え本気のナイジェリアやガーナであったとしても、互角に立ち振る舞い、勝ち点1だけは最低限確保できる…と。
だとすればこれだけは言っておきたい。キリンカップやコンフェデや親善試合の“結果”を受けて、ニッポンの実力を真に受ける前に、今こそEUROに、WC南米予選に、その一戦一戦の“内容”に、目を向けて欲しい…と。そしてこのバーレーンとの一戦…と、真剣に見比べてみて欲しい。
期待をかけるな…とは言わない。が、せめてその期待…が少し過大なものであるだろうことだけはその心に自覚していて欲しい。そして現実に突き当たった時に、それを2006年のドイツの時の様に、恥も外聞も無く誰かの所為にしてコキ落としたり、不当な災厄にあったかのような顔だけは誰にもして欲しくはない。それは関係者だけではない。この国のサッカーに集う、すべてのものたちが…である。
それではいつまでも前へ踏み出す事ができないから…である。
問題の本質は、事故や不運にあるのではない。その巨大な壁をブレイクスルーする為には、どれだけの強い意志と、大きな、抜本的な改革がこの国のサッカー界に求められているのか…その為の転換点、当たり前のスタート地点に、これ以上の寄り道をせず、一刻も早く辿り着くために…である。
もし今このニッポンのサッカーに、守らねばならぬ“誇り”というものがある…とするならば、それはどこかよその国に勝つこと…のはるか前に、この国の未来のために、今精一杯、それぞれの立場で自らと戦うこと…なのではないだろうか。
あの激しい雨の中、スタジアムに足を運んだ5万人とも言われるサポーターたち、そして視聴率が落ちた…と言われながらも、いまだTVの前で、ジャパンの試合を楽しみにしてくれている数千万のこの国のサッカーファンたちに対して、責任ある立場の者たちが誠心誠意応える事、応えようと身を削り続ける事…守らねばならない誇り…というものがあるとすれば、そういうものなのではないかと僕自身は思っている。それは観客動員や、TV視聴率、スコアシートにあらわされるものではない。あの現場で、サッカー生命を削りながら戦う選手やスタッフたちと同様、一分一秒みずからの心に問う、問い続けるべきものなのではないだろうか。
15年前、バングラディシュやスリランカとの試合でさえスタジアムに足を運んだ僕も、今では“代表戦”のチケットに手を伸ばすことは一切ない。もしキリンカップに、フルメンバーのイングランドが来ようとも、ブラジルが来ようとも、それは変わらない。それが“誇り”を欠いた現JFA体制が牛耳る“代表戦”である限り、僕は¥1のお金も支払わない。サムライブルーのユニフォームにも、サッカー日本代表関連の商品にも、15年前から一度も手をつけたことがない。今では一般のサッカー誌にさえ目を向けることもしなくなった。そこにジャーナリストとしての“誇り”が貫かれていないものならば、僕は同じようにボイコットしてきた。
サッカーが嫌いだから…ではない。
きっと、誰よりもそれが好きで、そして取り戻したいと願うからだ。
いつの日からか“均衡”を失い“逆転”してしまった。
守られるべき“意地”や“誇り”が、巨大な“利権”と或る個人の蒙昧な“価値観”に飲み込まれてしまった。
サッカーに限らず、世界のあらゆる国々で、あらゆるスポーツが、今同じ道を歩み始めている。もしそこに何者かが抗う“楔”を打ち込めるのだとすれば、その原点に在るべきものこそが“誇り”なのだと僕は思う。
僕はこれまでもそう思ってきた。そしてこれからも変わらずにそう思い続けるだろう。
ニッポンの敵は、ニッポン自身である…と。
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posted by 桐谷 |11:21 |
2008WCアジア予選 |
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2008年06月16日
こちらにとっては重圧のかかる“取りこぼしの許されない”試合となったが、一方のタイはといえば、すでに消化試合の趣でこの一戦に臨んできたようにも見受けられる。前半から厳しいプレッシャーもなく、どちらがホームで、どちらが先制されたチームなのかもゲーム展開から窺い知ることはできなかった。まずこの試合内容の評価の前に、この日のタイは、そんな戦意や闘争意欲に欠けた“やる気”のないチームであった事を前提にしなければならない。
アウェーで3-0の結果だけをみれば、立派な試合をしたようにも見受けられるが、上記を踏まえればその内容は決して褒められたものではない。前半にあくせくと一本調子に前から追い込み、後半にダラダラと流れや展開のない中で、出し手と受け手だけの可能性の見えないパス交換だけが続く。
この状態で最終予選に臨むとすれば、暑さの中での試合は消耗も激しく、良い内容で勝ち点を積み上げてゆくことはまず無理だろう。これまでにも涼しいホームでの試合と、暑さの中のアウェーでの試合は、その内容に明らかな落差がある。試合を取り巻く環境が異なり、相手も、目標とされる結果もおのずと異なる試合において、この岡田ジャパンはペース配分の考慮もなく、常に頭から同じスタイルを貫徹させるかたちでゲームを推し進めている。
それは寧ろ“自信”というよりも“不安”という衝動に突き動かされての融通の無さ、硬直性の現れなのかも知れない。この不自由さに、僕は選手、監督双方へのある種の痛ましさ…を感ずると共に、最終予選への拭いきれぬ危機感を抱き始めてもいる。
2007アジアカップにおいて、攻撃することに費やした攻め手たちのエネルギーを、今この岡田ジャパンはフォアチェックの徹底により容赦なく、余すことなく守備に投入している。二列目には眩いばかりのこの国の名手たちがオールスターで顔をそろえているにも関わらず、敵のプレスが無力化する前半30分過ぎには、すでに彼ら自身が疲弊してしまい、窮屈なスペースで、足元のパス交換のみで、どこまでも連動しない受け手の動きを見送りながら、さらに時間と体力だけを浪費している。
僕は岡田監督就任当初からずっと懸念してきたのだが、強い相手にも弱い相手にも、暑い中も涼しい中も、さらに勝たなければならない試合も引き分けでいい試合も、すべてひとつのやり方、一本調子の進め方で、ゲームを戦わせるのは、この広いアジアを考えたときには“不合理”であると思っている。今後最終予選においてホーム&アウェーを戦うのであれば、これから先の相手では当然その戦い方も大きく変えてくる筈である。
この日の試合も、逆に勝気を見せないタイにある程度ボールを持たせ、様子を見るような余裕があっても良かった…と僕は思う。すくなくとも1-0からの展開では、ホームの手前、彼らも少しは攻める意志を見せなければならなかったはずだ。繋いでハーフまで出てくるような時には、日本にとっても充分なスペースが敵陣に広がっていたはずである。相手なりに戦況を考える。それぞれの状況において対応する。必要な場面で必要な分だけのエネルギーを費やす。そういう戦い方ができなくては、この広いアジアのH&Aに対応するのは難しい。
ワールドカップ本選にまで辿り着ければ、今の“フォアチェック”“前からのプレス”というチーム戦術が、日本にとってもっとも相応しいやり方である事は僕も否定しない。
なぜならば、リトリートしてボールを奪っても敵ゴール前まで運ばせてもらえないだろうし、蹴りこんだサポートの無い状況において、一人二人でフィニッシュまで持ち込めるようなスーパーなタレントもこの日本には居ない。そして何よりも自陣深いところで跳ね返すだけの力もこの国は持たないからである。要するに欧州や南米の強豪を前にすれば、日本はこの日のタイのように無力なのだと僕は思う。だからこそ、前後半60分勝気に走らずひたすら我慢して守り、残りの30分、相手も疲れて集中を切らすだろう前半残り10分、後半残り20分に死に物狂いで前から追わせて1チャンスに掛けるサッカー。僕であってもそうやって勝負に出たいと考えるだろう。
けれども今アジア相手にそれが相応しいだろうか?合理的だろうか?と考えるとやはり答えはNOなのだ。それではアジアにおける日本の優位、アドバンテージが活かせない。そしてひとまず2.5/5を争う最終予選で、前半の頭から遮二無二危なくも無いボールを追い、勝負を賭けて、足の止まった後半…という過大なリスクを背負う必要が果たしてあるのだろうか…ということなのである。
今回のように海外組を交えた場合、動きの連動やコンビネーションの問題は、もちろん一朝一夕で仕上がるものではないだろう。が、それ以前に二列目にあれだけのチェイシング、運動量を求めるのであれば、それに相応しいタレントを用いてみてはどうだろうか?或いはもし彼らにやはり日本の攻撃を任せたいのであれば、彼らに相応しい守備戦術や戦略も、流れの中でのもうひとつのオプションとして用意し、攻撃のみならず守備面においても、より自然な“中庸”の道を探ってみてはどうだろうか。
今ここで是正されなければ、あるいは修正が加えられなければ、中東のどこかの荒れた砂道にスタックして、ドツボに嵌り抜け出せなくなる事も考えられる。やる気の無い相手や環境に恵まれた花試合や消化戦を勝つことによって、ヘンな弾みがついてしまう前に、技術委員会やスタッフらによってしっかりと議論されることを望む。権謀と策略渦巻く中東と戦うこのニッポンが、自ずから暑さまでをも敵に回して戦う必要はないのだ。
技術委員会は2007アジアカップの再検証と再評価に、今一度真剣に取り組むべきではないだろうか?いかにしてアジアをくぐり抜けるか…?その成功への筋道と、時としてそれでも突き当たってしまう“現実”という厳しい教訓…。それら“すべて”があの戦いには詰まっていたのだから。
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posted by 桐谷 |11:41 |
2008WCアジア予選 |
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2008年06月11日
この6月、サッカーにうつつを抜かしている間に、東京秋葉原で痛ましい事件、そして絶対に許せない出来事が起こった。録画を見る前に、EUROの結果を知ってしまわないように、TVニュースや新聞・ネット報道を意図的に避けてしまっていたがために、事件の詳細を知るのがだいぶ遅れてしまった。そしてそれによって、今になって大きな衝撃と憂鬱に苛まれている。
今はひとつひとつのコメントに対応する気力が少し足りていないので、このエントリーがそれに対するレスポンスと認めていただければと思う。
以下にAWAYオマーン戦の要点をまとめたい。
後半に日本の攻撃が活性化したのは間違いないが、だからといって僕は、前半が評価できない…とはまったく思わない。むしろこの後半立ち上がりの猛攻のための前半であったとも理解するのだ。
ご存知のように酷暑の中、まだ昼の日差しが残る厳しい環境の中で、前半は始まった。しかも日本からオマーンへの気候も時差も異なる長距離移動含めての中4日の試合。もちろん90分攻め続けて気持ちよく勝ってほしい…という願望は判らぬでもないが、僕は正直ダラダラとした展開の中にも勝負の20分、25分という時間帯を定め、“メリハリ”の利いた試合運びを見せて欲しいと願っていたし、実際後半開始直後は“それ”を見事に展開してくれたと思う。
彼らの意識の中に、前半は少しセーブして後半勝負…のようなコンセンサスがあったのかどうかは判らないが、前半はしっかりと機能していたオマーンの自陣でのプレスが、後半は足が止まり綻びだらけになっていたことも考慮に入れなければならない。それも踏まえれば、後半は良かったが前半は悪かった…という評価は必ずしも当たらない。あの前半があって、後半があるのだ。この3次予選の経過があって、この試合があったように。僕はそこに3次予選の戦略として、この試合のゲーム運びとして、なんら誤算なかったと思う。ただ一点、前半の早い時間帯に失点してしまった…という事実をのぞいては。
海外のサッカーを引き合いに、僕は常々この場で書き記してきたが、日本のサッカーにはこの“メリハリ”が足りない。90分をゴール目指して、ただ猛然と攻めきるのが良いサッカーで、強いサッカーだと妄信し、思考停止している部分があるように思うのだ。そして見る側も疑いなくそれを要求する。日本のゲーム運びが、未だ中東と比較してさえ拙いのは、そんな僕ら見る側の視点の拙さでもあると考える。
イタリアやブラジルの試合運びを見れば判るはずだ。
彼らは90分の試合の10分、15分を勝負どころと定めてキッチリと仕留めにくる。そしてムダな“労力”は浪費しない。1-0で良い試合は1-0で良いし、0-0で良い試合は0-0で良いのだ。だからこそまた、厳しい過酷な条件、連戦に次ぐ連戦をくぐりぬけて、最後の栄冠まで辿り着くことができる。要するに彼らは“効率的”なのだ。
意識的か無意識かは判断しかねるが、この試合の日本は“効率的”だったと僕は思う。そしてまたオマーンも、日本相手にホームでカンタンに勝ち点3をくれるような貧弱なサッカーではなかった。歴然とした力の差はありながらも、彼らは“効率的”なサッカーで、しぶとく90分をしのぎ切る意地を見せてくれたと思う。
たとえオシムが監督であっても、結果がどちらに転んでいたにせよ内容的にはこれとほぼ同じものであったと僕は思う。2007アジアカップでの試合と比較しても、このAWAYオマーン戦は同じような厳しい環境の中、同等のサッカーが展開できていたと僕は考える。
また押し込みながら得点できないことに関して言えば、では、どうすればこのような引かれた相手に対して簡単に点が取れるだろうか?別にオシムや岡田さんだけではない。世界中のあらゆる強豪、名将たちが、あいも変わらずこの問題に直面している。クローゼやイブラヒモビッチ、トーニのような日本人がいれば、アジア相手に多少はやりやすいのかも知れない。クリスチャン・ロナウドやメッシが居れば、アジアレベルであればどうにでもなる話なのかも知れない。が、そんな日本人がいないのであれば、やはり前線から動いて、連動して、スペースを作り、それを使うしかないのだと思う。が、相手の力量によって、それは読まれたり、封じられたり、対応されたりする。そこで今度はその動きと連動に、さらにスピードと精度が求められるのだろう。
1年ちょっとの任期でそれはオシムに出来なかった、岡田さんにもまったくできていないじゃないか…の前に、ニッポン人に出来ていない事柄なのだと僕は思う。
サッカーの監督は手品師でも超能力者でもない。無いモノを突然にその手から生み出したりはできない。今在るものをよりよく調和させ、用途によってアレンジを加え、そして作り変えてゆくものだと思う。もちろんその技量に巧拙があり、その趣向に好悪があるのは当然のことなのだが、それはオシムの壁でもなく、岡田武史の壁でもなく、ニッポンの壁なのだと僕は思う。たまたまそこに岡田武史がぶち当たっていたとして、僕はそれを彼の責任であるとは思えないのだ。
そしてさらにはその先に“決定力不足”なるこの宇宙の普遍のサッカーの命題が聳えている。よくTVや新聞報道で『決定力不足が解消されず…』という文言を目にするが、それはあらゆる世界でサッカーがある限り根本的には解消されない問題なのではないだろうか。サッカーを語るに置いて、これほど不毛な文言は無いと僕は思う。
そして最後に、今の岡田ジャパンの実力はどれぐらいのものなのか?
要するに前回のエントリーで、
オシムジャパン≧岡田ジャパン>トルシエジャパン>ジーコジャパン
を僕個人のカンカクで語った。議論すればこれはとても面白みのあるお題なのだろうが、ここでは自分の意見を述べるだけに留めておく。
この10年で日本は世界の先端からはさらに離された…と思うが、日本のサッカーそれ自体は大きく進歩したと思う。プレースピード、フィジカル、動きの効率性、そして球際の強さ、選手個々のタクティクス…それらすべてが少しずつ磨かれ、成長したと思う。
例えばいまトルシエに代表監督をお願いして、今現在の選手と、あの当時の選手の中から、好きな者を11名選べ…と言えば、2002年から選出されるのは、中田英寿と柳沢敦の2人だけではないかと僕は思う。楢崎正剛、中澤佑二、さらに中村俊輔、そしてもしかしたら明神智和、選ぶとしてもトルシエとて2002年の彼ら…ではなく、2008年の、今現在の彼らの方をチョイスすると僕は思う。それぐらい日本人選手はこのトルシエから数えても6年の間に大きく成長したと思うし、強くなったと思う。
岡田武史さんの能力がトルシエよりも高いかどうか、今現在の日本に合っているか、合っていないか…は別として、チームとしての2008岡田ジャパンは、2002トルシエジャパンを凌駕してもまったく不思議はない。少なくともあのバーレーン戦のような試合をしない限り、キリンカップ以降の状態で戦える限り、僕は岡田ジャパンの優位を予想する。
おまけに一言つけ加えれば、僕はこれまで世界のサッカーを“監督”に焦点をあててずっと眺めてきた者の一人なのだと思うが、僕も含めて“監督”の力を過信しすぎるニッポン人のサッカー観には少し違和感を覚えたりもする。一国の国代表監督の能力が強化やその結果に及ぼす影響力というものを過大に捉え過ぎているのではないか…と感じる部分もあるのだ。オシムのこの国の未来を見据えたやり方を僕は心から賞賛する。けれどもだからといって2010年の南アフリカで何かを成し遂げた…とも安穏と思えない。
例えばモウリーニョが日本代表監督になれば日本は1年で強くなるだろうか?モウリーニョに監督になって欲しい人はたくさん居るだろうが、ではチェルシーのサッカーと、ポルトのサッカー、どちらが本当のモウリーニョのサッカーで、日本はそのどちらかのように戦えるのだろうか?
僕から見ればキリンカップ以降の岡田ジャパンは、文句なく及第点をあげられるデキだと思う。
そして、むしろそれ以上に僕らが厳しく目を向け糾弾すべきは、スポーツとしての倫理と商業主義の横暴との間の均衡を保つどころか、財団法人としての公益を忘れ、営利の側に分別なく加担し迎合する、JFAのその立ち振る舞いなのではないだろうか?
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posted by 桐谷 |11:53 |
2008WCアジア予選 |
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2008年06月09日
今回のEURO2008の組み合わせを見て、ファンの興味を一番惹きつけるグループはやはり“死のグループ”とも言われるC組(オランダ・イタリア・ルーマニア・フランス)なのだと思うが、僕にとってもっとも興味深く、見逃せない組み合わせ…となっているのが開催国スイスの組み込まれたA組である。
基本的に僕は、サッカーを個人ではなく、チームや戦術で見たいタイプなのだと思うが、その中でも特に監督というものにフォーカスして、ひとつひとつのゲームや大会を見てきた…といえるのかも知れない。
そんな中で、引退宣言されたカレル・ブリュックナー率いるチェコが見たかった。2000年UEFAカップ決勝、ガラタサライを率いてベンゲルのアーセナルを叩いたファティ・テリム監督の現在(トルコ代表)を確認したかった。そして2006年ドイツワールドカップにおいて、僕の記憶にもっとも鮮烈な驚きを残してくれたコビ・クーン監督(彼も今大会で引退)率いるスイスのサッカーを再確認したかったし、また、このタレントの質・量があれば誰が監督をやっても…と思えなくもないのだが、いつだって楽しいサッカーを見せながら上位にまで進出して大会を盛り上げてくれるフェリペ率いるポルトガルも見たかった。他にもスウェーデンのラーゲルベック監督、ロシアのヒディンク監督、そしてまたある意味趣向の範囲外でギリシャのレーハーゲル監督が導き出すその“結果”にも注目していたりもするのだが、僕にとっての最大の見所は、やはり名将の豪華な競演ともいえるA組なのだ。
そして迎えたこの開幕戦、スイスVSチェコ。
やはり往年の迫力はすでに失われたと見受けられるチェコが、組織サッカーをさらに進化させたスイスの、その磐石の厚い守りとシステマチックなプレスをかいくぐり1点をもぎ取りそのまま逃げ切った。
この試合に関して言えば、僕はむしろスイスの方に好感を持ったし、また勝たせたい…とも思ってゲームを見ていたのだが、決定機をことごとくチェフに防がれ、またそれでも前がかりに攻め込もうとDFラインを上げて行ったところで、コラーからスピードあるスベルコスに変えられ、裏のスペースを狙われた。最終的にはセットプレーからのオフサイド崩れによる失点だったと思うが、ゲームの流れが変わったのはこのスベルコス投入を契機としたものであったように思う。
どんな名将であったとしても、采配・選手起用とは当たったり当たらなかったりの“気紛れ”なものである。が、たとえ失敗に終わったとしても、そこにゲームを動かしてみるだけの“理”が在ったのかなかったのか…?僕はそれで“采配”そのものを評価する。大会緒戦、後半の早い段階でチームの大黒柱ともいえるコラーを下げたこの采配は、信頼あるブリュックナーでなければできなかったことであると思うし、実際あのままその成り行きを見守っていたとしたら、結果どうあれ、チェコは後半の最後までスイスの圧力に押し込まれてしまっていただろう。
この試合に関しては、ブリュックナー監督のスベルコス投入には確かな“理”があったと僕は考えるし、実際にその“采配”が勝利を導いた…と言えるのかも知れない。
スイス側から見れば、ある意味開催国として“勝たねばならない”重圧からくる悲劇であり、またその優位なゲーム内容の手応えから来る焦り…でもあったのだと思う。フレイを失ったショックも当然大きいだろう。3ゲームリーグの緒戦で、勝ち点0に終わることがどれだけの痛手かは僕も充分に理解するが、彼らの戦いぶりは、その完成度は、やはりグループA随一のものであったように思う。チェコとポルトガルがすんなり決勝進出を決めるか、或いは次のスイスVSトルコ戦でどちらかがその2チームに対する挑戦権を得られるかどうか…。このグループはまだ終わってはいない…と僕は思う。スイスの奮起に期待したい。
また今後、スイス15番フェルナンデス(マンチェスターC)のその激しくも献身的なプレーぶりにも注目して見守ってゆきたいと思う。まだ21歳、地味な役割ながら豊かな将来性を感じさせるタレントである。
またポルトガルVSトルコの試合は、互いに攻撃的なスペクタクルなシーンを数々披露してくれた。ある意味ポルトガルが勝つべくして勝った…と言えるのかも知れないが、僕はむしろこの10年のトルコサッカーの躍進振りが強く印象に残った。そして彼らはもうすでに日本の手の届かないところまで到達してしまっている…というこの現実に、大きなショックを受けた。
僕らが東南アジアや中東の小国と戦っている間に、彼らは欧州列強と日々しのぎを削る真剣勝負を繰り広げている。それはJリーグと、ガラタサライやフェネルバフチェ、ベシクタスを擁するトルコリーグとの必然的な、そして歴然たる“格差”と言えるのかも知れない。そして彼らにはさらにUEFAでの厳しい戦いが在るのだ。
Jリーグ、そしてニッポンサッカーにはもっと切迫した“危機感”が必要なのではないだろうか。
WCに出場すること…と世界に追いつくこと…とはイコールでは結ばれない。これは現存のFIFA・AFCの枠組みの中で、日本代表の問題として考えるには自ずと限界があるのだ。
僕はJリーグこそが、変わらなければならない…のだと確信する。少なくともJはトルコを目指す、メキシコを目指す、それと同等かそれ以上の質を目指す。そしてその為の強化の方向性を今すぐに探るべきだ。11ミリオンという数字に、具体的に何の意味があるのかは僕には不明だが、リーグが強くなり、サッカーの質も上がれば、きっと代表も強くなるし、自ずと観客動員も増えるだろう。数字のトリックに夢うつつを抜かしている暇が在るならば、もっと本質的な事柄に取り組んでゆくべきである。
もしJリーグ自体が変わらないのならば、僕らは100年経っても欧州や南米の後塵を拝したままでいるか、或いは有能な選手たちをすべからく海外へ輸出することで、結果的にはJそのものを消耗させてしまうより他ないのだ。そのどちらをも拒むとするならば、やはりJそのものが本質的な“改革”に取り組まねばならないのだ。
………と、ここまで書いた所で、ふと我に返る。
確かEURO開幕にあたってのエントリーではなかっただろうか…。
なぜ今ここでイレブンミリオンなのか、Jリーグ改革なのか…話がここまで脱線してしまってはもう後戻りは効かないし、時間もない…。
とにかく最後にクリスチアーノ・ロナウドに一言。
この1、2年で本当に成熟した。プレーに無駄がなくなったし、その判断に誤りもなくなった。
けれども僕は、彼だからこその“トライ”が見たい。
突き抜けた“何か”をさらに期待したい。彼にはいつまでもそういうプレーヤーで居て欲しいと思う。そしてシモンに何か弱みでも握られているのかも知れないが、とりあえずFKはお前が蹴れ…と、そう付け加えておきたい。
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posted by 桐谷 |17:31 |
EURO2008 |
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2008年06月06日
*2008年6月4日(水) オシム会見前文/スポーツナビ*
生きていれば当然のように出会いと別れがあるもので、時としてそれは、互いに予定せず、不意打ちのように突きつけられる現実すらあることを思えば、こんな別れであっても、せめて心の準備期間だけは与えてくれた、この運命に感謝したいと思う。
会見の全文を見る限り、JFA側としては“日本代表が欧州に遠征した際にはお世話になりたい”との意向のようだ。実質的にこのEUROを期にオシムには欧州へ帰還してもらい、あとは残り半年の契約の範囲内で、日本のサッカー界への助言なり忠告を乞う…とのことなのだと思う。この現状であれば、それは双方にとってきっと良い選択なのだろうと思う。
会見で語られたひとつひとつの言葉。
冗談や隠喩、そして意地のワルい皮肉や箴言…またこれまで決して語ることのなかった、その心に秘めた夢や感傷のかけら…のようなもの。
僕のようなものが、それに手垢をつけて汚してしまうことは躊躇われるので、ここではその一切に触れずに、自分自身の心に仕舞い込んで封をしたいと思う。皆さんも、どうかこのオシムの惜別の言葉をそれぞれの胸に深く刻んでください。
僕らはここでひとまずイビチャ・オシムと別れるのかも知れない。
確かにこれは別れなのかも知れない。
心は晴れ晴れとしていても、鼻の奥をツンとつく痛みがあるから、きっとそうなんだろうと思う。
けれども僕はふとこんなふうにも思うのだ。
僕らが、本当のオシムに出会うのは、きっとこれからなんだろうと。
10年先、20年先、いや、もしかしたらもっと先に、僕らはこの国で本当のイビチャ・オシムに出会う。
ピッチを駆け巡る子供たちの、その楽しげな躍動するサッカーの中に、年老いた僕らは再び、オシムを見出すのだ。
子供たちは絶え間なく走り、強く弾き出されるボールは、さらに、回る。ボールを奪うことに腐心する前に、ボールを渡さないことにサッカーの純粋な、普遍の喜びを見出す。そして、自陣ゴール前をガラ空きにしてでも、先を競って敵ゴール前になだれ込んで行く。
何度でもトライする。失敗をおそれない。負けを負けと認めない(笑)。そしていつだって夢と希望を見失わない。この国のどこかの街のデコボコの土のグランドの上に、陽光に照らされた輝く青いピッチの上に、いつか僕らは、ほんとうのイビチャ・オシムに出会うだろう。
僕はその日を楽しみにしている。
その日までずっと、サッカーを好きでいようと思っている。
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posted by 桐谷 |11:32 |
オシムJAPAN |
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2008年06月04日
『日本が強かったというより、オマーンが弱すぎた』
『結局は個に依存した攻撃スタイルとなってしまった』
『アジアでは戦えるがWC本選では勝負にならない』
前回のオマーン戦についてのエントリーで、現岡田ジャパンに対する幾つかの厳しいコメントをいただいた。大きく要点は以上の3点であり、実は僕自身も、まったくそれを否定しないし、その通りである…と思っている。
正直オマーンが、あんなにもダラシないチームであるとは予想していなかったし、今のままの日本であれば、よほど組み合わせに恵まれでもしない限り、WC本選で欧州や南米やアフリカのサッカーを退けて、決勝トーナメント進出を果たせるとも思っていない。そしてその前に、アジア最終予選でさえ五分五分の可能性を切り抜けてゆかなければならないものと思っている。
そしてそれは誰が監督であったとしても、確率的には大きく差のないもの…でありながら、サッカーを知るものであればあるほど、オシムに対する夢や希望もまた一方ならぬものであったこと…を、僕は深く理解する。
極論でもなんでもなく僕は素直にそう思うのだが、往々にして優れた選手たちにとって“監督”とは、正の存在なのか負の存在なのか…それさえ疑わしいものと思っている。中田英寿、中村俊輔、中村憲剛、遠藤保仁、中澤裕二…日本を代表する賢き優れた選手たちならば尚更だし、その“監督”なるものの選者が、腐った政(まつりごと)に憑かれ羞恥を忘れた政治屋か、或いはそれに傅くだけの、魂を失った政治屋の使用人であれば、さらに尚更である。
よくジーコは選手の自主性に任せた…と言われるが、それは平時の親善試合やテストマッチの類であって、己自身が硬くなるような真剣勝負の場においては、選手たちはいつも不自由で不合理な“禁則”やフォーメーション、選手起用の“ミスマッチ”に苛まれていた。少なくとも僕の目にはそう映った。
そしてそんなことであれば、もしオシム本人、或いはオシムのような奇跡の再来が見込めないものとすれば、僕はやはり腐った選者の見立てによる“監督”など要らない…と思うし、そんな仕様がやはり認められないとするならば、今在る監督と選手の間で芽吹きつつある“中庸”というサッカーの在り方を、今後模索してゆくことに一縷の望みを見出すのである。
そして国代表のサッカーとは、本来そういうものなのではないだろうかと思っている。
以前にも一度ここで書き記したことがあると思うが、オシムが築いたもの、この国に築こうとしていたものは、華美な城郭…ではなしに、僕は土台だったのだと思う。水害や震災、火災やその時代時代の流行に左右されない、この国のヘソ、揺るがぬ地盤の上にその堅固な土台を築くために、彼は人生の最後にこの4年間の挑戦に賭けたのだと僕は思う。
そしてそれは、見栄えの良いばかりで必要の無い“橋”や“道路”を架けて自らの業績を鼓舞するような、政治屋的立ち振る舞いの対極にあるもので、例え見栄えはパっとしなくとも、健全な未来の為に今不可欠な“環境”“医療”“教育”といった、未来に繋がる投資を意図したものであったのだ…と僕は考える。だからこそ、あのアジアカップにおいて、刹那の勝利よりもその先にある成長を見越して、過酷な環境の中、どこまでも厳しく、子供たちを追い込んでいったのだろう…と。
彼は自らの手柄のために、オシムという色で異国の代表を染め上げようとは決してしなかった。
彼は自らの限られた時間の中で、この国にただサッカーにおける普遍(土台)のみを築き、あとは皆で考えなさい…と、4年後に厳しい現実を遺して静かに立ち去るつもりだったのではないだろうか…と、僕はそんなふうに思うのだ。
一番カンタンなようで一番難しいこと。それは自らを知ること…であると僕は思っている。自らに不都合で、そして不愉快な“現実”を知ること。僕はそれこそが哲学の原理であると思っている。そしてそれは、本来誰かから教えられるもの…でもないのだと思う。
セカイは限りなく広い…。
僕が知り得たセカイなど、きっとそのセカイの尻の半分…ぐらいのものでしかないだろう。
が、その半ケツのセカイしか知らない僕が、そのセカイについて、あえて言わせてもらうとするならば、ミケルス、サンターナ、メノッティ、サッキ、クライフ、ベンゲル、ゼーマン、ヒディンク、ビエルサ、トップメラー、ブリュックナー、オレアリー、テリム、クーン…優秀なサッカーの指導者はセカイに数々在れども、一切の虚飾・虚栄を顧みることなく、己の信ずる理に没頭し、ニッポンの為に、命がけでそれを成そうとする者など、オシム以外に誰一人居なかったと思う。
1993年のドーハでの出来事が、近代日本サッカーの“ビッグバン”であったとすれば、オシムはそこに誕生したニッポンという小惑星が初めて巡り合った“太陽”だったのかも知れない。そしてそのまばゆい“太陽”光に、照らされて輝くか、或いは輝かないか…は、きっと僕ら自身の問題なのだろう。
そしてこのちっぽけなブログに寄せられた皆さんの日本サッカーに対する厳しい見方こそが、それによって照らされよう、或いは自らで輝こう…と必死で足掻く、どこまでも往生際の悪い、この国のサッカーに対する愛情の表現…なのだと僕は思う。
この冷たい現実に、僕らは今一度向き合わなければなければならないのだ。
きっと僕自身を含めて、オシムという“奇跡”にいつまでも執着していてはならないのだと思う。
この過酷な現実の中に、またニッポンのサッカーに対する新たな“夢”と“希望”を見出さなければならない。その為に、僕らは今日もサッカーを語るのだ。無自覚か自覚的かはひとまず置いて、今日も明日もここで、そしてどこかでサッカーを語り、サッカーを想うのだ。きっといつか、そこに再びの“奇跡”を見出すことを信じて。そしてそれが“奇跡”でもなんでもなくなるその日まで、僕らは執拗にサッカーを語り倒していくのだと思う。
いつも皆さんからいただくコメントと関心に、心から感謝いたします。
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キリタニ100法『しあわせについて』掲載いたしました。こちらもよろしくお願いします。
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posted by 桐谷 |11:47 |
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